おじさんの恋

椎名サクラ

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本編1

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 学祭の準備というのは無駄に時間がかかる。たかだか焼きそばを焼くだけなのに野菜の切り方から指導したり手順を細かに記載したレシピを作らされたりとたった三日間のために費やす時間が多すぎて疲弊しながら遥人は帰路についていた。

(あー、めちゃくちゃ隆則さんに癒されたい)

 力いっぱい抱きしめて、首筋まで真っ赤にしているのを視覚で楽しみながらキスしたい。恐々と伸ばされる舌をたっぷり味わって、それから一緒に風呂に入りたい。その後に続く行為を意識して少し挙動不審になる可愛さを堪能して、それから自分が与える快楽に狂っていくあの人を存分に味わいたい。

「最近また仕事が立て込んでるみたいだから無理かな?」

 できればキスだけでもと思いながら、最近はすれ違いばかりで後姿か寝顔を見るだけだ。帰りが遅くなったせいで家の事もあまりできず迷惑をかけてしまっているし、食事も一緒に取る時間が少なくなっている。

 なによりも、ゼミの女性陣から様々な指摘を受けすぎてどう接したらいいのかわからなくなってしまっていた。

 欲望のままに動いたら嫌われるのではないかと少しだけ臆病になっている。自分の愛情が重すぎて息苦しいと思われたらどうしようと考えるあまり、上手く接することができなくて悶々としていた。顔を見たら絶対に風呂場に連れ込んで気が済むまで抱きつぶしてしまうから目を合わせることもできない。

 本当は一日中、隆則のためだけに時間を使いたい。

 彼のために家を綺麗にして、美味しくて温かい食事を作り、仕事の進捗を確認してとやりたくてしょうがない。そしてセックスした翌日はベッドから一歩も降りさせず世話を焼き尽くしたいのだ。何をするにも遥人を頼らないと駄目な状況にしてしまいたいが、それでは相手が窒息して嫌われると言われてしまっては何としても避けなくてはと自粛していた。

(だって隆則さん見てるだけで勃つからな、俺)

 裸を見られるのも声を聴かれるのも好きではない様子だが、むしろ恥ずかしがっている仕草や必死に快楽を堪えようとする仕草に煽られては際限なく求めてしまうのだった。付き合い始めた頃からずっと弄り続けてきた胸の粒も最近では摘まんだだけで身体が跳ね分身を固くさせるようになったし、骨と皮だけだった身体に僅かだが肉もついてきて触り心地もよくなった。目の下のクマも消え生気のある表情を見るだけで、自分がここまで変えたんだという充足感が下半身に向かってしまう。

 年や今までの生活のせいで張りや艶のなかった肌も少し瑞々しくなり、しばらく夜の散歩をしていたから筋肉もついてきて健康的になった隆則は遥人の欲情を煽ってやまない存在になってしまっている。

「学祭終わったらまた、散歩に連れ出さないと」

 隆則にしてあげたいことが多すぎて、その時間が奪われるのはストレスでしかない。

 まもなく資格試験の結果発表で、合格していたら一番に報告してこれからどうするかを相談したい。その時に自分のしていることをどう思っているかを訊こう。そして就職先をどうするかや二人のライフスタイルについても話し合いたい。

「就職先はなるべく家の傍がいいな。通勤に時間を取られるのもったいない」

 しかも定時で帰れて収入の高いところを探さないと。就職して早く一人前になりたいが、だからといって隆則の世話に手を抜きたくはない。今までのようにはいかなくても彼が触れるもの口にする物すべて自分が用意したのでなくては嫌だ。その前に早くこの無駄に時間を取る学祭が終わらないことには世話が疎かになってしまう。朝のうちに三食分を作って冷蔵庫に入れるようにしているが、隆則が出してそのまま食べているのを知っているので、できるだけ早く作りたてを食べてもらえる環境に戻りたい。

「最近ちょっと痩せたような感じだもんな」

 もう残暑は去り、長袖を纏わなければ夜道を歩けないほど気温が下がってきている。一日中エアコンをつけている部屋の中にいるからと言って冷えた料理では胃への負担がかかってしまう。それに、隆則と一緒に食事をしたい。ゼミのメンバーや教授から夕食の差し入れが続いたため、同じ食卓に着くことができていない。これではどれだけ食べてどの味付けが気に入ったかを確認できない。

「やばい、また始まった……」

 そういう思考が相手を窮屈にさせるのだと注意されたのに、どこまでも隆則のことを管理したい欲求が気を抜いた隙間から顔を出しては膨らんでいく。

 そこまで女性陣の言葉に耳を傾けるのは「自分がされたらどう思うか」と言われたからだ。

 例えば隆則に料理を作ってもらうと想像したとき、すぐに包丁を取り上げる絵が頭に浮かんだ。あの人には危ないことなんかさせられない。だがもし隆則が遥人から包丁を取り上げ何もするなと命じたなら、素直に従いはするがもやもやが残る。世話をされるのは、隆則に尽くして尽くして自分が傍にいないとダメな人間にしたい遥人の性癖からかけ離れ過ぎていた。そんななんでもかんでもできてしまう隆則では、自分が傍にいる意味がなくなってしまう。

 家事ができず少し不器用な生き方をするあの人だから好きになったのだ。

 だが自分がもやもやする状況をもし隆則が感じていたとしたら。遥人のやることが窮屈だと思っていたとしたら。抱きつぶしては甲斐甲斐しく世話をするのが鬱陶しがられていたら。

 考えれば考えるほど悪い結果しか出てこなくて怖くなった。

(さすがに抱きつぶすのはやり過ぎかな……少し頻度を減らしたら許してくれるかな)

