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1巻
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綺麗だろう。
訊かれて、頷くだけだった。
とてもとても美しく、キラキラと陽光を反射させては姿を変え、さっきまでと違う景色になり、一瞬も同じ光景ではない。
サーフボードを抱えながら引き上げてくる人々のシルエットですら一枚の絵のようだ。
その中に自分もいるのが不思議に思え、異物と排除されないかと不安が湧きあがるたびに、身体を強張らせる朔弥を力強い手が握りしめてくれた。
昨夜初めて抱きしめられたときと同じ安心感が広がっていく。
海の傍に並ぶカフェで昼食を摂り、駅前から続く有名な参道を並んで歩いた。
「凄い人ですね」
休日ということもあり、狭い道に人がひしめいている。少し離れた店の中すら見られないほどの人波では、二人が手を繋いでいても気付く人はいない。
「休日はだいたいこんな感じかな。気になるものはあるかい?」
趣向を凝らした土産物屋が両脇にずらりと並び、修学旅行で訪れた京都を思い出させる。
どれも気になって、どれも手を出すのが躊躇われる。そんな朔弥の様子を見て、柾人は気軽に雑誌に載っていそうな店に入っては、あれこれと手に取り始めた。気になったものは朔弥にも見せてくる。さりげない仕草なのに思いやってもらっているのが伝わってきた。
同時に欠片も嘲られないことに驚く。
物慣れない朔弥をずっと愛おしそうに見つめてくるその眼差しが、ありのままの自分を肯定してくれているようで、居心地が悪くて、くすぐったい。
こんな風に見つめてくる人はいなかった、誰も。
時折髪を撫でてくるのも、人目を気にせずそこにキスを落とすのも、当たり前のように手を繋いでくるのも、全部が初めてで戸惑うのに、揶揄ってくることは一度もなかった。
この人はなにを思っているのだろう。こんな自分でもいいのだろうか。
不思議な心地で一緒にいれば、柔らかい笑顔を向けてくる。なにも心配することはないというように。
道が混む前にとまた車に乗り込んで都心へと戻る。
その頃には柾人が隣にいるのが心地よくなっていた。僅かに残る手の温もりが消えてしまうのが嫌で、ギュッと握り込んだ。ちらりと左を見ると、上機嫌な柾人がステアリングを握っては、嬉しそうカーステレオから流れるジャズを口ずさんでいる。
古いのに乗り心地のよい車は、そのまま東京タワーの傍まで戻ると、躊躇うことなく有名なホテルへと入っていった。
ドキリとした。
柾人の家から歩いても行ける距離なのに、なぜここに入るのか。
(もしかして……されるのかな)
あれだけ時間をかけたならもういいと思われたのだろうか。
訝しんだまま後に続いた朔弥が案内されたのは、上階にあるレストランだった。
促され席に着くと、優雅な手つきでメニューが差し出される。
「なにが食べたい? 誕生日ディナーだから朔弥の好きなものを頼んでくれ」
横文字が筆記体で並び、その下には長いメニュー名が書かれてある。
どれを選んでいいかわからず顔を上げ柾人に助けを求めたが、柾人は向かいの席で緩やかに微笑むばかりだ。
「なんでもいいんだ、朔弥がなにが好きか、なにを食べたいかが知りたいんだ」
君の誕生日なんだから、と。
ひと月も過ぎてしまった誕生日の祝いだから、組み合わせなんか気にしないで食べてみたいものを注文すればいいと、大人な『恋人』が言ってくる。
「でも……」
「まだ付き合ったばかりだ、もっと君のことを知りたいんだが、ダメかい?」
「……知って、どうするんですか?」
そんなの知ったところで、なにになるのかわからない。
「知っていることが喜びだろう。私はもっと朔弥のことを知りたいと思っているよ。好きなものを知っていれば、いつでも君を喜ばせることができるだろう。私はね、もっと朔弥が嬉しそうに笑う顔が見たいんだ」
朔弥は零れそうなほど、目を開いた。
そんなこと、考えたこともなかった。ただ相手の願いを叶えればいいと思っていた。
驚いたまま柾人を凝視する。この人は今までと違うのかもしれない。
信じてもいいのだろうか。
朔弥の心に小さな炎が灯り始めた。
第二章
「倉掛常務ぅ、朝からご機嫌ですねぇ」
ふわふわ系女子を標榜している社員の宮本が、綺麗に巻いた髪を跳ねさせて近づいてきた。
重要な会議を終えたばかりの開発部は、ずっと続いていた緊張の糸が緩んだようで、どこか気が抜けた雰囲気になっている。今日のためにずっと資料を作り続けていたメンバーの数名は椅子にでろっと、座っているのか倒れ込んでいるのかわからない姿になっている。
「そうかい?」
ノートパソコンを近くのデスクに置くと、目をキラキラとさせた部下に向き直る。漸く訊くことができたとばかりに好奇心たっぷりの表情を向けられ苦笑が零れる。
「最近、いいこととかあったんですかぁ?」
わざとらしい舌っ足らずな喋り方をしても、実はなかなかに有能な部下は、遠慮会釈なく核心を突いてくる。
「そう見えるかい?」
「だってぇ、ここ最近ずーっとニヤニヤしててー、ぶっちゃけキモかったですもぉん」
「……そこまでいうか?」
IT系ではよく見られる上司と部下の距離の近さをそのまま映し出したように、どんどんと顔を近づけてくる。さすがに身長差があってぶつかることはないが、本能的に一歩引いてひょいっと交わした。
それでもめげずに追いかけてくる。
「ホントですってぇ。だからーゴールデンウィーク前からだぁれも話しかけなかったんですよぉ」
そんなことはないだろうと周囲を見渡せば、頷いたり彼女に向って親指を立てる強者までいた。
「いや、なにもない」
「それ、ぜぇーーーーったい、嘘です」
「本当になにもないが」
当然、嘘だ。
ずっとずっと焦がれていた人と、漸く恋人になり甘い休日を送っているなど、部下たちに触れ回るものではないが、弾んだ心は抑えきれなかったようだ。今だって仕事を放り投げて朔弥に会いに行きたい気持ちをぐっとこらえ、会議に出たり必要な仕事をこなしたりしているというのに、そのすべてを見透かすような爛々とした目で見られて嘆息しか出ない。
「宮本ぉ、無粋な質問だ、それは」
『屍』の中から声が飛び出す。
「どうせ、可愛い子猫ちゃんだか、子兎ちゃんを拾ったに決まっている。もしくは誘拐したか」
会社の立ち上げメンバーで、本来なら柾人と同じように経営陣に加わると思っていたのに現場から離れないと主張し、会社の株をたっぷり持ちながらも開発部部長という役職に居座っている傑人の和紗が吐き捨てるように言う。
「……和紗ちゃん、その言い方はひどいぞ」
いくら大学時代から気心の知れた仲とはいえ、あまりな物言いだ。
中らずと雖も遠からずだが。
「あー、可愛い恋人さんができちゃったんですねぇ。ラーブラブしてたんですねぇ。部下が死にそーな連休を送ってるときに」
死にそうと言いながらメイクもヘアスタイルもばっちりな宮本には言われたくはない。
