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 神妙な面持ちの桐生である。

「玄、そんなところに立っていないで入りなさい」

 父のいつになく固い声に、逆らうという選択肢がない玄は従い、いつも自分が腰かけている三人掛けのソファへと座る。自然と桐生と対面することになる。

「手にしているその紙はなんだ。見せなさい」

「……はい」

 父が注視したのは懇意にしている病院のロゴがデカデカと記載されていたからだろう、玄はすべてを諦めたようにバース診断結果の用紙を渡す。一字一句なぞるように視線を動かした父は、嘆息したのち、その紙を配偶者に渡した。母も同様に一字一句見誤らないように用紙を読み続ける。

 針のむしろのような時間だ。

 自分の意志ではないとはいえ、バースが変わったのは事実だから。しかもついさっき知って一番落ち込んでいるタイミングでの重圧に、堪えられず下を向く。何かの間違いであってくれと願わずにはいられない。

「それで桐生くん、君はどうするつもりなのかね」

「はい。お許しいただけるのであれば、我が妻に迎えたいと願っています」

 妻!?

 ガバリと顔を上げれば、今まで見たこともないほど真剣な眼差しの桐生がそこにいた。居住まいを正し顔を強張らせ、いつもの飄々としてどこか世間を斜めに見ているような不遜さはどこにもない。知らない人間が見たら、どこに出してもおかしくない好青年然としながら、誠実に本件に向き合っているという風である。

(いけしゃあしゃあとよくも……)

 ふざけるなと叫ぼうとした玄を片手で制したのは母だった。

「桐生さん。10年前からずっと玄の見合いをことごとく潰してくれたのはこれがしたかったから、と受け取っていいのかしら?」

「なに?」

 初耳だ。

 末弟の結婚が決まり落ち着くまで自分の見合いなど二の次の案件だと思っていたが、有能な母親は同時並行に進めていたのか。だが未だ一度も見合いがセッティングされたためしはない。

「申し訳ございません。20年前に初めて会った時から、彼を生涯の伴侶にと、心に決めておりました。順序が違ってしまいましたことをお許しください」

 桐生がソファから降り床に座ると、額を付け土下座をした。

「そんなのお断りだ! ふざけるなっ」

「頼む、結婚してくれ!」

「蛇よりも執念深いとお噂の桐生家の方ですものねぇ。嫌だと言っても諦めてはくださらないのよね」

「申し訳ございません」

「断り続ければ、会長が動かれるのかしら」

「いえ。祖父にも誰にも、この件で菅原製薬やご一家に不利な状況にならないようにいたします」

「篤繁さんと仰ったかしら。貴方にはそれを押さえつけられるほどの力はおありなの?」

 おっとりとした口調だが、棘しか感じられない母の言葉に桐生のみならず玄までもが震えあがった。と同時に、今まであまり認識していなかった桐生の生家を思い浮かべる。

 キリュウ・コーポレーションを筆頭として100を超えるグループ企業を抱えるK財閥の創業家一族。会長となっている先代当主は楽隠居をしていると見せかけ、未だ経済界を暗躍している。その一族の特徴は、反抗するものは潰し、負けた相手は一生どころか相手が死んでも覚え続けることで有名だ。そんな優秀かつ粘着質なアルファを数多抱えている桐生家で次期当主に最も近いと言われているのが桐生・アルベルト・篤繁である。

 頭では理解している。だが玄はマメに自分に連絡してくる桐生と、その話が今までリンクしていなかった。

「もし会長がこのことにお腹立ちになっても、止めることはできまして?」

 さすがにこれには桐生も言葉を発せずにいる。

「それではお話になりませんわ。本日のところはお帰りくださいな。こちらも心の準備はなにもできておりませんの。少し時間をくださいませ」

 笑顔で追い出しにかかる母に、桐生は頭を下げ退出した。

 自分の想いだけで暴走した桐生の言葉など、簡単に受け付けないというのが菅原家の回答だと見せつけた母親に、玄は頭を下げた。

「申し訳ありません」

 酒に酔って相手に隙を与えた自分が悪いと認識している。

 だが母は嘆息するだけだった。

「仕方ないわ。玄は碧以外の人間に興味がなさ過ぎて、そこをずっと心配していたからねぇ」

「うっ……それは」

「お見合いが整わなかったのは桐生さんの妨害だけじゃないからね」

 桐生からの妨害は確かにあった。見合いの席が整う寸前に急に婚約が決まったり、お家没落だったり。だがそれ以前から難色は示されていた。菅原玄が一般的な家庭を築けないというのが理由だ。あまりにもアルファ界で堅物で通り過ぎていた。

