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本編1
13-1
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気が付けば春も梅雨も終わって、そして夏も終わろうとしていた。
隆則は久しぶりに部屋から出てアスファルトすら溶かしそうなほどの残暑の熱気に咽せながら渋谷まで来ていた。
いつもはメールだけのやり取りで仕事を引き受けているが、今回はクライアントのたっての頼みで開発会議に参加して意見や助言をして欲しいと頼まれ仕方なく了承した。家から出るのはいつぶりだろうか。家にいても不自由しない生活を遥人にしてもらっているせいで、感覚が確実に狂ってしまっていた。空調が効いた部屋は季節を感じさせず、遥人から最終試験が終わり11月の結果発表を待つばかりだと聞いてはいたが、夏が終わる時期になっている実感はあまりなかった。
気が付けば遥人と出会ってからもう一年だ。
そしていわゆる『恋人』という関係になってもう九ヶ月にもなっている。
いつ終わるのかと怯え、いつでも終われるようにと心の準備をしながら過ごしてきたが、遥人とセックスをするようになった以外は何一つ変化のない生活だ。仕事の間は今まで通り優秀な家政夫で、仕事が終われば顔を会わせなかった時間の長さと比例した濃厚なセックスを求められる。男同士だからデートするようなこともなければ一緒に出掛けることもないが、それでも家の中で二人の時間が合えばずっと一緒にいる日々が続いている。
最初の頃は怯え続けていた関係も、今では彼がいることが当たり前になってしまっていた。ソファに腰かければ遥人は隣に来るし、当然のように腰に手を回してくる。風呂にも一緒に入るのが当たり前で、繋がるための準備をしてもらうのも恥ずかしくなくなっていた。自分の生活の中に遥人がいることが当たり前になり、部屋を出て彼がいないことの方に驚くようになっていた。
仕事が明けたら美味しい食事が用意され、そのあとはセックスをする。ルーチン化してしまった二人の関係に怯えながらも慣れていっていた。
あんなにも気を抜いてはいけないと心に誓っても、日常に流されると境界線が曖昧になり遥人のするすべてを許してしまう。甲斐甲斐しく世話を焼いてくる彼の優しさが心地よくて、触れてくる手の感触が温かくて、当然のようにキスしてくる甘さに溶けてしまう。あれほど自分を律していたにも拘わらず、ズブズブと嵌っていこうとしている自分に一番問題がある。
(もっと俺がちゃんとしないと)
打合せ後の会食を断り、久しぶりの外出で必要な物を買いに駅へと向かった。そろそろパソコンの処理速度を速めたいし、新しいハードディスクも物色したい。
いつもはネット通販で済ませているが、どんなに世の中が便利になっても手に取って選ぶ楽しさを排除することはできない。
人でごった返している駅前を何度か肩をぶつけながら進んでいったとき、横断歩道の途中だというのに隆則の足が止まった。
「は……ると?」
今日はゼミの用事があるからと出かけた遥人の姿が人々の隙間から微かに見えた、気がした。
何度か瞬きを繰り返し急いで後を追う。
遥人の大学は渋谷からは遠いはずだ。もしかしたら人違いかもしれないし、ゼミの用事が終わってなにかを買いに来たのかもしれない。もし遥人ならせっかく会ったのだし久しぶりに外で食べるのもいいかもしれない。なんせ彼が家に来てからというもの、一日の休みもなく食事を作り続けてくれているのだ、たまには休養してもらったほうがいい。
少し早足になりながら交差点を抜け駅前の有名な銅像の傍まで来て、隆則は足を止めた。
そこにいたのは遥人で、見間違いではなかったが一人ではなかった。ふわりとした夏の暑さを和らげる色合いと素材のトップスにひっちりとしたデニムを身に着けた愛らしい雰囲気の女の子が隣でなにか話しかけている。会話の内容は雑踏に紛れて隆則のもとまで届かないが、笑いながら返事をする遥人の表情は楽し気でとても気心の知れた相手なのを物語っている。
