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第二章 番外編
番外編:ミーが死んだ日 2
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「徳島、URLは送っておいたから後は頼むよ」
「本当にするんですか部長……ちょっと息抜きに飲んでるだけかも知れないじゃないですか」
「それだって山村くんに隠す必要はないはずです。きっと後ろ暗いところがあるに違いありません。徹底調査しましょう」
こういう時の悪乗りには積極的な開発部だ。
まさかここまで大事になるとは思いもしなかった朔弥だが、もしもを考えると胸が締め付けられる。養子縁組して仕事上は「山村朔弥」を名乗り続けているが、戸籍はもう「倉掛朔弥」だ。社長も秘書も同じ名字だと混乱を招くという理由で使い分けをしているが、もし今、柾人が浮気をしているのだとしたら、朔弥はそれこそ身の置き所が亡くなってしまう。同じ会社で一緒に住んで、どちらが心変わりしたら、会社もあの家も出て行かなければならないのは朔弥だ。
社長や家主を追い出すことはできない。
二人を繋げるものは気持ちだけだ。もしミーがまだ生きていたら、猫に夢中の柾人はこんな行動を取りはしないだろう。
「もしかしてオレ……呆れられたのかな」
こんなことは初めてじゃない。
東京に出てきて初めて恋をした人も、朔弥ではない人を選んだ。その傷は癒えたと思っていたが、不安になると思い出される。次男だからと朔弥をないがしろにしてきた両親や兄と共に。
もしここで柾人に捨てられたなら、朔弥はもう一人だ。帰る家もなく縋る仕事もなくすだろう。そうなったとき、今までのように過ごせるかと言われたら自信がない。自暴自棄にだってなってしまうだろう。
そんな朔弥の不安を汲んだのだろう、和紗は。徹底的にやってしまえと徳島を煽り立てれば、周囲を囲んでいた女子社員も目の色を変えた。
「なんか面白くなってきたわね」
「変態社長、どこに行ってるか、明日から楽しみじゃない?」
口々にゲームを楽しむ感覚で場を和ませる。
朔弥にはすぐに分かった、それが自分に対する気遣いなのを。
「なんか……すみません」
「気にしないでください、山村くん。我々が勝手にアプリの実験をするだけです」
だがその中で徳山だけが泣きそうな顔になっている。実行者を仰せつかるストレスだろう、申し訳なさにペコリと頭を下げれば、年下の朔弥の前では見栄を張りたいのか片手で制してきた。
(でもいいのかな……こんなこと……柾人さんにもプライベートはあるだろうし……)
けれど不安しかなかった。
また自分は不要品になってしまうのだろう、と。どれだけ愛されても長い時間虐げられた記憶が自信を失わせる。本当に柾人にも会社のみんなにも良くして貰っているのに、なぜこんなに自分を卑下にしてしまうのだろう。
柾人や和紗のように自信が持てる人間になりたい。
(こんなとき、柾人さんが絶対にオレを捨てないって自信、持てればいいな)
嘆息して目の前の仕事を終わらせていく。
その日からサーシング開発部は、密かな祭り状態となっていた。
徳島があの手この手を使って柾人のスマホに件のアプリをインストールしてから、彼が退社するのを今か今かと待ち受け、普段だったら早く帰れる日は我先にと退社する社員達も、何かしらの言い訳をしながらデスクの前を離れないようになった。
「あっ、社長が新宿方面に移動しました」
「何だって!?」
三日目、いつものように先に退社した柾人の位置を追っていたメンバーが大声を上げた。気になって初日から業務終了後は開発部の隅にある机で仕事をしていた朔弥は、すぐに顔を上げた。
「うそ……」
新宿と言えば、初めて柾人と会ったバーがある町だ。
そういう嗜好の人間が集まる小さなコミュニティが存在し、平日の夜でも活気づいている。
(気になる子がいるのかな……柾人さんだったらオレなんかよりもずっと素敵なパートナー見つけるかも……)
小さくなる朔弥の腕を宮本が引っ張った。
「なにやってるのぉさくやくぅん、はやくモニター見ないとぉ!」
「宮本さん!」
「さくやくぅんのぉ、権利なんだからぁ、ちゃぁんと確認しないとぉだめだよぉ」
