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第二章
11-2
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同時に年末に柾人に暴言を吐いた男の顔が頭に浮かぶ。
咲子が引き取るまで、どんな思いでいたのだろう。もし今、幼かった柾人が目の前にいたら抱きしめてあげたいと思うほどだ。
あの覚えのいい人が忘れたくなるほどの苦痛だったはずだ。そして実際に忘れたのなら、悲しい記憶を掘り起こすのは傷を広げるのと変わりない。
「だから、心から誰かを信じたいと藻掻く柾人くんの信頼を裏切らないで欲しいの」
あぁ、自分に逢いたいと言ったのは本当に柾人の心を思いやってるからだ。そうでなければ相手が男であることに拒絶するだろうし、刹那な関係かどうかを見極めようとはしない。
「あの……咲子様は今までもこうして柾人さんの恋人を呼び出されていたんですか」
「こんなお節介をかけるのは今回が初めてよ。だって今までの皆さんは三ヶ月で柾人くんの側を去ったから、私に情報が入ったときにはいつも別れた後ですもの」
コロコロとまた少女のように上品に笑い始める。深い関係を築いた恋人が今までいないことを喜ぶのか悲しむのか自分でも分からない。ただ、柾人がずっと孤独だったことに言いようのない寂しさが胸を占めた。
「柾人さんに嫌われるまでは隣にいたいです」
本音だ、あんなに乱暴に抱かれても嫌いになれない自分がいた。朔弥の方が柾人を心の拠り所にして離れることなど考えられない。
「その言葉が聞けてとても嬉しいわ」
刻まれた皺を深くして微笑む咲子に、少し悲しくなってしまう。自分の母もこんな風に思ってくれたならと感じずにはいられない。自分の子供だけではなく、援助した子供にもこれ程深い愛情を向ける彼女が母親なら、朔弥はどうなっていただろうか。もう少し自分に自信を持っていられただろうか。
「……朔弥さん、何か困ったことがありますの?」
その僅かな表情を見て咲子は問いかけてきた。
ドキリとして、だが今言わなければならない言葉がある。柾人といるために。
「あ……その。咲子様が教育困難な子供に援助していると聞きました。厚かましいんですが、大学卒業までの一年、学費を貸していただくことはできませんか。仕事を始めたら絶対にお返ししますから!」
「あらあら。また突然ね。まずは事情を聞かせて貰えないかしら」
驚いた顔一つせず訊ねられ、朔弥は実家であった出来事をありのままに話した。自分が愛されなかった子供であることはもう認めた。それでも愛してくれる柾人が側にいる、怖いものはなにもない。
「こういう事情で親から学費と生活費が打ち切られると思うんです。でもオレは柾人さんを助けたいですし、サーシングで働きたいと願ってます。咲子様が援助する子供に求めているものがあるとは伺ってますし、その求めに応えることはできませんが、助けて貰えないでしょうか」
「私にお願いをしているということは、柾人くんには話していないのね。どうして?」
「……きっと柾人さんが知ったならすぐにでも助けてくれます。優しい人ですから……でもオレは柾人さんと対等でいたいんです。今ですら生活面で支えて貰ってるのにその上学費までとなったら、オレは絶対に柾人さんに負い目を感じます。絶対に学費を返させてくれないから……それじゃ、後ろに控えることはできても、隣に立つ立場じゃなくなります……」
隣に立つために頑張りたい。支えとなりたい。けれど、学費を援助されたらスタートから自分の心が後ろめたさでいっぱいになってしまう。柾人に愛されてようやく得た僅かな自信が、すぐに枯れ果てまた昔の自分に戻るように感じていた。
「朔弥くんの気持ちは分かりました。とても素敵ね。……けれど私が運営している慈善財団からは援助できないわ。あれはあくまでも蕗谷家のためのものですから」
「そう……ですよね」
断られる想定はしていた。あくまでも蕗谷家の事業を助けるための人材を青田買いするための財団である。表向きは進学困難な子供を助けるためと謳っていても、企業が必死に稼いだ金である、それをただばらまくようなことはしないだろう。
「変なお願いをしてしまい申し訳ありません」
深く頭を下げれば、ずっと黙っていた唯が慌てて咲子へと縋り付く。
「お母さん……あのっ」
「唯さん大丈夫です、失礼なお願いをしたのはオレの方ですから」
