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 子供を産んだ瞬間から育児は始まる。ミルクをあげておむつを替える、それだけではない。きちんとしたスキンシップを行い、話しかけ情緒を育てていく。彼らは泣くことでしか自分の要求を訴えることができないのだから汲んでやらなければならない。

 そんなこと、分かっている。

 分かってはいるが、正直仕事をしているほうが楽だ。いつどのタイミングで泣き出すかわからない爆弾のような赤子は、当然大人の都合など考慮も配慮もしてはくれない。お腹が空けば泣くしおむつが気持ち悪ければ泣く。ついでに暇だと泣く子もいるらしい。

 玄は退院早々発狂しそうになっていた。

「ふざけるなーーーー!」

 一体どのタイミングで不快を訴えてくるかわからない赤子よりも、モンスターを抱えた新人研修のほうがよっぽど楽だ。あいつらはきちんとマニュアルを提示して睨みつければ大人しくなるが、赤子はこちらをものともせず泣き続け、ついでにこちらに罪悪感を植え付ける。こんなにも恐ろしい存在を玄は今まで知らなかった。

 碧の時はどうだっただろうと考えるが、育児のベテランに達していた母がそつなく相手をしていたから簡単だと高を括っていたが、家政婦と乳母の手を借りなければとてもじゃないが、相手ができないでいた。

「なんでこんなにも言うことを聞かないんだ」

 まだ人語を解していない赤子になにを言ってもわかりはしない。だが、玄が怒っているのは感じているようで、さらに大声で泣き始める。それますます玄をイラつかせるのだ。

「玄、落ち着いて。まだ体調が万全じゃないんだからそんなに興奮したらダメだ。体調を整えるために少し寝たほうが良い」

 仕事を在宅に切り替えた桐生が宥めに入って、玄の腕の中の赤子をひょいっと掬い上げると、とても大切に抱きしめる。誰がどう見てもベテランの域で、まだ座っていない子供の首を掌で支えながらゆったりと左右に揺する。安定した抱き心地に安心したのか、あんなにも泣きわめいていた声は少しずつ穏やかになっていく。

「眠かったんだね。抱っこされないと眠れないのか、甘えん坊だな」

 そう言いながら赤子を新生児から使える抱っこ紐に入れると、トントンと背中を叩き始めた。ぴったりと大人の身体に張り付いた赤子はぐずることもなくスヤスヤと寝息をたてはじめる。

 その一部始終を見て玄は自然と眉間にシワを寄せた。

「なぜわかるんだ」

「なにがだい?」

「なぜ藤一郎とういちろうの言いたいことがわかるんだ」

 不機嫌を隠さない玄に苦笑する桐生の態度が一層腹立たしい。なぜそんなに余裕ぶっているんだと叫び出したいのを堪える。

「なぜって……抱っこしたら眠そうにしていたから、かな」

「なぜ眠そうなのが解るのかと訊いているんだっ!」

「藤一郎は眠い時に限って指を口に入れるんだ。癖に気付けば簡単だよ」

 軽く言われるが、そんなことをしていたなんて気付かなかった。愕然とする玄に、桐生は相変わらず苦笑したまま顔を近づけ、当たり前のように頬にキスをする。少しでも玄が不安定になると桐生はこうしてむやみやたらとスキンシップを図ってくる。簡単にあしらうなと叫びたいと同時に、どうしてか心の奥が少しだけ温かくなり気持ちも凪いでくる。

「玄はまだ本調子じゃないんだから、藤一郎のことは私に任せてまずは体調を整えるんだ。もうすぐ復職するんだろう。しかもキリュウ・コーポレーションの仕事までするんだから、今はそれに備えて休んでくれ」

 そう言って桐生は赤子を抱えたまま、掃除に取り掛かった。家政婦に一通りの家事を教えてもらっているらしい。

 今この家のルーティンは、ベビーシッターが来るまでの間桐生はこうして主夫としての仕事をし、交代した後書斎でリモートワークをこなしている。そしてベビーシッターが帰ると仕事を終えた桐生が再び子供の面倒を見るという流れで、玄よりも子供の相手をしている時間は桐生のほうが長い。玄はひたすら体調を整えることだけに専念している。

