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本編1
3-2
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ぼんやりしている隆則の前にどんどん商品が並べられていく。定番の牛丼も味噌汁も湯気が立っている。塩味の混じるその匂いを嗅いで不思議とぼんやりとしながらも手を伸ばした。ゆっくりと味噌汁椀を両手で抱え唇に運び、ゆっくりと啜る。
「あったかい……」
そういえばどれくらい温かい食事を口にしてなかっただろうか。もう季節は秋で少し肌寒くなってきたというのに温かさを胃に届けるのは眠気覚ましのコーヒーばかり。それだって始めの一口だけで、後は冷えて苦くなっていくだけだ。コンビニ弁当に関してはどんなに温めてもらったって、箸を付ける前にバカ営業が仕様変更の話を持ってくるのでいつだって冷たくなって少し硬くなった物ばかりを掻き込んでいたように思える。当然味なんて覚えていない。
誰かが用意した温かな食事なんてもう何年も味わっていないことを思い出した。
「味噌汁ってこんなに美味しかったんだ」
しみじみと呟く。
飽食の時代と言われて久しいが、多忙に次ぐ多忙でその食事ですらまともに摂っていない。こんなチェーン系の牛丼屋の味噌汁を一口含んだだけで、どうしてだろう泣きそうになる。
正直、会社でどれだけ悪態を吐いて己の気持ちを奮い立たせたって本当は限界を感じていた。
もう何年もまともに休みを取得したことがないし、むしろ休日出勤に泊まり込みまでして命を削るようにして働き続けた。
友人も恋人もいないまま気が付けば33歳だ。
生きるために仕事をしているのか、仕事のために生きているのかわからなくなる。家族と疎遠になって久しいし、今はもう生存確認の電話が来ることもない。携帯電話を鳴らしてくれるのは決まって会社かクライアントからだけだ。
こんな生活してて、本当に意味があるのだろうか。
隆則はわからなくなってきた。
システムを組み立てるのは楽しい。何もないところから自分が組み立て上げ理想通りに動けば嬉しくなる。どんどんと増えていく開発言語を覚えるのだって楽しい。出来上がりデバックを繰り返す中でも自分の作り上げたシステムが想像した通りの動作をすれば子供が成長したかのような錯覚に陥て嬉しくなる。
だが手放した瞬間、どうしようもない虚無感に襲われるのだ。なんのためにそれを作り、なんのためにこんなに苦しい思いをしたのかがわからなくなる。それを誤魔化すように次から次へとやってくる仕事をこなすことで気付かないようにしていた。
たった一口の味噌汁で急に心が動くほど、自分は疲弊していたのだ。
それが分かった瞬間、隆則を支えていた何かが崩れていくのを感じた。
アドレナリンが大量放出していたさっきとは違う、本当に落ち着いた心で今の自分を見つめ始めていた。
「あの、良かったらこれ使ってください」
さっきの店員が濡れたおしぼりを渡してきた。
「え?」
「……泣いてますよ」
言われ慌てて自分の顔に触れれば、濡れた感触がそこにあった。
泣きそうだと思ってはいたが、泣いている自分に気付かないほどだとは想像もしていなかった。
「ぁ……すみません」
慌てて差し出されたおしぼりを顔に当てる。
なんで泣いているのか自分でもわからないまま、次から次へと零れ出てくる涙を熱いくらいのタオル地に染み込ませていく。
「温かい物って、食べると幸せになりますよね。急に幸福感が増してくるというか、脳がセロトニンという幸せホルモンを分泌するからだと言われてます。だから温かいうちにいっぱい食べて幸せになってください」
「ぁ……りがと……」
「俺、奥に引っ込んでますのでゆっくり食べてくださいね」
みっともないところを見せたことよりも掛けられた言葉が温かくて、ドロッと涙が一気に溢れ出てきた。ドライアイで苦しんでいたはずなのに、こんなにも溢れ出てくるなんて知らなかった。
いい年をした男が恥ずかしいと分かっていても、久しぶりにかけられた優しい言葉が、温かいみそ汁と一緒に身体に染み渡る。
