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1巻

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 自分の元から離れないように、僅かでも他人に目を向ける隙すら与えないよう愛してしまう。拘束されているようで息苦しいと出奔されることも多いが、この愛し方しかできないでいた。
 朔弥が自分のすべてを受け入れてくれればと願わずにはいられない。

「私を愛してくれるといいんだが……」

 独りごちるのは悲しい経験が積み重なったからだ。
 容姿や体躯たいくに恵まれた柾人は、その手の店に行けば常に声をかけられ、相手に困ることはなかった。
 しかし、いざ付き合い始めると柾人の強い束縛に相手が窮屈きゅうくつになり、悲鳴を上げてはこっぴどく振られてしまう。ただ自分だけを見て欲しいと願っているだけなのに、他者にとって柾人の想いは重すぎるようで長続きはしない。
 もっと愛せばこの腕の中に閉じ込めることができるかもしれないと愛情を深くすれば、別れるまでの期間が短くなってしまった。それでも誰かを愛することを止められない。
 己の気持ちを持て余し、どうすればいいかわからないまま今に至っている。
 朔弥を手放す選択はない。なんせ半年も彼のことだけを考えてきたのだ。手放すには征人の気持ちは育ちすぎているし、自分の傍にいることが朔弥の幸せに繋がると確信している。少なくとも、今の彼を放っておいて元恋人や問題のある趣向しゅこうの者たちの手にかかることは避けたい。
 だが、なによりも今はゆっくりと眠って欲しかった。
 性急に答えを出すのではなく、彼が柾人を受け入れ「愛されたい」と願い、この腕から出たくないと思うまで彼のペースを大切にしよう。
 失恋で傷ついている今、事を進めるのは尚早しょうそうだ。もっと朔弥の中が柾人だけでいっぱいになり、彼から求められてからだ。心の中に他の男を住まわせている今ではない。

「君が私を受け入れてくれるまでは、我慢だな」

 そう自分に言い聞かせ、ベッドを離れた。できることならば一晩中でも可愛い寝顔を見ていたいが、そうやって性急に求めてすべてを手に入れようとするから離れていくのかもと思い直した。

「まずは酒を抜かなければな」

 そして期待してしまった下半身を落ち着かせることも重要だ。
 柾人は美しい栗色の髪を撫で、振り切るようにバスルームへと向かった。


 ◇


 とても温かいなにかに包まれる心地よさに、朔弥はなかなか目を開けることができなかった。
 柔らかい布団の感触が優しくて、目を開けてしまうのがもったいなかった。ずっとここにいたくなるような感触を堪能するように寝返りを打ってみる。それでも硬い布が頬に押し当てられることはない。
 身体を動かしたのに包み込まれる感触は変わらなくて、起きなければという気持ちが逃げていく。

(なんだろ。でも気持ちいい……ずっとこうしてたい)

 柔らかい寝具の感触に、自然と頬が緩んでしまう。猫のようにこすり付けゆっくりと呼吸を繰り返す。爽やかな柑橘類かんきつるいの香りも安心できる。もっと味わいたくて枕に顔を埋めた。
 でもこの香り、どこかで嗅いだような……

(シトラス?)

 そんな洒落しゃれたものが朔弥の部屋にあるはずがない。
 ここは、どこ?
 とても肌触りのいい寝具が手を動かすたびにふわりと纏いつく。それに身体の形にフィットするマットレス……通販で買った安い布団のセットとは大違いの感触に慌てて身体を起こした。
 カーテンの隙間から入り込んだ眩しい太陽の光が見せたのは、白を基調とした空間と自分が横たわっていた大きなベッドにサイドチェスト。それ以外の家具は一切ない。
 壁には白木のクローゼットの扉が並び、一層広さを引き立てている。
 こんな場所、知らない。
 どうして自分がここにいるのか記憶を手繰り寄せて、ハッとした。

(そうだオレ……あの人と……)

 昨日初めて名前を知った男の部屋に連れてこられたことを思い出した。暗かったから気付かなかったが、こんなにも広い空間だったのかと再度驚く。

「ここ……あの人の家、だよね」

 倉掛柾人と名乗った格好いい人。彼の雰囲気にとてもよく似合った部屋だ。
 だがどこにも家主の姿はない。見下ろせば、朔弥は昨日着ていた安っぽい服を身に着けたままだ。豪奢な寝具に見合わない薄汚れた服。