「あっ、はい」
皆が気遣わしげにこちらを見てくるのが申し訳ない。
「社長の動き、止まりましたね」
新宿二丁目の入り口近くで柾人の動きは止まっている。徳島が地図を拡大すれば、あるビルの中にいるようだ。
「ここで相手と逢瀬か……なかなか剛気だな倉掛」
腕を組んでモニターを見つめていた和紗が猫のように目を吊り上げた。不貞が許せないらしい。朔弥を実家から離籍させてくれたのも、柾人の戸籍に入ることを一番喜んでくれたのも、和紗だ。だからこそ柾人が何をしているのか見極めたいのかも知れない。
「それにしてもぉ、しゃっちょー動きませんねぇ」
「相手の子と飲んでるんじゃない? それともああいうことしてるとか?」
「ちょっと! 朔弥くんの前でそれ言っちゃダメ!」
「あっ、ごめん山村くん」
「いえ……」
本当にGPSは一カ所にとどまり動こうとしない。そこで柾人は何をしているだろう。
「あっ、社長に動きがありました!」
もう少し同じ場所にとどまっていると思った印は大通りに向かい、タクシーに乗ったのかものすごいスピードで移動を始めた。向かっている方向は自宅だ。
「随分と中途半端だなぁ」
徳島が頭を掻きながらモニターから少し身体を離した。
「どういうことだ?」
「いや、この場所にいたのって賞味二十分でしょ。浮気ならもっと時間を掛けるだろうし、遊びでも早すぎないですか? もっと別の用事のような気がするんですがねぇ」
「新宿二丁目にか?」
「あ……それを言われるとアレなんですけど……でも中途半端な時間の使い方だと思って」
「一応その場所にチェックを入れてみよう。山村くん、今日はもう上がりなさい。そしてあの馬鹿の自宅での様子を監視しなさい」
別部署の部長とは言え経営陣の一人である和紗の言葉には逆らえない。なんて自分に都合の良い言い訳をして書類を片付けていく。
「辛いけどぉ、まだしゃちょーにはぁ言っちゃダメだよぉ」
さりげなく釘を刺してくる宮本も、そして肩に手を掛けてくれる女性社員も、皆一様に怒りを面に貼り付けている。
「分かりました……ではお先に失礼します」
ペコリと頭を下げて会社から出れば、いつの間にかやってきた秋の風が震えるほどに朔弥の頬を撫で上げる。少しだけ肩を縮込ませて地下鉄まで走る。
何かに気を紛らわせないと嫌な想像ばかりが先走ってしまう。
柾人を信じたい気持ちと不安が綯い交ぜになって、じっとなんてしてられない。
黄色い地下鉄に乗り込んで、窓に映し出される自分の顔をぼんやりと見つめる。
柾人によってそれなりに見えるようになっても、学生時代と変わりない凡庸さが際立っている。こんな自分に愛を囁いていたことに彼が疑問を抱いても不思議ではない。少しだけ前髪を上げて眼鏡を掛けると、元からの神経質さが際立って冷たい印象にもなっている。それを嫌がられたのだろうか。
銀色のフレームの眼鏡を外して鞄の中にしまってもう一度見ても、やはり凡庸さが際立っている。
「はぁ……」
ため息しか出ない。
落ち込んだ気持ちのまま家に着けば、先に帰っていた柾人がミーの死後全く弄らなかった猫グッズの周りを片付けていた。
「……どうしたんですか?」
頑ななまでにそのままにしていた柾人にしては異様だ。
朔弥が帰ってきたことに気付かないほど夢中になっていたのだろう、こちらを振り向いた柾人は酷くばつの悪そうな顔をしていた。
「あ……いや、少し気になってしまってね。今日は随分と早いんだね、朔弥」
「はい……和紗さんに上がるよう言われました」
「そうか。食事の用意をして奥から荷物を置いてくるといい」
了承を告げ、寝室の斜め前にある仕事部屋の扉を開けた。ビジネスバッグを握っていた手が笑ってしまうくらいに震えている。二人が慈しんだ存在であるミーのものを片付ける、その意味は一つしかなかった。
「……相手の人に本気なんだ」
ミーとの思い出が不要になるほど、相手に心を奪われているのだろう。
「オレも早くここから出ることを考えないと……」
暗い部屋の中、どこに目を向けて良いか分からず朔弥はしばらくその場に佇み、自分を呼ぶ柾人の声にやっと我に返り必死に顔に笑顔を貼り付けさせてからリビングへと戻った。
