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1巻
1-1
しおりを挟む第一章
新しい年度が始まったばかりの四月。桜も盛りを過ぎ、花弁が絨毯のようにアスファルトに敷き詰められては、踏まれても美しい色を保ってすぐにその上に新たな花弁を落としていた。
なにかを始めるのには丁度よいこの季節に出歩く人は多いだろう。
だが、夜と呼ぶには少し早い時間の新宿二丁目では開いている店は少ない。そんな数少ない中の一店では、もう複数の客が静かにマスターが作るカクテルを楽しんでいた。
その中で一人カウンター席に腰掛け、山村朔弥は慣れない酒を喉に流し込んでいた。
ただ苦いばかりで、なにが美味しいのかわからない液体を、勢いに任せて呑み続けているのに、ちっとも楽しい気持ちがやってこない苛立ちを、どうすることもできずにいる。
「もう山村ちゃん呑みすぎよぉ。それじゃお酒が可哀想よ」
ちょび髭を生やしたマスターが、板についたお姉言葉で話しかけてきても、いつものように言葉を返すことができないでいた。
「いいでしょ、オレの酒なんですから!」
荒々しい口調を投げ出して、マスターを驚かせた。
いつもの朔弥は言葉少なく、話してもどこか遠慮がちで声を荒らげることはなかったからだ。
またグラスに口を付け、苦いとしか思えない酒を流し込む。喉が焼け、鼻からは強い薬品のような匂いが抜けていく。酒に慣れていない朔弥にとっては、薬を飲んだほうがましな味だ。
顔が歪むのを堪えてグッと呑み込んでいく。注がれたばかりの酒はもう空となり、ボール状の氷だけが残された。
「……ちょっとはピッチを緩めなさいね」
朔弥のことを気にかけながらもこれ以上は言うまいと、マスターはいつものように真っ白なクロスでグラスを磨き始めた。都会特有の距離感にまた、淋しさが注ぎ込まれる。朔弥は泣きそうになるのを唇を噛み締めて堪えた。
昨日、付き合っていた恋人・市川に別れを告げられた。
なにも知らない朔弥に酒の味と男同士の恋愛を教えた市川は、いつもの人を喰ったような嗤い方をして言った。
『会社のオエラがたの娘を紹介されたから、その女と結婚するわ。だからもう連絡してくんな。まぁオレが調教した身体だし、気が向いたらまた相手してやるよ』
抱き合った後の傷む身体を引きずって見送った玄関で、何も言えず扉の向こうへと消えるその背中を呆然と見ているしかできなかった。
言葉が出てこなかった。暇つぶしの相手なんだと言わんばかりの物言いに、なにも言い返せなかった。
年上で遊び上手で、やることなすことすべてが自信に満ち溢れたように見えた市川は、要するにただの自分勝手な人間だったのだ。
今呑んでいるウイスキーボトルも、市川に言われるがままにキープしたものだ。大学生で、親からの仕送りだけで生活している朔弥には痛い出費だったが、それでも彼が喜んでくれるならと生活費を削って入れたのだ。
あまりの仕打ちにどうしたらいいのかわからず、こうしてやけ酒をするくらいしか思いつかない。
しかも二人で何度も訪れたこの店の、いつもの席で。
(怒れば良かったのかな、オレ……)
ふざけるなと怒鳴り散らし、感情のまま殴れば、こんなにもモヤモヤとした気持ちにならなかったのかもしれないが、朔弥にはそれができなかった。
大学進学を期に田舎から単身で上京してきた淋しさや不安が心を小さくさせていた。「また相手してやる」なんて傲慢な言い方にすら縋り付きそうになるほど、知り合いが誰もいない大都市は朔弥の心を孤独にしたのだ。
救ってくれたのは市川だった。やっと自分の居場所ができた、彼にならなにをされてもいいとずっと付き従っていた。孤独から逃げるように依存したのがいけなかったのか。文句の一つも言えないまま、ゴミのように簡単に捨てられてしまった。
朔弥は、大学に友達がいない。どの学生も輝いていて眩しく映り、朔弥が声をかけたら笑われてしまうんじゃないかと恐かった。