(あの人……倉掛さん、本当になにもしなかったんだ……)

 少し気持ちが沈んだ。ボロボロにされてまたわらわれたら、簡単に自分の全部を投げ捨てられたのに、大事にされたら願いが叶わなくなってしまう。

(いや、きっと昨夜だけだ。すぐにオレなんかには飽きるに決まってる)

 なんせたいした特技も話術も持っていないのだから、すぐに呆れられてしまうだろう。
 耳に心地よい声が蘇る。

『私ならそんな顔をさせないのにとずっと思っていたんだ。だから今度は私に愛させてくれないか』

 あれもきっと偽りだ。身体を許すための甘言にすぎないだろう。
 一度でも肌を重ねたらきっと、つまらないとすぐに捨てられてしまうだろう。
 自嘲じちょうして、朔弥はベッドから下りた。
 綺麗にベッドを整え使った形跡を消してから、二つある扉のうちベッドに近いスライドドアから出た。

「ぁ……」

 大きな窓は燦々さんさんと陽光を取り入れ、昨夜とは全く違った景色を映し出している。高層にある部屋だと教えるように、ニョキニョキと生え出たビルと東京湾が窓いっぱいに広がっている。
 低い建物などない、いかにも都会といった風景がそこにあった。
 こんなところに家を構えられるのだから、よっぽどの稼ぎがあるのだろうと下世話なことを考え、すぐに当たり前だと納得した。
 昨日見せてもらった彼の肩書きは『常務取締役』だ。どんな会社かわからないが、役員というのだからこんな立派なマンションに住んでいるのも当然なのかもしれない。
 まだ大学生の朔弥には、社会の仕組みなど遠い世界のように感じられる。
 景色から部屋の中へと視線を移し見回せば、朔弥が今借りているアパートの部屋が二つほど容易に入る広さにテレビとソファだけが置かれ、他の家具はなにもない広々とした空間が広がっていた。
 唯一と言っていいほど存在感を放っている長めのソファから足が飛び出ている。

(本当にリビングで寝てたんだ……)

 ゆっくりと近付き覗き見る。
 光の下で初めて柾人の顔を見た。
 少し彫りの濃い精悍せいかんな面差し。形の良い眉。厚い唇にシュッとした鼻筋。短めに整えられた髪型と相まって、まるで俳優かモデルのようだ。

「か……こいい」

 素直な感想がそのまま口を衝く。
 こんな人が昨夜……
 恥ずかしさのあまり固まっていると、凝視していた相手が肩を震わせて笑い出した。

「ありがとう、まさか褒められるとは、嬉しいものだ」
「おっ起きてたんですか!」
「扉の音でね。声をかけるタイミングを逸したんだ、申し訳ない」

 柾人はソファに肘をついて頭を起こすと下からゆっくりと朔弥を眺めた。

「さくやくんも綺麗な顔をしているよ。とても私好みだ」
「……冗談はやめてください」

 どうしようもなく冴えない容姿なのは、自分が一番よく知っている。長く伸びた髪で隠れているが、誰からも興味を抱かれるものではない。その証拠に今まで告白されたこともなければ、憧れられたこともないのだから。それ以前に、本当に綺麗ならすでに友人の一人くらいできていただろう。
 心が沈んでいると、長い手が伸び頬に触れた。
 慌てて落とした視線を上げれば、慈しむというにふさわしい穏やかで優しい眼差しがそこにあった。

「冗談じゃないさ、君は自分を知らなすぎると何度も言っただろう。もう少し自覚を持ちなさい。そして私以外の人間にも魅力的に映るんだと理解して、言い寄られないようにしてくれ」

 モデルのような男にそんな甘い言葉をかけられ、知らず頬が紅潮した。

「言い寄られたことなんてないです……あなた以外は」
「ならいいが。恋人が他の人に言い寄られるのはいい気がしないからね」
「あなたのほうがよっぽど……」

 なにを言っているのか。柾人のほうがよほど言い寄られそうな容姿をしている。精悍せいかんで自信に満ちていて、余裕のある仕草すらも頼りがいを感じる。
 きっと会社でも綺麗な女の人に言い寄られていそうだ。
 なぜか胸が痛んだ。その理由がわからなくてそのまま放置していると、手が伸び朔弥を引き寄せキスをしてきた。
 外国映画のように頬に軽く。

