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本編1
18-3
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(やっぱりそうだよな、遥人が俺の相手してたのってちょっと特殊な環境だからだし)
生活の全てを見て貰っていたから錯覚したに過ぎない。遥人にもそれが分かっているのだろう。冷静になってみた隆則の姿がどれだけみっともなく貧相なものかを理解したなら興味をなくしため息も出るだろう。
「顔、あげないとぶつかりますよ。……こっちです」
また腕を掴まれて駅へと向かう道を歩き出す。
何本も地下鉄が乗り入れているオフィス街にも多数の飲食店はある。そこを選ばないのは会社の人間に見られたくないに違いない。
隆則にできるのはただ静かに彼に従って歩くことだ。
地下鉄の改札を潜り抜け、到着した電車に乗り込む。行先は敢えて聞かなかった。
だが乗り継ぎの電車に乗ったとき、隆則は違和感を覚え始めた。
「え……?」
ずっと放そうとはしない指に力が入り僅かな痛みが生まれる。振り解くつもりはないがこの路線の先にあるのはあそこしかなかった。車窓がどんどんと見慣れたものへと変わり、慣れ親しんだ駅名をアナウンスが告げていく。
「降りますよ」
遥人がそう告げた後に流れた車内アナウンスは、あの寂れた商店街と近寄るのさえ怖がった自分名義のマンションがある駅名だ。一年半ぶりに見た駅はあの日と何も変わっていない。降りる人並みに押し出され、強い力でそのまま改札へと引きずられる。
「は……み、水谷……さん?」
「食事しながら話をするだけです」
話すことなどあるのだろうか。
分からない不安に押しつぶされそうになりながら引きずられるように進めば、あのマンションが見えてきた。久しぶりなのに酷く懐かしさが宿る。一年半前まで自分はあの部屋で、とてつもなく幸せで同時にとてつもなく悲しい日々を過ごしていた。いつ終わるかわからない幸福に怯えながら耐えきれず逃げ出したあの部屋にもう一度足を踏み入れるとは想像もしていなかった。
あんな立派な会社に就職したなら遥人はとうにこの部屋を出ているだろうと思っていたが、開いた扉の向こうはあの日のままだった。家具も配置も何一つ変わっていない。遥人が毎日のように磨いてくれていた頃と変わらない綺麗なフローリングがあり、ゴミ一つ落ちていない。
何も変わっていなくてむしろ怖かった。立ち尽くす隆則の腕をようやく離した遥人は鍵を閉めチェーンまでかけた玄関の扉と同じように、リビングの扉にも鍵をかけた。
「座ってください、隆則さんの家なんですから」
「ぁ……うん」
意識しないまま、昔のように定位置のダイニングチェアに腰かけ、借りてきた猫のように身体を縮こませながら遥人の一挙手一投足を窺った。
上着を椅子に掛けると当然のようにキッチンに入っていき、下ごしらえを済ませていた鍋に火を点け、あの頃と同じように料理を作っていく。手慣れた早さでどんどんとテーブルに並ぶ料理の数々は、一緒に暮らしていた頃、隆則が喜んで口にしていたメニューばかりだ。
箸も箸置きも、茶碗一つあの頃使っていたのと同じものが並べられ、タイムスリップしたような不思議さしかない。もし遥人があの頃と同じ私服で少し長い髪のままなら、懐かしい記憶が恋しくて夢を見ているんだと感じただろう。
ワイシャツ姿で黒縁の眼鏡の、さも仕事ができそうなサラリーマン風な彼が消えることなく目の前に座った。
「召し上がってください。隆則さんの好きなものばかりですよ」
あの頃と何一つ変わらないセリフなのが余計に隆則の心を縮こませる。彼が何をしたいのかわからないのがこんなにも怖いとは思いもしなかった。ただ食事をするだけならば近くの店で済ませればいいのに、なぜこの部屋へと連れてきたのだろうか。もう隆則の荷物など一つもない空間のはずなのに、未だ一緒に住んでいた頃と何一つ変わっていないのがただただ恐ろしい。
震える手で箸を握りおかずに伸ばしてもきっと味なんかわからないと思っていた。だがジャンクフードやコンビニ弁当に辟易していた舌は久しぶりに味わう出汁を利かせた手料理の数々に、心と裏腹に喜んではもっとと求め始める。あの頃と変わらない味わいの好物に竦んでいる心を置いてけぼりにしたまま箸だけが進んでいく。
「……美味しい」