そして、自分から話しかけることもできず、愛想よく振舞うこともできない……自己肯定感の低さからくる仄暗さを纏う朔弥に、誰も話しかけてはこなかった。
当たり前だ。ひどく淋しい笑みを浮かべ、また酒を煽った。
(本当、オレってなにやってもダメな人間だ)
上京する前に父と兄にかけられた言葉が頭に蘇る。
『お前みたいな無能は、どこに行っても出来損ないの役立たずだ。東京に出たからって変わるわけがないから、人様に迷惑をかけることだけは絶対にするな!』
本当にその通りだと思う。
(こんなオレだから捨てられて当然なのかも)
けれど悲しいという感情が消えることはない。
朔弥は、涙を拾い上げるようにグッと顔を傾けて酒を呑み干した。唇に当たる氷の温度が心の温度に似ている。いっそこのまま誰かにボロボロにされたかった。くたびれた雑巾のようにめちゃくちゃにされて捨てられたなら、今度こそ思い残すことなんてなにもないだろう。
明日からやってくる孤独な日々の到来も、気にしなくて済む。
市川へと向かう小さな期待すらなくしたなら、すべてを捨ててしまえるかもしれない。自分ではできないから誰かに……ちらりと後ろのテーブル席にいる人々を見ようとして、できなかった。勇気が出ない。
『弄んで捨ててください』
なんて言ったらきっと笑われるだろう。そうでなくても自分がこの場にふさわしくないことは、朔弥が一番わかっている。子供の来る場所じゃないとあしらわれるのが関の山だ。
でも、朔弥にはここ以外の場所が思いつかなかった。
「そのお酒はあまり好きじゃないのかい?」
低いのに妙に通る声が近くから聞こえてきた。
少し揺れる視界を巡らせると、一つ空いたスツールのむこうに、この店で何度か見かけたことのある顔があった。いつもお洒落で高そうな服を身に着け、優しげな雰囲気と清潔感を醸し出す背の高い男……
「美味しくないなら無理して呑まないほうがいい」
そう言うと、男は朔弥の前に炭酸の泡がはじけるオレンジ色のカクテルを置き、朔弥が今まで呑んでいたグラスを自分の元へと寄せていく。仕草の一部始終にそつがなく、声も出せないまま、ただ呆気にとられるしかなかった。
綺麗な指先がグラスを揺らすように持ち上げ、香りを嗅いだ後に薄い琥珀色の癖の強い酒を灯りに翳した。
「アイラウイスキーかな。なかなか好みがわかれるけど、若いのにこれを呑むなんて珍しい」
「……ぁっ」
なんの躊躇いもない様子で、男は口に含んでいく。
「うん、アイラウイスキーだ。これをあのピッチで呑んだらすぐに潰れてしまうよ。ここで潰れたら大変なことになるのは知っているだろう」
だって、新宿二丁目だからね。
冗談のように言ってまた舐めるように一口含んでいく。
こんな小さな店にいるのが不思議なほど整った精悍な顔が、甘く溶けるような笑みを浮かべた。
不思議と朔弥の身体の深い場所が温かくなるのを感じた。回ったアルコールのせいでなく、頬が熱くなる。
「そのカクテルを呑んでごらん。きっと君に合うよ、さくや君」
「……なんで、名前……」
「なんでだろうね。さぁ呑んでみて」
勧められるまま、細い足のグラスに手を伸ばした。
「あ……」
「ミモザというんだ。呑みやすいように白のスパークリングワインにしてもらったんだが、どう?」
「うん、ジュース……みたい」
「でもアルコールは入っているから、あまり呑みすぎないほうがいい」
声が近くなった。
そして、男の身体も。
ふわりとシトラスの香りが鼻腔を擽った。当たり前のように肩を近づけ、隣のスツールに移ってきた。とても自然な仕草で。
一瞬、ざわっと周囲が騒がしくなったが、それはすでに酔いの回った朔弥の耳には届かなかった。
もう一口、甘いカクテルを口に運ぶ。あの苦味ばかりを抱いた心の中が、すーっと爽やかな呑みごたえのミモザに、不快な感情が押し流され軽くなっていく。
当たった肩が、少しも嫌じゃない。
「ひとりでここにいるのは珍しいね。いつもの……パートナーは?」
再び口をつけようとしたグラスを、ため息とともにテーブルに置いた。一瞬舞い上がった心がまた沈むの感じる。