「酷いです、みんな休日返上で資料作ってたんですよぉ! お詫びに恋人情報の提供必須です」
「黙秘権を行使する」
「聞かなくてもわかる、どうせ可愛くて守ってやりたい系の男の子だよ。毎回毎回、どこで捕まえてくるんだか。宮本、そんなに誰かのノロケを聞きたいんだったら、社長のところに行けばいい。一時間でも二時間でも語ってくれるぞ」
「社長は嫌ですぅ。変態上層部でも一番の変態じゃないですか。きゃわきゃわハニーの話は聞き飽きました! 宮本ぉ、ノロケを聞いた時間分の特別手当が欲しいです!」
「……その変態上層部の中に、私も入っているのか?」
「あれぇ、もしかして常務ぅ自覚ないとか言っちゃうんですかぁ?」
そんな風に言われる筋合いはない。自分はただ恋人を思いきり甘やかして愛でるのが趣味なだけだ。その愛で方が他者と異なるだけで、なにもおかしいことはない。
特に、自他ともに認める変人である社長とだけは同列に語られたくはない。事務系以外の仕事は申し分ないし、開けっぴろげな人柄のおかげで社内の風通しがいいのは、柾人にとって居心地がよいが、特殊な性癖とイコールで結ばないで欲しい。
精鋭ぞろいの開発部に立ち寄ったことを早々に後悔し、仕事の話をしようにもその雰囲気ではなくなったので、柾人はそそくさと自分のデスクがある常務室へと入っていった。
まだ月曜日。ゴールデンウイークのすべてをともに過ごした朔弥と別れてから一日も経っていないのに、もう会いたくなってくる。
抱きしめて薄く可愛い唇にキスをしたくなる。
(週末まで我慢か……)
キスに漸く慣れてきた朔弥の顔を思い浮かべる。
ただ唇が触れ合うだけの口付けでも顔を真っ赤にして恥ずかしげに俯く綺麗な恋人は、少しずつではあるが柾人に心を許してくれているように思う。
まだ身体を重ねるには至っていないが、失恋でささくれだった心が、ひと月で漸く癒えてきたように思える。
「仔猫か子兎、か。言い得て妙だ」
朔弥の雰囲気にぴったりな言葉だ。警戒心はあるのにつぶらな瞳でじっと見つめてくる様がよく似ている。こちらの動きに警戒しつつも、慣れ始めると無意識に身体を寄せてくるところも同じだ。
それが愛おしくて堪らない。
ただ、スキンシップに対して極端に怯えているのが気になった。
触れるとビクリと跳ね、震えた大きな目が見上げてくる。柾人だと確認すると肩の力を少しずつ抜き、恋人の距離を保とうとするのだ。懸命で必死で、庇護欲を掻き立てると同時に、泣かせてみたい衝動に駆られてしまう。
(あの子は危ないな……こちらの本能を煽りすぎる)
抱きしめたくてしょうがない。もう怖がることはなにもないんだと教え、この腕の中に閉じ込めてしまいたい。
同時にどこまでも暴きたくなる。彼の心も身体もなにもかもを知って、すべて自分が奪い取りたい衝動に駆られる。
今はまだ朔弥の心を溶かす期間だと堪えているだけに、時折見せる被虐的な表情に心が揺すぶられてしまうのだ。衝動的に抱きたくなり、理性を総動員して律しないと自分を抑えることができないまでになっている。
それほど無意識で煽ってくるのだ、朔弥は。
やっと名前で呼んでくることに慣れ、少しずつではあるが心の距離が縮んでいると感じる今、無理に抱くことなんかできないだけに、柾人は修行僧のような忍耐を試されている。
ゴールデンウイークだけでなく、恋人同士になってから週末は朔弥をマンションに泊め、長い時間を一緒に過ごしているが、限度はすぐ傍までやってきていた。
寝室を同じにしないことでなんとか耐えているけれど、彼の寝顔を見ると堪らなくなってしまう。
愛おしいと穢したいが同居して、柾人を苛む。
朝からずっと朔弥のことを考え、会議の内容も本当は半分くらいしか頭に入っていない。
少しでも気が緩むとすぐに朔弥の顔が脳裏にちらついてしまい、じっとしていられなくなる。すぐにでも会いに行きたくなるのをぐっと堪え、連絡をするのでさえ我慢している状態なのだ。
(アパートに帰すのは今朝にすればよかった)
車で大学まで送れば、それだけ一緒にいる時間が長くなる。そんな小さな計算をしてしまうほどに、柾人の頭の中は朔弥でいっぱいだ。
いい年をした男が些細なことで落ち着きをなくしてしまう。
間もなく三十になろうというのに、この恋に浮かれている自分を止めることができない。
そうさせているのは間違いなく、朔弥の存在だ。
過去の恋すらどんなものだったのか思い出せないほど朔弥ばかりを想い、愛おしさが募ってくる。
かつての自分と似通った部分を見つけては守ってやりたいと願っていたのに、このひと月、一緒にいて初めて知る朔弥の姿は、柾人を魅了して止まない。バーで一方的に見ていたあの頃よりも確実に愛おしさは膨らみ、もっともっと大事にして閉じ込めたくなる。
今頃、愛おしい彼はなにをしているのだろう。大学は終わっただろうか。
寸暇すら惜しむように、朔弥のことを考えてしまう。
名の通った大学に在籍しているのに、驚くほど自己評価が低い。現役でK大に合格するのにどれほどの人間が必死で勉強しているだろう。それすらもわからず、ただ私立というだけで卑屈になっているのが不思議だ。
なによりも、自分に自信がないのが不思議でならないほど、会話の端々から朔弥が優秀であることは手に取れる。
一体どんな幼少期を送ってきたのだろうか。ずっと気になっているが、未だに聞けずにいる。
傷を抉らないように、彼の目がずっと柾人を追うようになってから訊ねても遅くないだろうと自分を抑えつけているが、実力に見合わない卑屈さがまた庇護欲を掻き立ててくる。
もっと朔弥のことが知りたい。彼の本音を吐き出して欲しい。
だから僅かなことでも朔弥との会話の糸口を掴もうと、一人の時間を情報収集に努めてしまう。
大学在学中に親しい友人数名とこの会社を立ち上げた柾人は、必要最低限にしか学舎に通っていなかったからカリキュラムなどあまり記憶には残っておらず、彼と話す知識を得るために、帰宅後はずっと朔弥の専門についてや講義の時間などを調べて寝るのが遅いなど誰にも言えない。
それほどまでに朔弥のことばかり考えてしまう。
自分が想像していたよりもずっと朔弥は表情豊かで、照れたように笑う顔も、呆れて怒る顔も、どんな表情も柾人の好みだった。恥ずかしがるそぶりも……
「だめだ、ここは会社だぞ」
これ以上思い出すと、それこそ仕事を放り出しかねない自分を戒め、仕事に専念しようとパソコンを開いた。
「おーい倉掛! カワイ子ちゃんを手籠めにしたって本当かい?」
社員の勤労管理とプロジェクトの進捗を照らし合わせていると、先ほど社員に散々言われた社長が入ってきた。しかも、ノックなしに勢いよく扉を開いて。
「……たまにはノックしようと思わないんですか? というか情報が早いですね……」
「僕と君の仲だろう。なに気取って敬語なんだ。で、噂の真相はどうなんだい?」
「黙秘権を行使する」
「気づいてる? 君がその言葉を使うときはたいてい肯定してるってことに。というわけで、噂は本当っと。また可愛い男の子が悪い男の餌食になっちゃったよ」
