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初夏の朝日の降り注ぐニューヨークは心地よい風が走りぬき、セントラルパークの木々を揺らしながら、桐生アルベルト篤繁の住むアパートメントの窓を通り抜けていく。桐生は起き抜けの姿のまま窓から外の景色を眺めながら、口元に笑みを浮かべる。いつもと変わりない風景が、今日だけはとても眩しく美しく感じる。
いつものように隣のアパートメントの階下のベランダでガーデニングの花に水をあげている老婦人、急ぎ足で歩いているサラリーマン、乱暴に走り抜ける黄色いタクシー、変わらない景色がそこに広がっているにも拘らず、桐生には全く違った景色のように思える。そして手にしていたスマートフォンに視線を落とした。さっき来たばかりのメールが表示されている。
『間もなく帰国されるとのこと、楽しみにしています。今度はしばらくは日本にいるのでしょうか。機会がありましたらまた飲みに行きましょう』
たったこれだけのそっけないメールだが、それでも桐生にとってはかけがえのないものだ。
その一文、一文字までもが愛おしく感じる。
生真面目な想い人がなにを想ってこれを書いて送ってきたのだろうか。そう考えるだけで当に30歳を超えた心が少年のように弾む。
「しばらくどころか、君を落とすまではいるつもりだ」
こっそりと一人の部屋で呟く。その音を聞いてか、風がブロンドに近い褐色の髪を弄びながらそよいでいく。
「早く会いたいよ」
独り言なのに、その人のことを想うだけで桐生の声が甘くなる。彼を知っている人が聞いたなら、おおよその者たちは驚くほどに甘ったるい。こんな声を知っているのは、この世界で一人だけ。それで充分だと思っている。
ずっと想い続け、だがなかなか手を出すことのできなかった相手の傍に行けるというだけで、今までにないほど桐生は声だけでなく表情までもが甘くなる。
だが止められない。
なにせずっと日本に地に降り立つことないまま三年もの月日が流れたのだから。ずっと会いたくても立て込んだ仕事をこなすしかない日々は無味乾燥で、時折やってくるメールを待つだけの時間だった。だがそれももう終わりだ。これからは思い立った時に会いに行ける。
ドイツ人の曾祖母の遺伝子を強く受け継いだ精悍で彫りの深い容姿が、柔らかい朝日の中でスマホの時間を確認する。
「君は今なにをしているのかな」
日本との時差を考えるともう夕食を終えたころだろう。
仕事人間の想い人のことだ、まだ会社にいて頑張っていることだろう。電話をするには早すぎる時間だ。
「君の声が聴けないのが残念だ」
まもなく桐生も会社に行く時間だ。そのために引継ぎや片づけておかなければならない仕事が山積みになっている。
それでも少しでも想い人の時間を共有したくて、ほんの少しでも自分のものにしたくて発信しようとして、止めた。
「気持ちが急いてるな」
もう少しの我慢だと自分に言い聞かせながら、桐生はそっとスマホの画面を暗くし、支度を始めた。
ワイシャツのボタンを留め、ネクタイを巻く。ジャケットを羽織って磨かれた靴に足を入れ部屋を後にする。ドアを閉めるときにそっと想い人の名前を呟き、「おやすみ」と部屋の中に投げかける。これから眠るであろうその人に向けて。
会社に着いた桐生よりも先にいたのは秘書のオリヴィアだ。背の高い美人が無表情で桐生が部屋に入ってくるのを今か今かと待っていたようだ。
「やあオリヴィア、おはよう」
慣れた挨拶をして桐生は彼女を見ようともせずデスクに鞄を置いた。いつものようにパソコンの電源を入れ、椅子に座ったまま夜のうちに日本から来たメールを確認する。
ここは日本にある財閥系企業のニューヨーク支社だ。
「ボス、来月には日本の行かれるというのは本当ですか?」
オリヴィアが棘のある声で投げかけてくる。
「あぁそうだが」
「……わたしには異動が出ませんでした」
「当然だろう、君はここの現地スタッフなのだから異動が出るはずがないだろう」
急に何を言い出すんだと部下に笑顔を向けながらその本意を探ろうとする。オリヴィアの表情が一気に険しくなった。
「ボスのサポートは私の仕事です! ビジネスもプライベートもっ! なのにどうして私は日本に異動にならないのよっ」
あぁ、そういうことか。失笑しそうになるのをぐっと堪えながら、桐生はいつもの穏やかな表情を彼女に向けた。