「でも、それじゃ山村さんはどうなっちゃうんですか?」
「他にも奨学金を貸してくれるところはあると思うんです。自分で探しますから、そんな悲しい顔をしないでください、唯さん」
大きな目を今にも泣きそうなほど潤ませる唯を宥めると、またコロコロと咲子が笑い出した。
「朔弥くんも唯さんも落ち着いてくださいな。私の話はまだ終わっておりませんわ」
「え?」
唯が素直な反応を見せれば、咲子は意を得たりと嬉しそうに笑う。
「驚かせてしまってごめんなさいね。朔弥くんがどれくらいの覚悟をされているのか見たくて意地悪をしてしまったわ。実はすぐに他の手を探すと言ってくださるのを待ってましたのよ」
「お母さん、それって……」
「それほど柾人くんを想っているということでしょう。嬉しいわ」
コロコロとまた鈴を転がすように笑い始め、そして一瞬にして真顔になる。
「財団からの援助はできませんよ。けれど朔弥くんを気に入りましたから個人的に援助をさせていただくわ。当然、条件はありましてよ」
「あの、条件というのは……柾人さんと別れることやサーシングへの入社を諦めることだったら受け入れることはできません……我が儘は承知なのですが……」
「本当に朔弥くんは柾人くんのことが大好きなのね。大学卒業まで経営のノウハウを叩き込みます、かつて私が柾人くんに教えたようにね。入社してから覚えるよりもすぐにでもサポートできるようにしましょう。あと、和紗ちゃんから聞いた資格のお話、あれを同時進行で取得してくださいね。当然、アルバイトする暇はなくてよ。毎日のように大学の講義が終わりましたら、専門の教育を受けていただきますよ」
「え……いいんですか?」
前のめりになってしまう。この条件は咲子の得になることはなにもない。むしろ朔弥にとって都合のいいことばかりだ。
お金を借りる立場の人間なのにこれほどまで好待遇でいいのだろうか。
ただ柾人のことを大事にしているにしては条件がよすぎて勘ぐってしまう。
「朔弥くんが一緒なら、唯さんも参加したくなりますでしょ」
「えっ、ボクもいいの?」
「一人だと寂しいけれど、一年だけ朔弥くんが一緒なら、唯さんもやりがいがありますでしょ。経営や組織運営を少しはかじってみてはいかがかしら? 私と一緒に慈善活動をするために小児心理を専攻してくださったのでしょ」
もう朔弥がそこにいるなんて気にしていないように、積極的に唯を勧誘する咲子の意図が客観的な立場になってようやく読み取れた。
彼女が本当に教えたいのは朔弥ではなく唯にだ。よくよく考えれば、唯も蕗谷家の人間だ。社長の蕗谷は常々専業主婦をしてくれればいいのにと朔弥にぼやいていたが、実際に大学に通いながら専業主婦のようにまめまめしく世話をしているから疑問ではあった。
唯を自分が運営している組織に巻き込みたい咲子と、自分のために家にいて欲しい蕗谷とで熾烈な奪い合いが行われていて、朔弥は絶好の駒なのだ。
(社長を裏切るみたいで申し訳ないけど……やっぱり勉強しておいた方が柾人さんのためになるはずだ)
明快な下心があるのに安堵して朔弥はまた頭を下げた。
「咲子様、ありがとうございます!」
「うふふ素直なのね、朔弥くんは。私が設けた基準をクリアしましたら、援助した学費は返還不要にしましょう」
「それでは申し訳ないです!」
「そういう楽しみがあった方がいいでしょ、ゲームのようで。年寄りの遊びに付き合ってくださいませ。柾人くんともこんな遊びをしていましたのよ。あの子はとても優秀ですぐにクリアしてしまったからつまらなかったけど、お二人はどうかしら。うふふ」
その話が本当かどうか確かめる術はない。だが断る理由を見つける方が至難な業だ。柾人もしていたと言われて、強く断ることなんかできない。むしろ、その基準をクリアすれば一層柾人の力になれるんだと意気込んでしまいそうだ。
「期待に応えられるように頑張ります。何から何まで甘えてしまって申し訳ございません」
「あら、謝ることはなくてよ。頼って貰って嬉しいくらい。ではアルバイトの件は私から和紗ちゃんに伝えておきますね、その方がスムーズでしょ」
「ありがとうございます」
今の朔弥にできるのはただ頭を下げることだけだ。
柾人に知られないように勉強を続けるしかない。彼のために、彼の助けになれる人間になるために。
「では明日からこちらにいらしてくださいね」
差し出された名刺には、咲子が代表になっている団体名と、大学からそう離れていない住所が記載されている。大事に掴み胸が熱くなるのを感じた。
