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第二章
9-2
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一年後の自分はどうなっているだろうか。柾人の隣に立てる人間へと変わっているだろうか。どんなことがあっても動じることなく彼を支えられる人間になれるだろうか。
家族の話よりもそちらのほうがずっと不安だ。本当はこんなところにいる余裕などない。あの日動揺してしまった自分を未だに見つめ直すことはできないし、話を聞いてくれない柾人の心が分からないままだ。何重にも絡まった糸のように解くことができずにいる。
父と兄の話をぼんやりと聞きながら、ただただ気持ちは東京にいる柾人へと向かう。
今頃はどうしているだろうか。大晦日の今も仕事をしているのだろうか。仕事が終わって家に帰って、一人だけの年末年始を過ごすのだろうか。
(逢いたいな)
ここにいるよりもずっと柾人の側で共に過ごしたい。
二人で料理をして、片付けて、テレビを付けなくても穏やかな時間が過ぎていくのを感じながらただ相手の体温を感じて……。
その後に必ずするであろうことまで想像してギュッと下腹部に力が入る。こんな淫らな自分を必死に隠しながら、あまり美味しくない夕食を進めていく。満たされればそれでいいとばかりに実家の田んぼで作られた米を味わえば、少しだけ眉間に皺が寄った。
(おじいちゃんの頃と味が変わった?)
もう少し甘みが強い米だったように思える。米の種類を変えたのだろうか。
いつもと違う味わいに違和感を感じながらちらりと母を見れば、その目が険しくこちらを睨めつけてきた。黙っていろということと感じ、やはり味が変わったのだと理解する。何のために、なんて聞こうものなら殴られるだけだと分かっているから口を噤んでおく。元々家業を継ぐ気もないのだから黙っているのが得策だ。
ただ静かに今年最後の食事を終え、当たり前のようにちゃぶ台から離れることなく新たな酒を飲み交わした彼らの汚した食器をまとめて台所へと持っていけば、食べるとき以外座ることのない母が当たり前のように洗い物を始めた。
「朔弥、あんたの大学すごいところなんだってね。婦人会で聞いてお母ちゃん初めて知ったよ」
「うん……」
私立大学ではかなり優秀な部類に入るだろう。宮本が言うには私学最高峰らしいが、大学に進学できるかも分からなかった朔弥は、大学のランキングなど調べてはいないから自分が通っている大学がどれほどの学力かもよく分かっていない。
ただ柾人や和紗が卒業した大学は誰もが知っている最高峰だということくらいしか理解できていない。
テレビを見ていればもしかしたら理解していたかも知れないが、家長や跡継ぎ以外が好きにテレビを見ることすら許されない。だから朔弥はどんどんと世界から隔離されたような気持ちになった。
高校がなければ完全になにも知らないままで、父と兄の傀儡となっていただろう。自我があることを否定するこの家で、ロボットのように農業に従事して、虐げられ。
あのままここにいたらきっとこの心は死んでいただろう。
そして半死の心に活力を与えてくれたのは、他でもない柾人だ。市川はこの心に新しい傷と慣れ親しんだ寂しさに与えただけだった。
(柾人さんに会いたい……)
家族という形をなしても心を通わせることのないこの場所に、自分の安寧はない。
どれほど婦人会に褒められる息子であっても、父も母も根底を変えることはない。
朔弥はあくまでも兄がいなくなったときのスペアだ。
兄がいなくなるまではただの道具でしかない。
「朔弥、ちょっと来い」
居間から兄の大声が飛び、母は当たり前のように朔弥に背中を向けた。それは命令に従えと言っているのと同じだ。自分は関わりのないものだと告げるその背中はを見つめ、自分が幼い頃に戻ったような気がする。
兄の横暴を訴えても今のように背中を向けるだけの母。それをどれだけ寂しいと思ったことだろう。