暑さを避けるためか駅ビルが作る日陰に立ちおしゃれな服が飾られたウィンドウを背にして笑いながら話し合っている。
遥人が何かを告げたのか、女の子は噴き出すように笑いながらあの、自分をいつも優しく時には激しく包み込んでくる腕を親し気に叩いていた。
それはとても健全な恋人同士のようで動けないまま目が離せなくなった。
何度か女の子が持っていた紙袋を持ち変えるのを見て遥人が当たり前のようにそれに手を伸ばす。自分だって重そうな袋を持っているのに彼女の分まで手にして両手が塞がっても重さを感じさせない表情のまま会話を続けている。逞しい遥人の腕が細く柔らかそうな女の子の腕と触れ合うほど近い距離にあっても、二人ともそれが当たり前のように距離を離さないまま楽しそうに喋り続けている。
(あぁ、そうか)
きっとあの子は遥人と親しい間柄なんだ。今日も彼女と会うために言い訳を口にするくらいの、とても親しい……。
二人の姿があまりにも自然で、なんの疑問も抱かれないまま周囲に溶け込んでいる姿に、ようやく理解した。と同時に自分の存在がこの世界で異様に思えた。周囲を見回せば親し気に手を繋いで歩く若い男女が長期休暇の最後を楽しく過ごしており、同性同士で歩いている者たちは適度な距離を保っている。
「なにやってんだろ、俺……」
隆則は目を伏せ急ぎ足で駅の改札へと向かった。来た電車に飛び乗って車両の僅かな揺れに身を任せながら車窓を眺めても先ほどの光景が頭から離れなかった。逃げ場のない気持ちを抱えたまま家に帰りつき、部屋に閉じこもる。急ぎの仕事はないが今は落ち着かない感情のままでぼーっとしていたくなくて、まだ手を付けなくてもいい仕事にとりかかった。他のことを考えてないと胸のざわつきに引きずられそうで怖かった。沈み込んで悪い方にばかり考えがいきそうで、怖くて怖くて逃げださなければ心が押しつぶされそうだ。
必死にコマンドを頭の中に並べ立てそれを打ち込んでいく。
一体何時間それを続けたのか自分でもわかないくらい開発に没頭した。ざわめく心をないがしろにして現実を見ないようにして、一人だけの薄暗い部屋でただただキーボードを打ち続けていると、部屋の扉がノックの後に開いた。
「あれ、隆則さんまた仕事ですか?」
なぜか仕事のスケジュールを把握している遥人が当たり前のように近づいてきた。
「うん……」
おざなりの返事しか返せない。今は彼の顔を見られなくてわざと画面にくぎ付けになってやり過ごそうとした。
「あまり根詰めすぎないでくださいね。夕飯ができたら呼びますから」
大きな掌が当然のように髪を梳き、頬に唇を当ててくる。
最近では当たり前になってしまったスキンシップを奥歯を噛み締めながら堪え、いつも通りのふりをする。
その手が、その唇が、もしかしたら自分以外に触れたかもしれない。その優しさが甘い声があの子にもかけられたかもしれない。想像するだけで手が止まりそうになる。
本当に自分は遥人の恋人なのだろうか。
はじめはそうだったとしても男同士の恋愛関係に疑問を持ち始めたかもしれない。
「そりゃそうだ」
ぼそりと漏らした言葉は泣きそうなトーンになってしまう。
この関係が歪だったのだ。住むところを失った遥人にこんな関係を強いたのはむしろ隆則の方だ。住む場所がない彼に自分の気持ちが知られた時点で選べる選択肢など存在しなかっただろう。目標である国家資格を取るための時間を得るために恋人になってくれたのだと思うほうが自然だ。
(だって俺、何の取柄も魅力もないもんな)
女の子のような柔らかい身体もなければ、誰からも好かれるような飛びぬけた容姿でもない。平凡を絵に描いたようなおじさんに今まで付き合ってくれた方が奇跡なのだ。何かしらの魔法がかかり、きっとそれが解けたのだ。資格試験が終わり結果を待つだけとなった今、ようやく遥人は現実を見つめ始めたのだろう。
15も年上の同性よりも年の近い異性のほうがずっと魅力的だと思ったって仕方ない。
セックスだって女の子とした方が気持ちいいに決まっている。
(だから、遥人は何も悪くない。俺が勝手に好きになったのが悪いんだ)
