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権謀術数に秀でた桐生一族で、ここまでまっすぐな気持ちをぶつけてくるのは、ありえないと言っていい。桐生を知る人間なら誰もがまっすぐな言葉と態度に腰を抜かして、そこに裏の意味があるのかと裏を読むだろう。
「嘘偽りがなくても迷惑だっ! 今すぐ同意書にサインしろ、堕してくる」
なんの同意書かと覗き込んだ碧は、一瞬にして青褪めた。
「玄兄さん、赤ちゃんを殺しちゃうの?」
「ぐはっ……それは………」
「お腹の子って、この子たちのイトコなんだよね……僕、すごく嬉しかったのに」
碧がそっと自分のお腹を撫でた。月齢よりも大きいのは双子を宿しているから。
「碧、大丈夫かい。泣かないでくれ……大丈夫、お義兄さんはそんな酷いことはしないよ」
ここぞとばかりに一輝が愛おしそうに碧を抱きしめる。いつもなら殺してやるとばかりに凶悪な視線を向けてくる玄がダメージを受けているのを充分に承知して自分たち夫婦のラブイチャぶりを見せつけてきた。
「でも一輝さん、玄兄さんが赤ちゃん殺しちゃったら、この子たち一生イトコがいないことになるんだよ」
「っ!」
一輝が一人っ子で、次兄の梗が結婚はしない宣言をしているため、玄が産むか産ませるかしなければ、碧の子供にイトコができることはない。しかも、オメガになった玄にはもう子供を「相手に産ませる」のが難しくなり、碧の希望を叶えようとするなら「産む」しか選択肢がない。桐生の番にされた今、桐生が死なない限り玄は彼の子を産むしかないのだ。碧のために。
だが、その碧のためにどうこうという意識が玄にはなかった。
自分の中にあるものが「オメガになった証」ではなく、先ほど碧の腹を触った時に感じた命の振動と同じものが宿っていることにようやく気付いたのだ。
まだ小さい、命。
「ぁ……」
玄は簡単に堕胎を口にしたことを突然恥じた。
「碧、そんなに泣かないでくれ。今お義兄さんは混乱しているから、ね。そんなに悲しまなくてもきっといいようにしてくれるよ」
一輝は碧の柔らかい髪をゆっくりと撫で落ち着かせる。
「そ……だよね、玄兄さんも急に子供が出来ちゃって驚いているんだよね」
天羽夫妻がイチャイチャうふふと見つめ合いながら交わす会話が会議室に響く。桐生社長はなぜこの状況でお花畑になれるんだと呆れるばかりだが、一輝には思惑があった。
なにがなんでも玄と桐生をくっつけたい。そして自分の生活に集中しこちら……というよりも碧への干渉を少しでも減らしたい。妻が身重なのをいいことに繰り返し嘴を挟む菅原兄弟が鬱陶しくて仕方なかったから、この好機を逃す手はない。
玄はそんな末弟夫婦のやり取りは、残念ながら耳に入っていない。
ただただ、感情的になりすぎた自分の言動を恥じ、これからどうするかを考えるのでいっぱいだ。
産むのか。
菅原家の財力なら全く問題はないし、自分自身もたっぷりと金を稼いでいる。子供を育てるのに必要な環境を整えるのは容易い。実家にいれば執事や家政婦も手を貸してくれるだろう。ベビーシッターを新たに雇っても生計が圧迫されることはない。懸念は、自分がどうこの子と向き合うかだ。
産んで終わりというわけではない。歩けるようになり喋れるようになり、自我が芽生えたその時に、恥じない親でいられる自分が想像できない。産んだ責任を取れる自信もない。
玄は今まで味わったことのない恐怖がじわりと己に襲い掛かるのを、抵抗する術を持たないまま飲みこまれそうになる。
突然下を向き押し黙った玄に、桐生が近づく。しゃがみこんで顔を覗き見ると美しい顔面が蒼白になっていた。