「振られました……ううん、違うな。多分あの人の中でオレは、恋人でもなんでもなかったんだ……暇つぶしができる相手……うん、きっとそう」
自分がとても惨めで、嘲笑うような恋人の顔がまた脳裏に蘇る。その記憶を消したくて、忘れたくて酒を呑んでいるのに。
「まだ辛そうだ。よかったら話を聞くよ。それだけでも気持ちは晴れるだろう」
男の声があまりにも優しくて、朔弥は導かれるままに胸の内を吐露した。
悲しかった出来事も、辛かったあの瞬間も。なにもかもをゆっくりと。
「このウイスキー、あの人にねだられて入れたんです……そうしたらお前と呑めるって言われて……まだ半分も空いてないのに」
ポロポロと言葉が落ちていく。あんなに無茶な呑み方をしてもちっとも感じなかった酔いが、今になって回ってきているのがわかった。
(ちゃんと酔ってたんだ)
自認して、また投げやりのように嗤った。そうでもしなければ惨めでしかたない。
実家にいた時から感情を抑えつけることに慣れているせいで、想いを表に出すのが下手になってしまった。こんな時でもつい隠してしまいたくなる。
甘いカクテルは朔弥の気持ちを潤し、男の絶妙なタイミングの相槌はそれでいいんだと励ましてくれているようだった。
自分が付き合っていると思っていた一年間の想いを、長い時間をかけて漸くすべて吐き出した時、男はその大きな手で朔弥の背中を撫でた。
「随分とバカなヤツだ。君の魅力をなにも知らなかったんだな。泣くことはない」
初めて、朔弥は自分が泣いていることに気づいた。視界の端で、何杯目になるかわからないミモザのグラスが揺れる。誰かの前で泣くなんて久しくなかったのに……いい男がみっともないと思いながらも止めることができなかった。
「すみません……なんでオレ泣いてるんだろ。本当にすみません」
ただ顔を知っているだけという男の前で、気を張ることができない。自分を保てない。
情けない姿を見せているのに、居心地の悪さは不思議と感じなかった。
優しい掌と笑みが許してくれているからか。
手の甲で涙を拭っていると、綺麗にアイロンがあてられたハンカチがスッと差し出された。
「これを使いなさい」
「……すみませっ」
「気にしなくていい、さくや君にあげるよ」
「あはは……そんなに優しくされたらオレ、勘違いしちゃいますよ」
朔弥なりの精一杯の冗談。なのに、男は笑い飛ばしはしなかった。
「そのつもりだと言ったらどうする?」
まっすぐに朔弥の目を見て言った。
「あ……でもオレ、あなたの名前も知らないのに」
「そうだったね、これを。私の名刺だ」
ジャケットの内ポケットから名刺ケースを取り出し、手慣れた仕草で朔弥の前に一枚の名刺を置いた。
『サーシング株式会社 常務取締役 倉掛柾人』
「倉掛だ。あとはなにを知りたい? なんでも答えるよ……だから私の恋人になってくれないかい」
「えっ?」
驚いて男……柾人の顔を初めてじっくりと見た。少し彫りの濃い精悍な面差し。そして立ち居振る舞いや穏やかな喋り方は上品で誠実さが伺える。
(この人なら……)
こんな大人の見本みたいな人が相手だったら。例えぼろ雑巾のように遊ばれて、これからの未来をもすべて捨てることになっても、未練はなに一つ残らないだろう。
そんな投げやりな気持ちが朔弥の心に芽生えた。
◇
柾人はじっと朔弥を見つめた。大きな目が零れ落ちそうな程に見開き驚いている。
当たり前だ。なにせ彼からしたら急に現れた人間に突然、告白されたのだから。
だが、柾人はこの機会をずっと待っていた。
初めて朔弥を見たのは半年前だった。今のようにカウンター席に座り、どうしていいのかわからず不安そうにしていた。隣に腰掛けた男はなにか喋っていたが、一度も朔弥を見ることはなかった。
不安と淋しさとが綯い交ぜになったような表情から目が離せなかった。隣にいるのが自分なら、あんな顔をさせないのに。ふと湧き上がった感情を言い表すなら、一目惚れだろうか。泣くのを堪えたような笑い方に目が離せなくなった。
