おじさんの恋

椎名サクラ

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本編2

1-1

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 姿見を前にキュッとネクタイを締める。真白いシャツにストライプのスーツを身につけ頭のてっぺんからつま先までチェックする。クリーニングに出したスーツは埃一つなく美しい状態だし、ワイシャツは買い直したから問題ないだろう。ネクタイについてはもう考えたくない隆則に代わってセンスが良い遙人が選んでくれたからケチの付けようもない。

「よしっ」

 気合いを入れれば姿見に自分よりもずっと長身の恋人の姿が映し出された。

「そんなに気合いを入れなくても大丈夫ですよ、俺の実家なんですから」

 お前の実家だから余計に気合いを入れなきゃならないだろ!

 そう叫びたいのをグッと喉元に力を入れて堪える。

 今日は元旦。

 昨年末に急に言われた遙人の実家への挨拶の日だ。へまをしたらなんて思われるか分からない。そうでなくても彼との年齢差は15歳、干支一回り以上違うのだ。こんな自分が恋人だと紹介されて不快になるのは当たり前で、少しでも心証を良くしたいと思って何が悪い。

 そうでなくても普段はパジャマ代わりにしているトレーナーで生活している隆則だ、家から一歩も出ない日の方がずっと多いせいで服が限られている。そんな中の一張羅だ。

「あー、やっぱり姫始めしとけば良かった」

 後ろから手を回すと同時に遙人が骨ばかりの肩に顔を埋める。

「おい、ちょっ!」

「隆則さんが拒むから滅茶苦茶我慢してるんですよ、ちょっとぐらいいいじゃないですか……ちょっとだけ」

 するりと遙人の大きく器用な手がスーツの襟から潜り込んでくる。

「こらっ……そこダメだってっ!」

「えー、ちょっとくらい良いでしょ」

 迷うことなく指先が胸の飾りを探り当ていじり始めようとするのを、慌ててうえから押さえつけた。

「良いわけないだろっ! これからお前の両親に会うのにこんな……」

「……帰ってきたらしていいですか? 約束してくれたら俺、良い子で待ちますから」

 大体こんな約束を勝手にしたのは遙人だ、それを良い子で待つとはどういうことだ。

 年末に仕事を終え何日もたっぷり寝たおかげで良く回るようになった頭はすぐにクレームを並べ始めるが、元来の臆病さがしっかりとその言葉が外に漏れないよう喉の奥をガードしていく。

 甘えた子供のような仕草でグリグリと肩に顔を擦り付けてくる遙人を引き剥がすこともできず、隆則にできるのはただ一つだ。

「わかったから……今は……」

 帰ったら何をされるのか嫌と言うほど理解しているせいでつい顔が赤くなってしまう。なんせ隆則が仕事納めした日からずっと離して貰えないのだ。年明けすぐに開始するプロジェクトのシステムを本当にギリギリに納品したのを知った彼は、待ってましたとばかりに飢えた獣のようにこの身体を貪り始めた。外資勤めの遙人は、クリスマス休暇から続く冬休みに入っているせいで暇を持て余していたのだろう。朝も夜も関係なくその気になればこうやってくっついてきては隆則をその気にさせようとする。

 そして、そんな魔の手を振り払えず唯々諾々と感じさせられ溺れてしまう自分にも問題があるのは分かっている。

 日に日に緊張で食が細くなる隆則を何も考えられないようにしているという側面もあると分かっているから、流されるように抱かれてきたが、さすがに当日でもうすぐ出かける今、快楽の火種を付けられては困る。

 遙人の両親に会って挨拶をしなければならない中で、『それ』がしたくて頭がいっぱいになってしまう。

 隆則から了承を取り付けた遙人は、いつもの穏やかな笑みを浮かべ、すぐに身体を離してくれた。

「スーツ姿の隆則さんって、やっぱり色っぽいですね。今日はいつも以上にしつこくしちゃうかも知れませんが、覚悟してくださいね」

「なんで出かけようとするときにそんなことを言うんだよ!」

 すぐに際どい話をする遙人を吹っ切って、外出予定よりまだ少し早いが玄関へと向かう。そうでもしなければこのまま遙人のペースに嵌まって、考えていた挨拶が頭からぶっ飛んでしまう。

(やっぱり原稿で打ち出した方が良かったのかな?)

 そんなに肩肘張るなと言われても、恋人の両親への挨拶なんて生まれて初めてだ。緊張しないわけがない。

 なんせずっと一人、ゲイというのをひた隠しして生きていこうと心に決めていた隆則にとって、無縁だと信じていた出来事である。むしろ緊張するなと言うのが無理な話だ。

 遙人が綺麗に磨いてくれた革靴に足を突っ込もうとして、また大きな手に引き留められた。

「コート、忘れてますよ」

 わざわざ今日のために買ったステンカラーコートを手にしていた。

「あ……」

 ほぼ電車での移動となるだろうが、それでも元旦の底冷えする気温に耐えられる隆則ではない。

 仕方なく彼が掲げ持つコートに袖を通せば、パーカーにチノパンというラフな格好の遙人もダウンジャケットに袖を通しスニーカーを取り出した。仕事帰りのスーツ姿を見るとできるサラリーマンという印象だが、私服姿は逆にモデルかと思わせる格好良さがある。

