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 都心の中にある老舗ホテルの高層階にあるバーは、紳士たちの社交場とも呼べた。静かな音楽が流れる中、ロックグラスの酒を飲みながら談笑する者たちが各席に散らばり、その声は他の客の邪魔にはならない。その中で、玄はカウンター席に腰かけ、アルコール度の低いカクテルを飲んでいた。

 約束していた桐生と酒を飲みかわす日だ。彼が指定してきたのがこのホテルのバーで、しかも先ほど少し仕事で遅れるとの連絡が入った。

「早く来い馬鹿者がっ」

 相手は先輩なのだが、敬意のかけらもない。苦々しい表情のまま、苦手なアルコールを口にする。

 なぜバーなのだ。

 こんな場所ではいつ知り合いに会うかわからないし、ソフトドリンクを口にするのを見られたら何を言われるかわからない。だから玄は苦手なアルコールを大量摂取しないよう、ほんの少しだけ口を付けた。

 アルコール分解酵素が少ないしく、病院のアルコール綿でもかぶれた経験がある玄には、嬉しそうにロックグラスを傾けている面々の気が知れなかった。

 飲むのはそこらのカフェでよかったのにと心の中で毒づきながら、早く来いと桐生に呪いを電波を送った。なにせ、末弟の個展がなければ社交辞令の「飲みましょう」を送ってそのまま放置する予定だったのだから。筆まめな桐生に合わせ時折連絡を取り合っていただけだし、桐生財閥で会社関連でなにか

(そういえば、あれから20年か)

 アルファオーラを撒き散らしながら周囲を威嚇していた年上の転入生を学校案内してから、なぜか桐生との縁が続き、今ではアルファ校で唯一連絡を取り合う相手となっている。

 来たものに返事をするだけだが、それでもこんなに連絡を続けているのは桐生だけだ。

(先輩が思いのほか筆まめだったからか)

 マメに連絡を寄越してその返事をしてと、気付けば20年来の付き合いになっていた。

 その20年、玄がしたいたことといえば、末弟を慈しみ彼のために薬を開発し、ここ数年は結婚相手に遠回しな妨害工作と素行調査。傍から見たら何をやっているんだと言われそうだが、玄は真剣である。自分の幸せよりも可愛い末弟の幸せ。末弟が幸せなら自分も幸せだが、その相手が気に食わない。本当なら自分の手で幸せにしてやりたかったが、母の決定は絶対で、泣く泣く嫁に出した。

「天羽め……」

 アルファ校時代からあまりいい感情を抱いていない相手だけに憎しみもひとしおだ。

 せめて桐生なら……まだ許せた。多分。

 末弟の番候補に玄が推薦したのは他でもない、桐生だ。学生時代に比べて落ち着き物の分別が分かった彼になら、大事な大事な可愛い弟を任せられると思ったのに、桐生家から来たのは断りの返事だった。しかも、その両親ではなく、桐生本人から。

 正直、それを未だに引きずっている。

 桐生が受けてくれたらここまで苦々しい思いをしないで済んだかもしれない。多分…………きっと。

 やはり末弟に関することだと玄は、いつもの冷静で正常な判断ができなくなってしまうようだ。

 イライラしてしながら、格好つけて少しずつ酒を口に運ぶ。

(いつまで待たせる気だ、あほ桐生!)

 イライラがどんどん募っていく。

 いつもなら少しでも待たされれば今日はその日じゃなかったとばかりに帰ってしまう玄だが、さすがに今日は我慢している。早く桐生に会って末弟の個展の進捗や作品の価格帯、それに作品数を聞き出さねばならない。直接本人に聞くよりも、事前情報を仕入れ準備万端ですべてを買い占めるのが愛だと、盛大に勘違いしている。

 桐生がバーに現れたのは、約束よりも30分ほど過ぎてからだった。

「待たせてしまって申し訳ない」

「はい、随分と待ちました」

 相変わらず末弟以外にはそっけない玄だが、桐生も慣れたもので苦笑したまま隣のスツールに腰かけた。

「すまない。仕事の打ち合わせが長引いてしまってね」

「なら別日にすればよかったですね」

「今度の個展の打ち合わせが思いの外伸びてしまったんだ」

「なっ!」

 今度の個展。言わずもがな最愛の末弟の個展の事だ。

「今、どこまで進んでいるんですか碧の個展は!」

「おや。実兄の君は聞いていないのかい?」

「…………………………うるさい」

 訊きたいのはやまやまだ。だが母から天羽家への接触を最小限にするよう言い渡されており、秘かにスマホの発信履歴まで監視されている。こっそり末弟との連絡用に二代目を契約しようと画策したが、なぜかすぐに見つかり没収解約されてしまうのだ。会社の電話を私用に使うのは憚られるから、公衆電話からかけたりもしたが、碧の自宅はどうやら公衆電話からの着信を拒否しているようでいつも通話中。現在、可愛い末弟と連絡が取れる執事を通してでしかやり取りが不可能となっている。