嬉しそうに答えながら社長はスマートフォンをポチポチ操作した。
きっと社内SNSに面白おかしく柾人のことをネタにした内容を送っているのだろう。妙にあけっぴろげな社風はすべて社長の人柄が反映されている。
「……お前らの中で私はどんな人物像になっているんだ。きちんと手順を踏んで交際を申し込んでいるのに、誘拐だの餌食だの言われないといけないのか?」
さすがの柾人も黙ってはいられなかった。
「怒らない怒らない、僕たちは祝福しているだけだよ。前の子を束縛しすぎて滅多くそにふられてから、一年もフリーで色っぽい話のない君を心配していたから、みんな大喜びなのさ」
「……ちっとも祝福されているようには思えないんだが」
「気のせい気のせい。社を挙げて絶賛祝福中だ」
にやにやして社長が画面を見せてきた。そこはなんと七月に行われる社の上場三周年記念イベント専用SNSで、「倉掛の仔猫ちゃん、パーティへの参加決定!」と勝手に記載されている。
しかも関係者から続々と、祝福なのか揶揄っているのかバカにしているのかわからないようなコメントが雪崩のように続いている。
「なに勝手に決めてるんだ! 相手にも事情があると考えたことがないのか! みんなもバカ乗りしてるんじゃない!」
慌ててノートパソコンからSNSにアクセスし、参加拒否を知らしめようと躍起になる。
風通しはよいが変人だらけの恐ろしい会社に朔弥を連れてくることなどできるものか。ないことないこと、面白おかしく吹き込まれ遊ばれるに決まっている。特に社長は自分の可愛い伴侶(表面上は息子となっているが)を自慢する新たな相手が欲しいだけに決まっている。
「いやぁ、倉掛常務はみんなに愛されているね。というわけでパーティに仔猫ちゃんを連れてくるように。これ、社長命令だから」
好き勝手言って手をひらひらさせて退出していく社長の背中めがけて、デスクにあった会社のマスコットキャラのぬいぐるみを投げつけたが、閉まったドアにぶつかっただけだった。
「ちっ」
落ちたぬいぐるみを拾い上げ舌打ちをする。
開けっぴろげすぎる社風は気に入っているが、その話題の中心が自分だと話は変わる。なにが嬉しくて大切な恋人を奴らの暇つぶしの餌として与えなければならないのか。
しかも今は朔弥との心の距離を縮める大切な時期だ。少しずつ信頼関係を築き上げ、互いのことを知り、互いのことを理解するのがなににおいても最優先だというのに……
「全くこの会社の奴らといったら」
自然と眉間に皺が寄る。
誰が連れてくるものか。
大事に大事に籠に閉じ込めて、誰の目にも晒さずずっと柾人のことだけを考えて欲しいという欲望をぐっと堪え、彼をアパートへと帰しているというのに。
会えない時間が愛を育むとはよく言ったものだ。隣にいないからこそ、どうしているのか、なにをしているのだろうかと想いを馳せてしまう。
仕事に戻ろうにも、もう頭の中は朔弥のことでいっぱいになってしまった。
脳裏に浮かんだ朔弥を消すのはもったいないが、やるべき事を片付けるのが先だ。
切りのよいところまで進め、柾人はいつも仕事で使っているある会社に依頼のメールを出す。
窓には、沈み切ろうとする太陽の名残に照らされてオレンジに輝くビル群が広がっている。大小様々な建物のはるか向こうに朔弥のアパートがある。
ゴールデンウィーク中に恋人の大改造を試みた柾人は、朔弥が他者からどう見られているのか自覚したかが気になった。
『お綺麗な方ですが、あまり見せびらかすのはお勧めいたしかねます』
朔弥の髪を切った馴染みの美容師は、心得ているのか深くは詮索してこなかったが、澄ました顔で忠告してきた。
同じ趣向の美容師の言葉は、柾人の葛藤を的確に表していた。
これほど魅力的な恋人だ。見せびらかしたいと思うのと同時に、他の男の目に触れさせず家の中に閉じ込めてしまいたいという欲求に駆られる。
「わかっているよ」
言われなくてもわかっている。
だが男とは哀れな生き物だ。わかっていても見栄を張りたがる。恋人が極上なら尚のこと。
(朔弥を二度と新宿には近づけさせないほうがいいな)
柾人がいない隙に誰かが奪い取るかもしれない。それほどに特種な嗜好の人間にとって朔弥は魅力的な存在なのだ。本人はあずかり知らないだろうが。
焦燥と優越。見栄と執着。様々な感情が入り交じって魅了されていくのだ、彼という存在は。
そして離れているのが不安になってくる。元来の性癖もあるが、朔弥は今までの恋人たちよりもずっと強く閉じ込めてしまいたいと思わせるのだ。一秒たりとも放したくはない。
どうすれば自分は安心できるだろうか。その方法を柾人は知っているが、まだ朔弥に求めることは憚られた。
「少しだけだ……」
自分に言い訳して柾人はスマートフォンを取り出した。
◇
ゴールデンウィークが明けた大学はにわかに騒がしい。
やっと講義が始まり、単位取得に忙しくなってきたこともあり、キャンパスにも学生の数が増えた。
勉強に専念するために生活費も実家からの仕送りで賄っている朔弥は、一限目からがっつり入れている。
教授の講義を真面目にノートを取り、疑問点にマーカーを引いていく。あとで教授に質問しようと内容をノートの隅に書き流していけば、九十分の講義はあっという間に終わってしまう。次の講義に移動する前に教授に聞かなければと荷物をまとめていたら、後ろから声をかけられた。
「ねぇ、山村くんだよね」
「あ……はい」
「やっぱり! 凄い雰囲気変わったからわからなかった!」
同じ講義を取っている女の子が数人集まってくる。
「えっ?」
「なんかすっごいイメチェンしてない? ゴールデンウィーク明けたら別人みたいになってるから、びっくりした」
教授以外の誰かから話しかけられたのは初めてで戸惑っていると、今まで話したこともないのに彼女たちは親しげに触れてこようとする。
「服もイケてるね、どこのブランド?」
私立大学だけあって、垢抜けた格好をしている学生が多く、こんな会話は珍しくもないのだろう。けれど朔弥は、今まで特に目立つこともなく地味な格好をしていただけに、知らない学生に親しげに声をかけられてもなにを話せばいいかわからない。服のブランドもわかるはずがない。
「ごめん、もらったものだから……」
そう、なに一つわかっていないのだ。
(だってこれ、柾人さんが買ったヤツだから……)
思い出して顔が熱くなる。
『これから休みの日は私と一緒に食べよう』
その言葉通り、恋人になってから、金曜日の夜から日曜日まで二人は一緒に過ごすようになった。
彼の家を訪ね、一緒に食事をし、同じ時間を過ごす。こんなことは初めてで、なにをすればいいかわからない朔弥を導くように、柾人は様々な話題を振ってくれる。
聞き上手な上に話し上手で、専門科目の勉強が不得手だと零せば、なにがどう苦手かを聞き出し、要点を見事に上げてくるのだ。
決して知識をひけらかすのではなく、学校の先生が生徒の相談を受けているのと同じように、親身に寄り添ってくれる。
(あぁそうだ、オレに優しかった人は皆こんな距離感だった)