「どうしたんだ、玄。具合が悪いのか」
大きな手が腕をさすってくる。
正常であればすぐにでも跳ね除ける手が妙に心地よい。同時にシャツ越しに感じる桐生の手の熱さに、自分が指先まで冷えているのを知った。夏のオフィスのよく効いたエアコンが一層玄から体温を奪っていく。
桐生の熱がどんどんと流れ込み、強張り続ける心がゆっくりとだがほぐれていくのを感じる。物心ついてから今までずっと、頑張り続けなければと張っていた気が綻んでくる。顔を上げれば自分をじっと見つめてくる桐生の目が合った。
20年前に会ってからずっと、玄は桐生をきちんと見たことがないのに気付いた。こうやって相手の目をまじまじと見つめることは、社内のプレゼンの時だけだ。だから彼の容姿が彫りが深いとしか認識せず、その目の色も唇の厚さも分からないでいた。
「だ……大丈夫だ」
声が震え、尻すぼみになる。
「安心してくれ、私が付いている……」
指先までも撫でてくる手が熱くて、心地よい。氷のように冷たかった指先にじんわりと血が通っていく。
静かに何度も肌をさする桐生に、玄はなにも言わず任せる。ふと、彼の視線が玄の腹部へと移った。
「ここに、私たちの子がいるのだな……産んではくれないか、玄。そのためなら何でもする。君が望むことを全て叶える。だから……一緒にこの子を育てさせてくれ」
耳に心地よいバリトンの声が、穏やかに優しく玄に問いかける。
「きりゅう…」
「篤繁と呼んでくれ、玄」
二人の雰囲気がピンク色へと変わり始めようとしたその時、再び会議室の扉が乱暴に開かれた。
「なんぞ、篤繁が男を孕ませただとっ!」
滅多に会社に顔を見せないキリュウ・コーポレーションの会長だった。
小柄で細身なのに、獰猛な目をしたつるっ禿の老人が杖を突きながら入ってくる。その後ろに秘書なのか介護要員なのかスーツ姿の青年が付き従っている。
「あ、おじいちゃん!」
「これ、天羽の嫁ちゃんじゃないか。篤繁が孕ませたというのはお前の事か」
経団連のパーティで何度か顔を合わせている碧が会長に声をかけると、親し気に返されるがその内容に一輝のこめかみに青筋を立てる。
「いやいや、桐生会長。妻のお腹にいるのは私の子ですよ。決して他の男の子じゃありませんよー。触らないでくださいね」
穏やかに、だが完全拒絶の姿勢で立ち向かう。
「なんじゃつまらんの。誰を孕ませたんじゃ」
「僕のお兄さん」
「なんと、菅原の息子にお前さん以外のオメガがいたのか?」
「ちがうよ、アルファだよ。あれ? 一輝さん、アルファでも妊娠するの?」
「普通はしないよ。けれどアルファが突然オメガになることがあるんだよ」
「そうなの? 玄兄さんは突然オメガになっちゃったから妊娠しちゃったんだね」
「そういうことだ」
細かいニュアンスでは間違っているが、可愛い妻に甘すぎる一輝は見事にそこはスルーする。しかも、自分たち夫婦には全く関係ないことだから細かく知る必要もないとすら考えている。
「会長、ご無沙汰しておりますわ」
菅原母がスッと会長の傍に寄っていく。
「なんじゃ、女豹。厚顔にもここへやって来れたもんじゃな。目をかけてやった恩も忘れてよそに嫁ぎおって。わしはまだ怒っとるんじゃ」
「厚顔にもなりますとも。なにせ手塩に掛けて育てた跡継ぎをオメガにされただけでなく、妊娠までさせられたのですよ。黙ってなどいられますか。お墓の中に入っても怒り続けてくださいな。ただし、菅原家が被った被害は会長の目が黒いうちに償ってくださいませ」
オホホホホ。被害者身内なのに、やけに楽しそうである。桐生社長が会長に耳打ちをすると会長も苦々しい顔になる。
「息子のお腹にいるのは、会長にとっての初曾孫になるのかしら」
