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「だが……」

「良ければこちらをお読みください。出産時の立会い研修の資料です。それから、母体に起こりうる様々な現象が記載された冊子です、目を通してくださいね」

 あくまでも診察室に入れさせないぞという強い意志に、折れるしかなかった。

 心配で集中できないながらも、「出産の立会い」という心揺れ動かす内容にさっと目を通してしまう。この病院では配偶者の立ち合いはきちんと研修を受けなければならず、研修を行わない場合は分娩室の外に待機となっていた。

(立ち合い出産……申し込みっと)

 すぐさま胸ポケットに刺さっているペンで参加申し込み欄を埋め、受付に提出する。玄に見つからないようわざわざ平日の午後を指定し、すぐさまスマートフォンで半休申請を行う。

(これでよしっ!)

 玄に知られたら絶対拒絶されるのが分かっているから内緒に進める桐生であった。

(碧くんも、夫の立会いがあって安心したと言っていたな。玄も私が傍にいたほうが安心するはずだ)

 気丈な玄は絶対に弱音を吐かない。今だって辛いのを堪え続けてこうなったのだ。だが出産時はなにがあるかわからない。ここはやはり自分が付き添うのが一番だろう。

 大事な自分と玄の愛の結晶だ、その誕生の瞬間に立ち会いたいと望むのは当然である。

 だが、出産には多大な苦痛を伴うという。弱みを見せない玄のことだ、桐生を傍に寄せ付けないだろうが、ここはなにがなんでも強引に押し入ろう。父親はどう頑張ったってできることが限られている。一番辛い瞬間に傍にいることしかできないのなら、縋りついても傍にいようと心に誓う。

 やることをなくした桐生は次にと渡された冊子に目を通す。そこには妊娠中と産後にパートナーとして注意すべき点が記載されていた。よく耳にする産後うつ病についても詳細に記載されている。

 途中まで読み進めている桐生に、ようやく医師から入室の許可が出た。冊子などを椅子に放り投げ、慌てて診察室へと飛び込んでいく。

「玄、大丈夫か!」

「はーいお父さん、静かにしてくださいね。ママもベビーちゃんも驚いちゃいますからね」

 院長と思しき年配の医師に注意され、桐生は慌てて落ち着きを取り戻そうとする。ベッドを見ればまだ青白い顔で玄が横たわっていた。勧められ、医師の前の椅子に腰かける。

「結論から言いますと、切迫早産になってますね」

「切迫早産!?」

「はいはい、声が大きいですよ。奥さんが起きちゃいますから小声でね。切迫早産、わかります?」

「はい……臨月を待たずに子供が生まれやすくなっている状態のことを指すはずです」

「その通り。どうやらママは随分と張りを我慢してきたようですね。張ってるときは我慢せずに休むのが一番なんですけど。もしかして仕事を続けているんですか?」

「はい、すみません……」

 日本を代表する有名企業である菅原製薬とキリュウ・コーポレーションの二社を跨いで仕事をしていると話すと、医師は好々爺の表情でニコニコ頷きながらあっさりと「じゃあ入院だね」と告げる。

「入院、ですか?」

「入院です。そんな仕事人間のママだったら、自宅で絶対安静と言っても仕事しちゃうでしょ。食事とトイレ以外は絶対に寝ていると確約してくれないと早産になるからね」

 医師は早々と決断して、スタッフに「菅原さんの入院手続きの準備してね」と声をかける。

「あの、入院となるとその……何を用意すればいいんですか?」

「こだわりのシャンプーなんかあれば持ってきてもいいですけど……特にないね」

 なんせここはセレブ御用達産婦人科だ。入院となった場合のアメニティは揃っているし、入院中の衣服は貸し出しもしている。特別に用意するものはなにもなかった。

「ママさんはこのまま預かるので、パパさんは入院の手続きをして帰ってくださいね」

 妊夫の扱いは丁寧だが、パートナーへの扱いがぞんざいすぎるぞと叫びたくなるのをぐっと堪え、頭を下げる。産婦人科医ではない桐生が玄にしてやれることなどないのだから。だがせめてもう少し一緒にいたいと願ってはいけないのだろうか。

 だが医師とてプロだ。

 使えないやつが妊夫の側にいて逆に気を遣わせるパターンをゴロゴロとみてきた医師にとって、切迫早産の患者は一人でいることが望ましいと判断している。

(まぁこの妊夫さんは色々と問題ありだからねぇ)

 桐生に告げず、医師は扉の閉まる音を聞くとカルテにポンと「要注意妊夫」の判を押した。

 なぜなら、研修も受けずに見学と言いながら末弟の出産の立会いをしようとしたのだ。しかも、その末弟は帝王切開が必要で、「私の弟の腹を切るとは何事だーーーーー!」と大騒ぎをした前科がある。当然助産師によって連れ出され長い説教を受けたのだが。自分の妊娠よりも弟の出産のほうが大事とは、きっと夫婦仲が良くないのだろうと医師は勝手に判断した。