ぐいぐいと近寄って親切にするが、いつのころか自分のほうが優秀だと見せつけるようになる人は、最後は必ずといっていいほど朔弥を傷つけてきた。それは元彼の市川も同じで、自分の優秀さだけを突きつけて満足していたように思える。
(そう言えば、最近あの人のことを考えなくなったかも)
久しぶりに市川のことを思い浮かべた朔弥は軽く驚いた。
あれほど傷ついたはずなのに、今は思い出しても客観視できる。彼がどうだったのか、なにをしていたのか、俯瞰で冷静に思い返すことができると同時に、胸が痛まなくなった。
なぜかと考えてすぐに気付いた。自分の心がとても豊かになっている。
焦っていないのだ。
(当然……かもしれないな)
週末ごとに会っては、当たり前のように愛を囁いてくれるのだ、柾人が。甘い言葉は朔弥の心を満たしてあまりある。なのに、初日にそういう雰囲気が一瞬あった以降はなにもしてこない。手を握ったり髪へのキスは当たり前のようにしてくるのに、それ以上は何もしてこない。それが不思議だった。
痛い思いをしなくていいのならそれに超したことはないが、では自分になにを求められているのかがわからない。柾人はなにを考えているのだろうか。
昨夜別れたばかりだというのに、僅かなきっかけで彼のことを考えてしまう自分に気付かないまま、朔弥は彼女たちの質問攻撃にタジタジになっていく。
「バッグもカッコいいのじゃん!」
頭のてっぺんから爪先まで見られ、どう反応をしていいのかわからない。
誕生日祝いはディナーだけかと思ったら、その後が凄かった。むしろ当日に贈れなかったのが悔しいとばかりに、週末の度に「朔弥に似合うものを見付けた」と様々なものを贈ってくれる。
(ゴールデンウィークは凄かったな……)
一緒に出かけた繁華街で、いつものように手を繋ぎ歩いていた。それだけだと思った。
春の爽やかな風が吹き抜け、街の象徴となっている柳を揺らしているのを横目に、朝の散歩とまだ人の少ない大通りを進んでいた。
なのに連れて行かれたのは美容院で、有名らしい美容師は愛想のいい接客で朔弥を椅子に座らせた。
柾人と旧知の美容師は、アイコンタクトだけですぐさま心得たように軽快に朔弥に話しかけては驚くほどの手さばきで鋏を入れ始める。
一時間もすれば、朔弥は入店した時とは見違えるほど清麗な印象へと変わっていた。前髪を少し長めに残し襟足を短くしたネープレス・マッシュな髪型は、朔弥の細い首筋を綺麗に見せ、儚げな印象を強くする。
こんなにもお洒落な場所で髪を切ったことがない朔弥は、鏡に映った自分の姿が信じられなかった。全くの別人がそこに映し出されていた。
「えっ、あの……柾人さん?」
カットが終わるのを経済誌を捲って待っていた柾人が、雑誌を放り出すようにしてすぐに近づいてきた。
「あぁ、とてもよく似合っているね。思った通りだ」
「いかがでしょうか。もう少し短くするよりも、まめにご来店いただいてこの形をキープされては」
満足げに何度も頷く柾人に美容師がカットの説明をするので、朔弥は自分のことなのに置いてけぼりにされたような気持ちになる。だが、嬉しそうな柾人の顔を見るとなにも言えなくなった。
「そうだね、頼んで正解だったよ。助かった」
「いえ、ご希望に沿えて安心しました」
朔弥がケープを片付けられている間に柾人が会計を済ませてしまったので、どれくらいかかったかもわからない。肩を抱かれて店を出ると、慌てて柾人にしがみついた。
「あの、いくらでしたか? オレ、今あんまり手持ちがないけど、返します!」
きっと高いに決まってる。なのに柾人は一瞬きょとんとして、すぐにいつものように笑いかけてくれた。暖かな眼差しが細められる。
「私が勝手にしたことだ。気に入ったなら、君は素直にありがとうと言ってくれればいい」
「でもっ!」
「朔弥、私といるときは私のわがままを聞き入れてくれないか。それにね、君には格好いいところを見せたいんだ。お願いだ」
頼まれると朔弥もこれ以上は強く出られなくなる。
ずるいと思う。そんな風に言われたら、とても愛されていると勘違いしてしまう。
「甘えてくれるかい?」
この言い方もだ。下手に出て、けれど自分を曲げはしない強引さが、自己主張できない朔弥から罪悪感を奪う。
「……はい」
「では次に行こうか」
「え、次?」
「私の家に置く朔弥の服が必要だろう。……下着もね」
「なっ、なに言ってるんですか!」
出会った翌日に渡された下着を思い出させる。
包む部分が少ない下着は再び身に付ける勇気がなく、タンスの一番奥に隠してある。今まで一度として会話に上がらなかったのに、こんな大声が出せない場所で言うなんて卑怯だ。
笑いながら柾人は、真っ赤になる朔弥の手を握った。いつもと同じように。
こんな大通りで誰に会うかもわからない場所なのに、彼は決して躊躇ったりしない。指を絡ませ強く握ってくる。そのたびに恥ずかしさと安心感が朔弥に満ちていく。
ずるい。
なのに、嬉しい。
「ありがとうございます……」
尻すぼみになる礼を柾人は微笑むだけで受け取り、堂々とメインストリートに出る。
若者向けの店を数件梯子し、朔弥に似合う服や靴を見つけると躊躇いもなく購入していく。
大学に通うならあれもこれも必要だろうと買い漁り、日が傾き始める頃には二人でも持ちきれないほどの量の紙袋となった。
「こんなに買ってどうするんですか……」
呆れて物も言えない朔弥に、さすがの柾人も苦笑する。
「素材が良すぎた。朔弥はなにを着ても似合うから……困ったな」
短い距離だが、歩行者天国が終了したメインストリートでタクシーを拾い、柾人のマンションへと戻った。
「……買いすぎです」
袋のひもで赤くなった手に、玄関を埋め尽くす袋を見つめて溜め息を付く。
こんなにたくさんあっても、着るのは朔弥一人だ。むしろこの量は、朔弥の大学期間中の衣類すべてを賄ってしまうだろう。元々身なりに頓着しない朔弥には贅沢品の塊にしか見えない。
「ここと君の家に分ければちょうどいいと思うんだが……どれも朔弥に似合う物ばかりだぞ」
「それだってまめに洗濯をすれば半分もいりませんよ」
「まぁ、そんなに怒るな。それより着替えよう。朔弥は線が細いからブリティッシュなスタイルが似合うな……これとこれ、あとはそうだ、この靴だな」
着せ替え人形のように柾人は自分が見立てた服を着せては満足そうに笑った。
なによりも驚いたのはキーケースだ。
そこにはティンプルキーと呼ばれる窪みがいくつもある鍵が一本だけかかっていた。
いつ朔弥が来ても良いようにと、エントランスや部屋の横の指紋認証も朔弥を登録してくれた。
「私に会いたくなったらいつでも来てくれればいい。仕事で遅くなることもあるが、連絡をくれればすぐに切り上げる」
この部屋の鍵だとわかって柾人を見れば、いつもの優しい笑みがそこにあった。
いいのだろうか。
彼がいるのが当たり前の日常になって。こんなにしてもらって、けれど呆れられ捨てられたら、今度こそ自分はどうなってしまうんだろう。
恐かった。けれど、返すこともできない。