「はい、ありがとうございます!」
新たな一歩が始まる予感に高鳴る胸が煩いくらいだ。
咲子が引き取るまで、どんな思いでいたのだろう。もし今、幼かった柾人が目の前にいたら抱きしめてあげたいと思うほどだ。
あの覚えのいい人が忘れたくなるほどの苦痛だったはずだ。そして実際に忘れたのなら、悲しい記憶を掘り起こすのは傷を広げるのと変わりない。
「だから、心から誰かを信じたいと藻掻く柾人くんの信頼を裏切らないで欲しいの」
あぁ、自分に逢いたいと言ったのは本当に柾人の心を思いやってるからだ。そうでなければ相手が男であることに拒絶するだろうし、刹那な関係かどうかを見極めようとはしない。
「あの……咲子様は今までもこうして柾人さんの恋人を呼び出されていたんですか」
「こんなお節介をかけるのは今回が初めてよ。だって今までの皆さんは三ヶ月で柾人くんの側を去ったから、私に情報が入ったときにはいつも別れた後ですもの」
コロコロとまた少女のように上品に笑い始める。深い関係を築いた恋人が今までいないことを喜ぶのか悲しむのか自分でも分からない。ただ、柾人がずっと孤独だったことに言いようのない寂しさが胸を占めた。
「柾人さんに嫌われるまでは隣にいたいです」
本音だ、あんなに乱暴に抱かれても嫌いになれない自分がいた。朔弥の方が柾人を心の拠り所にして離れることなど考えられない。
「その言葉が聞けてとても嬉しいわ」
刻まれた皺を深くして微笑む咲子に、少し悲しくなってしまう。自分の母もこんな風に思ってくれたならと感じずにはいられない。自分の子供だけではなく、援助した子供にもこれ程深い愛情を向ける彼女が母親なら、朔弥はどうなっていただろうか。もう少し自分に自信を持っていられただろうか。
「……朔弥さん、何か困ったことがありますの?」
その僅かな表情を見て咲子は問いかけてきた。
ドキリとして、だが今言わなければならない言葉がある。柾人といるために。
「あ……その。咲子様が教育困難な子供に援助していると聞きました。厚かましいんですが、大学卒業までの一年、学費を貸していただくことはできませんか。仕事を始めたら絶対にお返ししますから!」
「あらあら。また突然ね。まずは事情を聞かせて貰えないかしら」
驚いた顔一つせず訊ねられ、朔弥は実家であった出来事をありのままに話した。自分が愛されなかった子供であることはもう認めた。それでも愛してくれる柾人が側にいる、怖いものはなにもない。
「こういう事情で親から学費と生活費が打ち切られると思うんです。でもオレは柾人さんを助けたいですし、サーシングで働きたいと願ってます。咲子様が援助する子供に求めているものがあるとは伺ってますし、その求めに応えることはできませんが、助けて貰えないでしょうか」
「私にお願いをしているということは、柾人くんには話していないのね。どうして?」
「……きっと柾人さんが知ったならすぐにでも助けてくれます。優しい人ですから……でもオレは柾人さんと対等でいたいんです。今ですら生活面で支えて貰ってるのにその上学費までとなったら、オレは絶対に柾人さんに負い目を感じます。絶対に学費を返させてくれないから……それじゃ、後ろに控えることはできても、隣に立つ立場じゃなくなります……」
隣に立つために頑張りたい。支えとなりたい。けれど、学費を援助されたらスタートから自分の心が後ろめたさでいっぱいになってしまう。柾人に愛されてようやく得た僅かな自信が、すぐに枯れ果てまた昔の自分に戻るように感じていた。
「朔弥くんの気持ちは分かりました。とても素敵ね。……けれど私が運営している慈善財団からは援助できないわ。あれはあくまでも蕗谷家のためのものですから」
「そう……ですよね」
断られる想定はしていた。あくまでも蕗谷家の事業を助けるための人材を青田買いするための財団である。表向きは進学困難な子供を助けるためと謳っていても、企業が必死に稼いだ金である、それをただばらまくようなことはしないだろう。
「変なお願いをしてしまい申し訳ありません」
深く頭を下げれば、ずっと黙っていた唯が慌てて咲子へと縋り付く。
「お母さん……あのっ」
「唯さん大丈夫です、失礼なお願いをしたのはオレの方ですから」
「でも、それじゃ山村さんはどうなっちゃうんですか?」
「他にも奨学金を貸してくれるところはあると思うんです。自分で探しますから、そんな悲しい顔をしないでください、唯さん」