 桐生は入院の手続きを済ませ、病院からたたき出されると、どうしていいのかわからないまま帰路に就いた。そして次の日から毎日のように仕事帰りに病室に訪ねては面会終了時間いっぱいまで甲斐甲斐しく玄の世話をするのだった。

「欲しいものはないか? 食べたいものは……ない? じゃあ、手を握ろう」

「……うるさい、静かにしろ」

「分かった。でも玄は寂しいだろう、私が傍にいないのは。あぁそうだ、今日はまだ身体を拭いていなかったね。ナースステーションでタオルを頼んでくる」

 あまりにも毎日来すぎて、勝手知ったる状態になっていた。顔見知りとなった助産師からタオルを受け取り、いそいそと玄の身体を拭いていく。

「先日のスチールを使ったカタログが間もなく完成する。玄の写真を使ったページは際立って美しかったよ」

「…………」

 仕事の話をすれば気持ちが盛り上がるかと思ったが、返事はない。入院してからの玄はどこか精彩を欠いていた。ぼんやりとしており、無表情で隠しているが不安の色が混ざっている。どうしてそうなったのかは桐生にはわからないし、玄は相変わらず何も言ってはくれない。一方的に他愛ない話を、言葉をかけながら丁寧に拭いていく。

 切迫早産の入院は張り止めの点滴を打ちながらひたすら、ひたすら寝させられるだけだ。それこそ大げさではなく食事とトイレ以外は横になってボーっとすることを強要される。本を読んでもいいらしいが、本人に聞いても読みたい本がないという。だから玄のスマートフォンと充電器を持参した。後は玄が契約した新聞を家政婦に頼んで持ってきてもらっている。きっと玄は目を通さないと落ち着かないと思ったのだが、桐生が病室に着くころにはその新聞は全部ゴミ箱に入れられていて、読んでいるのかどうかわからない状態だ。

 物憂げな色がなぜなのか気がかりで、ただ訊ねていいのかどうかわからないでいた。

 一通り身体を拭き終わると、新しいパジャマを着せ布団をかけた。そしてベッド横の椅子に座ると、ゆっくりとした口調で玄に問いかけた。

「何が気がかりなんだい? 私でよければ話してくれないか」

 返事はない。

「私では頼りないか? 誰なら話せるのか教えてくれ」

 少しでも玄の心を軽くしたくて提案するが、相変わらず返事はない。ただそう訊ねる桐生を玄は少し悲しそうな目で見つめてくる。桐生は拭いてしっとりとした玄の髪を撫でた。子供にするようにゆっくりと何度も。その手を玄は拒まなかった。

「なにか心に閊えているのだろう」

「……なぜそう思う」

「ずっと玄を見てきたからね。他の人は気付かないだろうけど、私にはわかる。悩んでいることがあるのだろう」

 だが、簡単に誰かに相談する性格ではないのも分かっている。ずっと内に秘め自分で解決しようとするのが玄だ。きっとそれは仕事でもそうなのだろう。決断力があると言えば聞こえはいいが、すべてを一人で抱え込んでしまい助けを得ようとしない玄に、桐生は悲しんでいるのだというのに気付いてくれない。

 本当は自分に話して欲しいと願う。心を開いて思っていること感じていること、どんな些細な内容でもいい、すべてを打ち明けて欲しいのだ。だが玄は、家族にすらあまり弱みや愚痴を言う人間ではない。さりげなく玄の母に聞いてみたが、長男として次期社長として肩ひじ張ってしまった長子は、親にすら頼ることをせずすべてを自分で決めたのだという。しかも末子を産んだ直後に急な世代交代があり、子供にかまってやれなかったことを悔いていた。きっと玄のことだ、父となり母となり弟たちの面倒を見ていたのだろう。責任感のある彼のことだ、誰にも弱音など吐かず、すべてを飲みこんで、それが当たり前になったのかもしれない。

 しかし玄は今、実家から離れ桐生と新しい『家族』を作る段階だ。

 このままでいて良いわけがない。

 桐生もまた、彼の最たる理解者でありたいと願っていた。彼の人生設計を変えてしまった責任ともいえるし、自分自身そうありたいと願っている。

(心を開いてくれ、私に話してくれ)

 願いながら、訊ねる。何が君を苦しませているのかと。

「……もう帰れ」

「話したくなったら言ってくれ、いつでも待っている。だが今日はもう少しだけ傍にいさせてくれ、玄」

 漆黒の髪を撫でながら許しを求める。

 優しく何度も髪を撫で続ける桐生に、それ以上拒みはしなかった。静かに目を閉じ、自分を落ち着かせるように穏やかな呼吸を繰り返す玄を、病院スタッフが叩き出すまでずっと眺めていた。
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