 現状を知りもせず軽く訊ねてくる桐生に殺意が湧く。

「不躾な質問だったみたいだね、申し訳ない」

「本当です。充分に謝罪をしていただかなければ」

「許してもらうにはどうしたらいいのかな」

 そう言いながらバーテンダーにバーボンのロックを頼む。

「そうですね……個展の進捗と価格の一覧をいただければ許してあげます」

 むしろ、それだけ手に入ったらもう桐生と飲む必要はない。さっさと出せと言わんばかりに要求する。

「そう急いては物事はうまく運ばないよ。久しぶりに会ったんだ、もう少しゆっくりとした時間を過ごそう、玄」

 家族親族以外で自分のファーストネームを呼ぶのは、彼だけだ。随分と図々しいと感じながらも、海外にいる時間が長かったからしかたないと目を瞑っている。どうせ言っても桐生のことだ、次の瞬間にはそんな注意などなかったかのようにまたファーストネームを気安く呼ぶだろう。

「最初に出会ってからもう20年経ったね」

「そうですね」

 適当な相槌に、だが桐生が嬉しそうに微笑む。

「覚えていてくれたのかい?」

「さっき思い出しました」

「初めて会った時から玄は変わらない」

「そんなことはありません」

「そうかい? 今も昔も君は孤高な氷の女王様だ」

「なぜ例えが女性なんですか」

「君にぴったりな表現はこれしか思いつかない。あの頃もだが、今も綺麗だ」

「綺麗と言われて喜ぶ男なんていませんよ」

「そうかい? でも君以上に綺麗ない人間を私は知らないからね」

「…………先輩、酔っぱらってますか?」

 酔っているに決まっている。なにせ桐生がいつになく上機嫌だ。酒のピッチも早いし妙にこちらに寄りかかってくる。

「来る前に呑んできたんですか?」

「個展の話だけでお茶すら飲んでいないよ。絵の入れ替えをしてきたからね。そういえば、弟くんの旦那さんも一緒だった」

「なんだと?」

 すーっと玄の表情が冷たくなる。大事な大事な末弟の個展の打ち合わせにすら我が物顔で付き添ったのか、あの男は。

「相変わらず、弟婿への当たりが強いね」

「当然です。なんであんな軽佻浮薄な男が碧の夫なんだっ!」

 桐生が登場してから一度も口を付けなかったカクテルをゴクッと飲んだ。身体に流れ込んだアルコールが一気に熱になり胃袋を熱くする。慣れない感覚に、だが一輝に対する怒りが沸き起こった玄は自分を止められなくなった。

「なにが経団連一のおしどり夫婦だ。なにが愛妻家だ! 何も知らない碧を泣かせたりしたくせにっ!」

 未だに結婚式当日の涙を玄は覚えている。どうして自分にはキスしてくれないのだろうと悩む可愛い末弟に何も言えなかったが、あの場に一輝がいたらケーキ入党用のナイフで切り刻んでいたに違いない。18年もの間、悲しいことや辛いことを一切近づけず全身全霊をかけて守ってきたのに、写真ごときで泣かせたのがとにかく許せない。

 同時に、あの時迷ってしまった自分も許せなかった。

 キスしたりハグしたりされていないと知ってまだ自分の碧は綺麗なままだと喜んだ次の瞬間、なぜしてくれないのだと静かに泣く末弟に、そのまま何もしないでいいと思うと同時に、なぜこんなに可愛い碧に何もしないんだと怒った自分がいたのだ。

 相反する感情を自分の中で処理しきれなくて、逃げて長弟に任せたことが悔しく、そんな結果に導いた一輝のことを本気で殺したくなっていた。

「君がそんなに熱くなるなんて珍しいね。甘くて飲みやすいカクテルを一杯」

 オーダーを受けたバーテンダーは、静かに微笑みながら玄の前に置いたのは「キール・ロワイヤル」。フルートグラスに入れられた液体は澄んだ紅色でその中を気泡がフワフワと踊っている。桐生の注文通りとても甘く飲みやすいが、アルコール度は先ほど飲んでいたものよりもずっと高い。

 酒など全く知らない玄は、目の前に出された飲み物も、躊躇うことなく飲んでいく。するすると喉に入った炭酸が口の中を爽やかにしていく。

「これが冷静に話せるわけがないでしょう。我が家の大事な宝を泣かせたんですよ、あの男はっ!」
「そのようだね」

 荒ぶる玄に、桐生はただ相槌を打ち続けていく。

「結婚して五年、いい加減浮気してそうな者なのに、未だにその気配もないっ!」

「玄は弟婿が浮気したほうが良いのかい?」

「そんなわけないでしょ! でもあの男は絶対します、するに決まってる! 今までだって教室で平気でそんな話をしてきてたんだ」

 品行方正とは程遠い一輝の学生生活を聞きかじっているからこそ、信用ならないのだ。番になってもオメガと違ってアルファは他の人間を抱くことができる。「碧だけだ」と口先で伝えながらも奔放な下半身で浮気しまくると思っていたのだ。それによって末弟が悲しむのも嫌だが、だからといって末弟の独り占めも許しがたい。そんな出口のない積もり積もった感情を愚痴という形で吐き出していく。

