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 玄がおかしい。

 今まで頑ななまでに子供に目を向けようとしなかったのに、急に名づけの本を買って来いと言っては画数がどうとか字がらがどうとか言い始めるようになった。元々「父親」としての視点しか持ち合わせていない玄だから、生まれるまでは子供に目を向けることはないかもしれないと危惧して、桐生の方で名前の候補をいくつか用意していたのだが、それを口には出さずそっと闇に葬る。

 入院以前からずっと沈んだような空気を纏っていた玄が急に仕事をしている時と同様、生き生きとし始めたのはいいことだ。助産師からは弟が見舞いに来たと聞いたが、碧が何か言ってくれたのだろうか。

(だが助かった)

 心の中でこっそりと頭を下げ、既に贈った出産祝い以上に何かを贈らねばと心に誓う。陰に日向に玄を窘めてくれる碧の存在がこれほどまでに頼もしいとは。

 キリュウ・コーポレーションに来た時も必死で子供をおろすと叫んでいた玄を宥めてくれた時から、桐生の中で碧は可愛い義弟となっていた。その上玄のメンタルを安定させてくれたことへの功績は大きい。玄が可愛がるのも当然だと納得する、と同時にその配偶者である天羽への風当たりが強くなってしまうのも仕方ないのかもしれないと玄の奇行を擁護する気持ちが強くなる。

 今まで一輝は玄から碧を引き離してくれた功労者と思っていたが、あの碧なら誰と結婚しても、相手が必死で幸せにしようとするだろうと考え直して、もし彼が碧に酷いことをするなら桐生個人及びキリュウ・コーポレーションの全力をもってして潰してやろうと、それが碧に報いる方法だと考え始めていた。

 当然、一輝はとばっちりである。

(没収された絵はいつ返ってくるのか……)

 生き生きとした玄を嬉しそうに眺めながら、突如消えたコレクションに思いを馳せる。

(「向日葵」の玄の腕はとても色っぽかったのに……)

 新居に移り住む際にネガと、いつも依頼している探偵事務所に残っていた僅かなデータ、そして最近ゲットした淫らな玄の動画データは貸金庫に厳重に保管してある。

 もう会社も桐生のコレクションを保管するのに安全な場所ではなくなった。

「しまった、女の子の名前も考えておかないといけないのか」

 菅原三兄弟が色にまつわる名前だったから、玄も何かにまつわる名前をと考えているようだ。だが病院の方針で未だ性別を教えてもらっていないため、つい自分の希望の性別の名前を優先して考えてしまったのだろう。

「篤子とかどうかな。天璋院の名前と同じだぞ」

「……センスがない」

 名づけに参加しようと、己の一文字を取った名前を推挙したが、思いの外素早くあっさりと打ち捨てられる。

「そ、そんなぁ」

「大体、篤繁ですら呼びにくい。改名しろ」

「それは酷いよ玄……じゃあ色の名前で『茜』とかどうかな? ほら、可愛いだろう」

 色の名前と聞いて玄の眉が動き、すぐに姓名判断のサイトで入力する。

「……画数が悪い、却下だ」

 画面には『危険な綱渡りのような人生』と大きく記載されている。

「ひどい……」

 せっかく考えた娘の名前なのに……。

 大体なんだ画数というのは。姓名判断なんて当たるも当たらないも本人次第だ。アメリカでは画数なんてなかったぞと心の中で吠える。日本にいる時間よりも海外にいる時間のほうが長かった桐生には、名づけはインスピレーションと色々提案してみるが、すべて画数の壁に阻まれ撃沈する。

 だが、心のどこかで今の状況を楽しんでいた。

「僕たちの子はどうだい? 元気に動いているかい?」

「……今のところはな」

 出産するまで退院することができないと言われている玄だ、ずっと寝ているだけの日々に筋肉が削げている。食欲もあまりないようで、腹部は大きくなるが逆に全体的に線が細くなりこのまま倒れてしまうのではと危惧してしまうが、切迫早産の妊夫にはよくあることだという。ただ、動けとは言えない。

 腹部という身体の中心に力を入れることができないから動くことを制限するのだ。

 それでも。

 胎児と母体が元気に過ごすことが一番大事だ。

 例え一人の食事で寂しくても。

「早くこの子に会いたいな。きっと玄に似た綺麗な子供だ」

 もう桐生の頭の中では、玄のクローンのような可愛い子供に囲まれながら、最愛の人と過ごす日常がばっちりくっきり出来上がっている。

「どうだか」

 少し投げやりではあるが、その表情はもう子供に無関心だった彼ではない。少しだけ慈しむ眼差しで桐生が手を乗せた腹部を見つめている。ゆっくり撫でれば元気だと答えるような勢いのある胎動が伝わってくる。その生命力の強さに、桐生も元気をもらう。不定期に掌に伝わる振動は、生きている証だ。

 愛しい我が子を母体越しに撫で、念を送り続ける。

(玄似た綺麗な子になれ……男でも女でもいい、とにかく玄に似るんだぞ)

 自分に似た子にシンパシーを感じると言われているが、桐生は自分に似た子供よりも玄に似た子に囲まれた、ある意味ハーレムを作りたがっていた。

(玄と同じ顔で「パパ大好き」とか言ってくれるといいなぁ……女の子だったら「パパと結婚したい」とかいうのか……玄と同じ顔で!)