また小さな声で「ありがとう」と言うのが精一杯なのに、胸だけは熱くなった。
訊かれて、頷くだけだった。
とてもとても美しく、キラキラと陽光を反射させては姿を変え、さっきまでと違う景色になり、一瞬も同じ光景ではない。
サーフボードを抱えながら引き上げてくる人々のシルエットですら一枚の絵のようだ。
その中に自分もいるのが不思議に思え、異物と排除されないかと不安が湧きあがるたびに、身体を強張らせる朔弥を力強い手が握りしめてくれた。
昨夜初めて抱きしめられたときと同じ安心感が広がっていく。
海の傍に並ぶカフェで昼食を摂り、駅前から続く有名な参道を並んで歩いた。
「凄い人ですね」
休日ということもあり、狭い道に人がひしめいている。少し離れた店の中すら見られないほどの人波では、二人が手を繋いでいても気付く人はいない。
「休日はだいたいこんな感じかな。気になるものはあるかい?」
趣向を凝らした土産物屋が両脇にずらりと並び、修学旅行で訪れた京都を思い出させる。
どれも気になって、どれも手を出すのが躊躇われる。そんな朔弥の様子を見て、柾人は気軽に雑誌に載っていそうな店に入っては、あれこれと手に取り始めた。気になったものは朔弥にも見せてくる。さりげない仕草なのに思いやってもらっているのが伝わってきた。
同時に欠片も嘲られないことに驚く。
物慣れない朔弥をずっと愛おしそうに見つめてくるその眼差しが、ありのままの自分を肯定してくれているようで、居心地が悪くて、くすぐったい。
こんな風に見つめてくる人はいなかった、誰も。
時折髪を撫でてくるのも、人目を気にせずそこにキスを落とすのも、当たり前のように手を繋いでくるのも、全部が初めてで戸惑うのに、揶揄ってくることは一度もなかった。
この人はなにを思っているのだろう。こんな自分でもいいのだろうか。
不思議な心地で一緒にいれば、柔らかい笑顔を向けてくる。なにも心配することはないというように。
道が混む前にとまた車に乗り込んで都心へと戻る。
その頃には柾人が隣にいるのが心地よくなっていた。僅かに残る手の温もりが消えてしまうのが嫌で、ギュッと握り込んだ。ちらりと左を見ると、上機嫌な柾人がステアリングを握っては、嬉しそうカーステレオから流れるジャズを口ずさんでいる。
古いのに乗り心地のよい車は、そのまま東京タワーの傍まで戻ると、躊躇うことなく有名なホテルへと入っていった。
ドキリとした。
柾人の家から歩いても行ける距離なのに、なぜここに入るのか。
(もしかして……されるのかな)
あれだけ時間をかけたならもういいと思われたのだろうか。
訝しんだまま後に続いた朔弥が案内されたのは、上階にあるレストランだった。
促され席に着くと、優雅な手つきでメニューが差し出される。
「なにが食べたい? 誕生日ディナーだから朔弥の好きなものを頼んでくれ」
横文字が筆記体で並び、その下には長いメニュー名が書かれてある。
どれを選んでいいかわからず顔を上げ柾人に助けを求めたが、柾人は向かいの席で緩やかに微笑むばかりだ。
「なんでもいいんだ、朔弥がなにが好きか、なにを食べたいかが知りたいんだ」
君の誕生日なんだから、と。
ひと月も過ぎてしまった誕生日の祝いだから、組み合わせなんか気にしないで食べてみたいものを注文すればいいと、大人な『恋人』が言ってくる。
「でも……」
「まだ付き合ったばかりだ、もっと君のことを知りたいんだが、ダメかい?」
「……知って、どうするんですか?」
そんなの知ったところで、なにになるのかわからない。
「知っていることが喜びだろう。私はもっと朔弥のことを知りたいと思っているよ。好きなものを知っていれば、いつでも君を喜ばせることができるだろう。私はね、もっと朔弥が嬉しそうに笑う顔が見たいんだ」
朔弥は零れそうなほど、目を開いた。
そんなこと、考えたこともなかった。ただ相手の願いを叶えればいいと思っていた。
驚いたまま柾人を凝視する。この人は今までと違うのかもしれない。
信じてもいいのだろうか。
朔弥の心に小さな炎が灯り始めた。
第二章
「倉掛常務ぅ、朝からご機嫌ですねぇ」
ふわふわ系女子を標榜している社員の宮本が、綺麗に巻いた髪を跳ねさせて近づいてきた。
重要な会議を終えたばかりの開発部は、ずっと続いていた緊張の糸が緩んだようで、どこか気が抜けた雰囲気になっている。今日のためにずっと資料を作り続けていたメンバーの数名は椅子にでろっと、座っているのか倒れ込んでいるのかわからない姿になっている。
「そうかい?」
ノートパソコンを近くのデスクに置くと、目をキラキラとさせた部下に向き直る。漸く訊くことができたとばかりに好奇心たっぷりの表情を向けられ苦笑が零れる。
「最近、いいこととかあったんですかぁ?」
わざとらしい舌っ足らずな喋り方をしても、実はなかなかに有能な部下は、遠慮会釈なく核心を突いてくる。
「そう見えるかい?」
「だってぇ、ここ最近ずーっとニヤニヤしててー、ぶっちゃけキモかったですもぉん」
「……そこまでいうか?」
IT系ではよく見られる上司と部下の距離の近さをそのまま映し出したように、どんどんと顔を近づけてくる。さすがに身長差があってぶつかることはないが、本能的に一歩引いてひょいっと交わした。
それでもめげずに追いかけてくる。
「ホントですってぇ。だからーゴールデンウィーク前からだぁれも話しかけなかったんですよぉ」
そんなことはないだろうと周囲を見渡せば、頷いたり彼女に向って親指を立てる強者までいた。
「いや、なにもない」
「それ、ぜぇーーーーったい、嘘です」
「本当になにもないが」
当然、嘘だ。
ずっとずっと焦がれていた人と、漸く恋人になり甘い休日を送っているなど、部下たちに触れ回るものではないが、弾んだ心は抑えきれなかったようだ。今だって仕事を放り投げて朔弥に会いに行きたい気持ちをぐっとこらえ、会議に出たり必要な仕事をこなしたりしているというのに、そのすべてを見透かすような爛々とした目で見られて嘆息しか出ない。
「宮本ぉ、無粋な質問だ、それは」
『屍』の中から声が飛び出す。
「どうせ、可愛い子猫ちゃんだか、子兎ちゃんを拾ったに決まっている。もしくは誘拐したか」
会社の立ち上げメンバーで、本来なら柾人と同じように経営陣に加わると思っていたのに現場から離れないと主張し、会社の株をたっぷり持ちながらも開発部部長という役職に居座っている傑人の和紗が吐き捨てるように言う。
「……和紗ちゃん、その言い方はひどいぞ」
いくら大学時代から気心の知れた仲とはいえ、あまりな物言いだ。
中らずと雖も遠からずだが。
「あー、可愛い恋人さんができちゃったんですねぇ。ラーブラブしてたんですねぇ。部下が死にそーな連休を送ってるときに」
死にそうと言いながらメイクもヘアスタイルもばっちりな宮本には言われたくはない。
「酷いです、みんな休日返上で資料作ってたんですよぉ! お詫びに恋人情報の提供必須です」
「黙秘権を行使する」