「玄は弟くんと結婚したかったのかい?」

「……はい? 何を言っているんですか?」

 碧は弟だ。可愛い可愛い世界で一番大切な人だ。だからと言って自分が一輝に代わって性的なことをしようと考えたことは一度もない。むしろ、そんな風にしたいと思った相手は生まれてこの方一人も存在しない。

 品行方正、歩く良識として生きてきた玄に、実弟をどうこうしようという発想はない。碧はあくまでも可愛い弟だ。だが、できるなら何にも傷つけられず何にも汚されないよう大事に大事にしていきたいと思う。自分では幸せにできないのであれば、信用できる人間に委ねるのが一番だということも分かっている。

「私が打診したときに先輩が断ったのがいけない」

「ん? まだ根に持っていたのかい」

「当たり前じゃないですか! 桐生財閥だったら先輩が不甲斐なくても有り余る財産が碧を守ってくれると踏んだのにっ!」

「……君の判断基準はそこか? 私を信頼し弟くんを預けようというわけじゃなかったんだ」

「それなのに断りやがって……」

 アルコールのせいか、口調が荒くなっていく。

「申し訳ない、心に決めた相手がいるのでね」

「へぇ。随分と人間らしい感情があるんですね」

「かれこれ20年もの片想いだけどね」

「先輩でも片想いなんてするんですね。てっきり押し倒して自分のものにするのかと思った……意外だ」

 桐生が片想いと聞いても、玄はあまりピンとこない。人生のすべてを碧に捧げた玄は恋愛関係に疎すぎて恋がなにかも知らないし、自分に自信しかない桐生が手を出し倦ねているのが想像できない。だが面白い。最近は人間味が全くない完全人間のような桐生と対応していたから、学生時代のようにワタワタする桐生が存在しているというのも見物だ。

 クスリと笑うと、桐生も困ったような笑みを浮かべる。

「押し倒したいのはやまやまだが、なかなか手ごわくてね。だがもう我慢はしないよ。もう転勤もないんだ、これから本気で口説くつもりだ」

「押し倒した後に口説くんですか? 先輩らしい」

 誰から見ても紳士然とした桐生だが、本質は初めて会った時と変わらないだろう。社会に出て人にもまれて、好青年の鎧をまとっただけ。それは玄にも言えるのかもしれない。碧や家族以外に全く関心はないが、すべてに対して無関心であると公言はできない。常識や良識が邪魔をして、異端者であることを無意識に隠そうとして、後ろ指を指されないよう頑強な鎧を身に付けていくのだ、処世術という名の鎧を。

 完全無欠で超然とした態度を取っていればわずらわしさから解放された幼い頃が懐かしい。

「駄目かい?」

「普通は先に告げてから押し倒すと思いますが?」

「なるほど。ではそうしよう」

 話している間に空になったグラスは回収され、新しいものが手元に届く。あまりにも飲みやすいカクテルに、それがカクテルだと認識しないまま口に運んでいく。白のスパークリングワインとカシスリキュールがどんどんと玄が纏い続けた鎧を剥いでいく。

「玄にはそういう相手はいないのかい?」

「いるわけないでしょ。私のような堅物を好く人間はいません」

 少なくともアルファコミュニティでは存在しない。

 だが玄に焦りはない。

 そのうち碧にしたように母が適当な相手を見繕ってくるだろう。玄に課せられるのは、その相手との間に子を設け菅原製薬の跡取りを育てることだ。30歳を過ぎても見合いの話がないのは、断られ続けている証拠だろう。今頃母親はやきもきしているだろうが。

「そうかな? あぁ少し飲ませすぎたようだね。申し訳ない、ショコラショーを頼む」

「なんですかそれは?」

 ショコラショーなど耳に馴染みのない名前だ。だがしばらくして出されたのは、茶色い泡が乗ったコーヒーカップ。クーラーとカクテルで冷えた身体が揺蕩ってくる熱と香りに刺激される。

「ただのホットチョコレートだ。少しビターな、ね」

「へぇ……甘くないんですね」

 少し息を吹きかけて冷ましてから口を付ける。

 子供向けの甘いだけの飲み物ではなく、少しの甘味とココア特有の苦みを感じ取れる。同時に冷え切った胃に流れ落ちた暖が強張っていた玄の肩から力を抜かせた。

「美味しい……」

「それで少し酔いを醒まそう……君に大事な話があるからね」

「……そうだ、個展の話まだ聞いてません」

「その話もしよう」

 飲み終わるのを待って桐生は立ち上がった。それを追うように玄もスツールから腰を滑り降ろすが、まだ身体中を駆けまわっているアルコールが力を奪っていくのか、膝に力が入らない。着地した足がもつれ、先に立っていた桐生にぶつかる。

「玄は思ったよりアルコールに弱いんだね」

「うるさいです。どこに行くんですか」

 だが桐生はなにも言わず、倒れそうになる玄の身体を支えながら歩き始めた。
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