「っ!」
「恥ずかしがることはない。恋人なんだからね。さぁ、朝食の用意をするからその間にシャワーを浴びておいで。バスルームは玄関に一番近い扉だ」

 勢いよくソファから立ち上がった柾人は、朔弥と違い、部屋着のスウェットの上下を身に付けている。そういうのは皆同じなんだと安堵して、言われたとおりバスルームへと向かう。

「って、ここホテル?」

 一個人の自宅にしては広いサニタリースペースはモノトーンで統一され、ミニマルでスタイリッシュだ。装飾が全く施されていないのに豪奢な印象を与える。透明なガラス扉の向こうには大きなバスタブとゆったりとしたシャワースペース。
 朔弥が今まで触れたことのない世界がそこに広がっていた。

(別世界の住人なんだ、あの人……)

 そんな人間が自分を恋人と蕩けそうな顔で呼ぶのが信じられない。
 実はまだ夢の中にいるのではないか。
 恋人と思っていた人に裏切られて、現実逃避でこんな妄想をしているのだろうか。
 夢か現実かわからない。
 夢ならこのまま覚めないで欲しい。
 いや、むしろ逆だ。そんな人に捨てられたのなら、今度こそ自暴自棄になれるだろう。
 市川のあざけるような顔を思い出し、また気持ちが沈んだ。それを消すようにバスルームに入り、シャワーのお湯を出した。勢い良く噴き出したお湯はすぐに室内を蒸気で覆う。
 勝手の違うアメニティに四苦八苦しながら全身を清める。柾人と同じ上品なシトラスの香りに包まれているのがちょっと恥ずかしく、いつも以上に長くお湯にあたった。
 バスルームから出ると、洗面台にタオルと脱いだ服が綺麗に畳まれ置かれてあった。

(入るときにはなかったのに……)

 柾人が用意したとしか考えられない。
 慌てて身支度を整え、廊下の先にあるリビングへと向かうと、キッチンカウンターには豪華な朝食が並んでいた。

「ちょうどよかった、今出来たばかりだから早く食べなさい。嫌いなものがなければいいんだが」
「これ全部……倉掛さんが作った……んですか?」
「一人暮らしが長くてね、簡単なものばかりだが」

 焼いた鮭に味噌汁とご飯だけならまだわかるが、卵焼きにほうれん草の白あえ、煮物までもが別々の皿に盛られた、旅館の朝食のようなメニューに驚きを隠せなかった。

「すごい……」
「お褒めに預かりまして。さあ一緒に食べよう。昨夜はなにも食べずに寝たからお腹が空いただろう」

 本当にいいのだろうか。
 柾人が引いたスツールに腰かけ、来客用の割り箸を手に取ってから、ちらりと彼の顔を見た。
 柾人はどこまでも優しく微笑んでいる。

「い……ただきます」

 恐る恐ると声をかければ、笑みが深くなった。

「どうぞ召し上がれ」

 どうしてそんなに優しく笑うのだろうか、朔弥は不思議でならなかった。嘲笑されることに慣れすぎて、こんな風に笑いかけられたのはいつぶりかもわからない。
 だがそんな気持ちも温かい食事を口に含めば軟化する。

「おいしい……」
「良かった、たくさん食べなさい。さくやくんは細すぎて倒れやしないかと心配になる」
「……はい」

 確かに朔弥の身体は細い。
 食費を切り詰めてきたから、上京の時は丁度よいサイズだったデニムも、今ではウエストをベルトの一番内側の穴で締めなければ落ちてしまうほどだ。
 みすぼらしい自分に反して、隣で同じように食事をしている柾人は見るからに逞しい。しっかりとした肩に厚めの胸板は一層ウエストを細く見せている。
 男なら誰もが羨む体型に、余計自分のみすぼらしさが浮き彫りにされた朔弥は、こっそりと嘆息した。
 気付いたのか、柾人が伸びっぱなしの髪を撫でてきた。

「きちんと食べれば大丈夫だ。これから休みの日は私と一緒に食べよう」
「ぁ……はぃ……でも、面倒じゃ……」
「なに、元々自分で作ってるんだ、それが二人分になったところで手間は変わらないよ」