 そして来月には玄も職場に復帰する。長らく休みを取っていたが、次期社長としての仕事は山積みだ。今は部下に指示を出したりリモート会議を行いながらだが、そろそろ限界に来ている。それに加えて、同時期にキリュウ・コーポレーションの取締役の仕事が開始する。

 出産前に桐生に提示した条件の一つがそれだった。

 玄が提示したのは四つ、一つは子育ては桐生がすること。二つは出産三ヶ月後の職場復帰。三つめはキリュウ・コーポレーションに玄のポストを用意すること。四つ目が子供のために桐生が家にいること、だ。

 それを桐生は嬉しそうに同意した。

『碧は私が貴様のことを好いているという。だが恋愛感情がどういうものなのかはわからない。一般的に結婚した者同士がどんなふうに愛情を交わすのか想像もできないから、そういったことを私に求めるな。それでもいいなら……お前の家族になってやる』

 今思い返しても傲慢な物言いだ。

 なのに桐生は相好を崩して「それでいい」と受け入れた。

『家族の形は千差万別だ。私たちの在り方は私たちで作り上げればいいんだ。……玄、この気持ちを受け入れてくれてありがとう』

 本当に自分が桐生を好きなのかは未だにわからない。碧のようにただ一緒にいるだけで幸せだと思うことはできないし、そんな感情を誰かに抱いたことがないから想像もできない。

 だが、桐生が誰かのものになるのは嫌だ。同時に桐生のために自分のやりたいことを制限されるのも。

 だから、彼の存在を束縛する。

 育児という大義名分を抱えさせ、この家に縛り付ける。誰かと恋愛関係にならないよう行動を制限し、自分だけに甲斐甲斐しく尽くせばいい。玄が導き出した「愛し方」だった。他の方法が分からないし、不確かな自分の気持ちを口にはできない。ただ桐生を閉じ込めておくことで玄の気持ちが安定するのは確かだ。

 歪な在り方ではあるが関係ない。傲慢だと言われるならそれがどうしたと開き直るのが玄という人間なんだと思い出した。

(あまりに色んな事がありすぎておかしくなっていたな、あの頃は)

 そう遠くない過去なのに、もうすっかりと遥か彼方の出来事のように思えるのは、今が忙しすぎるからだ。赤子が一人登場しただけなのに、上を下への大騒ぎで休む暇もない。起きている間はあれしろこれしろと泣き声で命じてきて腹立たしいが、穏やかに眠っている顔を見るとやはり愛おしさが込み上げてくる。

 桐生は赤子の顔が全く玄に似ていないと嘆いていたにも拘らず、いそいそと甲斐甲斐しく面倒を見ている。きっと元からその要素はあったのだろう、小さな仕草だけで相手の言いたいことが魔法のようにわかるようだ。

 確実に、玄よりも桐生のほうが子育てに向いている。悔しいが、これが事実だ。

「なぜ私では泣くんだ」

 ぼそりと愚痴を零してしまう。産んだのは自分なんだから、もっと懐くと思ったのに全くと言っていいほど懐いてくれる気配がない。それどころか、抱くだけで泣き出す。

「きっとそれは、玄が怖いと思っているからだ。相手にも伝わるんだよ」

 呟きを耳にした桐生が宥めるように髪を撫でてくる。

 確かに怖い。

 まだ首が座っていないから変に抱きかかえて神経が切れやしないかと不安になるし、全体的にふにゃふにゃしすぎてどこを抱けばいいのかも分からない。全体的に包み込むようにとベテランベビーシッターがいうが、的確な言葉がそこにはない。

