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第二章
10-2
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「ここでは寒いから中に入ろう」
朔弥の腰に手を回しエントランスへと導く。あの出来事の前のように朔弥も腰を抱かれマンションへと入っていき、慣れ親しんだ部屋の前に着いて初めて、オートロックなのに鍵を持って出なかったことに気づいた。
「あ……」
こんなミスは初めてだ。それほどまでに朔弥が帰ってきたことに動転してしまったのかと恥ずかしくなったが、柾人の様子を見てふわりと、魅了してやまない笑顔を浮かべ、ポケットからいつものように鍵を取り出した。そして指紋認証して扉を開ける。
「おかえり、朔弥」
「……ただいま、柾人さん。あの、ごめんなさい、ミーまで連れてきちゃって」
ミーとはこの猫の名前だろう。
「ペットの規制はないから安心しなさい。その子を鞄から出そうか」
白い毛が混じった茶トラの猫がファスナーを開けた途端、軽やかにちょんと床に着地し、周囲を見て回り始めた。そんな猫を好きにさせながら、寒い中ずっといた朔弥を早く温めてやりたくてリビングへと誘う。
彼が出た時から何一つ変わらない部屋に安堵したのか、ようやく朔弥の肩から力が抜け鞄を下ろした。その身体からコートを脱がせ、もういちどゆっくりと彼の姿を観察する。最後に逢った頃よりも痩せているように思えるのは気のせいだろうか。
「何か食べたかい」
「あ……夕食は済ませてます!」
キッチンへと向かう柾人を引き留め、朔弥がいつものようにシンクの前に立つ。そこには積み重なった弁当の空き箱が山となっていた。
「そこはいい、私がやる」
「いいんです、オレがやりたいから。柾人さんは今日も仕事をしていたんでしょ」
「……なぜそう思うんだい?」
「気づいてないんですか? 着替えてませんよ」
家に帰って朔弥の行動を気にして、いつもならすぐに部屋着に着替えるのすら忘れてしまったようだ。慌てて自分の姿に目をやった柾人にくすりと笑い、朔弥が慣れた手つきでお茶を煎れている。柾人が少しでも疲れが癒えるようにと茶葉と急須を使い、熱すぎない温度のお湯を入れてゆっくりと煎れたお茶を差し出される。当然のように隣に座り、二人で温かい緑茶を飲めば、さっきまで胸を占めていた、朔弥を失うのではないかという焦燥感が一気に薄らいでいった。
「美味いな、朔弥が煎れてくれるお茶は」
「ありがとうございます……あの、どうしてオレがあそこにいるって分かったんですか?」
「あ……ああ」
卑怯なことをしている自分をどう隠そうかと思い、だが真っ直ぐにこちらを見つめてくれる眼差しに、すべてを隠すのを止めた。
朔弥の優しい恋人。
それは彼が望んだ理想像ではなく、柾人がこうありたいと演じ続けた姿だ。本来の自分は全く違う人間だと知られたくなくて、必死に隠していたがもうそれを投げ捨てた。ありのままの自分を朔弥に晒し、彼に判断を委ねよう、と。
「……朔弥の携帯のGPSで所在地を確認していたんだ。卑怯なのは重々承知している」
「そうだったんですか。ずっとエントランスで待っていたのかと思って心配しました」
ふぅとお揃いの湯飲みに息を吹きかけてからゆっくりと啜る。
「いいのかい、朔弥。私がそんなことをしているのを失望しないのかい」
「……なぜですか?」
「君がどこにいるのかを全部監視しているんだぞ」
「柾人さんに見られて困ることないですから」
朔弥の手がそっと伸びて柾人が外すことのできなかった指輪に触れた。
「これ貰ったときからオレ、柾人さんとずっと一緒にいるって誓ったから。柾人さんの周囲は敵だらけでいつオレがターゲットになるか分からないからこうして確認していたんですよね」
好意的に取り過ぎだ。その要因は僅かで、本当は朔弥が自分から離れていかないか、心配だったのがほとんど。それを口にすると表情は険しくなるどころか、穏やかな表情ままだ。
