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「耳元で大声を出すな。母の命令だ、逆らえない」

「ここは逆らってくれ! 私のために逆らってくれぇぇぇぇぇぇぇ」

「なぜ貴様のために逆らわないといけないんだ。産褥期はゆっくりと里帰りするのが定番だろう」

 里帰りと言っても車で数十分程度の距離で、家庭内のことは使用人に任せている部分は同じである。あの恐ろしい女豹と呼ばれた玄の母がいる実家なんかに行かせたら、会いに行くたびに嫌味の一つや二つや三つや四つ飛んできそうだ。気を使いながら玄と子供に接するなんてストレス以外の何物でもない。

「頼む……二人の家に帰ってきてくれ……私を一人にしないでくれぇぇぇぇぇ」

 鬱陶しいほどに縋られて玄はげんなりとした表情になるが気にしない。だってもう一ヶ月も離れ離れなのだ。これ以上は本当に無理で心が荒んでしまう。玄と子供のためだけに仕事を頑張っているのだから、ご褒美としてすぐに帰ってくれてもいいじゃないかと必死に縋りつく。

「何を言っている。管理職なんだから仕事を頑張って当たり前だろう。新人みたいなことを言っているな。なんだったら、私のことを忘れるくらい課題を出そうか」

「……いえ、結構です。それよりも帰ってきてくださいっおねがいしますぅぅぅ」

 再び騒ぐ桐生がうざったかった玄はナースコールで助産師を呼び出し強制退出を依頼したが、懲りない桐生はそれから毎日玄の病室で土下座しては家に帰ってきてくれと請い続けた。そのたびに助産師に追い出されるのだが、そんなことで負ける桐生ではない。玄から「分かった」の一言を引きずり出すためにひたすらお願いしに上がり、次第に冷たくなっていく助産師の視線をものともせずひたすら玄に訴え続ける。とうとう周囲の目に耐えかねた玄が了承するのに半月かかったが、その結果にぐったりした玄からの承諾と医師からの長い説教をもらうことに成功した。

 それと同時に玄から家に帰る条件を示された。

「なんだい、なんでも聞くぞ玄の願いなら」

「願いではない。条件だ。それをクリアしなければ私は予定通り菅原の家に帰る」

「条件でもなんでもいいです、聞きます! 承諾します!」

「……内容を分からずに承諾?」

 どんな条件だろうと玄が非常識なことを示してこないのを知っている。しかも相手の能力をきちんと把握して頑張ればできることを言ってくることも。

「当然だ」

 桐生は自信満々に告げた。

「では………」

 玄が示してきた条件をメモに取り、そのための準備を始めた。

 そして。

 出産予定日まであと少しという日、仕事をしている桐生の元に家政婦から連絡が来た。

「奥様の陣痛が始まりました」

「なんだって。すぐに行く」

 電話を切り、部下と社長に事情を連絡し早退する。桐生の配偶者が出産間近なのは社内で有名だ。なにせエントランスで妊娠報告をしたようなものだ。恐妻の出産に立ち会わなければまた会社に乗り込んでくるのではないかと恐々とする社員たちはすぐさま桐生に代わり申請書を打ち出し、社長は会長から何か指示されているのかそれとも菅原の義母から釘を刺されているのか、陣痛という言葉を聞いた社長はすぐさま「帰れ」の一言と共に内線を切った。

「明日の朝また連絡すると社長に伝言しておいてくれ」

 その言葉を残し、桐生は普段めったに使わないタクシーに乗り込んだ。一分でも一秒でも早く玄の元に辿り着かなければ。朝の環状線の混み具合に苛立ちながら早くと心の中で叫ぶ。

 初めての出産でどれほど玄は不安になっているだろう。そんな彼の側にいてやることくらいしかできないが、それでも桐生は傍にいたい。いつ連絡が来てもいいようにと鞄の中にいつも忍ばせている出産アイテムを再確認する。テニスボールにスポーツドリンク、気を紛らわせるために経済新聞とキリュウ・コーポレーションの会議の様子が入ったデータ、それにこの日のために購入したデジタル一眼レフ。

 よし、全部入っている。

 普通の妊婦が必要としないアイテムがあるが、玄のことだ仕事関連のことを流せばきっと気が紛れるはずだ。

 医師や助産師には怒られそうだが。

 桐生は早く早くと祈りながら流れていく風景を見つめ続ける。

 病院に到着するとおつりを受け取るのももどかしくそのまま駆けだした。

「菅原ですっ、玄が産気づいたと」

 バッタのように受付に飛びつく。気が急いてしまい冷静になどなれない。

「お父さん落ち着いてくださいね。まずは深呼吸をなさってください。その間に案内いたしますので」

 慣れた医療事務員が爽やかにそつなく指示を出す。

(そうだ、まずは私が落ち着かなくては玄のサポートなどできない)

 桐生は受付から離れ、ゆっくりとした呼吸を繰り返す。だがなぜかいつもよりも心音が早く大きい。こんなにも緊張したのはいつぶりだろうか……。スタッフに案内され、桐生はオメガ専用の陣痛室へと向かう。その中で玄が必死に声を殺していた。