 両親ではない誰かに心配されるなんて、こそばゆくて少し嬉しかった。
 食事なんて上京してから……いや実家にいたときですら心配されたことはなかったように思える。

「さくやくんは今いくつなんだい? あの店で呑んでいたということは二十歳を超えているんだろう?」
「はい……先月二十歳になりました」

 誕生日を一人で過ごしたことをぼんやりと思い出す。去年もそうだ、祝ってくれる人が誰もいない部屋で、その日が自分の誕生日だということすら忘れてしまった。でも今年は市川が祝ってくれるかもしれないと僅かな期待を持っていたが、彼からなんの連絡も来なかった。
 もしかしたら、その頃から結婚の話が上がっていたのかもしれない。
 また気持ちが落ち込みそうになる朔弥に、柾人は箸を止め続けざまに質問をしてきた。

「では今三年生、かな? どこの大学に通っているんだい?」
「あっ、K大の経済学部です」

 訊かれるがままに通っている大学の名前を口にすると、一瞬きょとんとした後に征人は口の中で「K大……そうか……」となにか呟き始めた。朔弥は言いようのない肩身の狭さを感じて俯く。

「すみません、私立で……」

 美味しいご飯が目の前にあるのに気持ちが沈んでしまうのは、家族に散々バカにされたからだ。東京の私立にしか行けない頭なのかと罵られ、地元国立大学至上主義の中、無駄飯食いが金まで食うと言われてきた。
 そんなに出来が悪いんだから、大学に入ったらアルバイトするなんて考えずに勉強していろとも。だから市川にねだられて酒を入れるのにも生活費を切り詰めなければならなかった。
 やはり自分は出来損ないなのだろう。
 落ち込みが止まらなくなり、気持ちを表すように箸の先が下りてしまう。

「凄いね、K大に通うなんて。そうそう行ける大学ではないだろう、それだけさくやくんが頑張ったということだ」
「え……?」

 予想外の言葉に驚いて、まじまじと柾人の顔を見てしまった。
 たいした大学ではないだろうと思っていたのに、バカにされなかったことが意外だった。
「そんな大学に行ってるのか」と言われると思っていたのに、満面の笑みで賞賛されてどう反応していいかわからない。

「K大の経済学部だろう、簡単に入れるところではない。凄く頑張ったのがわかるよ」

 そうなのか。だが、柾人の顔にはどこもおだててやろうとする色は存在しなかった。純粋に褒めているのだと感じ、余計に戸惑った。
 同じ大学にいる人間とすら接触しない朔弥が、誰かから大学の評判を耳にすることはない。本当にこのまま素直に喜んでいいのだろうか。
 柾人はもう一度「凄いね」と言って、すぐにどんな授業をしているのかと訊いてきた。
 まだ三年生になったばかりの今、ゼミも始まっていないのでどんな勉強と言ってもわからない。目標のない朔弥は教授に招かれたまま、そのゼミに申し込んだだけと口にするのは、ほんの少し恥ずかしかった。
 前年度までの授業の話をすると、柾人はすぐに詳細を話し始めた。
 経理関係の資格の話をすれば、いつ頃に試験があるから大変だねとすぐに返ってくる。
 これが打てば響くということなのだろうかと思わず感心してしまい、そうかと納得した。

「倉掛さんは役員をやってるからそんなに詳しいんですね」
「そうだね。社長があまり事務仕事をやりたがらないから、どうしても雑務が私のところに回ってくるんだ、嫌でも覚えてしまうよ」

 苦笑する仕草ですら様になる。どんな会社か訊いたら迷惑だろうか。けれどこのまま捨てられるのならあまり深入りしない方がいいのかもしれない。

「さくや、というのはどんな字を書くんだい?」
「はじめを意味する『朔』に、弥は弓偏ゆみへんの『あまねく』です」

 いつも自分の名前を説明する時に使う言葉を口にし、慌てた。これで通じたことは一度もないが、名付けてくれた菩提寺ぼだいじ住職じゅうしょくの言葉が頭から離れず、いつもこうして伝えてしまうのだ。

「なるほど、『朔弥』か……とても綺麗な名前だね。君の美しさによく合ってる」

 柾人は言葉での説明だけでカウンターに指でさらりと間違うことなく書いた。

「あの説明でわかったなんて……倉掛さんの方が凄いです……」
「そうかい? とても君に似合った名前だと思うよ。ということは、誕生日は三月一日かな」
「そう、です……」

