おじさんの恋

椎名サクラ

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本編1

11-2

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「いただきます」

 匙で掬った七草の入ったおじやに息を吹きかけて冷ましてから口に含めば、アミノ酸を多く含んだ出汁が脳を刺激して幸福度を増させる。

「美味しい……」

 自分の好みに合わせた料理のどれもこれも美味しくて、ポロリと言葉が落ちてしまう。煮魚も臭みを減らすための生姜がいいアクセントになり柔らかくなった身に僅かに染みこんだ醤油と出汁を引き立てている。ホロホロと口の中で解れる魚の甘みをしっかりと味わいながら、それを邪魔しない雑炊の優しい味わいに腹も心も満たされていく。

 自然と肩に入っていた力が抜けていく。

 その様子を見て遥人が甘い表情になっているのにも気づかずどんどんと口に運んでいく。

「お仕事は大丈夫ですか?」

 向かいの席に腰かけた遥人が匙を手にしながら訊ねてくる。

「後で見直すだけだから、今日中には納品できるかな。さっき最後のコマンド打ち終わったから、今日は久しぶりに眠れる」

「そうですか」

「そっちはどう?」

 食事に夢中になりすぎて目の前にいるのが初めての恋人である身構えがなく、同僚に進捗を伝える感覚で言葉が無意識に出る。

「資格の勉強は進んでますよ。大学も始まりましたからそろそろ試験の準備を始めようと思ってます」

「そっか……え、大学?」

 一瞬にして職場ではないのを理解して顔を上げれば、いつもの優しい笑みとぶつかる。

(あ、そうだ!)

「だっ大学ってもう始まってるのか?」

「始まってますよ。といってもまだ本格的な講義はないですから。ただ今のうちに試験の準備したほうが後が楽かと思ってます」

「そう、だね。……水谷君、年末年始勉強は……」

 言葉を濁す。自分の意識の中ではずっとセックスしていた印象しかなく、彼が勉強できる時間を奪ったのではないかと疑念が湧き上がった。隆則があんな行動しなければ彼はもっと勉強に集中できたのではないか。

「違いますよ、名前」

 笑顔を崩さず語気だけが強まるのに慌てて言い直した。

「ごめん……は、ると」

 名前で呼び合うよう乞われていても、本人を前にするとつい今まで通りの呼び方になってしまう。恋人同士がどんな風に呼び合うのかすら分かっていない。なんせ、人間関係で一番親密に過ごしていたのが会社という枠の中で、互いに姓で呼び合うのが通例で、先に入社した社員は「先輩」を付け、上司は役職を付ければいいという単純なかつ明快なシステムの中に長く身を置いた隆則にとって、誰かを親し気に名前で呼ぶのは違和感意外でしかなかった。

 妄想の中でならいくらでも名前呼び出来たが、本人を目の前にして果たして慣れることができるのか不安でしかなかった。

 何度も指摘されても、本人を前にしたら緊張して名前で呼ばなければならないことを忘れてしまう。

 しかも部下でも上司でも後輩でもない、恋人の呼び名だ。何が普通なのかわからなくて困惑してしまい、言葉がたどたどしくなる。

 遥人は呼ばれるだけで、眦が下がるほど甘い表情になる。雰囲気の柔らかい彼にそんな表情をされると、自分がとても大事な存在のような気になってしまい、余計に焦ってしまう。

 警鐘が頭一杯に鳴り響く。

「チェックが終わって納品したら、今日は早く休めますね」

 この数日、自室に籠って仕事ばかりをしてほとんど遥人と顔を合わせていない。時間に余裕のある仕事だから普通に夜になれば僅かながらの睡眠時間も確保されていたから、彼の勉強の邪魔をしないために綺麗にしてもらったベッドで仮眠をとることはできた。デスマーチという程タイトな仕事ではなかったから精神的にも余裕がある。

「そうだな……次の仕事のチェックを終えたら今日は眠れる」

「そうですか。では今夜は一緒に眠れるんですね」

 きっといつもの体調管理のためのスケジュール確認だと高を括っていたが、綺麗な箸遣いで煮魚の身をほぐしながら、日常会話の一部、業務確認のような物言いで遥人は告げてきた言葉に、意味も分からず頷いた。

「では納品が終わったら一緒にお風呂に入りましょう。お湯、溜めておきますね」

「あ……うん」

 そういう意味かと理解して、でも拒めず俯きながら小さく頷いた。

 最後にしたのは元旦だから、一週間していないことになるとようやく気付き、トクンと胸を鳴らしながら血液がいつもよく早く身体中を駆け巡るのを感じる。心音が速すぎて、さっきまで美味しく感じられた料理が急に味を失う。美味しい食事が終わって仕事を済ませたなら、今度は自分が美味しく頂かれるのだと思うと、味に集中できなくなる。

 鮮やかな七草が散らばっているおじやをひたすらゆっくりと時間をかけ食すのは、その時間になるのを長引かせるためだ。ゆっくりと匙を運びながら、けれどいつか終わりは来る。一人用の土鍋一杯に作られたおじやがなくなり、煮魚も汁だけになればもう食事は終わりだ。