「もう少ししたら首も座ってくるから。そうしたら何も怖くないよ」

「……なぜ貴様はそんなことまで知っているんだ」

「玄の代わりに参加した母子教室で教えてもらった。五人の子を産み育てたベテランがいて、要点を教えてくれるんだ」

 その「ベテランママ」の教えがどういうものかを玄に教えてくれようとするのだが、なぜか胸の奥がモヤモヤとする。

「なんだ、そいつが母親のほうが良かったのか」

「バカだな。玄のほうが良いに決まっているだろう。私は玄だから結婚したんだから」

「ふんっ」

 少しでも玄が怒りの兆しを見せると甘い言葉ばかりを囁いてくる。ご機嫌を取るかのように。それも正直気に食わない。簡単にあしらわれているようで腹が立ってくる。もっと縋って欲しいのだ。余裕ぶっているのも気に障る。まるで自分が嫉妬しているようではないか。

 不貞腐れた玄を見て桐生が嬉しそうに笑う。

「藤一郎をベッドに置いてくるから待ってて」

「……何を待つんだ」

「私がどれだけ玄を愛しているかを、だ」

 それが何を意味するのか分かっていて「好きにしろ」と吐き捨てる。同時に自分はその気などなかったのだとアピールするように朝読んだはずの新聞をもう一度捲り始めた。

(あれから一年か……)

 気が付けば、桐生にビッチングされてから間もなく一年が経とうとしている。様々なことがありすぎる一年だった。久しぶりに会った中高の先輩にいきなりビッチングされ、オメガになっただけでもパニックになるのに妊娠までして、経験するはずのない出産も体験させられたというのに、桐生に抱く感情の中に「恨み」は一つもないのが不思議だ。

(きっとあれだろうな)

 子供が生まれた瞬間、桐生が泣いたからだ。あれで恨みつらみが流されたような気がする。産んだことを、生まれたことを、これほどまでに喜んでくれるなら、その存在を受け入れようという気持ちになった。蟠りはあるし、許せない部分もある。だがそれに目を閉じてもいいと思うくらいには、桐生のあの姿が目に焼き付いている。

 その実は指にひびが入ったからだとは知らない玄である。出産した後、長期の入院で体力と筋力がごっそり落ちた玄は、なかなか血圧が安定せず退院するまでが長引き、結局この家に帰れるようになったのは一ヶ月検診が終わってからだった。その間に指が治ったため、未だに知らないままである。

「おまたせ、玄」

「別に待っていない」

 リビングに戻ってきた桐生は、やっと二人の時間だとばかりに玄の隣に座り、横から身体を抱きしめてきた。

「暑い」

「ならエアコンを強くしよう」

 まだ梅雨に入ったばかりだが、子供の環境を合わせて除湿を掛けていたエアコンのリモコンを冷房へと切り替える。

「それだと寒すぎる!」

「大丈夫、すぐに丁度良くなる」

「……勝手にしろ」

「うん、玄を勝手に愛させてもらうね」

 言うなり、桐生は深く唇を合わせてきた。最初から貪るような口づけに、玄も少しだけ舌を伸ばして絡める。濡れた音を立てながらゆっくりと肌をまさぐり、一枚一枚服を抜き取られ、身体がソファへと倒される。

(これも「あの時」と同じだ)

 酩酊した自分をこうして押し倒し、服を全部脱がせては抵抗がないのをいいことに好き勝手していたのを思い出す。強引なのにその手はどこまでも丁寧で慎重で、自分がなにかとても大切なものになったような気分だ。もっと荒々しく抱かれるのかと思わせる勢いで、でもどこまでも甘く溶かそうとしてくる。どろどろに溶かして何も考えられなくなるまで快楽を与えて、それから美味しくいただくのがいつもの桐生のやり方だ。

 今もそうだ。

 玄の感じる場所を的確に把握してそこに唇を落としてくる。もうあの狂気のような一週間に付けられた跡はどこにも残っていないし、産婦人科に入院してから一度もこんなことをしていないから間違えてもおかしくないのに、桐生は少しも外すことなく玄の快楽を引きずり出しては煽り立てていく。
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