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第二章

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「私が女性を恋愛対象にできなくなったのは、その時からだろう」

 冷静に言葉にしているが、もう忘れたと聞いていたのに今話していると言うことは辛い思い出の蓋が開いたということか。朔弥はギュッと拳を握れば優しい手がそれを包み込んでくれた。

 遠い親戚が叔父にクレームを入れたことで柾人のことは親戚一同が知ることとなり、叔父は当然のこと、名前も知らない親戚から暴行を受けたのだった。両親の位牌もその時に壊され捨てられた。だが未成年を放り出すこともできないから、柾人よりも年上の男児がいる親戚に預けられ、今度はその子供たちが柾人に暴力を振るい続けた。

 学校だろうが家だろうが殴られ蹴られ、食事もまともに与えられず、生きていけたのは給食があったおかげだった。勉強はできたがそれが余計に親戚の子供たちの癪に障ったのだろう、教科書やノートを破られ鞄の上に放り投げられることもあった。柾人の心も荒れ果て、揶揄ってくるクラスメイトを暴力で黙らせ、それでも晴らせない鬱憤を抱えながら生きていた。帰れば殴られるのは分かっていたからいつもどこかで時間を潰し、できる限り遅くに帰宅しては殴られる時間を短くした。

 そんなときに出会ったのが咲子だった。

 初めは女性というだけで存在を受け入れることができなかったが、咲子は隠すことなく柾人に自分の目的を話した。会社のため優秀で不幸な子を集めている、と。「あなたが望むのなら親戚一同から縁を切る助けをしますわ。大学までの学費と生活費も。けれど、代わりにその一生を私たち一族に捧げてちょうだい」

 中学を卒業したら働きに出ようと考えていた柾人は初めて揺れた。働いた金を搾り取ろうと親戚たちが話しているのを聞いたからだ。一生奴らの金づるになるくらいなら、咲子に賭けてみようと。

 承諾した次の日、咲子は親戚一同を集め、遠い親戚の妻が柾人を脅して関係を持ったという知人の証言に加え虐待暴行の証拠を出し、警察に出すのと今後一切柾人に関わらないのとどちらかを選べと弁護士立ち会いで請求し、親戚一同は当然のように後者を選びサインをした。その中には当然叔父も含まれていた。

 それから柾人は咲子の元でひたすら勉学に励む日々だった。何かあったときにと護身術も習わされ、高校生でありながら組織論や経営学まで叩き込まれた。マンションの一室を宛がわれ、学校が終われば日替わりで家庭教師がやってきて夜遅くまで勉強をする日々だが、心は穏やかだった。

 大学に入ると咲子が行っている慈善団体の運営を手伝いながら大学の単位を取得していくだけのはずが、蕗谷に出会った。咲子の息子だとは知らず言われるがまま彼が立ち上げたサークルに入ったのは、家庭教師の必要がなくなり実践での勉強に移ってできた時間を持て余すようになったからだ。何もしなくていい時間は嫌な記憶を呼び起こしそうで怖かった柾人は、空いた時間すべてをサークルに打ち込んだ。それが合資会社になり有限会社になり、気がつけば蕗谷の手足となって動く日々へと変わっていった。

 これには咲子も何も言えなかった。

 柾人との契約に書かれた『蕗谷一族』の一人に使われているのだから。

 忙しい日々を過ごし会社が大きくなっていき従業員も増えようやく落ち着いたとき、どうしようもない寂しさに襲われた。自分は一人なのだと強烈に感じ、傍にいてくれる誰かを求めるようになった。幸い男に恋愛感情を抱くのに抵抗はなかった。

 恋人はすぐにできたが、今度は少しの時間でも離れるのが怖くなった。両親のようにある日突然消えてしまうのではないか。そうでなくともゲイは男女よりも関係が希薄な場合が多い。恋人がいても時折つまみ食いするのが当たり前だと考える人間もいる。だから恋人を奪われないよう、どんどん行動を縛り付け雁字搦めにして、最後にはそれに窒息した恋人に捨てられるのを繰り返していた。

 誰と付き合っても孤独を埋める存在はいなかった。

「私が乗っているあの車。随分古いが、あれには父と母が届けた部品が使われているんだ。ようやく形見と言えるものを手に入れた気持ちになった」

「ぁ……」

 柾人が大事にしている車。古い外国製のそれに、柾人の両親の想いがまだ搭載されているのだという。

 インターネットが発達し情報が溢れた頃、ようやく搭載車を見つけたとき、柾人は言葉にできない気持ちになった。クラシックカーというにはまだ新しい中途半端な年式の車だが、コレクターに人気で、オーナーの家を一軒一軒回って頭を下げた。どれほどの値が張ろうとも構わなかった。だが手放そうとする人間は少ない。それでも交渉し、ようやくその中の一人が話を聞いてくれ譲ってくれた。

 車を手に入れようやく寂しさから解放されると思っていたが、現実的にはそううまくいかず、朔弥に会うまでずっと心を埋めてくれる存在を探し求めていた。

「朔弥は不思議だ。最初から私の心の隙間に入り込んで癒やしてくれた。私の愛し方が嬉しいといい、傍にいたいと言ってくれた。……昨日は現在も未来も私に捧げると言ってくれたね」

「はい。これからもずっと柾人さんの隣にいたいです」

「けれど私はまだ不安なんだ」

「え?」

 あんなに言葉で身体で伝えてもダメなのだろうか。この人には届かなかったのだろうか。花開いたはずの自尊心がまた萎んでいこうとする。

 そんな朔弥を見て柾人は強く抱きしめてきた。

「一生のパートナーとしてずっといると誓った朔弥の、戸籍まで一緒でないと不安だ。……私の戸籍に入ってくれないか」

「えっ……それって……」

 サーシングの女性陣が口にした提案が頭を過る。柾人が求めているのはそういうことなのだろうか。

「社長のようなだまし討ちするようなやり方はしたくない。朔弥に選んで欲しいんだ」

 柾人は隠し持っていた薄い紙を朔弥に渡した。

 つるりとした紙には『養子縁組届』と大きく記載されている。

「もし朔弥に何かあったら誰よりも一番に傍にいることができる……逆も然りだ。こういう縛り付け方をしてもいいかい?」

 トクンと胸が跳ねる。同僚よりも恋人よりも、もっと踏み込んだ深い関係。それは朔弥が捨てた家族よりもずっと深く優しいものだ。

「……いいんですか? そんなことしたら柾人さんもオレから逃げられませんよ……もう家族を失うなんて嫌ですから」

「それは私もだ。これからの私を君に捧げたい、だから君のすべてを私にくれるかい」

 柾人は、同じ指に付けた同じデザインの指輪を弄ってくる。柾人から贈られた誠意の証はいつも朔弥を勇気づけてくれる。兄に反論したときも、この指輪がなければ言葉を口にすることはできなかった。家族の縁を切る勇気すらも生まれなかっただろう。

 この指輪があったから、朔弥はどこまでも強くいられたのだ。

 朔弥は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

 返事などとうに決まっている。

 怠い腰にムチを打ち、少し上体を伸ばしこちらを見つめる柾人と目を合わせた。

 その優しい眼差しはいつだって朔弥を勇気づけてくれる。指輪を弄る節の張った指に細い自分のを絡ませた。嬉しくて泣いた前回と同じ轍は踏まない。そんな単純な感情ではない。もっと純粋で心を震わせ華やかでありながらも重い覚悟がそこにある。

 仕事もプライベートも、すべてを柾人とともに歩み、離脱することは許されない。

 互いに一度家族を失い、もう一度失ってしまったなら二人とももう立ち直れないだろう。
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