「君はなにか勘違いしているようだね、オリヴィア。君はあくまでも現地採用のスタッフに過ぎない。プライベートもと言ったが、数度スポーツの相手をしただけで、なにを思い違いをしているんだい」
組んだ指の上に顎を乗せる。
ベッドの上で行われるのがどんなスポーツなんだと突っ込みを入れる人間はここにはいない。しかも、このニューヨークでは「身体の関係」=「結婚相手」ではない。複数の人間と同時進行し、心に決めた人と結婚するのは常識ともいえる。それ以前に、心に決めた相手のいる桐生にとってオリヴィアは秘書以上の存在にはなりえなかった。彼女に誘われたから、時折遊んだだけ。それだけだ。
「バカなことを言っていないで仕事を始めてくれ」
彼女の顔を見るのも馬鹿らしいとばかりにパソコンに集中した。だがオリヴィアはそこからビジネスモードになることはなく、怒りを露にしたまま部屋から出ていった。だが桐生は全く意に介さなかった。デスクの隅に置かれてある電話を手に取ると、人事部署のトップにかけた。
「私だ。支店長秘書の契約を今月いっぱいで解除するように。……あぁ、感情的になって仕事放棄して出ていった。これでは次にくる支店長に迷惑がかかる。そうだな、次の支店長は都丸くんだったね、男性の秘書を用意しておいてくれ」
用件だけを伝え、電話を切る。支店長かつ創始者一族の人間の指示に、雇われ人事部長は逆らえるはずがない。
「困ったものだ」
シンデレラドリームでも夢見たのだろうか。エリートアルファの秘書になったベータがそのまま社長夫人になるなんて、どんな安っぽいハーレクイン小説だ。現実に存在しないからこそ、話になりうるのだとどうして理解しないのか。
「愚かだな。そんな感情的な人間が私の隣にいてもらっては困るというのに……」
そうして想い人の表情を思い出す。どこまでも理知的な顔立ちで感情を全く伺わせない冷徹な表情。ノンフレームの眼鏡の奥の鋭いまでの眼差しの想い人なら、こんな自分を見てどんな反応をするだろう。
『なにバカをやっているんですか? そんな暇があったら仕事をしてください』
きっと冷徹にこう言ってのけるだろう。なにせ想い人は桐生に一ミリも興味がないから。例え女性と抱き合っている姿を見られても眉一つ動かさず隣を通り過ぎるはずだ。
「早く君の冷たい言葉を聞きたいよ」
一日も早く日本に行き想い人の声を聴きたい。
桐生はそのために仕事に集中した。秘書が不在でも問題ないというように精力を勧め、そしてバカンスを兼ねて予定よりも早く日本へと旅立った。
いつものように隣のアパートメントの階下のベランダでガーデニングの花に水をあげている老婦人、急ぎ足で歩いているサラリーマン、乱暴に走り抜ける黄色いタクシー、変わらない景色がそこに広がっているにも拘らず、桐生には全く違った景色のように思える。そして手にしていたスマートフォンに視線を落とした。さっき来たばかりのメールが表示されている。
『間もなく帰国されるとのこと、楽しみにしています。今度はしばらくは日本にいるのでしょうか。機会がありましたらまた飲みに行きましょう』
たったこれだけのそっけないメールだが、それでも桐生にとってはかけがえのないものだ。
その一文、一文字までもが愛おしく感じる。
生真面目な想い人がなにを想ってこれを書いて送ってきたのだろうか。そう考えるだけで当に30歳を超えた心が少年のように弾む。
「しばらくどころか、君を落とすまではいるつもりだ」
こっそりと一人の部屋で呟く。その音を聞いてか、風がブロンドに近い褐色の髪を弄びながらそよいでいく。
「早く会いたいよ」
独り言なのに、その人のことを想うだけで桐生の声が甘くなる。彼を知っている人が聞いたなら、おおよその者たちは驚くほどに甘ったるい。こんな声を知っているのは、この世界で一人だけ。それで充分だと思っている。
ずっと想い続け、だがなかなか手を出すことのできなかった相手の傍に行けるというだけで、今までにないほど桐生は声だけでなく表情までもが甘くなる。
だが止められない。
なにせずっと日本に地に降り立つことないまま三年もの月日が流れたのだから。ずっと会いたくても立て込んだ仕事をこなすしかない日々は無味乾燥で、時折やってくるメールを待つだけの時間だった。だがそれももう終わりだ。これからは思い立った時に会いに行ける。
ドイツ人の曾祖母の遺伝子を強く受け継いだ精悍で彫りの深い容姿が、柔らかい朝日の中でスマホの時間を確認する。
「君は今なにをしているのかな」
日本との時差を考えるともう夕食を終えたころだろう。
仕事人間の想い人のことだ、まだ会社にいて頑張っていることだろう。電話をするには早すぎる時間だ。