その時にはもう、ミーのために用意したもののいくつかがなくなっているのに気付いたが、何も言えず味のしないご飯を無理矢理に飲み込んだ。
「本当にするんですか部長……ちょっと息抜きに飲んでるだけかも知れないじゃないですか」
「それだって山村くんに隠す必要はないはずです。きっと後ろ暗いところがあるに違いありません。徹底調査しましょう」
こういう時の悪乗りには積極的な開発部だ。
まさかここまで大事になるとは思いもしなかった朔弥だが、もしもを考えると胸が締め付けられる。養子縁組して仕事上は「山村朔弥」を名乗り続けているが、戸籍はもう「倉掛朔弥」だ。社長も秘書も同じ名字だと混乱を招くという理由で使い分けをしているが、もし今、柾人が浮気をしているのだとしたら、朔弥はそれこそ身の置き所が亡くなってしまう。同じ会社で一緒に住んで、どちらが心変わりしたら、会社もあの家も出て行かなければならないのは朔弥だ。
社長や家主を追い出すことはできない。
二人を繋げるものは気持ちだけだ。もしミーがまだ生きていたら、猫に夢中の柾人はこんな行動を取りはしないだろう。
「もしかしてオレ……呆れられたのかな」
こんなことは初めてじゃない。
東京に出てきて初めて恋をした人も、朔弥ではない人を選んだ。その傷は癒えたと思っていたが、不安になると思い出される。次男だからと朔弥をないがしろにしてきた両親や兄と共に。
もしここで柾人に捨てられたなら、朔弥はもう一人だ。帰る家もなく縋る仕事もなくすだろう。そうなったとき、今までのように過ごせるかと言われたら自信がない。自暴自棄にだってなってしまうだろう。
そんな朔弥の不安を汲んだのだろう、和紗は。徹底的にやってしまえと徳島を煽り立てれば、周囲を囲んでいた女子社員も目の色を変えた。
「なんか面白くなってきたわね」
「変態社長、どこに行ってるか、明日から楽しみじゃない?」
口々にゲームを楽しむ感覚で場を和ませる。
朔弥にはすぐに分かった、それが自分に対する気遣いなのを。
「なんか……すみません」
「気にしないでください、山村くん。我々が勝手にアプリの実験をするだけです」
だがその中で徳山だけが泣きそうな顔になっている。実行者を仰せつかるストレスだろう、申し訳なさにペコリと頭を下げれば、年下の朔弥の前では見栄を張りたいのか片手で制してきた。
(でもいいのかな……こんなこと……柾人さんにもプライベートはあるだろうし……)
けれど不安しかなかった。
また自分は不要品になってしまうのだろう、と。どれだけ愛されても長い時間虐げられた記憶が自信を失わせる。本当に柾人にも会社のみんなにも良くして貰っているのに、なぜこんなに自分を卑下にしてしまうのだろう。
柾人や和紗のように自信が持てる人間になりたい。
(こんなとき、柾人さんが絶対にオレを捨てないって自信、持てればいいな)
嘆息して目の前の仕事を終わらせていく。
その日からサーシング開発部は、密かな祭り状態となっていた。
徳島があの手この手を使って柾人のスマホに件のアプリをインストールしてから、彼が退社するのを今か今かと待ち受け、普段だったら早く帰れる日は我先にと退社する社員達も、何かしらの言い訳をしながらデスクの前を離れないようになった。
「あっ、社長が新宿方面に移動しました」
「何だって!?」
三日目、いつものように先に退社した柾人の位置を追っていたメンバーが大声を上げた。気になって初日から業務終了後は開発部の隅にある机で仕事をしていた朔弥は、すぐに顔を上げた。
「うそ……」
新宿と言えば、初めて柾人と会ったバーがある町だ。
そういう嗜好の人間が集まる小さなコミュニティが存在し、平日の夜でも活気づいている。
(気になる子がいるのかな……柾人さんだったらオレなんかよりもずっと素敵なパートナー見つけるかも……)
小さくなる朔弥の腕を宮本が引っ張った。
「なにやってるのぉさくやくぅん、はやくモニター見ないとぉ!」
「宮本さん!」
「さくやくぅんのぉ、権利なんだからぁ、ちゃぁんと確認しないとぉだめだよぉ」
「あっ、はい」
皆が気遣わしげにこちらを見てくるのが申し訳ない。
「社長の動き、止まりましたね」
新宿二丁目の入り口近くで柾人の動きは止まっている。徳島が地図を拡大すれば、あるビルの中にいるようだ。