聞こえないように嘆息して居間へと向かえば、片付いたちゃぶ台の上には何かの資料が散乱していた。
この家の跡取りになるための修行だと県内の小さな会社に勤めている兄は意気揚々とその紙の束の一つを朔弥へと投げてきた。
「なに、これ」
「うちの法人化と事業拡大の計画書だ」
たしかにそんなもったいぶったタイトルが書き連ねてある。
自分の定位置に座って書類をめくっていく。
(なんだよ、これ……穴だらけじゃないか)
だがこの企画書を見て父はとても満足げだ。
「凄いな、勝弥。こんな方法があるのか、さすがオレの息子だ。地元の国立大を出ただけのことはある」
農協に卸す価格が安すぎるため、直販しようというのはどこの農家でも簡単に思い浮かぶ方法だ。ネットの通販大手サイトを使いBtoCへと切り替えようとしているのも見飽きるほど当然のやり方。だが兄の企画書には大きな穴が存在していた。
「これ、初年度の利益がおかしすぎないか」
贈答用の農産物を農協に卸す価格の倍以上に設定し、それが瞬時に売れると見積もってある。しかも初期費用は随分と安く設定してあり、初年度に回収し利益も出ると。
そんなはずがない。贈答用とするなら化粧箱やラッピングは自分達で揃えなければならない。今以上に人手が必要だし、米だって農協が指定する袋に入れればいいのとは違い、精米など相応の準備が必要だ。
なによりもすでにネットには数多の農家が登録している。その中で勝ち抜き、自分達が作ったものを買って貰う戦略がそこには存在していない。出せば確実に売れ、リピーターが新たな客を呼ぶことしか想定されていない。
リスクが一切記載されていない企画書だ。
とてもじゃないが、父と母の二人でできるものではない。
「なんだ、おい。まだ学生のお前が偉そうなこと言ってんじゃねーよ」
その学生でも分かるほどの穴だらけの企画書なのだ。
サーシングで目にする企画書はもっと綿密だ。必要な人員に工数、そこから生み出される利益想定と損益までが綿密に記載されている。その両方を天秤に測り、リスクを承知の上で行うかどうかをジャッジするのが柾人たち上層部の仕事だ。
そこまで先を想定していない楽観的な企画書を自信満々に出し鼻を高くする兄、その違和感にすら気づかずに諸手を挙げて褒めそやす父。
まだ学生で実際に仕事をしていない朔弥でもこれが失敗することくらい簡単に理解できた。
「ネットで新たな顧客を開発するのは悪くないと思うけど、初年度はここまで売れないと思う。もし誰も買わなかったらどうするんだ? その後の商品を農協は引き取ってくれないよ」
熟し切った農産物を引き取るのは難しいだろう。傷があっても多少値段が下がっても引き取ってはくれるが、腐ってしまう直前のものを市場には回せない。今ある生産数の三分の一もネット用に確保して売りさばくのは難しい。
なにより、競合する相手が数多いるネットでどこまで差別化ができるかまで考えているのだろうか。
家族の話よりもそちらのほうがずっと不安だ。本当はこんなところにいる余裕などない。あの日動揺してしまった自分を未だに見つめ直すことはできないし、話を聞いてくれない柾人の心が分からないままだ。何重にも絡まった糸のように解くことができずにいる。
父と兄の話をぼんやりと聞きながら、ただただ気持ちは東京にいる柾人へと向かう。
今頃はどうしているだろうか。大晦日の今も仕事をしているのだろうか。仕事が終わって家に帰って、一人だけの年末年始を過ごすのだろうか。
(逢いたいな)
ここにいるよりもずっと柾人の側で共に過ごしたい。
二人で料理をして、片付けて、テレビを付けなくても穏やかな時間が過ぎていくのを感じながらただ相手の体温を感じて……。
その後に必ずするであろうことまで想像してギュッと下腹部に力が入る。こんな淫らな自分を必死に隠しながら、あまり美味しくない夕食を進めていく。満たされればそれでいいとばかりに実家の田んぼで作られた米を味わえば、少しだけ眉間に皺が寄った。
(おじいちゃんの頃と味が変わった?)