「あの時は自分がどうすれば分からなくてここを出ましたけど、オレは柾人さんと別れようと思ってません……本当はずっと逢いたかった……」
「そう、だったのか」
ぎゅっと同じ指輪をしている左手を握り込んだ。
「だったら柾人さんは知ってるんですね、オレが実家に帰っていたことも」
「ああ。一時間ほどで出ていたね」
すっと朔弥の表情が曇った。
「家族と……縁を切りました」
「……何があったんだい」
もの悲しい表情に無理矢理笑みを浮かべ朔弥が話し始めた。それは今日の出来事、というよりもずっと幼い頃から彼が受けていた虐待の記憶だった。
「次男と言うだけで人権がないみたいな日々でした。家業の人手くらいにしか考えて貰えなくて、家に居場所がなくて……。やれることと言ったら勉強くらいで、それも学なんかいらないと中断させられたり、いい成績を取ったら兄に生意気だと殴られたり……でも勉強くらいしか家の中でやることがなかったんです」
グレるにしても小さな町にはなにもなくて、小遣いなどない朔弥ができることと言えば学校から借りた本を読むか勉強をするかだけだった。そんな幼少期を過ごして高校・大学へと進学できたのは勉強でいい成績を出せたからだ。でなければ本当に両親と一緒に田畑に出て窮屈な日々から逃げることもできなかっただろう。
「兄よりも偏差値の高い高校に進学しても家の中の状況は変わらなくて、学年主任が今の大学に絶対入れる学力があるから受験させた方がいいって言ってくれてやっと家を離れることができたんです」
離れても不安ばかりで自信がなくて、だから優しい声をかけ自分を引っ張ってくれた市川に溺れた。盲目的に彼を愛し、裏切られて自暴自棄になった。
けれど柾人は違うと言う。
「柾人さんは本当にありのままのオレを受け入れて、好きだって言ってくれたんです。なんの自信もないオレを愛してくれた。そのままでいいって抱きしめてくれた……」
だからこそ、再び奴隷になれと命じられて昔のように唯々諾々と従えなかった。平気で朔弥を踏みにじる彼らの言いなりになどなりたくなかった。
朔弥の腰に手を回しエントランスへと導く。あの出来事の前のように朔弥も腰を抱かれマンションへと入っていき、慣れ親しんだ部屋の前に着いて初めて、オートロックなのに鍵を持って出なかったことに気づいた。
「あ……」
こんなミスは初めてだ。それほどまでに朔弥が帰ってきたことに動転してしまったのかと恥ずかしくなったが、柾人の様子を見てふわりと、魅了してやまない笑顔を浮かべ、ポケットからいつものように鍵を取り出した。そして指紋認証して扉を開ける。
「おかえり、朔弥」
「……ただいま、柾人さん。あの、ごめんなさい、ミーまで連れてきちゃって」
ミーとはこの猫の名前だろう。
「ペットの規制はないから安心しなさい。その子を鞄から出そうか」
白い毛が混じった茶トラの猫がファスナーを開けた途端、軽やかにちょんと床に着地し、周囲を見て回り始めた。そんな猫を好きにさせながら、寒い中ずっといた朔弥を早く温めてやりたくてリビングへと誘う。
彼が出た時から何一つ変わらない部屋に安堵したのか、ようやく朔弥の肩から力が抜け鞄を下ろした。その身体からコートを脱がせ、もういちどゆっくりと彼の姿を観察する。最後に逢った頃よりも痩せているように思えるのは気のせいだろうか。
「何か食べたかい」
「あ……夕食は済ませてます!」
キッチンへと向かう柾人を引き留め、朔弥がいつものようにシンクの前に立つ。そこには積み重なった弁当の空き箱が山となっていた。
「そこはいい、私がやる」
「いいんです、オレがやりたいから。柾人さんは今日も仕事をしていたんでしょ」
「……なぜそう思うんだい?」
「気づいてないんですか? 着替えてませんよ」