大きな目を今にも泣きそうなほど潤ませる唯を宥めると、またコロコロと咲子が笑い出した。
「朔弥くんも唯さんも落ち着いてくださいな。私の話はまだ終わっておりませんわ」
「え?」
唯が素直な反応を見せれば、咲子は意を得たりと嬉しそうに笑う。
「驚かせてしまってごめんなさいね。朔弥くんがどれくらいの覚悟をされているのか見たくて意地悪をしてしまったわ。実はすぐに他の手を探すと言ってくださるのを待ってましたのよ」
「お母さん、それって……」
「それほど柾人くんを想っているということでしょう。嬉しいわ」
コロコロとまた鈴を転がすように笑い始め、そして一瞬にして真顔になる。
「財団からの援助はできませんよ。けれど朔弥くんを気に入りましたから個人的に援助をさせていただくわ。当然、条件はありましてよ」
「あの、条件というのは……柾人さんと別れることやサーシングへの入社を諦めることだったら受け入れることはできません……我が儘は承知なのですが……」
「本当に朔弥くんは柾人くんのことが大好きなのね。大学卒業まで経営のノウハウを叩き込みます、かつて私が柾人くんに教えたようにね。入社してから覚えるよりもすぐにでもサポートできるようにしましょう。あと、和紗ちゃんから聞いた資格のお話、あれを同時進行で取得してくださいね。当然、アルバイトする暇はなくてよ。毎日のように大学の講義が終わりましたら、専門の教育を受けていただきますよ」
「え……いいんですか?」
前のめりになってしまう。この条件は咲子の得になることはなにもない。むしろ朔弥にとって都合のいいことばかりだ。
お金を借りる立場の人間なのにこれほどまで好待遇でいいのだろうか。
ただ柾人のことを大事にしているにしては条件がよすぎて勘ぐってしまう。
「朔弥くんが一緒なら、唯さんも参加したくなりますでしょ」
「えっ、ボクもいいの?」
「一人だと寂しいけれど、一年だけ朔弥くんが一緒なら、唯さんもやりがいがありますでしょ。経営や組織運営を少しはかじってみてはいかがかしら? 私と一緒に慈善活動をするために小児心理を専攻してくださったのでしょ」
もう朔弥がそこにいるなんて気にしていないように、積極的に唯を勧誘する咲子の意図が客観的な立場になってようやく読み取れた。
彼女が本当に教えたいのは朔弥ではなく唯にだ。よくよく考えれば、唯も蕗谷家の人間だ。社長の蕗谷は常々専業主婦をしてくれればいいのにと朔弥にぼやいていたが、実際に大学に通いながら専業主婦のようにまめまめしく世話をしているから疑問ではあった。
唯を自分が運営している組織に巻き込みたい咲子と、自分のために家にいて欲しい蕗谷とで熾烈な奪い合いが行われていて、朔弥は絶好の駒なのだ。
(社長を裏切るみたいで申し訳ないけど……やっぱり勉強しておいた方が柾人さんのためになるはずだ)
明快な下心があるのに安堵して朔弥はまた頭を下げた。
「咲子様、ありがとうございます!」
「うふふ素直なのね、朔弥くんは。私が設けた基準をクリアしましたら、援助した学費は返還不要にしましょう」
「それでは申し訳ないです!」
「そういう楽しみがあった方がいいでしょ、ゲームのようで。年寄りの遊びに付き合ってくださいませ。柾人くんともこんな遊びをしていましたのよ。あの子はとても優秀ですぐにクリアしてしまったからつまらなかったけど、お二人はどうかしら。うふふ」
その話が本当かどうか確かめる術はない。だが断る理由を見つける方が至難な業だ。柾人もしていたと言われて、強く断ることなんかできない。むしろ、その基準をクリアすれば一層柾人の力になれるんだと意気込んでしまいそうだ。
「期待に応えられるように頑張ります。何から何まで甘えてしまって申し訳ございません」
「あら、謝ることはなくてよ。頼って貰って嬉しいくらい。ではアルバイトの件は私から和紗ちゃんに伝えておきますね、その方がスムーズでしょ」
「ありがとうございます」
今の朔弥にできるのはただ頭を下げることだけだ。
柾人に知られないように勉強を続けるしかない。彼のために、彼の助けになれる人間になるために。
「では明日からこちらにいらしてくださいね」
差し出された名刺には、咲子が代表になっている団体名と、大学からそう離れていない住所が記載されている。大事に掴み胸が熱くなるのを感じた。
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