(ずるいよなぁ)

 同じ人類なのに、どうしてここまで格好いいのだろうか。反して隆則は十人並みといって過言ではない。しかもガリガリなまで細いので貧相さが浮きだっている。

 こんな自分を可愛いとか好きだと言ってくるのだから、遙人の趣味が分からない。

「行きましょう」

 手を伸ばす立ち姿も様で、少しだけときめいて、少しだけ悔しくなる。

 その手を振り切ってマンションのドアを開けエレベータへと向かえば、めげることなく悠々とした仕草で鍵をかけすぐに隣に立つ。足の長さも腕の長さも負けているのも悔しい。

 久しぶりに家から出ると、年が明けたばかりだからか人出は少なく、深夜の散歩の時のようにべったりと隣について歩いても恥ずかしさはそれほどない。

 最寄り駅までの15分はまだ良かったが、電車に乗った途端、今までにないほど緊張してきた。

「手土産はこれでいいのかな……もっとがっつりとした物の方が……」

 年末にネットで取り寄せた有名店の焼き菓子詰め合わせ(特大サイズ)ですら不安になる。

「いやいや、充分ですよ。むしろ手ぶらで良いくらいなのに」

「そういうわけにはいかないだろ」

 だが遙人の実家はまだ独立していない弟たちが五人もいる大家族だ。これでは量が足りないかも知れない。元々小食なうえに兄弟は姉という隆則には想像もできないエンゲル係数かも知れない。

「米一俵とか牛肉の詰め合わせの方が良かったか?」

「現実問題、米一俵は持って行けませんし、牛肉なんて味を覚えさせたらその後が大変ですから」

「……そういうものなのか?」

「そういうものなんです。食いたい盛りのガキに良い物を与えたら、翌日からもっと出せって催促して大変なんですよ。料理担当から文句が来ます」

 そう言うものだろうかと訝しみながらも、素直に従うしかない。

 メインターミナルまで出てやはりもっと何か買いたいとごねる隆則を遙人が新幹線乗り場へと引っ張って行かれる。

「本当に大丈夫ですから! そんなにあいつらを甘やかさないでください」

「でも……少しでも心証を……」

「だーかーらっ、心証なんて元から悪くないです。むしろ感謝してるくらいですから」

 そんなの信じられない。

 自分が遙人にしたことは男を覚えさせ道を誤らせたという認識が強すぎる。申し訳ない気持ちを少しでも軽くするために貢げば良いのかと容易に考えている自分がいけないのは良く理解しているのだが、不安の拭い方が分からない。

 仕事、特にプログラミングなら迷うことはないが、日常生活となると迷ってばかりだ。

「大丈夫ですよ、ちょっと落ち着きましょ。このお菓子だけでも大喜びです」

「……本当か?」

「俺が保証します」

 その保証に縋りたい自分と、遙人は甘いから鵜呑みにしてはいけないと心配する自分がせめぎ合う。その間もずるずると新幹線のホームへと引きずられて、さすがにここまで来れば大丈夫だろうと手を離した隙にコンビニ型の売店へと向かう。

「……駅弁人数分とかなら平気か?」

「あーもうっ、なんでそうなるんですか」

「せめて駅弁だけ、なっ!」

「……分かりました。でも支払いも持つのも俺がしますから」

 新幹線が到着するまでの僅かな時間、遙人は売店へと入っていくとすぐに出てきた。その手にはずっしりと重そうなビニール袋があり、同じ商品が十も入っている。

 もっとバラエティに富んだ物の方がいいのではと訊ねれば、「全員同じだったらケンカになりません。食べ物の恨みって怖いんですよ」ときつく叱られた。果たして真実だろうかと訝しむが、大家族長男の物言いは厳しかった。

「一回でも相手より多く取ったら一生恨みを聞かされることになるんです。同じ方が無難で良いんです!」

「そうなのか……」

 無理矢理自分を納得させながら新幹線の指定席へと向かう。今日のために遙人が取ってくれた席の窓側に腰掛け、その前に自然と遙人にコートを脱がされる。

「あっごめん」

「俺が好きでやってるんだから良いんですよ」

 自分の方がずっと年上なのに女の子みたいにエスコートされてて良いのだろうか。綺麗にたたまれたコートが網棚に置かれるまでがスマートにそつなく行われ、隆則はチョコンとシートに腰掛けるしかなかった。

(どこまでも甘いんだよなぁこいつ)

 嬉しそうに自分の隣に腰掛けた遙人をチラリと見る。凄く嬉しそうに微笑み、さりげなく身体の陰に隠しながらしっかりと隆則の手を握ってくる。

 一度離れて、また初めから付き合おうといったあの時からもう三年以上経っているのに、飽きもせずこんな年上の男を甘やかそうとする。ちょっと照れくさくて恥ずかしくて、顔を上げることができない。こんなにされたら自分は愛されているんだと認めざるを得ない。

 一緒にいるのが幸せで、毎日のように顔を見てもときめいてしまう自分を制御できないまま、初めて会った頃よりも、もう一度付き合い始めてことよりも、今の方がずっと彼に向ける気持ちが強くなっている。
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