男同士の恋愛なんて先がない。誰にも言えないだろうし親にだって紹介できない。どんなに身体を重ねても子供を産むこともできなければ法の保護もない。どちらかに気持ちがなくなれば簡単に終わってしまう雲よりも軽い関係。
自分がゲイだと認識した時からわかりきっていることだろう、そんなの。むしろ年長者の自分がリスクを彼に伝えるべきだったんだ、流されて溺れるのではなく。
「ばか、だよな……」
抱かれて甘えさせてもらって、いつ終わってもいいように心構えをしろと自分に言い聞かせたくせに、いざその時が来たらこんなにも動揺している。遥人を手放せなくなっている。
初めて得た『恋人』という存在を失いたくないのか。
(違う……そうじゃない)
以前よりももっと好きになってしまったのだ。側にいるのが当たり前になって相手の存在が空気になるとはよく聞くが、隆則は逆に側にいてくれることが嬉しくて、積極的に触れ合ってくれようとするのが恥ずかしいと思いながらも遥人へと向かう気持ちを強めてしまった。
当たり前のように「好き」と言われ、「隆則さんを感じさせてるのは俺だ」と囁かれて、彼のために自分があるような錯覚に陥った。甘く愛されてもっと側にいたい、できればずっと側にいたいと、欲が出た。
元々遥人はゲイじゃないのに。女性の方が恋愛の対象だった可能性が高いのに、なにを勘違いしてしまったのだろうか。
「ほんと、バカだな」
泣きそうになるのをグッと堪え、それでも必死にコマンドを打ちこむ。何度も瞬きをして浮かんでくる涙を散らし、ぼやけようとする視界を必死で取り繕う。しゃくり上げそうになって唇を噛んだ。遥人に禁止を言い渡されている行為だが、そうでもしなければ泣き出しそうで辛くて、痛みで紛らわそうとする。
再びノックの音がして、間を置かず扉が開いた。
「夕飯、できましたよ……どうしたんですか?」
「なっ……なんでもない」
「なんでもないって、泣きそうな顔してますよ……もしかして今日の打ち合わせ、嫌なことがあったんですか?」
些細な表情まで読み取られ隠そうと顔を反らせば、それよりも先に両手が頬を包み込んでくる。強くはない力で遥人の方へと向かされた。
隆則は久しぶりに部屋から出てアスファルトすら溶かしそうなほどの残暑の熱気に咽せながら渋谷まで来ていた。
いつもはメールだけのやり取りで仕事を引き受けているが、今回はクライアントのたっての頼みで開発会議に参加して意見や助言をして欲しいと頼まれ仕方なく了承した。家から出るのはいつぶりだろうか。家にいても不自由しない生活を遥人にしてもらっているせいで、感覚が確実に狂ってしまっていた。空調が効いた部屋は季節を感じさせず、遥人から最終試験が終わり11月の結果発表を待つばかりだと聞いてはいたが、夏が終わる時期になっている実感はあまりなかった。
気が付けば遥人と出会ってからもう一年だ。
そしていわゆる『恋人』という関係になってもう九ヶ月にもなっている。
いつ終わるのかと怯え、いつでも終われるようにと心の準備をしながら過ごしてきたが、遥人とセックスをするようになった以外は何一つ変化のない生活だ。仕事の間は今まで通り優秀な家政夫で、仕事が終われば顔を会わせなかった時間の長さと比例した濃厚なセックスを求められる。男同士だからデートするようなこともなければ一緒に出掛けることもないが、それでも家の中で二人の時間が合えばずっと一緒にいる日々が続いている。
最初の頃は怯え続けていた関係も、今では彼がいることが当たり前になってしまっていた。ソファに腰かければ遥人は隣に来るし、当然のように腰に手を回してくる。風呂にも一緒に入るのが当たり前で、繋がるための準備をしてもらうのも恥ずかしくなくなっていた。自分の生活の中に遥人がいることが当たり前になり、部屋を出て彼がいないことの方に驚くようになっていた。
仕事が明けたら美味しい食事が用意され、そのあとはセックスをする。ルーチン化してしまった二人の関係に怯えながらも慣れていっていた。