「君の声が聴けないのが残念だ」
まもなく桐生も会社に行く時間だ。そのために引継ぎや片づけておかなければならない仕事が山積みになっている。
それでも少しでも想い人の時間を共有したくて、ほんの少しでも自分のものにしたくて発信しようとして、止めた。
「気持ちが急いてるな」
もう少しの我慢だと自分に言い聞かせながら、桐生はそっとスマホの画面を暗くし、支度を始めた。
ワイシャツのボタンを留め、ネクタイを巻く。ジャケットを羽織って磨かれた靴に足を入れ部屋を後にする。ドアを閉めるときにそっと想い人の名前を呟き、「おやすみ」と部屋の中に投げかける。これから眠るであろうその人に向けて。
会社に着いた桐生よりも先にいたのは秘書のオリヴィアだ。背の高い美人が無表情で桐生が部屋に入ってくるのを今か今かと待っていたようだ。
「やあオリヴィア、おはよう」
慣れた挨拶をして桐生は彼女を見ようともせずデスクに鞄を置いた。いつものようにパソコンの電源を入れ、椅子に座ったまま夜のうちに日本から来たメールを確認する。
ここは日本にある財閥系企業のニューヨーク支社だ。
「ボス、来月には日本の行かれるというのは本当ですか?」
オリヴィアが棘のある声で投げかけてくる。
「あぁそうだが」
「……わたしには異動が出ませんでした」
「当然だろう、君はここの現地スタッフなのだから異動が出るはずがないだろう」
急に何を言い出すんだと部下に笑顔を向けながらその本意を探ろうとする。オリヴィアの表情が一気に険しくなった。
「ボスのサポートは私の仕事です! ビジネスもプライベートもっ! なのにどうして私は日本に異動にならないのよっ」
あぁ、そういうことか。失笑しそうになるのをぐっと堪えながら、桐生はいつもの穏やかな表情を彼女に向けた。
「君はなにか勘違いしているようだね、オリヴィア。君はあくまでも現地採用のスタッフに過ぎない。プライベートもと言ったが、数度スポーツの相手をしただけで、なにを思い違いをしているんだい」
組んだ指の上に顎を乗せる。
ベッドの上で行われるのがどんなスポーツなんだと突っ込みを入れる人間はここにはいない。しかも、このニューヨークでは「身体の関係」=「結婚相手」ではない。複数の人間と同時進行し、心に決めた人と結婚するのは常識ともいえる。それ以前に、心に決めた相手のいる桐生にとってオリヴィアは秘書以上の存在にはなりえなかった。彼女に誘われたから、時折遊んだだけ。それだけだ。
「バカなことを言っていないで仕事を始めてくれ」
彼女の顔を見るのも馬鹿らしいとばかりにパソコンに集中した。だがオリヴィアはそこからビジネスモードになることはなく、怒りを露にしたまま部屋から出ていった。だが桐生は全く意に介さなかった。デスクの隅に置かれてある電話を手に取ると、人事部署のトップにかけた。
「私だ。支店長秘書の契約を今月いっぱいで解除するように。……あぁ、感情的になって仕事放棄して出ていった。これでは次にくる支店長に迷惑がかかる。そうだな、次の支店長は都丸くんだったね、男性の秘書を用意しておいてくれ」
用件だけを伝え、電話を切る。支店長かつ創始者一族の人間の指示に、雇われ人事部長は逆らえるはずがない。
「困ったものだ」
シンデレラドリームでも夢見たのだろうか。エリートアルファの秘書になったベータがそのまま社長夫人になるなんて、どんな安っぽいハーレクイン小説だ。現実に存在しないからこそ、話になりうるのだとどうして理解しないのか。
「愚かだな。そんな感情的な人間が私の隣にいてもらっては困るというのに……」
そうして想い人の表情を思い出す。どこまでも理知的な顔立ちで感情を全く伺わせない冷徹な表情。ノンフレームの眼鏡の奥の鋭いまでの眼差しの想い人なら、こんな自分を見てどんな反応をするだろう。
『なにバカをやっているんですか? そんな暇があったら仕事をしてください』
きっと冷徹にこう言ってのけるだろう。なにせ想い人は桐生に一ミリも興味がないから。例え女性と抱き合っている姿を見られても眉一つ動かさず隣を通り過ぎるはずだ。
「早く君の冷たい言葉を聞きたいよ」
一日も早く日本に行き想い人の声を聴きたい。
桐生はそのために仕事に集中した。秘書が不在でも問題ないというように精力を勧め、そしてバカンスを兼ねて予定よりも早く日本へと旅立った。
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