涙を流しながら鼻水を啜りながらもう一口味噌汁を啜れば、疲弊し続けて麻痺した心がほんの少し色どりを取り戻してきた。さっきまでのからっぽで死ぬことなんて容易かった心とはほんの少し違っていた。
味噌汁で温まった身体に、今度は牛丼を入れていく。
砂糖と醤油で煮込んだ肉の味が口いっぱいに広がり、それをゆっくりと租借しながら飲みこんでいく。一口また一口と温かいご飯を運びながら、時折鼻水を啜った。
こんなにも食べることが幸せだと感じながらご飯を食べたことはない。小さい頃どうだったか全く思い出せないが、少なくとも今の会社に入ってからは一度もない。冷たいビールを流し込みながら、いつからテーブルに置かれたのかわからない揚げ物を口にするだけの飲み会だって、味を思い出すことなどできない。
チェーンのどこでも同じはずの牛丼とみそ汁が泣けるほど美味しいと感じるくらいに、どうしようもなく疲れているのが感じられて、会社を辞めるほうに気持ちがシフトし始めた。
半熟卵を半分まで減った牛丼に乗せ、箸を入れ卵黄に絡めた牛肉を頬張れば、何とも言えない幸福感が身体中に広がっていく。
漬物のシャリシャリした感触も揚げ物ばかりを食べ続けてきた隆則には心地よい。
本当に時間をかけてゆっくりと全部食べきるころには、不思議なくらいに心にあった閊えが取り除かれ平常心が訪れていた。
「ごちそうさまでした」
小さな声で礼の意味も込めて口にすれば、深夜に似合わない元気な声が飛んでくる。
「ありがとうございましたっ!」
早口なのに活舌がいいから一音一音がちゃんと耳に入ってくる。
奥からあのイケメンの店員がひょこっと顔を出してにっこりと顔を出しフワリと笑いかけてきた。
「また来てくださいね」
ありふれた営業トーク。なのに、隆則の胸がギュッと締め付けられた。
後ろ髪をひかれるような思いで店を出ると秋の夜の冷たい風が頬を撫でるが、満たされた胃袋を抱えた今、冷たさをあまり感じなかった。
隆則は冷たい空気を肺一杯に吸い込んでゆっくりと吐き出した。
もう午前一時を半分も回って電車から降り立つ人もいないせいで人気が全くない商店街、不気味なはずのその道を満ち足りた気持ちで歩き出した。
「あったかい……」
そういえばどれくらい温かい食事を口にしてなかっただろうか。もう季節は秋で少し肌寒くなってきたというのに温かさを胃に届けるのは眠気覚ましのコーヒーばかり。それだって始めの一口だけで、後は冷えて苦くなっていくだけだ。コンビニ弁当に関してはどんなに温めてもらったって、箸を付ける前にバカ営業が仕様変更の話を持ってくるのでいつだって冷たくなって少し硬くなった物ばかりを掻き込んでいたように思える。当然味なんて覚えていない。
誰かが用意した温かな食事なんてもう何年も味わっていないことを思い出した。
「味噌汁ってこんなに美味しかったんだ」
しみじみと呟く。
飽食の時代と言われて久しいが、多忙に次ぐ多忙でその食事ですらまともに摂っていない。こんなチェーン系の牛丼屋の味噌汁を一口含んだだけで、どうしてだろう泣きそうになる。
正直、会社でどれだけ悪態を吐いて己の気持ちを奮い立たせたって本当は限界を感じていた。
もう何年もまともに休みを取得したことがないし、むしろ休日出勤に泊まり込みまでして命を削るようにして働き続けた。
友人も恋人もいないまま気が付けば33歳だ。
生きるために仕事をしているのか、仕事のために生きているのかわからなくなる。家族と疎遠になって久しいし、今はもう生存確認の電話が来ることもない。携帯電話を鳴らしてくれるのは決まって会社かクライアントからだけだ。
こんな生活してて、本当に意味があるのだろうか。
隆則はわからなくなってきた。
システムを組み立てるのは楽しい。何もないところから自分が組み立て上げ理想通りに動けば嬉しくなる。どんどんと増えていく開発言語を覚えるのだって楽しい。出来上がりデバックを繰り返す中でも自分の作り上げたシステムが想像した通りの動作をすれば子供が成長したかのような錯覚に陥て嬉しくなる。