 まずは抱きつぶさない方向に考えられない遥人は、それも合わせて話し合わなければと考えていた。一人で考えていたって結論は出ない。ただ不安が募るだけだとこの一ヶ月で学んだ。ならきちんと隆則と話し合ってお互いが心地よい距離を築き上げるのが一番だ。

 マンションが見える角を曲がるといつもの癖で部屋を見上げた。隆則が起きていたらどこかしらの電気がついているはずだが、今日は見える範囲はすべて暗い。

「寝てるのかな?」

 だったら静かに部屋に入らないと。

 部屋の前まで来ると遥人はゆっくりと扉の施錠を外し、真っ暗な室内でなるべく音を立てないようリビングに向かった。スマートフォンのライトで隆則の部屋の扉が閉まっているのを確認してからリビングの明かりを点ける。

 今日はどれくらい食事をとってくれただろうかとダイニングテーブルを見れば、朝出かけた時に用意した朝食がそのまま置いてあり、その横に紙が一枚置かれていた。

「あれ?」

 今日は出かける予定でもあったのだろうか。

 いやそんなはずはない。仕事のスケジュールが書かれているカレンダーには今週は特に仕事もないはずだ。急な呼び出しでもあったのだろうかと訝しみながらそっと隆則の部屋の扉を開けた。

「え……?」

 何台も積み上がっているパソコンもデスクもベッドも何もかもがなくなりガランとした室内が、カーテンを引いていない窓から差し込む月明かりのおかげでほの明るく映し出されていた。

「なんだ、これ……」

 遥人は慌てて電気をつけたが家具だけではなくデスク横の壁に貼られたカレンダーも仕様書もない。クローセットを開ければ部屋と同じ広々とした空間が待ち受けていた。

「た、隆則さんっ!」

 嫌な予感が駆け巡り、遥人は家じゅうの明かりを点けて回った。風呂場もトイレも遥人の部屋もそのままなのに、隆則に関するものだけがすべてなくなっている。

 なにかのいたずらだろうか。

 靴箱を開ければそこには遥人の靴しかなく、隆則がいた痕跡がどこにもない。

「なにこれ……夢?」

 隆則のマンションで、絶対に彼がいると信じていた大前提が崩れて、遥人はその場にしゃがみこみそうになり、ダイニングテーブルに手を突いた。

「どういうことだよ……」

 なぜ何もないんだ。まるで隆則という愛しい存在は自分が作り上げた幻想で、本当はそんな人間などこの世にいなかったかのではないか、そんな気がしてくる。

「そんなはずはない」

 このマンションは隆則のものだ。こんなにも立派な部屋を自分は買うことができないし家族だって無理だ。

 隆則は確かに存在して、自分は誰よりも大切にしていた。夢なんかじゃない。

 では隆則はどこに行ったのか。

 倒れるようにいつも座っているダイニングの椅子に腰かけた。朝が弱い隆則のために消化にいいものをと用意した大根の根と葉を入れて炊いた粥が冷たくなったままそこにあり箸をつけた気配はない。

「なんだ、これ……」

 その横に置かれた紙を手に取って並んだ文字を目で追った。

「なっ!」

『水谷遥人様
 今まで私の面倒を見てくれてありがとうございました。辛いことを頼んで申し訳ありませんでした。
 私の性癖に君を巻き込んでしまったことをずっと後悔していました。
 いつか君がこの関係に疑問を思い離れていくのは分かっていました。
 なので私が出ていくことにします。
 生活費は今までのように振り込んでおきます。そして今まで通りバイト代も出しますので、大学を卒業するまでは今までのようにここに住んでください。
 できればその部屋に恋人を招き入れないでくれると嬉しいです。
 君の未来が輝かしいものでありますように。
 彼女と幸せになってください。 五十嵐隆則』

 簡潔で飾り気のない文章が明朝体で印字された紙を持つ手が震えた。

「な……なんだよ、後悔って……出ていくってどういうことだよ」

 誰かを好きになるのに性別など気にしたことがなかった。隆則だから気になったのだし、隆則に誘われたからここに住むことにした。なによりも、見知らぬ男に抱かれたと聞いて怒り狂って自分から関係を持ったのだ。あの人を抱くのは自分だけで、他の誰にも触れさせたくない。あの時の感情に名をつけるならば間違いなく『嫉妬』だ。そして今日まで自分が隆則に抱いていたのは『独占欲』だろう。

「巻き込むってなんだよ……」

 好きだと言われて嬉しくて舞い上がった自分はどうすればいいんだ。不器用なあの人の『初めての恋人』として有頂天になっては抱き続けた自分はどうすればいいのだ。

 それに……。

「彼女って誰だ」

 全く身に覚えがない。自分の恋人は隆則ただ一人で、親しい関係の女性はいないのに一体どこからそんな女が登場するというのか。

「隆則さん……これどういうことだよ」

 頭が追い付かない。生活費もバイト代も何もいらない。ただ隆則と一緒に住んで隣にいて今までと変わらない生活を送れると信じていたのに、その単純な未来がなぜ叶わないのだろうか。障害なんて何もないのに、勝手に障壁を作っているようにしか遥人には感じられた。

 ガっと胸の奥から腹にかけて熱くなるのを感じた。年齢以上に諦観していた遥人が感じた大きな怒りはこれで二回目だ。当然初回は隆則が抱かれてきたと告白したあの時。弟たちがどんな悪さをして怒ることはあってもここまでの怒りを感じたことはなかった。

「ふざけるなっ」

 手の中の紙が破れそうなぐらい握りしめた。

「絶対に逃がさないからっ」

 ガンっと皿を浮くほどにテーブルを叩いて丸めた紙を投げ捨てた。
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