それから柾人は暇を見つけては、このバーに通い朔弥を探した。
遭遇する機会はあまりなかったが、それでも見かけるたびに泣きそうな瞳は変わらなかった。
幸せな恋愛をしていないことはわかっていたが、いつも隣にいる男は所有者ぶった仕草で朔弥を侍らせ、誰も寄せ付けなかった。
だから僥倖だ。朔弥が一人でいたことも、失恋しやけ酒を呷っている日に自分がここにいることも。
他の誰かが朔弥に話しかける前にと声をかけたのだが。恋愛慣れしていないのか、朔弥の戸惑いが柾人をたじろがせた。恋人がいたのだから男同士の恋愛を知っているだろうに、あまりにも反応が初心すぎる。こんな場所だ、失恋したと泣いても、話しかけてきた相手に期待を込めた視線を送るのが常だ。だが朔弥の目には哀しみだけが宿り必死に笑おうとして顔を歪めるばかりだ。どう手を出していいかわからなくなる。
だが、ここで怯んではいられない。店の常連の何割かは朔弥を狙っていることは知っている。
捕食動物のような繊細な容姿にほっそりとした体躯、それと自信なさげな仕草は、妙に男心を擽り、一部の嗜虐性を持った者たちにとっては喉から手が出るほど魅力的なのだ。
本人にその自覚があるかどうかわからないが、柾人はそういった性癖の人間が彼を舌なめずりしているような目で見ているのに気付いていた。
守ってもらう手を持たない虐待児特有の仕草に、諦めと期待が交互にやってくる表情。僅かな優しさにすら喜び、その一瞬を求める為に襲ってくる苦痛を耐えてしまう。
その特徴を知っている人間は、決して見逃しはしない。すぐにでも捕まえ、従服させようとするだろう。
その手から自分が守ってやりたい。
かつての自分を思い出させるから。幸い柾人は手を差し伸べてくれる人に会えた。
だが彼はどうか。
今まで独占してきた男がそれをするとは到底思えない。己を盲信する朔弥を見せびらかすだけ見せびらかして、愛情を欠片も注いでいないのは、端から見てもわかるほどだ。
だからこそ、あの男から剥がして自分の腕の中に閉じ込めたくなる。
今日、ここで朔弥を自分の恋人にしなければ二度と会えない、そんな言いようのない焦燥に駆られた。
「新しい恋で忘れてしまわないか。相手が私なら嬉しいんだが」
多少強引だと言われようが彼が手に入るなら……
その一途な眼差しを自分に向けてくれるなら、なりふりなど構っていられない。
朔弥と初めて話している事実に浮かれ、手順をすべてすっ飛ばしている自覚も、スマートさに欠けている自覚もある。だが、一刻でも早くと気持ちばかりが焦っていた。できる限り表情には出さず、落ち着きのある大人のふりをしているが。
突然の申し出に戸惑い、どうしていいのかわからなくなっているのだろう。酒で潤んだ朔弥の目が柾人を捉える。身体の奥底が熱くなるのを感じた。ただ見つめられているだけ、なのに。
衝動だった。
気が付けば柾人は、少し開いていた唇に自分のを重ねていた。赤みを帯びた唇から、オレンジと白ワインが混じった甘い香りがする。
再び店内がざわめいた。
ここに長くいてはいけない。本能がそう叫び始めた。
名残惜しいがゆっくりと唇を離す。驚いた綺麗な顔が柾人に笑みをもたらす。
新宿二丁目のバーでまさかの天使との出会いだ。
「場所を変えよう」
カウンターに一万円札を数枚置き、柾人は朔弥の手を引いて店から出た。アイコンタクトだけですべてを理解したマスターは静かに頷き二人を見送った。
戸惑う彼にただ笑いかけて、靖国通りに出てタクシーを拾い、自宅まで走らせる。
行き交う車のヘッドライトが所在なさげな朔弥の横顔を照らす。彼が感じている不安を少しでも取り除きたくて、膝の上で固く結ばれた細い手を右手で包んだ。緊張のせいか、肉付きの悪い手は冷たくなっている。
ビクリと身体を震わせ驚き、こちらを向けた朔弥の顔には、怯えと縋るような不安が含まれていた。見つめられてわかった。彼の表情はまるで仔犬のようだ。しかも捨てられた……
淋しくて淋しくてたまらない、そんな気持ちが素直に表情に出てくるのだ。