あんなにも気を抜いてはいけないと心に誓っても、日常に流されると境界線が曖昧になり遥人のするすべてを許してしまう。甲斐甲斐しく世話を焼いてくる彼の優しさが心地よくて、触れてくる手の感触が温かくて、当然のようにキスしてくる甘さに溶けてしまう。あれほど自分を律していたにも拘わらず、ズブズブと嵌っていこうとしている自分に一番問題がある。
(もっと俺がちゃんとしないと)
打合せ後の会食を断り、久しぶりの外出で必要な物を買いに駅へと向かった。そろそろパソコンの処理速度を速めたいし、新しいハードディスクも物色したい。
いつもはネット通販で済ませているが、どんなに世の中が便利になっても手に取って選ぶ楽しさを排除することはできない。
人でごった返している駅前を何度か肩をぶつけながら進んでいったとき、横断歩道の途中だというのに隆則の足が止まった。
「は……ると?」
今日はゼミの用事があるからと出かけた遥人の姿が人々の隙間から微かに見えた、気がした。
何度か瞬きを繰り返し急いで後を追う。
遥人の大学は渋谷からは遠いはずだ。もしかしたら人違いかもしれないし、ゼミの用事が終わってなにかを買いに来たのかもしれない。もし遥人ならせっかく会ったのだし久しぶりに外で食べるのもいいかもしれない。なんせ彼が家に来てからというもの、一日の休みもなく食事を作り続けてくれているのだ、たまには休養してもらったほうがいい。
少し早足になりながら交差点を抜け駅前の有名な銅像の傍まで来て、隆則は足を止めた。
そこにいたのは遥人で、見間違いではなかったが一人ではなかった。ふわりとした夏の暑さを和らげる色合いと素材のトップスにひっちりとしたデニムを身に着けた愛らしい雰囲気の女の子が隣でなにか話しかけている。会話の内容は雑踏に紛れて隆則のもとまで届かないが、笑いながら返事をする遥人の表情は楽し気でとても気心の知れた相手なのを物語っている。
暑さを避けるためか駅ビルが作る日陰に立ちおしゃれな服が飾られたウィンドウを背にして笑いながら話し合っている。
遥人が何かを告げたのか、女の子は噴き出すように笑いながらあの、自分をいつも優しく時には激しく包み込んでくる腕を親し気に叩いていた。
それはとても健全な恋人同士のようで動けないまま目が離せなくなった。
何度か女の子が持っていた紙袋を持ち変えるのを見て遥人が当たり前のようにそれに手を伸ばす。自分だって重そうな袋を持っているのに彼女の分まで手にして両手が塞がっても重さを感じさせない表情のまま会話を続けている。逞しい遥人の腕が細く柔らかそうな女の子の腕と触れ合うほど近い距離にあっても、二人ともそれが当たり前のように距離を離さないまま楽しそうに喋り続けている。
(あぁ、そうか)
きっとあの子は遥人と親しい間柄なんだ。今日も彼女と会うために言い訳を口にするくらいの、とても親しい……。
二人の姿があまりにも自然で、なんの疑問も抱かれないまま周囲に溶け込んでいる姿に、ようやく理解した。と同時に自分の存在がこの世界で異様に思えた。周囲を見回せば親し気に手を繋いで歩く若い男女が長期休暇の最後を楽しく過ごしており、同性同士で歩いている者たちは適度な距離を保っている。
「なにやってんだろ、俺……」
隆則は目を伏せ急ぎ足で駅の改札へと向かった。来た電車に飛び乗って車両の僅かな揺れに身を任せながら車窓を眺めても先ほどの光景が頭から離れなかった。逃げ場のない気持ちを抱えたまま家に帰りつき、部屋に閉じこもる。急ぎの仕事はないが今は落ち着かない感情のままでぼーっとしていたくなくて、まだ手を付けなくてもいい仕事にとりかかった。他のことを考えてないと胸のざわつきに引きずられそうで怖かった。沈み込んで悪い方にばかり考えがいきそうで、怖くて怖くて逃げださなければ心が押しつぶされそうだ。
必死にコマンドを頭の中に並べ立てそれを打ち込んでいく。
一体何時間それを続けたのか自分でもわかないくらい開発に没頭した。ざわめく心をないがしろにして現実を見ないようにして、一人だけの薄暗い部屋でただただキーボードを打ち続けていると、部屋の扉がノックの後に開いた。
「あれ、隆則さんまた仕事ですか?」
なぜか仕事のスケジュールを把握している遥人が当たり前のように近づいてきた。