「ここで相手と逢瀬か……なかなか剛気だな倉掛」
腕を組んでモニターを見つめていた和紗が猫のように目を吊り上げた。不貞が許せないらしい。朔弥を実家から離籍させてくれたのも、柾人の戸籍に入ることを一番喜んでくれたのも、和紗だ。だからこそ柾人が何をしているのか見極めたいのかも知れない。
「それにしてもぉ、しゃっちょー動きませんねぇ」
「相手の子と飲んでるんじゃない? それともああいうことしてるとか?」
「ちょっと! 朔弥くんの前でそれ言っちゃダメ!」
「あっ、ごめん山村くん」
「いえ……」
本当にGPSは一カ所にとどまり動こうとしない。そこで柾人は何をしているだろう。
「あっ、社長に動きがありました!」
もう少し同じ場所にとどまっていると思った印は大通りに向かい、タクシーに乗ったのかものすごいスピードで移動を始めた。向かっている方向は自宅だ。
「随分と中途半端だなぁ」
徳島が頭を掻きながらモニターから少し身体を離した。
「どういうことだ?」
「いや、この場所にいたのって賞味二十分でしょ。浮気ならもっと時間を掛けるだろうし、遊びでも早すぎないですか? もっと別の用事のような気がするんですがねぇ」
「新宿二丁目にか?」
「あ……それを言われるとアレなんですけど……でも中途半端な時間の使い方だと思って」
「一応その場所にチェックを入れてみよう。山村くん、今日はもう上がりなさい。そしてあの馬鹿の自宅での様子を監視しなさい」
別部署の部長とは言え経営陣の一人である和紗の言葉には逆らえない。なんて自分に都合の良い言い訳をして書類を片付けていく。
「辛いけどぉ、まだしゃちょーにはぁ言っちゃダメだよぉ」
さりげなく釘を刺してくる宮本も、そして肩に手を掛けてくれる女性社員も、皆一様に怒りを面に貼り付けている。
「分かりました……ではお先に失礼します」
ペコリと頭を下げて会社から出れば、いつの間にかやってきた秋の風が震えるほどに朔弥の頬を撫で上げる。少しだけ肩を縮込ませて地下鉄まで走る。
何かに気を紛らわせないと嫌な想像ばかりが先走ってしまう。
柾人を信じたい気持ちと不安が綯い交ぜになって、じっとなんてしてられない。
黄色い地下鉄に乗り込んで、窓に映し出される自分の顔をぼんやりと見つめる。
柾人によってそれなりに見えるようになっても、学生時代と変わりない凡庸さが際立っている。こんな自分に愛を囁いていたことに彼が疑問を抱いても不思議ではない。少しだけ前髪を上げて眼鏡を掛けると、元からの神経質さが際立って冷たい印象にもなっている。それを嫌がられたのだろうか。
銀色のフレームの眼鏡を外して鞄の中にしまってもう一度見ても、やはり凡庸さが際立っている。
「はぁ……」
ため息しか出ない。
落ち込んだ気持ちのまま家に着けば、先に帰っていた柾人がミーの死後全く弄らなかった猫グッズの周りを片付けていた。
「……どうしたんですか?」
頑ななまでにそのままにしていた柾人にしては異様だ。
朔弥が帰ってきたことに気付かないほど夢中になっていたのだろう、こちらを振り向いた柾人は酷くばつの悪そうな顔をしていた。
「あ……いや、少し気になってしまってね。今日は随分と早いんだね、朔弥」
「はい……和紗さんに上がるよう言われました」
「そうか。食事の用意をして奥から荷物を置いてくるといい」
了承を告げ、寝室の斜め前にある仕事部屋の扉を開けた。ビジネスバッグを握っていた手が笑ってしまうくらいに震えている。二人が慈しんだ存在であるミーのものを片付ける、その意味は一つしかなかった。
「……相手の人に本気なんだ」
ミーとの思い出が不要になるほど、相手に心を奪われているのだろう。
「オレも早くここから出ることを考えないと……」
暗い部屋の中、どこに目を向けて良いか分からず朔弥はしばらくその場に佇み、自分を呼ぶ柾人の声にやっと我に返り必死に顔に笑顔を貼り付けさせてからリビングへと戻った。
その時にはもう、ミーのために用意したもののいくつかがなくなっているのに気付いたが、何も言えず味のしないご飯を無理矢理に飲み込んだ。
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