だが手放した瞬間、どうしようもない虚無感に襲われるのだ。なんのためにそれを作り、なんのためにこんなに苦しい思いをしたのかがわからなくなる。それを誤魔化すように次から次へとやってくる仕事をこなすことで気付かないようにしていた。
たった一口の味噌汁で急に心が動くほど、自分は疲弊していたのだ。
それが分かった瞬間、隆則を支えていた何かが崩れていくのを感じた。
アドレナリンが大量放出していたさっきとは違う、本当に落ち着いた心で今の自分を見つめ始めていた。
「あの、良かったらこれ使ってください」
さっきの店員が濡れたおしぼりを渡してきた。
「え?」
「……泣いてますよ」
言われ慌てて自分の顔に触れれば、濡れた感触がそこにあった。
泣きそうだと思ってはいたが、泣いている自分に気付かないほどだとは想像もしていなかった。
「ぁ……すみません」
慌てて差し出されたおしぼりを顔に当てる。
なんで泣いているのか自分でもわからないまま、次から次へと零れ出てくる涙を熱いくらいのタオル地に染み込ませていく。
「温かい物って、食べると幸せになりますよね。急に幸福感が増してくるというか、脳がセロトニンという幸せホルモンを分泌するからだと言われてます。だから温かいうちにいっぱい食べて幸せになってください」
「ぁ……りがと……」
「俺、奥に引っ込んでますのでゆっくり食べてくださいね」
みっともないところを見せたことよりも掛けられた言葉が温かくて、ドロッと涙が一気に溢れ出てきた。ドライアイで苦しんでいたはずなのに、こんなにも溢れ出てくるなんて知らなかった。
いい年をした男が恥ずかしいと分かっていても、久しぶりにかけられた優しい言葉が、温かいみそ汁と一緒に身体に染み渡る。
涙を流しながら鼻水を啜りながらもう一口味噌汁を啜れば、疲弊し続けて麻痺した心がほんの少し色どりを取り戻してきた。さっきまでのからっぽで死ぬことなんて容易かった心とはほんの少し違っていた。
味噌汁で温まった身体に、今度は牛丼を入れていく。
砂糖と醤油で煮込んだ肉の味が口いっぱいに広がり、それをゆっくりと租借しながら飲みこんでいく。一口また一口と温かいご飯を運びながら、時折鼻水を啜った。
こんなにも食べることが幸せだと感じながらご飯を食べたことはない。小さい頃どうだったか全く思い出せないが、少なくとも今の会社に入ってからは一度もない。冷たいビールを流し込みながら、いつからテーブルに置かれたのかわからない揚げ物を口にするだけの飲み会だって、味を思い出すことなどできない。
チェーンのどこでも同じはずの牛丼とみそ汁が泣けるほど美味しいと感じるくらいに、どうしようもなく疲れているのが感じられて、会社を辞めるほうに気持ちがシフトし始めた。
半熟卵を半分まで減った牛丼に乗せ、箸を入れ卵黄に絡めた牛肉を頬張れば、何とも言えない幸福感が身体中に広がっていく。
漬物のシャリシャリした感触も揚げ物ばかりを食べ続けてきた隆則には心地よい。
本当に時間をかけてゆっくりと全部食べきるころには、不思議なくらいに心にあった閊えが取り除かれ平常心が訪れていた。
「ごちそうさまでした」
小さな声で礼の意味も込めて口にすれば、深夜に似合わない元気な声が飛んでくる。
「ありがとうございましたっ!」
早口なのに活舌がいいから一音一音がちゃんと耳に入ってくる。
奥からあのイケメンの店員がひょこっと顔を出してにっこりと顔を出しフワリと笑いかけてきた。
「また来てくださいね」
ありふれた営業トーク。なのに、隆則の胸がギュッと締め付けられた。
後ろ髪をひかれるような思いで店を出ると秋の夜の冷たい風が頬を撫でるが、満たされた胃袋を抱えた今、冷たさをあまり感じなかった。
隆則は冷たい空気を肺一杯に吸い込んでゆっくりと吐き出した。
もう午前一時を半分も回って電車から降り立つ人もいないせいで人気が全くない商店街、不気味なはずのその道を満ち足りた気持ちで歩き出した。
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