「……命を盾に取る気かっ」
「とんでもございません。私にとっても可愛い孫になりますからねぇ。でもこのままでは結婚なんてとても許せませんし、息子の心の傷も癒えませんわ」
桐生一族は知らない。今菅原母はとてつもなく怒っていることに。それは玄の件ではなく、初孫となる碧の子供たちに雛人形を買ってやれない結果になったからだ。天羽家と揉めに揉めたのに、孫の性別が二人とも男の子で、菅原母が「孫娘の雛人形は母親の実家が用意するもの!」と慣習を振りかざしていただけに、端午の節句の兜一式は天羽家が用意すると言われぐぬぬとなり、その怒りを桐生にぶつけているのである。
要はYA・TSU・A・TA・RIである。
玄が可哀想と思ってはいるが、オメガになったからといって玄の能力が消えるわけでもない。元々精神力が高い玄のこと、道標だけ示せば目標を持ち邁進するだろうからそれほど心配はしていない。
「桐生の次期社長候補が醜聞を抱えたままでは、企業のイメージがよくありませんわね。しかも、篤繁さん以外はあまり出来がよろしくないと風の噂ではありませんか」
相手の痛いところをとことん突いてくる。
「今のままでは会長の曾孫は菅原家の子になりますね……あぁでもその前に母親が堕胎を叫んでますけど、どうしましょう」
ただ事実を並べているだけなのに、どうにも嫌味たらしいと会長は入れ歯の奥を噛みしめる。
「何が望みじゃっ!」
「そうですわねぇ……息子の傷心を慰めるのは絶対ですわ。それにもし篤繁さんが結婚を望むのであれば結納は必須ですわよね。まさか嫁は菅原家のままでいいなんて会長は仰らないでしょう」
直接的な言葉はなにも言わないが、どうにも「金の要求」にしか聞こえないのはなぜだろうと桐生社長は青褪める。
「篤繁の両親は今、海外の支店を任せているためすぐに来ることができず申し訳ない。代わりで悪いがお詫びする」
「あら、桐生社長が謝らなくてもよろしいんですよ。ねぇ会長」
やはり女豹だ。女豹でしかない。彼女が桐生のトップだったらどれだけ事業が成長したかと悔やんでも悔やみきれない会長は、老身でかつてより短気になっているため、苛立ったまま叫ぶ。
「はっきり言えっ!」
「では、心の傷を癒すために必要なのは、キリュウ・コーポレーションの株式3%と、長男の重役登用かしら。あぁ、ペーパー役員は止めてくださいね、そんな無能には育てておりませんので」
「なっ!」
キリュウ・コーポレーションの株式を3%も譲渡できるものではない。しかも慰謝料としては高額過ぎる。すぐに諾とは返事ができない。だが否と答えた時、菅原母がどう出るかは想像できないだけに怖すぎる。
「あら、たかだか3%ですわ。会長は半分以上お持ちなのですからなんてことありませんよね。その中のたった3%、曾孫のために動かすこともできないような、そんな狭量じゃございませんよね」
「分かりました。私の持ち株をすべて玄に譲ります」
簡単に諾を口にしたのは桐生である。ずっと玄の傍でその冷たい手をさすりながら話を聞いていた彼は、玄が手に入るならキリュウ・コーポレーションの株式など安いものだった。
「篤繁っ!」
「あら、潔いのね」
「玄が私の伴侶となるのであればなんだってします。それほどに私は玄を想っているのです」
だが桐生は知らない。菅原母もキリュウ・コーポレーションの株式を持っていることを。桐生が譲渡した分を合わせれば、会長に次ぐ発言力を得ることになる。会長と社長はそれを瞬時に計算してすぐに返事ができなかったのだ。
「では篤繁さん、譲渡に関しての契約書につきましては後日弁護士を遣わせますわ。それと、貴方個人への条件です」
手招きするとその耳に囁きかけた。