「うん……」
おざなりの返事しか返せない。今は彼の顔を見られなくてわざと画面にくぎ付けになってやり過ごそうとした。
「あまり根詰めすぎないでくださいね。夕飯ができたら呼びますから」
大きな掌が当然のように髪を梳き、頬に唇を当ててくる。
最近では当たり前になってしまったスキンシップを奥歯を噛み締めながら堪え、いつも通りのふりをする。
その手が、その唇が、もしかしたら自分以外に触れたかもしれない。その優しさが甘い声があの子にもかけられたかもしれない。想像するだけで手が止まりそうになる。
本当に自分は遥人の恋人なのだろうか。
はじめはそうだったとしても男同士の恋愛関係に疑問を持ち始めたかもしれない。
「そりゃそうだ」
ぼそりと漏らした言葉は泣きそうなトーンになってしまう。
この関係が歪だったのだ。住むところを失った遥人にこんな関係を強いたのはむしろ隆則の方だ。住む場所がない彼に自分の気持ちが知られた時点で選べる選択肢など存在しなかっただろう。目標である国家資格を取るための時間を得るために恋人になってくれたのだと思うほうが自然だ。
(だって俺、何の取柄も魅力もないもんな)
女の子のような柔らかい身体もなければ、誰からも好かれるような飛びぬけた容姿でもない。平凡を絵に描いたようなおじさんに今まで付き合ってくれた方が奇跡なのだ。何かしらの魔法がかかり、きっとそれが解けたのだ。資格試験が終わり結果を待つだけとなった今、ようやく遥人は現実を見つめ始めたのだろう。
15も年上の同性よりも年の近い異性のほうがずっと魅力的だと思ったって仕方ない。
セックスだって女の子とした方が気持ちいいに決まっている。
(だから、遥人は何も悪くない。俺が勝手に好きになったのが悪いんだ)
男同士の恋愛なんて先がない。誰にも言えないだろうし親にだって紹介できない。どんなに身体を重ねても子供を産むこともできなければ法の保護もない。どちらかに気持ちがなくなれば簡単に終わってしまう雲よりも軽い関係。
自分がゲイだと認識した時からわかりきっていることだろう、そんなの。むしろ年長者の自分がリスクを彼に伝えるべきだったんだ、流されて溺れるのではなく。
「ばか、だよな……」
抱かれて甘えさせてもらって、いつ終わってもいいように心構えをしろと自分に言い聞かせたくせに、いざその時が来たらこんなにも動揺している。遥人を手放せなくなっている。
初めて得た『恋人』という存在を失いたくないのか。
(違う……そうじゃない)
以前よりももっと好きになってしまったのだ。側にいるのが当たり前になって相手の存在が空気になるとはよく聞くが、隆則は逆に側にいてくれることが嬉しくて、積極的に触れ合ってくれようとするのが恥ずかしいと思いながらも遥人へと向かう気持ちを強めてしまった。
当たり前のように「好き」と言われ、「隆則さんを感じさせてるのは俺だ」と囁かれて、彼のために自分があるような錯覚に陥った。甘く愛されてもっと側にいたい、できればずっと側にいたいと、欲が出た。
元々遥人はゲイじゃないのに。女性の方が恋愛の対象だった可能性が高いのに、なにを勘違いしてしまったのだろうか。
「ほんと、バカだな」
泣きそうになるのをグッと堪え、それでも必死にコマンドを打ちこむ。何度も瞬きをして浮かんでくる涙を散らし、ぼやけようとする視界を必死で取り繕う。しゃくり上げそうになって唇を噛んだ。遥人に禁止を言い渡されている行為だが、そうでもしなければ泣き出しそうで辛くて、痛みで紛らわそうとする。
再びノックの音がして、間を置かず扉が開いた。
「夕飯、できましたよ……どうしたんですか?」
「なっ……なんでもない」
「なんでもないって、泣きそうな顔してますよ……もしかして今日の打ち合わせ、嫌なことがあったんですか?」
些細な表情まで読み取られ隠そうと顔を反らせば、それよりも先に両手が頬を包み込んでくる。強くはない力で遥人の方へと向かされた。
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