「聞かなくてもわかる、どうせ可愛くて守ってやりたい系の男の子だよ。毎回毎回、どこで捕まえてくるんだか。宮本、そんなに誰かのノロケを聞きたいんだったら、社長のところに行けばいい。一時間でも二時間でも語ってくれるぞ」
「社長は嫌ですぅ。変態上層部でも一番の変態じゃないですか。きゃわきゃわハニーの話は聞き飽きました! 宮本ぉ、ノロケを聞いた時間分の特別手当が欲しいです!」
「……その変態上層部の中に、私も入っているのか?」
「あれぇ、もしかして常務ぅ自覚ないとか言っちゃうんですかぁ?」
そんな風に言われる筋合いはない。自分はただ恋人を思いきり甘やかして愛でるのが趣味なだけだ。その愛で方が他者と異なるだけで、なにもおかしいことはない。
特に、自他ともに認める変人である社長とだけは同列に語られたくはない。事務系以外の仕事は申し分ないし、開けっぴろげな人柄のおかげで社内の風通しがいいのは、柾人にとって居心地がよいが、特殊な性癖とイコールで結ばないで欲しい。
精鋭ぞろいの開発部に立ち寄ったことを早々に後悔し、仕事の話をしようにもその雰囲気ではなくなったので、柾人はそそくさと自分のデスクがある常務室へと入っていった。
まだ月曜日。ゴールデンウイークのすべてをともに過ごした朔弥と別れてから一日も経っていないのに、もう会いたくなってくる。
抱きしめて薄く可愛い唇にキスをしたくなる。
(週末まで我慢か……)
キスに漸く慣れてきた朔弥の顔を思い浮かべる。
ただ唇が触れ合うだけの口付けでも顔を真っ赤にして恥ずかしげに俯く綺麗な恋人は、少しずつではあるが柾人に心を許してくれているように思う。
まだ身体を重ねるには至っていないが、失恋でささくれだった心が、ひと月で漸く癒えてきたように思える。
「仔猫か子兎、か。言い得て妙だ」
朔弥の雰囲気にぴったりな言葉だ。警戒心はあるのにつぶらな瞳でじっと見つめてくる様がよく似ている。こちらの動きに警戒しつつも、慣れ始めると無意識に身体を寄せてくるところも同じだ。
それが愛おしくて堪らない。
ただ、スキンシップに対して極端に怯えているのが気になった。
触れるとビクリと跳ね、震えた大きな目が見上げてくる。柾人だと確認すると肩の力を少しずつ抜き、恋人の距離を保とうとするのだ。懸命で必死で、庇護欲を掻き立てると同時に、泣かせてみたい衝動に駆られてしまう。
(あの子は危ないな……こちらの本能を煽りすぎる)
抱きしめたくてしょうがない。もう怖がることはなにもないんだと教え、この腕の中に閉じ込めてしまいたい。
同時にどこまでも暴きたくなる。彼の心も身体もなにもかもを知って、すべて自分が奪い取りたい衝動に駆られる。
今はまだ朔弥の心を溶かす期間だと堪えているだけに、時折見せる被虐的な表情に心が揺すぶられてしまうのだ。衝動的に抱きたくなり、理性を総動員して律しないと自分を抑えることができないまでになっている。
それほど無意識で煽ってくるのだ、朔弥は。
やっと名前で呼んでくることに慣れ、少しずつではあるが心の距離が縮んでいると感じる今、無理に抱くことなんかできないだけに、柾人は修行僧のような忍耐を試されている。
ゴールデンウイークだけでなく、恋人同士になってから週末は朔弥をマンションに泊め、長い時間を一緒に過ごしているが、限度はすぐ傍までやってきていた。
寝室を同じにしないことでなんとか耐えているけれど、彼の寝顔を見ると堪らなくなってしまう。
愛おしいと穢したいが同居して、柾人を苛む。
朝からずっと朔弥のことを考え、会議の内容も本当は半分くらいしか頭に入っていない。
少しでも気が緩むとすぐに朔弥の顔が脳裏にちらついてしまい、じっとしていられなくなる。すぐにでも会いに行きたくなるのをぐっと堪え、連絡をするのでさえ我慢している状態なのだ。
(アパートに帰すのは今朝にすればよかった)
車で大学まで送れば、それだけ一緒にいる時間が長くなる。そんな小さな計算をしてしまうほどに、柾人の頭の中は朔弥でいっぱいだ。
いい年をした男が些細なことで落ち着きをなくしてしまう。
間もなく三十になろうというのに、この恋に浮かれている自分を止めることができない。
そうさせているのは間違いなく、朔弥の存在だ。
過去の恋すらどんなものだったのか思い出せないほど朔弥ばかりを想い、愛おしさが募ってくる。
かつての自分と似通った部分を見つけては守ってやりたいと願っていたのに、このひと月、一緒にいて初めて知る朔弥の姿は、柾人を魅了して止まない。バーで一方的に見ていたあの頃よりも確実に愛おしさは膨らみ、もっともっと大事にして閉じ込めたくなる。
今頃、愛おしい彼はなにをしているのだろう。大学は終わっただろうか。
寸暇すら惜しむように、朔弥のことを考えてしまう。
名の通った大学に在籍しているのに、驚くほど自己評価が低い。現役でK大に合格するのにどれほどの人間が必死で勉強しているだろう。それすらもわからず、ただ私立というだけで卑屈になっているのが不思議だ。
なによりも、自分に自信がないのが不思議でならないほど、会話の端々から朔弥が優秀であることは手に取れる。
一体どんな幼少期を送ってきたのだろうか。ずっと気になっているが、未だに聞けずにいる。
傷を抉らないように、彼の目がずっと柾人を追うようになってから訊ねても遅くないだろうと自分を抑えつけているが、実力に見合わない卑屈さがまた庇護欲を掻き立ててくる。
もっと朔弥のことが知りたい。彼の本音を吐き出して欲しい。
だから僅かなことでも朔弥との会話の糸口を掴もうと、一人の時間を情報収集に努めてしまう。
大学在学中に親しい友人数名とこの会社を立ち上げた柾人は、必要最低限にしか学舎に通っていなかったからカリキュラムなどあまり記憶には残っておらず、彼と話す知識を得るために、帰宅後はずっと朔弥の専門についてや講義の時間などを調べて寝るのが遅いなど誰にも言えない。
それほどまでに朔弥のことばかり考えてしまう。
自分が想像していたよりもずっと朔弥は表情豊かで、照れたように笑う顔も、呆れて怒る顔も、どんな表情も柾人の好みだった。恥ずかしがるそぶりも……
「だめだ、ここは会社だぞ」
これ以上思い出すと、それこそ仕事を放り出しかねない自分を戒め、仕事に専念しようとパソコンを開いた。
「おーい倉掛! カワイ子ちゃんを手籠めにしたって本当かい?」
社員の勤労管理とプロジェクトの進捗を照らし合わせていると、先ほど社員に散々言われた社長が入ってきた。しかも、ノックなしに勢いよく扉を開いて。
「……たまにはノックしようと思わないんですか? というか情報が早いですね……」
「僕と君の仲だろう。なに気取って敬語なんだ。で、噂の真相はどうなんだい?」
「黙秘権を行使する」
「気づいてる? 君がその言葉を使うときはたいてい肯定してるってことに。というわけで、噂は本当っと。また可愛い男の子が悪い男の餌食になっちゃったよ」
嬉しそうに答えながら社長はスマートフォンをポチポチ操作した。
きっと社内SNSに面白おかしく柾人のことをネタにした内容を送っているのだろう。妙にあけっぴろげな社風はすべて社長の人柄が反映されている。