「玄から結婚の承諾を取りなさい、たった一人の力で」
きっとそれが一番重いミッションだろう。だが桐生はしっかりと頷いた。玄はその間、椅子に座ったまま白くなっていた。
「嘘偽りがなくても迷惑だっ! 今すぐ同意書にサインしろ、堕してくる」
なんの同意書かと覗き込んだ碧は、一瞬にして青褪めた。
「玄兄さん、赤ちゃんを殺しちゃうの?」
「ぐはっ……それは………」
「お腹の子って、この子たちのイトコなんだよね……僕、すごく嬉しかったのに」
碧がそっと自分のお腹を撫でた。月齢よりも大きいのは双子を宿しているから。
「碧、大丈夫かい。泣かないでくれ……大丈夫、お義兄さんはそんな酷いことはしないよ」
ここぞとばかりに一輝が愛おしそうに碧を抱きしめる。いつもなら殺してやるとばかりに凶悪な視線を向けてくる玄がダメージを受けているのを充分に承知して自分たち夫婦のラブイチャぶりを見せつけてきた。
「でも一輝さん、玄兄さんが赤ちゃん殺しちゃったら、この子たち一生イトコがいないことになるんだよ」
「っ!」
一輝が一人っ子で、次兄の梗が結婚はしない宣言をしているため、玄が産むか産ませるかしなければ、碧の子供にイトコができることはない。しかも、オメガになった玄にはもう子供を「相手に産ませる」のが難しくなり、碧の希望を叶えようとするなら「産む」しか選択肢がない。桐生の番にされた今、桐生が死なない限り玄は彼の子を産むしかないのだ。碧のために。
だが、その碧のためにどうこうという意識が玄にはなかった。
自分の中にあるものが「オメガになった証」ではなく、先ほど碧の腹を触った時に感じた命の振動と同じものが宿っていることにようやく気付いたのだ。
まだ小さい、命。
「ぁ……」
玄は簡単に堕胎を口にしたことを突然恥じた。
「碧、そんなに泣かないでくれ。今お義兄さんは混乱しているから、ね。そんなに悲しまなくてもきっといいようにしてくれるよ」
一輝は碧の柔らかい髪をゆっくりと撫で落ち着かせる。
「そ……だよね、玄兄さんも急に子供が出来ちゃって驚いているんだよね」
天羽夫妻がイチャイチャうふふと見つめ合いながら交わす会話が会議室に響く。桐生社長はなぜこの状況でお花畑になれるんだと呆れるばかりだが、一輝には思惑があった。
なにがなんでも玄と桐生をくっつけたい。そして自分の生活に集中しこちら……というよりも碧への干渉を少しでも減らしたい。妻が身重なのをいいことに繰り返し嘴を挟む菅原兄弟が鬱陶しくて仕方なかったから、この好機を逃す手はない。
玄はそんな末弟夫婦のやり取りは、残念ながら耳に入っていない。
ただただ、感情的になりすぎた自分の言動を恥じ、これからどうするかを考えるのでいっぱいだ。
産むのか。
菅原家の財力なら全く問題はないし、自分自身もたっぷりと金を稼いでいる。子供を育てるのに必要な環境を整えるのは容易い。実家にいれば執事や家政婦も手を貸してくれるだろう。ベビーシッターを新たに雇っても生計が圧迫されることはない。懸念は、自分がどうこの子と向き合うかだ。
産んで終わりというわけではない。歩けるようになり喋れるようになり、自我が芽生えたその時に、恥じない親でいられる自分が想像できない。産んだ責任を取れる自信もない。
玄は今まで味わったことのない恐怖がじわりと己に襲い掛かるのを、抵抗する術を持たないまま飲みこまれそうになる。
突然下を向き押し黙った玄に、桐生が近づく。しゃがみこんで顔を覗き見ると美しい顔面が蒼白になっていた。
「どうしたんだ、玄。具合が悪いのか」
大きな手が腕をさすってくる。
正常であればすぐにでも跳ね除ける手が妙に心地よい。同時にシャツ越しに感じる桐生の手の熱さに、自分が指先まで冷えているのを知った。夏のオフィスのよく効いたエアコンが一層玄から体温を奪っていく。
