おじさんの恋

椎名サクラ

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本編1

7-2

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(こんなんじゃダメだろーーー!)

 慌てて壁に掛けてあるカレンダーを見れば、二ヶ月前の物で、慌てて今月へと替えて今日の曜日を確認した。退社してから二ヶ月、すっかり曜日感覚が失せている隆則は日付はかろうじて覚えられても、曜日までは把握できていなかった。

「良かった、日曜日だ……」

 だが、彼の仕事が世間一般の休日と異なるのかもと思い直す。だって飲食店に休日なんて存在しないだろう。しかも彼が居たチェーン系の牛丼屋は年中無休を売りにしていたはずだ。

「ごめん……仕事大丈夫……ですか?」

 服を柄物と仕分けしている彼に問いかける。

「仕事? あぁバイトの事ですか? それならもう閉店したので今はしていないんですよ」

「バイト?」

 正社員じゃなかったのか。

 そこでようやく隆則はバイトという存在が世の中にあることを思い出した。そうだ、基本的にコンビニや飲食店はアルバイトの存在で賄っている業種で、システム系だとどうしても守秘義務などが絡んでくるのでそう簡単に雇うことはできないが、世の中の学生たちはアルバイトをしているとニュースでやっていた。

「ぇっ……君、学生さん?」

「自己紹介まだでしたね。水谷遥人です、二十歳で○○大学で学生してます」

「は……たち?」

 うそだろ……と声を発さず唇が動く。若く見積もって二十代半ばがせいぜいだと思ってたのに、まだ成人したてだなんて誰が思うだろうか。

 隆則の驚きに慣れているのか、彼――遥人は苦笑しながら手は止めずに素早く洗濯物を分けていく。

「よく言われるんです、凄い老け顔だって。でも本当です……身分証何もないですけど……」

 今頃彼の身分を証明するものはすべて濡れたまま冷たい外気にされされていることだろう。

「いや、信じるよ……信じるけど……」

 にわかには信じられないのが本音だ。そんな体格も中身もしっかりした成人した手の人間がいることが驚愕で、同時に成人したての若者が掃除も洗濯も完ぺきにこなして、さらに不甲斐ない年長者をナチュラルに助けてくれたり優しい言葉をかけたりするのかと思うと、いたたまれない。

 自分の生活能力は15歳も下の彼に、到底及ばない。

 その事実に打ちのめされ、どーんと落ち込んだ。

「ごめん、何回も助けてもらって……自分が恥ずかしい」

「いや、そんなことないですよ。さっき警察に言ってたじゃないですか、さっきまで仕事をしていたって。自宅で仕事をしてるのも凄いですし、こんな良い場所に住んでいるのはやっぱりできる人なんだろうなと思ってます」

 それが精いっぱいのフォローだとしても、隆則の気持ちを簡単に浮上させる威力を持っていた。

「えへへ」

 こんな格好いい人に褒められることなんて滅多になく、照れながらも思わず笑みが零れてしまう。

「あ、でも洗濯とか面倒だろうから、本当に捨てちゃうから気にしないでくれ」

「何を言ってるんですか。洗濯すれば使えるんですからもったいないことはしないでください」

 ワイシャツだけを集めた洗濯物を抱え、遥人が洗面所へと向かう。

「すみません、洗濯石鹸とかってありますか?」

「洗剤なら多分この辺に……」

 慌ててその後を追い、いつも洗剤をストックしている棚を開く。うっすらと埃が乗った棚の中にいつ購入したかもわからない液体洗剤を取り出して渡すが、遥人の視線は洗剤ではなく、その棚に凝視されている。

「え?」

「……あの、あとでここも掃除していいですか?」

「いやいやいやいやいやいやいやいや、もういっぱいしてもらってるからいいって!」

「でも一気にやっちゃったほうが良いですよ」

「というか、君は昨夜から少しも休んでいないんだから少し寝ようよ。今布団を出すから」

「俺結構丈夫なので大丈夫です。さっさとやってしまいますね……どうせ今日は大学も銀行も役所も開いてないのですることがないんですよ」

 本来ならゆっくりと自宅で休養を取るはずだったのだろう、あの火事さえなければ。申し出は嬉しいが、そこまでしてもらうのが申し訳なくて。

「じ、自分でやるから!」

 雑巾を取り出し、数ミリになっている埃を取り除いていく。

(こんなところ、引っ越してから掃除したことないよ)