「……お前らの中で私はどんな人物像になっているんだ。きちんと手順を踏んで交際を申し込んでいるのに、誘拐だの餌食だの言われないといけないのか?」
さすがの柾人も黙ってはいられなかった。
「怒らない怒らない、僕たちは祝福しているだけだよ。前の子を束縛しすぎて滅多くそにふられてから、一年もフリーで色っぽい話のない君を心配していたから、みんな大喜びなのさ」
「……ちっとも祝福されているようには思えないんだが」
「気のせい気のせい。社を挙げて絶賛祝福中だ」
にやにやして社長が画面を見せてきた。そこはなんと七月に行われる社の上場三周年記念イベント専用SNSで、「倉掛の仔猫ちゃん、パーティへの参加決定!」と勝手に記載されている。
しかも関係者から続々と、祝福なのか揶揄っているのかバカにしているのかわからないようなコメントが雪崩のように続いている。
「なに勝手に決めてるんだ! 相手にも事情があると考えたことがないのか! みんなもバカ乗りしてるんじゃない!」
慌ててノートパソコンからSNSにアクセスし、参加拒否を知らしめようと躍起になる。
風通しはよいが変人だらけの恐ろしい会社に朔弥を連れてくることなどできるものか。ないことないこと、面白おかしく吹き込まれ遊ばれるに決まっている。特に社長は自分の可愛い伴侶(表面上は息子となっているが)を自慢する新たな相手が欲しいだけに決まっている。
「いやぁ、倉掛常務はみんなに愛されているね。というわけでパーティに仔猫ちゃんを連れてくるように。これ、社長命令だから」
好き勝手言って手をひらひらさせて退出していく社長の背中めがけて、デスクにあった会社のマスコットキャラのぬいぐるみを投げつけたが、閉まったドアにぶつかっただけだった。
「ちっ」
落ちたぬいぐるみを拾い上げ舌打ちをする。
開けっぴろげすぎる社風は気に入っているが、その話題の中心が自分だと話は変わる。なにが嬉しくて大切な恋人を奴らの暇つぶしの餌として与えなければならないのか。
しかも今は朔弥との心の距離を縮める大切な時期だ。少しずつ信頼関係を築き上げ、互いのことを知り、互いのことを理解するのがなににおいても最優先だというのに……
「全くこの会社の奴らといったら」
自然と眉間に皺が寄る。
誰が連れてくるものか。
大事に大事に籠に閉じ込めて、誰の目にも晒さずずっと柾人のことだけを考えて欲しいという欲望をぐっと堪え、彼をアパートへと帰しているというのに。
会えない時間が愛を育むとはよく言ったものだ。隣にいないからこそ、どうしているのか、なにをしているのだろうかと想いを馳せてしまう。
仕事に戻ろうにも、もう頭の中は朔弥のことでいっぱいになってしまった。
脳裏に浮かんだ朔弥を消すのはもったいないが、やるべき事を片付けるのが先だ。
切りのよいところまで進め、柾人はいつも仕事で使っているある会社に依頼のメールを出す。
窓には、沈み切ろうとする太陽の名残に照らされてオレンジに輝くビル群が広がっている。大小様々な建物のはるか向こうに朔弥のアパートがある。
ゴールデンウィーク中に恋人の大改造を試みた柾人は、朔弥が他者からどう見られているのか自覚したかが気になった。
『お綺麗な方ですが、あまり見せびらかすのはお勧めいたしかねます』
朔弥の髪を切った馴染みの美容師は、心得ているのか深くは詮索してこなかったが、澄ました顔で忠告してきた。
同じ趣向の美容師の言葉は、柾人の葛藤を的確に表していた。
これほど魅力的な恋人だ。見せびらかしたいと思うのと同時に、他の男の目に触れさせず家の中に閉じ込めてしまいたいという欲求に駆られる。
「わかっているよ」
言われなくてもわかっている。
だが男とは哀れな生き物だ。わかっていても見栄を張りたがる。恋人が極上なら尚のこと。
(朔弥を二度と新宿には近づけさせないほうがいいな)
柾人がいない隙に誰かが奪い取るかもしれない。それほどに特種な嗜好の人間にとって朔弥は魅力的な存在なのだ。本人はあずかり知らないだろうが。
焦燥と優越。見栄と執着。様々な感情が入り交じって魅了されていくのだ、彼という存在は。
そして離れているのが不安になってくる。元来の性癖もあるが、朔弥は今までの恋人たちよりもずっと強く閉じ込めてしまいたいと思わせるのだ。一秒たりとも放したくはない。
どうすれば自分は安心できるだろうか。その方法を柾人は知っているが、まだ朔弥に求めることは憚られた。
「少しだけだ……」
自分に言い訳して柾人はスマートフォンを取り出した。
◇
ゴールデンウィークが明けた大学はにわかに騒がしい。
やっと講義が始まり、単位取得に忙しくなってきたこともあり、キャンパスにも学生の数が増えた。
勉強に専念するために生活費も実家からの仕送りで賄っている朔弥は、一限目からがっつり入れている。
教授の講義を真面目にノートを取り、疑問点にマーカーを引いていく。あとで教授に質問しようと内容をノートの隅に書き流していけば、九十分の講義はあっという間に終わってしまう。次の講義に移動する前に教授に聞かなければと荷物をまとめていたら、後ろから声をかけられた。
「ねぇ、山村くんだよね」
「あ……はい」
「やっぱり! 凄い雰囲気変わったからわからなかった!」
同じ講義を取っている女の子が数人集まってくる。
「えっ?」
「なんかすっごいイメチェンしてない? ゴールデンウィーク明けたら別人みたいになってるから、びっくりした」
教授以外の誰かから話しかけられたのは初めてで戸惑っていると、今まで話したこともないのに彼女たちは親しげに触れてこようとする。
「服もイケてるね、どこのブランド?」
私立大学だけあって、垢抜けた格好をしている学生が多く、こんな会話は珍しくもないのだろう。けれど朔弥は、今まで特に目立つこともなく地味な格好をしていただけに、知らない学生に親しげに声をかけられてもなにを話せばいいかわからない。服のブランドもわかるはずがない。
「ごめん、もらったものだから……」
そう、なに一つわかっていないのだ。
(だってこれ、柾人さんが買ったヤツだから……)
思い出して顔が熱くなる。
『これから休みの日は私と一緒に食べよう』
その言葉通り、恋人になってから、金曜日の夜から日曜日まで二人は一緒に過ごすようになった。
彼の家を訪ね、一緒に食事をし、同じ時間を過ごす。こんなことは初めてで、なにをすればいいかわからない朔弥を導くように、柾人は様々な話題を振ってくれる。
聞き上手な上に話し上手で、専門科目の勉強が不得手だと零せば、なにがどう苦手かを聞き出し、要点を見事に上げてくるのだ。
決して知識をひけらかすのではなく、学校の先生が生徒の相談を受けているのと同じように、親身に寄り添ってくれる。
(あぁそうだ、オレに優しかった人は皆こんな距離感だった)
ぐいぐいと近寄って親切にするが、いつのころか自分のほうが優秀だと見せつけるようになる人は、最後は必ずといっていいほど朔弥を傷つけてきた。それは元彼の市川も同じで、自分の優秀さだけを突きつけて満足していたように思える。