桐生の熱がどんどんと流れ込み、強張り続ける心がゆっくりとだがほぐれていくのを感じる。物心ついてから今までずっと、頑張り続けなければと張っていた気が綻んでくる。顔を上げれば自分をじっと見つめてくる桐生の目が合った。
20年前に会ってからずっと、玄は桐生をきちんと見たことがないのに気付いた。こうやって相手の目をまじまじと見つめることは、社内のプレゼンの時だけだ。だから彼の容姿が彫りが深いとしか認識せず、その目の色も唇の厚さも分からないでいた。
「だ……大丈夫だ」
声が震え、尻すぼみになる。
「安心してくれ、私が付いている……」
指先までも撫でてくる手が熱くて、心地よい。氷のように冷たかった指先にじんわりと血が通っていく。
静かに何度も肌をさする桐生に、玄はなにも言わず任せる。ふと、彼の視線が玄の腹部へと移った。
「ここに、私たちの子がいるのだな……産んではくれないか、玄。そのためなら何でもする。君が望むことを全て叶える。だから……一緒にこの子を育てさせてくれ」
耳に心地よいバリトンの声が、穏やかに優しく玄に問いかける。
「きりゅう…」
「篤繁と呼んでくれ、玄」
二人の雰囲気がピンク色へと変わり始めようとしたその時、再び会議室の扉が乱暴に開かれた。
「なんぞ、篤繁が男を孕ませただとっ!」
滅多に会社に顔を見せないキリュウ・コーポレーションの会長だった。
小柄で細身なのに、獰猛な目をしたつるっ禿の老人が杖を突きながら入ってくる。その後ろに秘書なのか介護要員なのかスーツ姿の青年が付き従っている。
「あ、おじいちゃん!」
「これ、天羽の嫁ちゃんじゃないか。篤繁が孕ませたというのはお前の事か」
経団連のパーティで何度か顔を合わせている碧が会長に声をかけると、親し気に返されるがその内容に一輝のこめかみに青筋を立てる。
「いやいや、桐生会長。妻のお腹にいるのは私の子ですよ。決して他の男の子じゃありませんよー。触らないでくださいね」
穏やかに、だが完全拒絶の姿勢で立ち向かう。
「なんじゃつまらんの。誰を孕ませたんじゃ」
「僕のお兄さん」
「なんと、菅原の息子にお前さん以外のオメガがいたのか?」
「ちがうよ、アルファだよ。あれ? 一輝さん、アルファでも妊娠するの?」
「普通はしないよ。けれどアルファが突然オメガになることがあるんだよ」
「そうなの? 玄兄さんは突然オメガになっちゃったから妊娠しちゃったんだね」
「そういうことだ」
細かいニュアンスでは間違っているが、可愛い妻に甘すぎる一輝は見事にそこはスルーする。しかも、自分たち夫婦には全く関係ないことだから細かく知る必要もないとすら考えている。
「会長、ご無沙汰しておりますわ」
菅原母がスッと会長の傍に寄っていく。
「なんじゃ、女豹。厚顔にもここへやって来れたもんじゃな。目をかけてやった恩も忘れてよそに嫁ぎおって。わしはまだ怒っとるんじゃ」
「厚顔にもなりますとも。なにせ手塩に掛けて育てた跡継ぎをオメガにされただけでなく、妊娠までさせられたのですよ。黙ってなどいられますか。お墓の中に入っても怒り続けてくださいな。ただし、菅原家が被った被害は会長の目が黒いうちに償ってくださいませ」
オホホホホ。被害者身内なのに、やけに楽しそうである。桐生社長が会長に耳打ちをすると会長も苦々しい顔になる。
「息子のお腹にいるのは、会長にとっての初曾孫になるのかしら」
「……命を盾に取る気かっ」
「とんでもございません。私にとっても可愛い孫になりますからねぇ。でもこのままでは結婚なんてとても許せませんし、息子の心の傷も癒えませんわ」
