おじさんの恋

椎名サクラ

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本編1

3-1

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――五年前――



「もう無理だ……」
 一ヶ月まともに帰宅できない修羅場を潜り抜けた隆則は死相を顔に浮かべながら、久しぶりの帰路についていた。

 新規のクライアントを獲得した営業が張り切るのは勝手だがそのしわ寄せが開発に来ることがわからないらしい。

(あいついつか殺してやるぅ)

 優柔不断なクライアントの言いなりになっている営業が何度も仕様を買えたり変な追加をしたり、しかもそれを全部初期の見積もり費用に含めてくれたものだから、隆則の残業代だけで大赤字のシステムになってしまった。上司に訴えても、営業部に弱みがあるのかちっとも聞き入れてくれず、「育ててやってくれよ」といういい加減な一言で逃げられ、どこにも不満をぶつけられないまま納品までやってきたのだ。

 そのおかげでたっぷりと五キロは痩せた。ついでに何度か三途の川を渡りかけた。このまま本当に死んでしまいたい。目の下にたっぷりとクマを飼ってようやく会社から数駅離れた場所にある自分のマンションのある駅に降り立った。

 しかも終点間近ではなく終点そのものでの帰宅だ。

「まぢ死ぬ……もう死にたい」

 これで待ち受けているのは誰もいない一人の部屋だ。しかも、汚い。徹夜続きのテンションで購入した大きな冷蔵庫もほぼ空っぽで食べるものはなにもない。

 まともに家に帰ることができないから、食料を入れても腐らせてしまうのが理由だが。

「なんか、食べようかな……」

 あまりにも鬱々としてしまってこのままでは線路に飛び込みかねない……もう駅の灯りが消えたから電車が通ることはないが。胃袋に何かを入れたら少しは生きる気力が出るかも。

「空いてる店……あるのか?」

 日付が変わってしまった今、空いている店はあるのだろうか。

 フラフラと駅前の商店街を歩いていくが、どこもかしこも閉まっている。この商店街のシャッターが空いているのを見たのは、引っ越し当初しか見たことがなく、どんな店があるのかがわからない。もうずっと会社の傍にあるコンビニの弁当ばかりだ。もう飽きた。コンビニ弁当の代わり映えのない内容は、目に入るだけで食傷してしまう。

 けれど、何か食べなければ自分は絶対にこのまま死んでしまいそうだ。

「なにか……みせぇ……」

 商店街を練り歩いていると、煌々と看板を光らせている店が一軒だけあった。

「あれ、これできたんだ……」

 チェーン系牛丼屋のオレンジ色の看板が隆則を手招きしているようで、考えの行き届かない頭がぶわぁっとあの何とも言えない味を送り届けてくる。

 チェーン系だからどこにでもあるようなイメージだが、会社の傍には存在してなかったなと思うと妙に食べたくなった。特別美味しいものではないはずなのに無性に食べたくなる瞬間というのが訪れ、フラフラの身体のまま扉を開いた。

「いらっしゃいませー」

 誰もいない店内から元気な声が飛んできた。もう日付も変わった今にこんな元気な人間がいるなんて信じられず、声の主を探した。狭い店内で客が座る席はすべて空いており、でも人の姿は視界にない。

「ぇ……?」

 もしかしたら食券機から出てきた声なのだろうか。今の食券機は扉の開閉に反応してこんな元気な声を出すのが主流なのだろうか。

「あ、どうも……」

 死んだ脳のまま食券機に頭を下げポケットから財布を取り出し定番の牛丼を注文しようとお金を入れるが、なぜかはじき出される。何度も何度も突っ込むがそのたびに拒絶するように戻されてしまい、入店自体を拒絶されているような気になる。元気に歓迎してくれたのにここで拒否か……自分は結局拒絶される人間なんだと思うと、もう店から出てちょっと先にある川にでも飛び込んでしまおうかという気持ちになってきた。

 そうだ、電車がだめだったら川がある!

 ちょっと水量が少ない気もするが、橋から落ちたらそれだけで昇天できるかもしれない。

 なんとなく今の環境から逃げ出す方法がそれしかないように思えて、違う意味で隆則の目が輝いた。

 機械にまで拒絶されてしまったのならしょうがない。仕事も頑張っても頑張っても終わらなかったしいい加減歳だし、買ったままほとんど帰れないマンションの支払いも終わってるし、思い残すことなんて何もないじゃないか。

 気分は「そうだ、〇都に行こう!」よりもノリノリな「そうだ、天国に行こう!」になり始めていたその時、背後からニュっと腕が伸びてきた。

「お客様、これお札じゃないですよ」

 耳に心地よい穏やかな声が鼓膜を震わせた。

「え?」

 よく見れば、さっきからずっと差し込んでいたのは財布に入れっぱなしの宝くじだ。なぜこれを紙幣と間違えて何度も入れていたのか自分でもわからないし、機械が必死に弾き返してくるのも当たり前だ。

「あ、すみません!」

 慌てて後ろを向き、隆則は固まった。

(やばい、かも……)

 店の制服を身に着けた長身の若い男は、がっしりとした体格が服越しでもわかり半袖のポロシャツから伸びた腕は筋肉質で逞しかった。だが、隆則の動きを止めさせたのはドンピシャなまでに自分好みの顔だ。

 くっきりとした二重の眦が少し下がって優しい雰囲気を醸し出し、高い鼻に厚めの唇は、どこからどう見ても日本人離れした容姿。まるでどこかの芸能人のようだ。どうしてこんな人間がこの都心から少し離れた深夜の商店街にいるのだろう。この少しだけ日本人離れした顔と長身で筋肉質というのが隆則のストライクゾーンどんぴしゃだ。隠れゲイで自分の性癖をひた隠しにしているが、こういう男が目の前に現れると抱かれたいと思ってしまうのだ。

 すぐに相手から視線を外し、自分に一番無関心な無機物に向き合った。

 慌てて宝くじを財布に戻し、千円札を取り出した。

「ゆっくりで大丈夫ですから」

「あ、ども……」

 声まで良い……さっきの声の主は彼なのかとようやく動いた頭で理解した。そうだ、機械はこんなにも生々しい声を出すはずがないし、そもそも好感を抱くように女声を使うのが常だ。

(何を勘違いしたんだろう……)

 脳がおかしくなっているのをようやく理解して落ち着こうと深呼吸を繰り返しながら、牛丼の並が記載されているボタンを押す。だが出てきたのは小さな紙が一枚、またパネルはどれを選ぶんだというように光り始めた。

(えっ、もっと買えってことかよ……)

 仕方がないから、あまり興味のない味噌汁と漬物のセットを押す。それでもまた光る。仕方ないから半熟卵も追加してとボタンを押してから、おつりのボタンを押さなければメニューパネルは灯り続けることを思い出した。

「やべ、買い過ぎた……かも?」

 だがキャンセルを言い出せる勇気はない。

 近くの椅子に腰かけ食券をテーブルに置くと、さっきの店員がすぐさま回収しに来る。

(無駄にカッコいいな……)

 牛丼屋の店員をしているよりももっと派手で実入りのいいバイトでも採用されそうなのに。疑問に思いながらも頭はもう何も考えたくないとばかりに動きを鈍らせていく。なにせ会社で脳はフル回転させたのだ、少しは休ませてやらなければまともに動くわけがない。
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