 プシュッ!

 脳内で盛大に鼻血が吹き上がる。

 玄と同じ顔の女の子なんて……ダメだダメだ、美人過ぎて変な男に付きまとわれる! とてもじゃないが一人で外を歩かせるなんてできない。結婚もさせずにずっと傍に置いておくんだ……玄に似た女の子……。

「おい桐生、顔が気持ち悪い」

「あっ……ごめんなさい」

 慌てて妄想をかき消していく。

 目の前にいる玄が一番いいに決まっているが、やはり鎹となる子が愛しい人に似るのが一番だ。玄と子供たちのために仕事もパパ業も頑張って皆に尊敬されるいい父親になるぞ。例え戸籍は妻の欄だとしても、自分は日本を代表する企業、キリュウ・コーポレーションの次期社長と目されているのだ。

 そうか、もし娘が生まれたら社長令嬢となるのか……。ならその期間を早くできるだけ長く続けなくてはっ!

 一瞬にしてパパモードに変化した桐生は、すぐに仕事を奮起するのではなく、未だ名前で悩んでいる玄の真剣な横顔を堪能する。どれだけ見ても玄の美しさは芸術的だ。今は少し窶れて影があるがそれもまた色っぽい。まるであの夢のような一週間の玄を垣間見ているようである。

 桐生は思わず玄へと顔を近づけた。

 当たり前のようにその薄い唇を塞ぐ。この感触も久しぶりだ。入院してから玄があまりにもピリピリしていて性的な接触を避けていたから。

(今日なら許される、かな)

 切迫早産になったのはもしかしたら少し夫婦のコミュニケーションをしすぎたからかもと反省している桐生である。なるべく母体に負荷がかかりすぎないようにしなければならないと分かっていても、乱れた玄を見てしまえば、桐生の決意などあっという間に崩れ去ってしまう。もっと啼かせて乱れさせたいとそればかりを優先させてしまった。

(でも子供に両親が仲良く共同作業しているのを知って欲しい)

 自分勝手な言い訳を頭に浮かべる。

 久しぶりの感触は少しかさついているがそれでも甘く、トラウザーズの奥に隠された欲望が反応してしまう。

(ダメだジュニア。ここは病院なんだから大人しくしろ)

 出産を終えしばらくしたらまた発情期がやってくる。その時には大活躍させるから今は堪えろと自分に言い聞かせながら、けれど唇を貪る動きを止めようとしない。玄も何も言わず無抵抗なままそれを受け入れてくれる。

「元気な子を産んで、早く帰ってきてくれ玄……君がいない家は寂しい」

 玄と一緒に住むために引っ越した家だ、僅か数ヶ月しか一緒にいないのに玄の不在が悲しいと思ってしまう。いつものように家政婦がおいしい食事を用意してくれても、話し相手のない食卓は寂しく、今日は誘ってくれるだろうかとワクワクしながら潜り込んでいたベッドも冷たくて辛い。早く家に帰れば玄がいて出迎えてくれる生活に戻りたい。

「今まで一人暮らしだっただろう。何が寂しいんだ」

「そうだけど……それでも玄と一緒でなければ寂しんだ、私は」

 窶れた頬を撫で、もう一度口づける。

「勝手に言っていろ。嫌でもそのうち帰る」

「それが一日でも早いと嬉しい。もうすぐ臨月だね……早く君たちと一緒に過ごしたい」

「言い忘れていた。出産したら二ヶ月ほど菅原の家にいく。もう乳母を手配してあるそうだ」

「なんだってーーーーーー! そ、そんなの聞いてないぞ玄!」

「うるさい。聞いてなくて当たり前だ、今言ったのだから。退院したらそのまま菅原の家に行く」

「その乳母さんを我が家に呼ぶことはできないのか。家政婦だっているんだ、玄が寝ているだけなら菅原家でなくてもいいだろう!」

 もうこれ以上一日だって離れていたくない。玄も生まれてくる子供もあの家に帰ってくると思ってもうグッズもすべて用意してあるのだ。なぜか会長から大量に届いたベビー用品だって片づけたし、新生児用のおむつだってダースで買ってある。ベビーベッドも北欧の有名メーカーのものを取り寄せたし、デザインを合わせたチェストだって服でいっぱいにした。さらに、玄がゆっくり休めるように子育て講習にも毎週通っているのだ。こんなにも準備して帰ってこないはないだろう。

 玄の肩口に頭を埋めながら我慢できないと涙を零す。

「あっちへ行け」

「嫌だぁぁぁぁぁぁぁ! 一緒に帰ろう!」
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