家に帰って朔弥の行動を気にして、いつもならすぐに部屋着に着替えるのすら忘れてしまったようだ。慌てて自分の姿に目をやった柾人にくすりと笑い、朔弥が慣れた手つきでお茶を煎れている。柾人が少しでも疲れが癒えるようにと茶葉と急須を使い、熱すぎない温度のお湯を入れてゆっくりと煎れたお茶を差し出される。当然のように隣に座り、二人で温かい緑茶を飲めば、さっきまで胸を占めていた、朔弥を失うのではないかという焦燥感が一気に薄らいでいった。
「美味いな、朔弥が煎れてくれるお茶は」
「ありがとうございます……あの、どうしてオレがあそこにいるって分かったんですか?」
「あ……ああ」
卑怯なことをしている自分をどう隠そうかと思い、だが真っ直ぐにこちらを見つめてくれる眼差しに、すべてを隠すのを止めた。
朔弥の優しい恋人。
それは彼が望んだ理想像ではなく、柾人がこうありたいと演じ続けた姿だ。本来の自分は全く違う人間だと知られたくなくて、必死に隠していたがもうそれを投げ捨てた。ありのままの自分を朔弥に晒し、彼に判断を委ねよう、と。
「……朔弥の携帯のGPSで所在地を確認していたんだ。卑怯なのは重々承知している」
「そうだったんですか。ずっとエントランスで待っていたのかと思って心配しました」
ふぅとお揃いの湯飲みに息を吹きかけてからゆっくりと啜る。
「いいのかい、朔弥。私がそんなことをしているのを失望しないのかい」
「……なぜですか?」
「君がどこにいるのかを全部監視しているんだぞ」
「柾人さんに見られて困ることないですから」
朔弥の手がそっと伸びて柾人が外すことのできなかった指輪に触れた。
「これ貰ったときからオレ、柾人さんとずっと一緒にいるって誓ったから。柾人さんの周囲は敵だらけでいつオレがターゲットになるか分からないからこうして確認していたんですよね」
好意的に取り過ぎだ。その要因は僅かで、本当は朔弥が自分から離れていかないか、心配だったのがほとんど。それを口にすると表情は険しくなるどころか、穏やかな表情ままだ。
「あの時は自分がどうすれば分からなくてここを出ましたけど、オレは柾人さんと別れようと思ってません……本当はずっと逢いたかった……」
「そう、だったのか」
ぎゅっと同じ指輪をしている左手を握り込んだ。
「だったら柾人さんは知ってるんですね、オレが実家に帰っていたことも」
「ああ。一時間ほどで出ていたね」
すっと朔弥の表情が曇った。
「家族と……縁を切りました」
「……何があったんだい」
もの悲しい表情に無理矢理笑みを浮かべ朔弥が話し始めた。それは今日の出来事、というよりもずっと幼い頃から彼が受けていた虐待の記憶だった。
「次男と言うだけで人権がないみたいな日々でした。家業の人手くらいにしか考えて貰えなくて、家に居場所がなくて……。やれることと言ったら勉強くらいで、それも学なんかいらないと中断させられたり、いい成績を取ったら兄に生意気だと殴られたり……でも勉強くらいしか家の中でやることがなかったんです」
グレるにしても小さな町にはなにもなくて、小遣いなどない朔弥ができることと言えば学校から借りた本を読むか勉強をするかだけだった。そんな幼少期を過ごして高校・大学へと進学できたのは勉強でいい成績を出せたからだ。でなければ本当に両親と一緒に田畑に出て窮屈な日々から逃げることもできなかっただろう。
「兄よりも偏差値の高い高校に進学しても家の中の状況は変わらなくて、学年主任が今の大学に絶対入れる学力があるから受験させた方がいいって言ってくれてやっと家を離れることができたんです」
離れても不安ばかりで自信がなくて、だから優しい声をかけ自分を引っ張ってくれた市川に溺れた。盲目的に彼を愛し、裏切られて自暴自棄になった。
けれど柾人は違うと言う。
「柾人さんは本当にありのままのオレを受け入れて、好きだって言ってくれたんです。なんの自信もないオレを愛してくれた。そのままでいいって抱きしめてくれた……」
だからこそ、再び奴隷になれと命じられて昔のように唯々諾々と従えなかった。平気で朔弥を踏みにじる彼らの言いなりになどなりたくなかった。
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