ポロリと零れる言葉と共にずっと胸の奥まで貯め込んでいた息を吐き出した。今住んでいる町の商店街に並ぶ飲食店はどれも美味しいはずなのに、必ず遥人の料理と比べてしまっては次第に足が遠のいた。そして腹を満たすために口にし始めたのは変わらない味のコンビニ弁当やジャンクフードばかりになった。一年半も離れていたのに、遥人の味を忘れられずにいたばかりか脳内が久しぶりに幸福感を味わったとばかりに麻痺し始める。
たった一言に、遥人がこの上なく嬉しそうに笑っているのを知らないまま、腹が満たされるまで貪り続けた。ようやく飢えから解放された植物のように存分に味わって、米の一粒も汁の一滴も残さずに食べると、ようやく箸を置いた。
ここしばらく味わったことのない満腹感は自然と隆則の表情までもを変えさせる。強張った筋肉が綻びいつの間に笑顔になっていることに隆則は気付いていない。遥人が箸を止めそれをずっと眺めていることも。
「ごちそうさまでした」
幸福感に浸ったまま昔のように作ってくれた感謝を述べる。
「お粗末様です」
遥人も当たり前のように返し立ち上がった。昔のように隆則の前から使った食器を片付け、当たり前のようにお茶を用意する。そしてまた自分の席に戻って食事を続けた。
リラックスしたまま温かいお茶を啜る隆則に、唐突に遥人は切り出した。
「どうして出ていったんですか?」
今までの弛緩した神経がビックリして飲み込もうとしたお茶を気管に紛れ込ませる。ゴホッゴホッと急き込んだ隆則の口元をポケットに入っていたハンカチで抑え、背中をさすっては落ち着かせようとする遥人は、咳き込みが落ち着いた隆則にまた問い直した。
「何が嫌だったんですか? 俺、隆則さんの嫌がることしていたってこと、ですか?」
「ちっ……違う! そうじゃないんだ……」
「では、何も言わずに急にいなくなったのはなぜですか?」
問いかける言葉は穏やかで怒りは微塵もない。ひたすら隆則を安心させるように背中をさすりながら回答を待っている。後ろめたい隆則はまた首を垂らし、視界を髪で塞いだ。
「教えてください、俺の何がいけなかったんですか?」
「……ごめん」
「謝って欲しいんじゃありません。どうしてかを知りたいんです、そうでなければ俺が先に進めないんです」
どういう意味なのだろうか。遥人がなにを求めているのかわからない。先とはどこなのだろう。進むとはどこへなのか。
ハッと最悪な状況が閃き、慌てて遥人の顔を見た。
「もしかしてあの子に振られそうなのか? 男と付き合ってたって知って別れ話になっているのか?」
「……あの子って誰ですか?」
「お前が渋谷で一緒にいた可愛い女の子! 付き合ってるんだろ?」
前のめりな問いかけに遥人の表情は疑問符が飛び交っているようだ。
「ほら、ふわふわな服とジーンズの……渋谷でデートしてるの見たから。隠さなくていいから」
「……それいつですか?」
「九月。クライアントの打ち合わせの日に……っ」
背中を撫で続けていた手が力いっぱい肉のない肩を掴んだ。
「俺が浮気してるってそう思ったんですか」
「いたっ……浮気じゃなくて、あの子が本命、なんだろ? だから……あの後から急によそよそしくなって……いたい……」
「すみません」
泣きそうな声で痛みを訴えればすぐに手から力は抜けたが、放さないまま横に立ち続けている。全てを話さなければ許してくれない雰囲気に小心者の隆則は押されてしまう。ぽつり、ぽつりと思い出すようにあの頃のことを口にした。
「君が板挟みになって困ってるの分かってたから……あのことの方が似合ってるし自然で……俺がいなくなるのが一番だって」
「どうしてそれを話してくれなかったんですか?」
あぁやっぱり。自分の想像通りだ。
目を伏せながら自嘲の笑みを浮かべる。
「話したら君は困るだろう。遥人は優しいから俺を見捨てられない」
生活能力がなくて食事を作ることもできなければ部屋の掃除もできない、本当にプログラムを作り上げるしか能がない自分が目の前にいて、それを見捨てて本命の所になど行けるはずがない。分かっているから消えたのだ。
「俺がいつまでも目の前にいたら、困るだろう?」
「……それで内緒で引っ越したんですね」
「うん……」
「あれが彼女でもなんでもなく、ただの知り合いだと思わなかったんですか?」
「……違うだろう。だってあんなに親しそうに話してて……それにいつか遥人が俺に飽きるって分かってたから」
俺のことは気にしないで、大丈夫だから。