 誕生月は先程の会話でわかったのは理解できるが、名前で日にちまで読まれるとは思いもしなかった。確かに『朔』には『ついたち』の意味も含まれており、名付け親もそのつもりで付けたのだろう。

「一ヶ月ほど過ぎてしまったが、今からお祝いをしようか」
「そんなっ……申し訳ないですよ」
「どうしてだい?」

 まだ付き合ったばかりで、しかもすぐに捨てるであろう相手を祝うなんて、時間の無駄ではないのだろうか。
 言葉にできず言いよどむと、柾人は「よし、そうしよう」と立ち上がった。彼の前にある皿はすべて空になっている。手を止めたため、朔弥の前の料理はまだたっぷりと残っていた。慌てて胃袋に収めようとするより先に「ゆっくり食べなさい」と止められた。

「そんなに早く食べたら胃に負担がかかってしまうよ。私もシャワーを浴びてくるのでその間に、ね」

 長身をまっすぐに立たせ、悠然とした足取りで扉へと向かっていった。
 歩く姿も本物のモデルのようで非の打ちどころがない。
 この人は、どうして冴えない自分なんかを好きなのだろうか。
 不安が嫌と言うほど襲いかかってくる。捨てられるはずなのに、それをわかっているはずなのに、大事にしようという雰囲気を感じ取って、たじろぐ一方で縋り付きたくなる自分がいる。
 彼が作った料理をゆっくりと口に運び、美味いとしみじみ噛み締める。シャワーを浴びている間にこんなにもたくさんの品数を用意できるということは、常日頃から料理をしているのだろう。そういうところにも不思議と柾人に対する好感が上がっていった。

(それにあの人……なにもしなかった)

 男同士の恋愛は肉体関係が付随ふずいするのが当たり前だと思っていたから、余計に柾人が紳士的に映ってしまう。

(でもあんな格好いい人が本当にオレなんかを好きなわけない)

 今までもらった言葉もきっと、リップサービスに決まっている。
 だから、あまり期待しないようにしないと。
 しっかりと自分を見誤らず、期待しないで捨てられようと浮き足立つ心に言い含めても、どうしてだろう、彼の作ったものを口にすると不思議な気持ちが湧きあがってしまう。

「おいしい……」

 コンビニやお店のご飯とは全く違う優しい味わいが、頑なになろうとする心をじわりじわりと溶かしていこうとする。
 最後の一粒まで食べて、そういえばこんなにきちんと朝食を取ったのはいつぶりだったかと思うほどの満足感が、身体の隅にまで行き渡っていた。使った食器をシンクに置き、水を張る。ゆっくりとキッチンを見回し、スポンジを手に取った。
 基本、キッチン回りの配置にそれほど違いはないだろうと洗っていくと、そのそばの扉が開いた。

「そのままにしてくれて構わないのに」

 柾人が、食器を洗っている朔弥を素早く見つけ声をかけてくる。

「ごちそうさまです。これくらいはさ……」

 させてくださいと言おうとして言葉が固まった。一気に顔が真っ赤になる。

「なっ!」

 腰にバスタオルを巻き、フェイスタオルで髪から滴り落ちる水滴を拭っている柾人に驚きながらも、その身体の逞しさに目がいってしまった。
 服の上からもしっかりとした身体つきなのはわかっていたが、実際目の前にある隆起した筋肉を露わにした身体は、芸術品そのものだ。

(美術の教科書に載ってた彫刻ちょうこくみたいだ……)

 ミケランジェロのダビデ像に似た逞しく無駄のない筋肉が歩くたびに美しく動いていた。隠すこともせずに柾人が近づいてくる。
 慌てて視線を逸らす。作業に集中しないと戸惑いで食器を割ってしまいそうで恐い。

「手際がいいな」
「オレも一人暮らしして三年目になりますから」

 あまり柾人に意識を向けないようにして小鉢を洗っていく。

「大学生で自炊じすいしているなんて偉いね。でも君は少し頑張りすぎるような気がするよ」

 逞しい腕がするりと朔弥の腰に伸び、抱きついてきた。
 半乾きの髪にキスを降らす。

「あの……ちょっと…」
「それが終わったら出かけよう。どこに行きたい?」
「あ……その……オレあんまりそういうの、詳しくないので……」

 遊ぶ金すらもない朔弥だ、上京しても家と大学の往復ばかりで、出かけることもあまりなかった。市川と付き合ってからは新宿二丁目で少し呑むようになったが、それもソフトドリンクばかりだ。どこかにデートしたこともない。

「そう? では私の行きたいところでいいかな? なにか欲しいものはあるかい?」
「いえっ、そういうのは……」
「なにを言っているんだ、誕生日プレゼントなんだから欲しいものを言ってくれると嬉しい」

 優しいのに強引な言葉に、けれどなにも思いつかない。

「本当になくて……」
「わかった。では私が贈りたい物にさせてもらうよ」

 またチュッと髪にキスを落として、柾人は寝室への扉に消えていった。

(出かけるんだ……でもこんな格好でいいのかな?)