 それは菅原母も感じていた。完璧なアルファであれと教育してきたが、そのせいで長子が家族以外に心を開かず、興味は末子にのみ注がれ、結婚相手が誰でもかまわないと言い切った時に、己の失敗を感じていた。だがその時すでに成人している息子の教育を再度するだけのパワーはなかった。

 案外、良かったのかもと考えていることはおくびにも出さず、眉間にシワを寄せ困った顔をする。

「玄はどうしたいの?」

「私は……どうもこうもオメガになったことが認められませんっ!」

「まぁそう。ではあと二・三回他の病院でも検査しましょう」

 現実の受け入れを拒否する息子を憐れんだ目で見つめる。だが、玄以外、ここにいる面々は玄がオメガになったことを感じていた。噛み跡を見なくとも、玄から放たれる匂いが甘いのだ。家族だからその匂いに刺激されることはないが、幼い頃の碧から放たれていたものと似ている。

「もし、他の診断もオメガだったら、腹をくくってオメガとして生きていくんだ」

 父の固い声に、現実を突きつけられる。

「そうねぇ。それしかないわよね。どうせ桐生の人間のすることだから、バースを変えたついでに番にしてるでしょうね」

 父はまだ、桐生から告げられた番の話を配偶者にしていなかったが、元々彼女は桐生家の傍流だ。彼らのすることは手に取るように理解している。そして彼女もまた、桐生の血が流れている。

「玄、覚えておきなさい。どうしようもなく桐生家に嫁ぐのであれば、中から乗っ取りなさい」

「母さんなにをっ!」

「貴方はオメガになったとしても、元々はとても優秀なアルファよ。自分の優秀さを桐生一族に見せつけてそのトップに登り詰めなさい。そうすれば、貴方のアルファとしてのプライドは何一つ傷つくことはないのよ」

 優しく明るい声で告げるが、内容が酷すぎる。父はそれに怯え、止めようとするが蛇のような一睨みを受け押し黙る。

「よろしくて。桐生なんて乗っ取っておしまい」

 プライドが何一つ傷つかない。その言葉に今まで落ち込んでいた玄はグワァァァッと這い上がった。

 そうだ、自分は優秀な人間だ。碧が恥じぬよう優秀であり続けたのだ。だがその枠はあくまでも菅原製薬の中でしかない。もし自分が桐生グループを牛耳ったなら、碧からさらに称賛の眼差しを向けられるだろう。

 それに。

 自分の心づもり一つで天羽ビバレッジなど簡単につぶすことができる。

「もし嫁ぐことになったら……10年よ。10年以内に全権掌握するのよ」

 悪魔の囁きだが、玄はどんどんパワーが漲っていく。

「貴方の優秀さを見せつけてやりなさい」

「かしこまりました、母上」

 死にそうになっていた玄の顔が輝き始める。

「そう、それでいいのよ」

 ニヤリと笑う菅原母の顔をまともに見て、父は冷や汗をかきながら押し黙ったままであった。



「おい、お前。あんなことを言っていいのか」

 リビングを出て玄が自室に入っただろうタイミングを計って、菅原父は訊ねた。己の妻の執念深さを誰よりも知ってはいるが、荒唐無稽すぎる提案に一言言わなければと勇気を出して問いかけた。

「何を言っているんですか。うちの玄にできないとお思いなのですか?」

「いや……そういうわけじゃ……」

 長年連れ添った妻にがっつり尻に敷かれている菅原父は言い淀む。確かに玄は優秀だし、今も会社の中枢でその辣腕を振るい業績を伸ばしている。だが、規模が全く違い過ぎている。

「丁度いい機会です。玄はあまりにも他者に無関心すぎます。桐生さんのような強引さはいいカンフル剤になるわ。それに、もう番になっているのでしょう。なら、あの子がどうしたら幸せに過ごせるかを導くのが親の役目というものです」

 冷めてしまった紅茶を口に運ぶ。

「失意でうっかり自殺されるよりはましよ」

 その目は全く笑っていなかった。

「そ……そうだなぁ」

 妻の鋭い洞察ぶりに、仕事一辺倒であまり子供たちと接してこなかった菅原父はまた肩を落とした。

「近いうちに碧を来てもらいましょう。あの子ならきっといい仕事をしてくれるわ」

 いいことを思いついたとばかりに、妻がニヤリとあくどい笑みを浮かべるのを見て、また冷たい汗が流れるのを感じるのだった。
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