なけなしの年上としての矜持で呟く。本当のことを言われても傷つかないからと平気なふりをして身構える。
それで安心したと、次に進めると遥人が口にするのをひたすら待ち続けた。
生活の全てを見て貰っていたから錯覚したに過ぎない。遥人にもそれが分かっているのだろう。冷静になってみた隆則の姿がどれだけみっともなく貧相なものかを理解したなら興味をなくしため息も出るだろう。
「顔、あげないとぶつかりますよ。……こっちです」
また腕を掴まれて駅へと向かう道を歩き出す。
何本も地下鉄が乗り入れているオフィス街にも多数の飲食店はある。そこを選ばないのは会社の人間に見られたくないに違いない。
隆則にできるのはただ静かに彼に従って歩くことだ。
地下鉄の改札を潜り抜け、到着した電車に乗り込む。行先は敢えて聞かなかった。
だが乗り継ぎの電車に乗ったとき、隆則は違和感を覚え始めた。
「え……?」
ずっと放そうとはしない指に力が入り僅かな痛みが生まれる。振り解くつもりはないがこの路線の先にあるのはあそこしかなかった。車窓がどんどんと見慣れたものへと変わり、慣れ親しんだ駅名をアナウンスが告げていく。
「降りますよ」
遥人がそう告げた後に流れた車内アナウンスは、あの寂れた商店街と近寄るのさえ怖がった自分名義のマンションがある駅名だ。一年半ぶりに見た駅はあの日と何も変わっていない。降りる人並みに押し出され、強い力でそのまま改札へと引きずられる。
「は……み、水谷……さん?」
「食事しながら話をするだけです」
話すことなどあるのだろうか。
分からない不安に押しつぶされそうになりながら引きずられるように進めば、あのマンションが見えてきた。久しぶりなのに酷く懐かしさが宿る。一年半前まで自分はあの部屋で、とてつもなく幸せで同時にとてつもなく悲しい日々を過ごしていた。いつ終わるかわからない幸福に怯えながら耐えきれず逃げ出したあの部屋にもう一度足を踏み入れるとは想像もしていなかった。
あんな立派な会社に就職したなら遥人はとうにこの部屋を出ているだろうと思っていたが、開いた扉の向こうはあの日のままだった。家具も配置も何一つ変わっていない。遥人が毎日のように磨いてくれていた頃と変わらない綺麗なフローリングがあり、ゴミ一つ落ちていない。
何も変わっていなくてむしろ怖かった。立ち尽くす隆則の腕をようやく離した遥人は鍵を閉めチェーンまでかけた玄関の扉と同じように、リビングの扉にも鍵をかけた。
「座ってください、隆則さんの家なんですから」
「ぁ……うん」
意識しないまま、昔のように定位置のダイニングチェアに腰かけ、借りてきた猫のように身体を縮こませながら遥人の一挙手一投足を窺った。
上着を椅子に掛けると当然のようにキッチンに入っていき、下ごしらえを済ませていた鍋に火を点け、あの頃と同じように料理を作っていく。手慣れた早さでどんどんとテーブルに並ぶ料理の数々は、一緒に暮らしていた頃、隆則が喜んで口にしていたメニューばかりだ。
箸も箸置きも、茶碗一つあの頃使っていたのと同じものが並べられ、タイムスリップしたような不思議さしかない。もし遥人があの頃と同じ私服で少し長い髪のままなら、懐かしい記憶が恋しくて夢を見ているんだと感じただろう。
ワイシャツ姿で黒縁の眼鏡の、さも仕事ができそうなサラリーマン風な彼が消えることなく目の前に座った。
「召し上がってください。隆則さんの好きなものばかりですよ」
あの頃と何一つ変わらないセリフなのが余計に隆則の心を縮こませる。彼が何をしたいのかわからないのがこんなにも怖いとは思いもしなかった。ただ食事をするだけならば近くの店で済ませればいいのに、なぜこの部屋へと連れてきたのだろうか。もう隆則の荷物など一つもない空間のはずなのに、未だ一緒に住んでいた頃と何一つ変わっていないのがただただ恐ろしい。
震える手で箸を握りおかずに伸ばしてもきっと味なんかわからないと思っていた。だがジャンクフードやコンビニ弁当に辟易していた舌は久しぶりに味わう出汁を利かせた手料理の数々に、心と裏腹に喜んではもっとと求め始める。あの頃と変わらない味わいの好物に竦んでいる心を置いてけぼりにしたまま箸だけが進んでいく。
「……美味しい」