桐生一族は知らない。今菅原母はとてつもなく怒っていることに。それは玄の件ではなく、初孫となる碧の子供たちに雛人形を買ってやれない結果になったからだ。天羽家と揉めに揉めたのに、孫の性別が二人とも男の子で、菅原母が「孫娘の雛人形は母親の実家が用意するもの!」と慣習を振りかざしていただけに、端午の節句の兜一式は天羽家が用意すると言われぐぬぬとなり、その怒りを桐生にぶつけているのである。
要はYA・TSU・A・TA・RIである。
玄が可哀想と思ってはいるが、オメガになったからといって玄の能力が消えるわけでもない。元々精神力が高い玄のこと、道標だけ示せば目標を持ち邁進するだろうからそれほど心配はしていない。
「桐生の次期社長候補が醜聞を抱えたままでは、企業のイメージがよくありませんわね。しかも、篤繁さん以外はあまり出来がよろしくないと風の噂ではありませんか」
相手の痛いところをとことん突いてくる。
「今のままでは会長の曾孫は菅原家の子になりますね……あぁでもその前に母親が堕胎を叫んでますけど、どうしましょう」
ただ事実を並べているだけなのに、どうにも嫌味たらしいと会長は入れ歯の奥を噛みしめる。
「何が望みじゃっ!」
「そうですわねぇ……息子の傷心を慰めるのは絶対ですわ。それにもし篤繁さんが結婚を望むのであれば結納は必須ですわよね。まさか嫁は菅原家のままでいいなんて会長は仰らないでしょう」
直接的な言葉はなにも言わないが、どうにも「金の要求」にしか聞こえないのはなぜだろうと桐生社長は青褪める。
「篤繁の両親は今、海外の支店を任せているためすぐに来ることができず申し訳ない。代わりで悪いがお詫びする」
「あら、桐生社長が謝らなくてもよろしいんですよ。ねぇ会長」
やはり女豹だ。女豹でしかない。彼女が桐生のトップだったらどれだけ事業が成長したかと悔やんでも悔やみきれない会長は、老身でかつてより短気になっているため、苛立ったまま叫ぶ。
「はっきり言えっ!」
「では、心の傷を癒すために必要なのは、キリュウ・コーポレーションの株式3%と、長男の重役登用かしら。あぁ、ペーパー役員は止めてくださいね、そんな無能には育てておりませんので」
「なっ!」
キリュウ・コーポレーションの株式を3%も譲渡できるものではない。しかも慰謝料としては高額過ぎる。すぐに諾とは返事ができない。だが否と答えた時、菅原母がどう出るかは想像できないだけに怖すぎる。
「あら、たかだか3%ですわ。会長は半分以上お持ちなのですからなんてことありませんよね。その中のたった3%、曾孫のために動かすこともできないような、そんな狭量じゃございませんよね」
「分かりました。私の持ち株をすべて玄に譲ります」
簡単に諾を口にしたのは桐生である。ずっと玄の傍でその冷たい手をさすりながら話を聞いていた彼は、玄が手に入るならキリュウ・コーポレーションの株式など安いものだった。
「篤繁っ!」
「あら、潔いのね」
「玄が私の伴侶となるのであればなんだってします。それほどに私は玄を想っているのです」
だが桐生は知らない。菅原母もキリュウ・コーポレーションの株式を持っていることを。桐生が譲渡した分を合わせれば、会長に次ぐ発言力を得ることになる。会長と社長はそれを瞬時に計算してすぐに返事ができなかったのだ。
「では篤繁さん、譲渡に関しての契約書につきましては後日弁護士を遣わせますわ。それと、貴方個人への条件です」
手招きするとその耳に囁きかけた。
「玄から結婚の承諾を取りなさい、たった一人の力で」
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