 昨日着た服は、ヨレヨレのシャツにサイズの合わないデニムと野暮やぼったいことこの上ない。下着だけは新しいのが用意されていたが……と下着のことを思い出して顔が真っ赤になった。

(そうだ、下着! ご飯で忘れてたけど、この下着どうしよう……)

 着替えの中には朔弥が履いていた下着だけがなく、代わりに真新しい下着が置かれてはいたが、その形にびっくりした。布の面積が少なく股間こかんの形まで露わにするビキニブリーフだ。
 ただの下着だと思って身に着けたが予想外に小さく、だがその下着を着けぬままデニムを履くことも出来ず……。その時の葛藤かっとうを思い出して、また顔が真っ赤になる。
 ボクサーパンツですら自分の中では少し背伸びをしたつもりだったが、それ以上に大人な下着に動揺を隠せない。柾人が戻ってくる前に平常心に戻らないとと洗い物に集中し、食洗機に入れていった。四苦八苦して乾燥機能だけ使い、やっと皿洗いは完了した。
 最初から食洗機を使えばもっと簡単だったのではと思ったが、なんせそんな文明の利器は朔弥の実家にも今のアパートにもない。ついつい手洗いしたが、柾人はそれを嘲笑うこともせず、それがあるとも口にしなかった。
 朔弥に恥をかかせない気遣いにちょっとだけ胸が温かくなる。
 綺麗に身支度を調えた柾人がまたリビングへとやってきた。
 昨日とは違ったラフな格好だ。Vネックの黒いシャツにジャケットを合わせ、朔弥と同じようにデニムパンツを履いただけなのに、やはり格好いい。
 つい見惚れて、自分の情けない格好が浮きだった。隣を歩くのが恥ずかしい。そう思ってしまうのに、柾人は全く気にしないのか朔弥を連れ出した。
 マンションの地下にある駐車場の中でも少し古めの型の車の前に立つ。

「これ、倉掛さんの車ですか?」

 少し意外だった。
 身に着けている物や家の雰囲気からは、高そうな外国車に乗っているイメージだからだ。
 外国車ではあるが、柾人の車は少しおもむきが異っていた。アンティークと言うほど古くはなく、だからといって新車と言うほど新しくもない。酷く中途半端な印象を受けた。

「あぁ、少し古いけれどね、私の宝物なんだ」

 とても愛おしそうに柾人がボンネットを撫でた。その手つきが優しくて、目が離せない。
 車を好きな男は多い。だがそれは「持ち物」として愛着を持っているケースが一般的で、柾人の表情も仕草もそれとは違うような気がした。本当に慈しんでいるというにふさわしい手つきだ。
 車は古いのに綺麗に磨き上げられている。ワックスを丁寧に塗っているのが、薄暗い駐車場の中でも見て取れた。中も綺麗に掃除されていて、とても大事に乗っているのを一目で感じた。
 そんな「宝物」に自分が乗っても大丈夫なのだろうか。
 促され助手席に腰掛けた。古い外国車特有の左ハンドルを慣れた手つきで握った柾人は、滑るように車を走らせた。
 古さを感じさせない足回りは、それだけマメに手入れしていることを物語っている。

(本当に大事にしているんだ)

 とても丁寧な運転で車は高速へと入りすぐに流れに乗ると、迷うことなく首都高湾岸線しゅとこうわんがんせんを走り横浜方面へと進んだ。

「どこにいくんですか?」
「それは着いてからのお楽しみだ」

 海の見える道をひた走り、車が駐まったのは太平洋が見渡せる海岸だった。
 どこまでも広がる青空と波の白と相まってとても美しい。鼻腔びこうくすぐる潮の香りがまた新鮮で、遠くの人々の音をき消すほどの波音が終わりない音楽のように鼓膜こまくを震わせた。