ポロリと零れる言葉と共にずっと胸の奥まで貯め込んでいた息を吐き出した。今住んでいる町の商店街に並ぶ飲食店はどれも美味しいはずなのに、必ず遥人の料理と比べてしまっては次第に足が遠のいた。そして腹を満たすために口にし始めたのは変わらない味のコンビニ弁当やジャンクフードばかりになった。一年半も離れていたのに、遥人の味を忘れられずにいたばかりか脳内が久しぶりに幸福感を味わったとばかりに麻痺し始める。
たった一言に、遥人がこの上なく嬉しそうに笑っているのを知らないまま、腹が満たされるまで貪り続けた。ようやく飢えから解放された植物のように存分に味わって、米の一粒も汁の一滴も残さずに食べると、ようやく箸を置いた。
ここしばらく味わったことのない満腹感は自然と隆則の表情までもを変えさせる。強張った筋肉が綻びいつの間に笑顔になっていることに隆則は気付いていない。遥人が箸を止めそれをずっと眺めていることも。
「ごちそうさまでした」
幸福感に浸ったまま昔のように作ってくれた感謝を述べる。
「お粗末様です」
遥人も当たり前のように返し立ち上がった。昔のように隆則の前から使った食器を片付け、当たり前のようにお茶を用意する。そしてまた自分の席に戻って食事を続けた。
リラックスしたまま温かいお茶を啜る隆則に、唐突に遥人は切り出した。
「どうして出ていったんですか?」
今までの弛緩した神経がビックリして飲み込もうとしたお茶を気管に紛れ込ませる。ゴホッゴホッと急き込んだ隆則の口元をポケットに入っていたハンカチで抑え、背中をさすっては落ち着かせようとする遥人は、咳き込みが落ち着いた隆則にまた問い直した。
「何が嫌だったんですか? 俺、隆則さんの嫌がることしていたってこと、ですか?」
「ちっ……違う! そうじゃないんだ……」
「では、何も言わずに急にいなくなったのはなぜですか?」
問いかける言葉は穏やかで怒りは微塵もない。ひたすら隆則を安心させるように背中をさすりながら回答を待っている。後ろめたい隆則はまた首を垂らし、視界を髪で塞いだ。
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「……ごめん」
「謝って欲しいんじゃありません。どうしてかを知りたいんです、そうでなければ俺が先に進めないんです」
どういう意味なのだろうか。遥人がなにを求めているのかわからない。先とはどこなのだろう。進むとはどこへなのか。
ハッと最悪な状況が閃き、慌てて遥人の顔を見た。
「もしかしてあの子に振られそうなのか? 男と付き合ってたって知って別れ話になっているのか?」
「……あの子って誰ですか?」
「お前が渋谷で一緒にいた可愛い女の子! 付き合ってるんだろ?」
前のめりな問いかけに遥人の表情は疑問符が飛び交っているようだ。
「ほら、ふわふわな服とジーンズの……渋谷でデートしてるの見たから。隠さなくていいから」
「……それいつですか?」
「九月。クライアントの打ち合わせの日に……っ」
背中を撫で続けていた手が力いっぱい肉のない肩を掴んだ。
「俺が浮気してるってそう思ったんですか」
「いたっ……浮気じゃなくて、あの子が本命、なんだろ? だから……あの後から急によそよそしくなって……いたい……」
「すみません」
泣きそうな声で痛みを訴えればすぐに手から力は抜けたが、放さないまま横に立ち続けている。全てを話さなければ許してくれない雰囲気に小心者の隆則は押されてしまう。ぽつり、ぽつりと思い出すようにあの頃のことを口にした。
「君が板挟みになって困ってるの分かってたから……あのことの方が似合ってるし自然で……俺がいなくなるのが一番だって」
「どうしてそれを話してくれなかったんですか?」
あぁやっぱり。自分の想像通りだ。
目を伏せながら自嘲の笑みを浮かべる。
「話したら君は困るだろう。遥人は優しいから俺を見捨てられない」
生活能力がなくて食事を作ることもできなければ部屋の掃除もできない、本当にプログラムを作り上げるしか能がない自分が目の前にいて、それを見捨てて本命の所になど行けるはずがない。分かっているから消えたのだ。
「俺がいつまでも目の前にいたら、困るだろう?」
「……それで内緒で引っ越したんですね」
「うん……」
「あれが彼女でもなんでもなく、ただの知り合いだと思わなかったんですか?」
「……違うだろう。だってあんなに親しそうに話してて……それにいつか遥人が俺に飽きるって分かってたから」
俺のことは気にしないで、大丈夫だから。
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