「大丈夫か、玄!」

 痛みを堪えた姿を見て慌てて駆け寄れば、なぜかすぐさま拳が桐生の腹部に直撃した。

「ぐっ……」

 以前よりも痛くはないが、ノーガードの鳩尾に見事にそれが食い込む。

「げ……げんっ!」

「おまえもこのいたみをあじわえ……」

 凶暴化している玄を必死で宥めようとするが、定期的にやってきては次第に強さを増す痛みに、理性など保っていられるわけがない。まだこびりついているプライドが悲鳴を上げるのはみっともないと訴えているのか、大きな声を出しはしないが、それでも痛みからくるストレスに凶暴化している。
「ほら、少し気が紛れるアイテムを持ってきたから」

 慌てて鞄の中にある経済新聞を渡すがすぐに投げ返される。

「読めるわけがないだろう!」

 まさかここまで玄が凶暴化しているとは思いもしなかった桐生は次のアイテムを取り出す。会議映像だ。それを流そうとした瞬間、再生用に持参したポータブルDVDプレーヤーが床で踏みつけられた。

「ふざけているのか桐生。こんなドアが開けっぱなしの部屋で機密情報盛りだくさんの会議を流すってどういう神経しているんだ。もしかしてコンプライアンスも守秘義務も分かっていないのか?」

「申し訳ございませんっ!」

「ぐっ……い、たい……」

「あぁぁぁ玄大丈夫か? 痛いな、痛いはずだ。だがしっかりしてくれ」

「ふざけるな、こんなに痛い思いをしなきゃならなくなったのはお前のせいだろうがーーーーーーーっ!」

「その通りだ、私が悪かった。申し訳ない!」

 ひたすら低姿勢で玄の叫ぶことに肯定し続ける。痛みのあまり良識や常識や優しさといったファクターはすべて打ち捨てられる、らしい。だが、痛みが引くと玄も落ち着き、ぐったりとベッドの上で身体を休ませた。

「今、どれほどの頻度で陣痛が来ているんだ?」

 冷静になった玄に問いかける。

「五分だ。次第に短くなるという」

 切迫早産だったから、子宮口はわずかに開いているらしい。もっと間隔が短くなればそれだけ狂うような状態になる、らしい。ネットと育児書での情報しか持たない桐生は再び顔を険しくする玄の背中を撫でた。

「辛いところはあるか……力を入れてはいけないそうだからゆっくり呼吸して……」

「うるさいっ! 黙れ馬鹿者! なぜ私がこんなにも痛い思いをしなければならないんだっ!」

「全部私のせいだ、分かっている。すまない玄。頑張れ!」

「これ以上何を頑張れというんだっお前が産めばよかったんだ今度は私がつっこんでやるぅぅぅぅ」

「玄落ち着いて、心を落ち着かせて、ほら。ひーひーふーだぞ」

「ラマーズ法で痛みが散るとでも思っているのかっ!」

 廊下にまで響き渡る怒号を放ちながら玄がひたすら襲い来る痛みに耐え続けていく。うっすらと浮かんだ汗を拭きながら、肯定の言葉だけをかけるしかない。尾てい骨の下の当たりをテニスボールで押す。こうすればいいとどこかの出産に立ち会った父親のブログで仕入れた情報を実践するが、なぜか桐生に贈られたのは感謝の言葉ではなく拳だった。

「いたい……玄落ち着いてぇ」

「勝手なことをするな! いたっ!」

 痛みがやってくる間隔が短くなるにつれ、玄の声はどんどんと大きくなっていく。

(こんなに痛がっていたら玄が死んでしまうっ!)

 桐生は慌ててのんびりと歩いている助産師を呼び止めた。

「玄がっすごく痛がっているんです!」

「陣痛は痛いですからね。声を出したほうがいきまないので沢山叫んでいいですよ。もうすぐ医師が来ますので待っててくださいね」

 のんびりとした回答に拍子抜けする。こんなにも痛がっていて当たり前なのか、出産というのは。波のように襲い来るきつい痛みに叫んでいても当然のこととばかりに受け止められてしまう。

「玄は死にはしないでしょうか」

「陣痛が起きないと赤ちゃんは出てきませんからね。感覚が短くなってきましたからね、もうすぐ赤ちゃんに会えますよ」

「あ……はぁ」

 笑顔で去っていく助産師がまるで宇宙人のように見える。痛みにのたうち回っている妊夫がいても平然としていられるなんて……。すごすごと玄の元に戻った桐生は医者が見に来るまでひたすら玄に罵倒され、謝り倒して、ボールをグリグリと尾てい骨の下に押すことに専念した。狂うほどの痛みと戦っている玄を励ますことしか桐生にできることはない。

(父親というのは無力だ……)

 どんなに頑張って携わろうとしても、出産という人生の重要な場面でできることは、罵ってくる母親を受け止めることだけだ。自分の努力ではどうしようもない。サポートにしか徹することができないなんて。その痛みの半分でも背負うことができればと願うが、母親しかできないことと突き放される。

「玄、ゆっくり息を吸おうね」

 痛みを紛らわせるために背中をさすって息を吐くタイミングを伝える。

「黙れバカあほくそ桐生!」

「うん、そうだね。玄の言う通りだよ。もうすぐ医師が来るからね。それまで頑張ろうね」

「何を頑張れって言うんだこんなに痛いなんて聞いていなかったぞどうしてくれるんだ……ぐぅっ」

「いきんじゃだめだ」

「痛い痛い痛い痛い痛い」

「玄大丈夫か、ほら息をゆっくり吐こう。ふーーーだよ」

「できるかーーーーーー!」
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