成人はしているだろうにあまりにもまっすぐで、ここがタクシーでなければ抱きしめていただろう。
なんでこんなに可愛いんだ。
「心配しなくていい。これから向かうのは私の家だ。あの店では君とゆっくり話せないと思ったからね」
ライバルが多すぎる。なんて言ったらまた困ったような顔をするだろう。彼は自分がとても魅力的だと知らないから。少し話しただけでわかる、朔弥はあまり自分自身を理解していない。どれだけ自分の存在が人を魅了しているかも。失恋の痛手のせいか、それとも恋人のつれない態度のせいか。どちらにしても柾人にとっては幸運だ。
知らないからこそ、同じように朔弥に好意を寄せていた連中を出し抜くことができた。視線が合ってから声をかけるといった暗黙のルールを忠実に守り、朔弥を舐めるように見ていた者たちにとって、柾人の所業は業腹だっただろう。
タクシーは渋滞することなく目的地に着いた。
高くそびえるマンションが数棟並んだ一角。その一つに柾人の部屋がある。
建ったばかりでまだ真新しいマンションは、すでに全室売り切れただけあって灯りが無数に灯っている。自分にとっては見慣れた場所だが、朔弥は素直に「すごい」と呟いて見上げていた。
「おいで」
手を差し出すと、おずおずとだが手を伸ばしてきた。
物慣れぬ指に己のを絡ませ、エントランスをくぐり上階へ向かうエレベータに乗り込んだ。
静かに上昇する機械の中でただじっと手だけを握り続ける。朔弥が怖がらないように……少しでも自分に心を向けてくれるように。最上階に近い部屋まで着くのにそれほど時間はかからず、チーンと高い電子音を立てて扉が開く。
一番奥まった場所にある扉を開け、朔弥を促した。
去年購入したばかりの部屋に誰かを招き入れるのは初めてだが、それが朔弥で良かったと感じるのは、自分が片思いをしている間に随分と彼に想いを募らせたからかもしれない。
フットライトが灯る廊下を抜け、扉を開けて先に朔弥を通した。
「うわぁ」
リビングの向こうを見て溜め息のような感嘆が薄桃色の唇から漏れた。
大きく取られたガラス窓の向こうに広がる都心の夜景は、灯りをつけずとも室内を照らしてくれた。相手の表情がわかるほどに。
「気に入った?」
「すごい、東京タワーを真横から見ているみたい……綺麗……」
自分も気に入っている景色を彼も好きになってくれたのが妙に嬉しくて、同時に言いようのない愛おしさが込み上げてきた。
柾人は口を開いたが、言葉を出せないまま固まった。
夜景に視線を向けた朔弥が綻ぶような笑みを浮かべたからだ。
哀しみや諦め、怯えと負の表情ばかりを見ていたから、彼がこんなにも可憐な花にも似た笑みを零すなんて想像もしなかった。それは少し幼さの残った顔に見合った無垢な笑みだった。
あのバーで、あの男の隣では、一度も見せたことのない表情に吸い込まれていく。
もっと見ていたいと希った。
それを隠させるなにかがあったのだろうと予測し、自分が拭い去りたいと切望した。
いつも自分の隣でこんな表情をして欲しい。そのまっすぐで愛らしい目を向けて欲しい。そう願ってしまうほどに、魅了してあまりある淑やかな美しさだった。
美しいものを見慣れた柾人ですら目を奪われすぐには声が出ない。
柾人が見てきた朔弥は、いつも不安と戸惑いを、長い髪に隠された綺麗な顔に浮かべていた。見る者によっては、庇護欲や嗜虐心を煽って止まない不安定さを宿している。
僅かでも自分を見て欲しいと恋人に向けるその眼差しは、愛を乞うているようであり、無視してバーのマスターとばかり喋り続ける相手に怒りを覚えた。
自分ならもっと彼を愛せる。
どんな些細な仕草すら見逃さず、慈しみ大切にするのに。
そして今見せてくれた笑顔が本来の彼なのだとしたら、柾人にだけ向けて欲しい。ずっと自分だけに見せて欲しい。
なによりも彼がずっと笑っていられるように守ってやりたい。朔弥を悲しませるすべてから。
くっきりとした二重の大きな目を不安に歪めさせたくはない。
そのために、自分はどんな努力も苦労も惜しまないだろう。