(海ってこんな所なんだ……)

 東京に出てきてもなにも知らないままだと気付かされる。
 同時に、世界がこんなに輝いているのも知らなかった。
 ビルばかりが建ち並ぶ都会の無機質な森の中を歩いては、迷子になった子供のような感覚を拭えないでいた朔弥の心に、ただ寄せては引く単調ともとれる景色がするりと入り込み、さざめく気持ちがいでいく。

「綺麗……」

 感嘆の言葉しか出ない。

「私の好きな光景だ。あまりこの辺りを知らないと言っていたから君に見せたかったんだが、気に入ったようで嬉しいよ」

 よく通る低い声が波音をき分けて朔弥へと届く。
 見上げれば、柾人が遠くをまっすぐに見つめていた。

(なんで……あっ)

 どうしてだろう、彼は自分を見ているのが当たり前に思うのは。

(そうだ……会ってからこの人、ずっとオレのことを見てくれてる……)

 まだ一日も経っていないのに、自分を見つめる柾人の目ばかりが印象的に記憶に残っているせいだ。
 そんな柾人の横顔にドキリとする。

「自分が見て美しかったもの、好きだと思ったものを朔弥くんと共有したい。その想いだけでここまで連れてきたのだが、喜んでいる君の顔を見ることができてよかった」

 やっとこちらを向いた柾人の目が愛おしそうに細められる。

「ぁ……」

 強く吹き込んだ風が二人の間を駆け抜けていく。視界を隠すように伸びた前髪が後ろに靡いていくと、柾人の綺麗な顔が春の優しい光に当たり眩しく映る。

「見るもの感じるものを共有して二人の時間を過ごしたい。一方的な押し付けではなく、ね」

 びっくりした。今まで……たった一回の経験だが、そんなことは一度も言われたことはない。
 朔弥の意見など聞きもせず、自分の好きなところに連れ回すだけだった。それが当たり前だと思ってた。そして柾人もそうするのだろうと感じていたのに。

「少し歩こうか」

 柾人が当たり前のように朔弥の手を握ってくる。

「くらか……けさん、それ……」
「恋人同士なら当たり前のことだろう」

 確かに浜辺で肩を寄せ合って歩いている恋人たちも手を繋いでいるが、自分たちは男同士だ。秘するのが当然だというのに、柾人はあまりにも堂々と歩き出す。

「当たり前……なんですか?」
「当たり前だ、手を繋ぐくらい。それに、できれば名前で呼んでくれると嬉しいな。『倉掛さん』では他人行儀だ」
「そう……なんですか?」
「だから私も『朔弥』と呼ばせてもらう。いいかな?」

 少し強引で、なのに確認を取ってくるそのアンバランスさが、どうしてだろう朔弥の心を溶かしていく。あれほどまで頑なにめちゃくちゃにされて捨てられようと思っていたのに、もっと優しくされたいと切望してしまう。
 ギュッと柾人の手を握り返した。

「ま……さと、さん?」
「充分だ。私のわがままを聞いてくれてありがとう、朔弥」

 また髪にキスが落とされる。甘い仕草が恥ずかしくてこそばゆい。慣れてしまったらきっと、抜け出せなくなる恐怖にすら、心地よく揺蕩たゆたっていたくなる。
 海岸に降り注ぐ春の日差しを浴びてゆっくりと歩き、遠くでウィンドサーフィンをしている人を眺め、散歩でやってきた大きな犬と戯れてと、穏やかな時間を過ごす。
 忙しなく時間に追われコンクリートの森を駆け回って、襲ってくる孤独感に苦しんでいた昨日までと違い、柾人と目的もなく歩くだけの緩やかな時間が、朔弥の凝り固まった心を少しずつ溶かしていくようだった。
 防波堤ぼうはていでのんびりと過ごす猫の姿に癒され、遠くに向かおうとする大きな貨物船のシルエットに世界の広さを感じ、自分がどれだけ小さな世界に閉じこもっていたかを目の当たりにする。
 世界にこんな綺麗な景色があるなんて……しかも二年も住んでいた都心からそれほど離れていない場所に。

「柾人さんはよく来るんですか?」
「あぁ、一人になりたいときにね。だが今は君とこの場所にいたい、ただただ綺麗な光景を君と見たいんだ」


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