 普通の人たちはここまで掃除するのだろうか。なにせ生活能力ゼロの隆則だ、一般的なのがよくわからない。

「すみません、俺が変なことを言っちゃったから……」

「君のせいじゃないよ……全く掃除しなかった俺が悪いから……」

 本当だ。今までこの家に手をかけた記憶がない。移り住んでからというもの、まともな掃除をした記憶がない。通販で買った掃除機がどこにしまってあるのかすら思い出せないし、今だって全自動掃除機はどこに行っているのかすらわからない。本当に今まで生きて来られたのが不思議だ。

「これが終わったら食事にしましょう。俺、作るの得意なんで」

「え……でも……」

 ゼロから何かを生み出せる人間なんて存在しない。食事を作るのだって何かがなければできないだろう……隆則の家にある大きな冷蔵庫にしまわれているものと言えば、お茶と水のペットボトルだけだ。

「申し訳ないよ。君……えっと水谷君さえ良ければファミレスに行こう」

 そう遠く離れていないところにあるはずのファミレスでの朝食を提案すれば、少し困った顔をしながらワイシャツの襟に洗剤を塗り込んでいった。

「俺金ないんで……」

「そんなことは気にしなくていいから、ごちそうするよ……ファミレスだけど」

「もったいないですよ」

「そんなことないから……それに……冷蔵庫になにもないんだ」

 遥人がなかなか折れないから、とうとう隆則はその理由を口にした。大きくいかにもファミリー向けの大型冷蔵庫は電源入れっぱなしの飾りでしかないことを。

 独身者にありがちな干からびたハムも中途半端な卵も、成人なら当然置いてあるだろうアルコール類すらない。本当に2リットルのペットボトルが二本あるだけ。食に興味がないのではない、自分で作れないから食材を前にしても動くことができず、すぐに食べられるものを買うしかないのだ。だったらなぜあんなにも大きな冷蔵庫を買ったかと言えば、衝動買いとしか言いようがない。徹夜明けの仕事帰りに家電量販店によったのが運のツキだ。

 結婚する相手もいないどころか恋人すらできた例がないのだから、あんな大きな冷蔵庫が役に立つと気が来ることはない。単身者専用の小さい物でも充分に賄ったはずである。

 電気代ばかりが無駄にかかるだろうが、そこまでの経済観念すらない。

 さらに言ってしまえば、日本の家庭に必ずあるべき調理家電、炊飯器すらこの部屋にはないのである。米を洗って水を入れスイッチを押すだけで美味しいご飯を炊き上げてくれるあの素晴らしい機械ですら使いこなせず何回か壊している隆則である。一番安全に来客の腹を満たす方法と言えばもう、外食しかなかった。

 金で解決している自覚はある。あるが、それ以外の方法がないのが正しいのだ。

「それ終わったらどうせ待つ時間になるんだから、朝ご飯を食べに行こう」

 買ったはずの弁当の存在を隆則はすでに忘れていた。

「すみません、ありがとうございます」

「お礼とか必要ないから……水谷君にお礼がしたいのは俺の方だから」

 棚のすべての段を拭き終え、汚れたぞうきんをどうしようかと手に持ったまま突っ立っていれば、すべてのワイシャツの襟に洗剤を付け終え洗濯機を回した遥人がそれを自然な仕草で取り上げ、洗面台に軽く埃を落とす。それを拾い集めてゴミ箱に捨てた後にそこで手洗いを始めた。

「あ……りがと……」

「すぐに洗ったほうが雑巾はいいんですよ」

 それはすべての洗濯物に言えることだろう。

 自分の無能っぷりを恥じながら小さくなっている隆則はその言葉を深く胸に刻もうとした。雑巾はすぐに洗ったほうが良い、と。

「あ、じゃあ行こうか……っとそうだ、その前に着替え……なにかあるかな?」

 男性にしては少し小柄で四捨五入してようやく170cmになる隆則の持ち物には大柄な遥人が身に着けられるものはそうそうないが、それでもトレーナー姿の彼を連れ回すのは申し訳なかった。

 コートが吊るされているクローゼットを開き、がさがさと探していく。

「これとか、どうかな?」

 Sサイズばかりの同じようなコートの中から、いつ買ったのかも思い出せない一番大きい物を取り出す。登山用の厳つく重いコートだ。なぜこんなのを買ったのか本当に思い出せないがタンスの肥やしなのだからいいかと手渡すが、袖を通した遥人にはやはり小さいようだ。肩はなんとか収まっても長い腕が手首まで出てしまい外に出るには寒そうだ。
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