(そう言えば、最近あの人のことを考えなくなったかも)
久しぶりに市川のことを思い浮かべた朔弥は軽く驚いた。
あれほど傷ついたはずなのに、今は思い出しても客観視できる。彼がどうだったのか、なにをしていたのか、俯瞰で冷静に思い返すことができると同時に、胸が痛まなくなった。
なぜかと考えてすぐに気付いた。自分の心がとても豊かになっている。
焦っていないのだ。
(当然……かもしれないな)
週末ごとに会っては、当たり前のように愛を囁いてくれるのだ、柾人が。甘い言葉は朔弥の心を満たしてあまりある。なのに、初日にそういう雰囲気が一瞬あった以降はなにもしてこない。手を握ったり髪へのキスは当たり前のようにしてくるのに、それ以上は何もしてこない。それが不思議だった。
痛い思いをしなくていいのならそれに超したことはないが、では自分になにを求められているのかがわからない。柾人はなにを考えているのだろうか。
昨夜別れたばかりだというのに、僅かなきっかけで彼のことを考えてしまう自分に気付かないまま、朔弥は彼女たちの質問攻撃にタジタジになっていく。
「バッグもカッコいいのじゃん!」
頭のてっぺんから爪先まで見られ、どう反応をしていいのかわからない。
誕生日祝いはディナーだけかと思ったら、その後が凄かった。むしろ当日に贈れなかったのが悔しいとばかりに、週末の度に「朔弥に似合うものを見付けた」と様々なものを贈ってくれる。
(ゴールデンウィークは凄かったな……)
一緒に出かけた繁華街で、いつものように手を繋ぎ歩いていた。それだけだと思った。
春の爽やかな風が吹き抜け、街の象徴となっている柳を揺らしているのを横目に、朝の散歩とまだ人の少ない大通りを進んでいた。
なのに連れて行かれたのは美容院で、有名らしい美容師は愛想のいい接客で朔弥を椅子に座らせた。
柾人と旧知の美容師は、アイコンタクトだけですぐさま心得たように軽快に朔弥に話しかけては驚くほどの手さばきで鋏を入れ始める。
一時間もすれば、朔弥は入店した時とは見違えるほど清麗な印象へと変わっていた。前髪を少し長めに残し襟足を短くしたネープレス・マッシュな髪型は、朔弥の細い首筋を綺麗に見せ、儚げな印象を強くする。
こんなにもお洒落な場所で髪を切ったことがない朔弥は、鏡に映った自分の姿が信じられなかった。全くの別人がそこに映し出されていた。
「えっ、あの……柾人さん?」
カットが終わるのを経済誌を捲って待っていた柾人が、雑誌を放り出すようにしてすぐに近づいてきた。
「あぁ、とてもよく似合っているね。思った通りだ」
「いかがでしょうか。もう少し短くするよりも、まめにご来店いただいてこの形をキープされては」
満足げに何度も頷く柾人に美容師がカットの説明をするので、朔弥は自分のことなのに置いてけぼりにされたような気持ちになる。だが、嬉しそうな柾人の顔を見るとなにも言えなくなった。
「そうだね、頼んで正解だったよ。助かった」
「いえ、ご希望に沿えて安心しました」
朔弥がケープを片付けられている間に柾人が会計を済ませてしまったので、どれくらいかかったかもわからない。肩を抱かれて店を出ると、慌てて柾人にしがみついた。
「あの、いくらでしたか? オレ、今あんまり手持ちがないけど、返します!」
きっと高いに決まってる。なのに柾人は一瞬きょとんとして、すぐにいつものように笑いかけてくれた。暖かな眼差しが細められる。
「私が勝手にしたことだ。気に入ったなら、君は素直にありがとうと言ってくれればいい」
「でもっ!」
「朔弥、私といるときは私のわがままを聞き入れてくれないか。それにね、君には格好いいところを見せたいんだ。お願いだ」
頼まれると朔弥もこれ以上は強く出られなくなる。
ずるいと思う。そんな風に言われたら、とても愛されていると勘違いしてしまう。
「甘えてくれるかい?」
この言い方もだ。下手に出て、けれど自分を曲げはしない強引さが、自己主張できない朔弥から罪悪感を奪う。
「……はい」
「では次に行こうか」
「え、次?」
「私の家に置く朔弥の服が必要だろう。……下着もね」
「なっ、なに言ってるんですか!」
出会った翌日に渡された下着を思い出させる。
包む部分が少ない下着は再び身に付ける勇気がなく、タンスの一番奥に隠してある。今まで一度として会話に上がらなかったのに、こんな大声が出せない場所で言うなんて卑怯だ。
笑いながら柾人は、真っ赤になる朔弥の手を握った。いつもと同じように。
こんな大通りで誰に会うかもわからない場所なのに、彼は決して躊躇ったりしない。指を絡ませ強く握ってくる。そのたびに恥ずかしさと安心感が朔弥に満ちていく。
ずるい。
なのに、嬉しい。
「ありがとうございます……」
尻すぼみになる礼を柾人は微笑むだけで受け取り、堂々とメインストリートに出る。
若者向けの店を数件梯子し、朔弥に似合う服や靴を見つけると躊躇いもなく購入していく。
大学に通うならあれもこれも必要だろうと買い漁り、日が傾き始める頃には二人でも持ちきれないほどの量の紙袋となった。
「こんなに買ってどうするんですか……」
呆れて物も言えない朔弥に、さすがの柾人も苦笑する。
「素材が良すぎた。朔弥はなにを着ても似合うから……困ったな」
短い距離だが、歩行者天国が終了したメインストリートでタクシーを拾い、柾人のマンションへと戻った。
「……買いすぎです」
袋のひもで赤くなった手に、玄関を埋め尽くす袋を見つめて溜め息を付く。
こんなにたくさんあっても、着るのは朔弥一人だ。むしろこの量は、朔弥の大学期間中の衣類すべてを賄ってしまうだろう。元々身なりに頓着しない朔弥には贅沢品の塊にしか見えない。
「ここと君の家に分ければちょうどいいと思うんだが……どれも朔弥に似合う物ばかりだぞ」
「それだってまめに洗濯をすれば半分もいりませんよ」
「まぁ、そんなに怒るな。それより着替えよう。朔弥は線が細いからブリティッシュなスタイルが似合うな……これとこれ、あとはそうだ、この靴だな」
着せ替え人形のように柾人は自分が見立てた服を着せては満足そうに笑った。
なによりも驚いたのはキーケースだ。
そこにはティンプルキーと呼ばれる窪みがいくつもある鍵が一本だけかかっていた。
いつ朔弥が来ても良いようにと、エントランスや部屋の横の指紋認証も朔弥を登録してくれた。
「私に会いたくなったらいつでも来てくれればいい。仕事で遅くなることもあるが、連絡をくれればすぐに切り上げる」
この部屋の鍵だとわかって柾人を見れば、いつもの優しい笑みがそこにあった。
いいのだろうか。
彼がいるのが当たり前の日常になって。こんなにしてもらって、けれど呆れられ捨てられたら、今度こそ自分はどうなってしまうんだろう。
恐かった。けれど、返すこともできない。
また小さな声で「ありがとう」と言うのが精一杯なのに、胸だけは熱くなった。
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