夜景に魅了されている朔弥の横顔に魅了され存分に堪能してから、ゆっくりと口を開いた。
「さっきの話の続きをしていいかい?」
「ぁ……っ」
景色に見惚れて忘れたのか、だんだんと朔弥の頬が赤くなっていく。
「君が良ければ、私の恋人になってくれないかい」
握ったままの手に力を込める。
朔弥の戸惑いは手に取るようにわかった。だがもう引けない。
誰も呼んだことのない場所に躊躇いもなく強引に連れてきたのは、本気で朔弥と恋をしたいと願っているからだ。あの笑顔をすべて自分だけに向けてくれたなら、どれほどの幸せがそこにあるだろうか。淡い色の瞳に自分だけを映してくれたならどれほどの幸福に包まれるのだろうか。これ程までに恋い焦がれてしまったなど彼は知らないだろうが、受け入れて欲しかった。
「……どうしてオレ、なんですか?」
「君は気づいてなかっただろうけど、ずっと見ていたよ。あの店で。いつも淋しそうにしていただろう……私ならそんな顔をさせないのにとずっと思っていたんだ。だから今度は私に愛させてくれないか」
「淋しそう」と言ったとき、細い身体が僅かに震えた。
不安や不信が大きな瞳に宿る。そういう顔をさせたくないのに、彼にはいつも笑っていて欲しいのに。だが怯えた表情は男の嗜虐心に火を点ける。そういう嗜好でなくても泣かせてみたくなりそうだ。
「……オレ、そんなに淋しそうでしたか……同情してしまうくらい」
柾人に絡め取られた指から力が抜け、肩が落ち、細さが強調された
心許なさが仕草に現れ、彼自身それがまた相手を煽るのだと知りもしないだろう。
安心させるように微笑みかけた。
「違う。本当に君は知らないんだね、自分がどれだけ人の目を惹きつけてやまないかを。どれだけ存在するだけで私の心を離さないかを……。罪だね」
本心を伝え、強く手を握った。ただ愛したいのだと伝えるために。
もう一度唇を重ねる。もうミモザの香りはしなかったがそれでもとても甘く、柾人は止めることができない。唇をついばみ舐めてみる。細い身体が怖がらないように優しく撫で、少しずつ深くしていく。わずかに開いた隙間から舌を潜り込ませるとビクリと朔弥の身体が跳ねた。
「っん……」
逃げようとする腰に手を回し引き寄せ密着し、口付けをさらに深くしていく。
奥へと逃げる舌を絡めとり口内をまさぐる。握った手を離さぬまま。
不思議だ。恋人がいたのに、ひどく硬い仕草だ。
まだあの男に未練があるのか。だから腹の奥で黒い感情が渦を巻く。
――嫉妬。
彼を手ひどく振った男などすぐにでも忘れさせてやると本気を出した。捕らえた舌を擦り、快楽の種を植え付けていく。握った手が震える場所を執拗に擽り、吸い出して歯で甘く先を噛む。
「んっ!」
離れようとする身体を許さず、グミのように何度も舌を噛んでから、そこを己の舌で擦り続けた。
刺激され敏感になった舌を、今度は優しく舐めれば、朔弥から甘い音が零れ出た。
けれど、彼の舌は動こうとはしない。
(もっと君を溶かさないとダメなのか)
柾人はもっと口付けを深くする。
舌だけではなく歯列も辿り、身体を強張らせる場所は何度も舐め愉悦で溶かして、次とばかりに上顎へとターゲットを変える。ザラついた場所を擽られた朔弥の細い身体が、大きく跳ねた。当然だ、そこは口内にある性感帯の一つなのだから。
舌先で優しい刺激を繰り返すと、朔弥から次第に力が抜けていく。
「あ……んっ」
鼻を抜ける甘い音が続けざまに上がると、柾人はまた舌を嬲り始める。それを数度続ければ、徐々に朔弥がもっととねだるように舌を差し出し、ゆっくりと、だが確実に自分から愉悦を求め始める。
たらりと下ろしていた手が柾人の掴み、握り込んだ。
柾人のキスに感じているのが嬉しくて、もっと悦ばせたくなる。濡れた音が暗いリビングを淫らな色へと塗り替えていく。幾度となく強張った身体はその次には力が抜けていき、長い口付けから解放する頃には、すべての力が細い身体から抜け、柾人に凭れかかった。
荒い呼吸を繰り返し、薄い肩が激しく動く。