 僅かな会話しかできないまま、テーブルを片付けを遥人に任せて自室の戻れば、組み上がったプログラムのコマンドミスがないかをチェックして個人サーバーに投げ込み、動作確認を行う。デバックは専門のスタッフが行うからと言われているので、簡単な確認をした後、まだ担当が会社にいるだろう時間にメールを送りつつ、先方の専用サーバにアクセスし、システムをアップする。

 あまりにもスムーズに作業が進み過ぎて、予定よりもずっと早く納品作業が終わってしまった。

(どうするか……やっぱり一緒にふろに入らないとだめだよな)

 遥人と一緒に風呂に入る。ただそれでは終わらないことは年末年始で実証済みだ。また軽いノックの後、遥人が顔を覗かせた。

「納品、終わりましたか?」

「あ……あぁ」

 のらりくらりと躱したり嘘をつけばいいが、そんな高等能力は隆則に備わっていない。

 YES OR NO で質問されればどちらかを答えなければならないのが辛い。なぜだろう、関係が深まってからというもの、遥人から向けられる質問はいつも二択で、嘘やごまかしができない隆則はその度に現状を伝えるしかなかった。

「お湯入ったので風呂に行きましょ」

 嬉しそうに隆則の手を引いて広くはない風呂場へと向かう。服を脱がされ浴室に放り込まれると、そこから指一本動かさず座っているしかない。髪も身体も丁寧に、しかも加齢臭対策のミントの香りがきついシャンプーで丁寧に洗われた後、しっかりとトリートメントでコーティングしるマメマメしさを発揮し、身体もたっぷりと泡立てたこれまた高年齢男性向けのボディソープを塗りつけられ、柔らかい手つきで丁寧に余すところなく磨かれる。

 全身の泡を落として湯船に使っている間に、ものすごい速さで遥人も全身を綺麗にしていった。手際がいいのか隆則を洗う半分の時間で済ませ、当たり前のように湯船へと入ってきた。バスタブの六分目まで入っていたお湯がジャーっと溢れても気にせず背後から隆則を抱きしめ、己の膝に乗せる。

「あ、隆則さん少し太りましたね!」

 執拗に全身を撫でるなと思っていたら彼なりの健康チェックだったようで、変な意味合いがあるのかと期待してしまった自分が恥ずかしくなる。成人男性が二人で入るにはやや狭いバスタブで、当たり前のように膝に乗せたのはこれがしたかったのかと、少しの残念と安堵に身体の力が抜けた。

 最近はシャワーで済ませることが多かったから、久しぶりに全身にまとわりつく温かい湯の心地よさに、次第に力が抜けていく。ずっとモニターばかりを眺めていたせいか、肩に入り過ぎていた力が抜けると、自然と遥人の肩に後頭部を乗せ、弛緩していく。このまま眠ってしまいたくなるが、それではまた遥人に迷惑をかけてしまう。なんせ付き合う前に風呂場でぶっ倒れた隆則の介抱をさせてしまったのだ。

(でも風呂って気持ちいい……)

 立ち上る湯気が視界を曇らせながらたっぷりと水蒸気を含んだ空気が鼻を通って喉を潤していく。自室は除湿器がかけられているせいで、潤った空気の心地よさは水分を抜かれ過ぎてしまっている隆則の気管支を助けてくれるようだ。

 毎日でもこんな風にゆっくりと風呂に浸かりたいが、仕事中に風呂なんか入ったらその後仕事にならない。

 少なくとも締め切り間近は絶対に入れないから、こんな風にゆったりできる時間は至福でしかない。

 遥人が皮膚の感触を楽しむように肌を辿り満足すると、おもむろに乳首を摘まみ始めた。

「ちょっ!」

「気にしないでください、隆則さんはこのままリラックスしててくださいね」

「ムリっ!」

 隆則の胸を弄るのに嵌っているのか、そこを弄られたことがないと知った日から執拗に触れてくるようになった。小さな粒でしかない、存在すら意識したことがない場所を擽ったり擦ったり、時には摘まんで引っ張ったりしてくるのだ。

 初めては痛みしか感じなかったのに、毎日のようにそこを弄られベッドの中では舐めたり噛んだりしてくるので、胸を弄られるとなぜかセックスの前戯をされているようで落ち着かなくなる。

「ネットで調べたんですけど、弄っていけば男でもここが感じやすくなるそうです。サブリミナル効果で、一番感じている時に乳首も弄ればいいって書いてありました」

「どこでそんなネタを仕入れてるんだっ!」

「そりゃ、色々とですね」

 そんな時間があったら勉強しろと言おうとして、口を噤む。さすがにそれは越権行為だろうか。いくら恋人とは言え彼のペースに口を挟むのはいいのか悪いのかわからない。

 思案している間も執拗に弄り続けてきてお湯のせいかそれとも行為のせいか体が熱くなっていく。

「んっ」

 思わず漏れそうになる声を堪えると遥人は嬉しそうに首筋にチュッと音を立ててキスをしてくる。
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