(やり過ぎてしまったか……)
だが嬉しかった、彼が応えてくれたのが。
もっと朔弥の心に住み着きたくて、強引とわかっていて赤くなった耳に唇を寄せた。
「私の恋人になってくれる?」
細い腰を抱き訊ねた。形の良い頭が小さく頷く。
柾人は強く朔弥を抱きしめた。シャツ越しに伝わる骨の感触。肉付きが薄いのは見てわかったがここまで細いとは。
(もう少し太らせないとな、このままでは倒れてしまう)
今はもう止まらない欲望を優先したい。早く彼のすべてを自分のものだと感じたい。
細い身体を抱き上げリビングから続く寝室の扉を開き、長身の柾人に合わせたキングサイズのベッドに降ろした。
初めての夜だ、ここで失敗はできない。
フットライトのみを点け、彼が怖がらないように……
だが振り向いた朔弥の目に不安と戸惑いが浮かんでいるのを見つけて、怯んだ。かつて振り向いてくれない恋人に朔弥が向けていたのと同じ眼差しだったから。
(だめだ、ここで無理に抱いたら、毀れる……)
キスですら戸惑い逃げるように舌を奥へと引っ込ませた彼を自分の欲望のままに扱ったらきっと、先程見せてくれた笑顔は消え二度と垣間見れなくなってしまう。
今、自分の欲望をぶつけるよりも、彼の心を大切に守りたいと感じた。
毀したくない、たとえ一片でも欠けてしまったら、もうその心は元には戻らないだろう。自分が毀されたあの時と同じように。
伸ばした手を引っ込めた。
「疲れただろう、休みなさい。私はソファで寝るから」
「えっ、……でも……」
不安と困惑を宿したままの目が縋るように見つめてくる。大きな瞳が今にも泣き出しそうだ。安心させるように美しい栗色の髪を撫でた。
(大丈夫、私はそう簡単には手放さないから)
朔弥の元恋人とは違う。なんせ好いてしまった相手を雁字搦めにしてしまっては、いつも逃げられてしまうのだから。
そんな自分の性癖に苦笑して、アルコールとキスで朧気な朔弥をベッドに横たえた。羽毛布団をかけ、子供にするようにトントンと胸の辺りを優しく叩く。
「もう寝なさい、話したいことがあれば明日にしよう。ただし、私が君の恋人であることは忘れないでいてくれると嬉しい」
「そんな……忘れません……」
「その言葉を明日、もう一度確認させてくれ」
無茶な呑み方をして、その後も呑ませたのは軽いとはいえアルコールだ。忘れられても仕方がないし、忘れたところで思い出させるだけの自信はある。
なんせ手放すという選択肢は柾人の中には存在しないのだ。儚く今にも消えてしまいそうな彼が見せたあの笑顔をずっと見続けたい。
(まずは嫌われないようにしないと。いつものようにしてしまいそうだが)
こっそり苦笑して、とろりとした瞳が瞼で隠されるまでベッドに腰かけ、心音と同じ早さで優しく叩けば、心地よい寝息が聞こえ始めた。
無防備な寝顔が淡いライトに映し出される。緊張していた先ほどまでの表情とは違う、穏やかで愛らしい寝顔だ。
柔らかい髪を掻き上げれば、綺麗な顔が露わになる。
大きくくっきりとした二重の目が閉じられ、小ぶりな鼻と薄い唇が彼の線の細さを強調し、余計に儚さが際立つ。それを長い前髪で隠すから誰も気付かないだけだ。もし露わにしたなら、誰もが彼を欲しがるだろう。
なによりも、彼自身がそれを認識していないのに驚いた。こんなにも美しいのに、なぜ本人がわかっていないのか。不思議だが、幸運でもある。
穏やかな彼の寝息をBGMにしてじっくりと寝顔を眺めた。
起きている時の清麗な美しさとは違う庇護欲を掻き立てる表情に、柾人は知らず笑みを浮かべる。
「これがきっと君の本当の顔なんだね。いつかそれを私に向けてくれ」
願わずにはいられない。それほど心を開いてくれたなら、自分のすべてを受け入れてくれるのではないか。淡い期待がそこにはあった。
なんせ柾人が恋人から別れを告げられる理由はいつだって「執着」しすぎて相手を疲弊させてしまうからだ。
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