もう少し甘みが強い米だったように思える。米の種類を変えたのだろうか。
いつもと違う味わいに違和感を感じながらちらりと母を見れば、その目が険しくこちらを睨めつけてきた。黙っていろということと感じ、やはり味が変わったのだと理解する。何のために、なんて聞こうものなら殴られるだけだと分かっているから口を噤んでおく。元々家業を継ぐ気もないのだから黙っているのが得策だ。
ただ静かに今年最後の食事を終え、当たり前のようにちゃぶ台から離れることなく新たな酒を飲み交わした彼らの汚した食器をまとめて台所へと持っていけば、食べるとき以外座ることのない母が当たり前のように洗い物を始めた。
「朔弥、あんたの大学すごいところなんだってね。婦人会で聞いてお母ちゃん初めて知ったよ」
「うん……」
私立大学ではかなり優秀な部類に入るだろう。宮本が言うには私学最高峰らしいが、大学に進学できるかも分からなかった朔弥は、大学のランキングなど調べてはいないから自分が通っている大学がどれほどの学力かもよく分かっていない。
ただ柾人や和紗が卒業した大学は誰もが知っている最高峰だということくらいしか理解できていない。
テレビを見ていればもしかしたら理解していたかも知れないが、家長や跡継ぎ以外が好きにテレビを見ることすら許されない。だから朔弥はどんどんと世界から隔離されたような気持ちになった。
高校がなければ完全になにも知らないままで、父と兄の傀儡となっていただろう。自我があることを否定するこの家で、ロボットのように農業に従事して、虐げられ。
あのままここにいたらきっとこの心は死んでいただろう。
そして半死の心に活力を与えてくれたのは、他でもない柾人だ。市川はこの心に新しい傷と慣れ親しんだ寂しさに与えただけだった。
(柾人さんに会いたい……)
家族という形をなしても心を通わせることのないこの場所に、自分の安寧はない。
どれほど婦人会に褒められる息子であっても、父も母も根底を変えることはない。
朔弥はあくまでも兄がいなくなったときのスペアだ。
兄がいなくなるまではただの道具でしかない。
「朔弥、ちょっと来い」
居間から兄の大声が飛び、母は当たり前のように朔弥に背中を向けた。それは命令に従えと言っているのと同じだ。自分は関わりのないものだと告げるその背中はを見つめ、自分が幼い頃に戻ったような気がする。
兄の横暴を訴えても今のように背中を向けるだけの母。それをどれだけ寂しいと思ったことだろう。
聞こえないように嘆息して居間へと向かえば、片付いたちゃぶ台の上には何かの資料が散乱していた。
この家の跡取りになるための修行だと県内の小さな会社に勤めている兄は意気揚々とその紙の束の一つを朔弥へと投げてきた。
「なに、これ」
「うちの法人化と事業拡大の計画書だ」
たしかにそんなもったいぶったタイトルが書き連ねてある。
自分の定位置に座って書類をめくっていく。
(なんだよ、これ……穴だらけじゃないか)
だがこの企画書を見て父はとても満足げだ。
「凄いな、勝弥。こんな方法があるのか、さすがオレの息子だ。地元の国立大を出ただけのことはある」
農協に卸す価格が安すぎるため、直販しようというのはどこの農家でも簡単に思い浮かぶ方法だ。ネットの通販大手サイトを使いBtoCへと切り替えようとしているのも見飽きるほど当然のやり方。だが兄の企画書には大きな穴が存在していた。
「これ、初年度の利益がおかしすぎないか」
贈答用の農産物を農協に卸す価格の倍以上に設定し、それが瞬時に売れると見積もってある。しかも初期費用は随分と安く設定してあり、初年度に回収し利益も出ると。
そんなはずがない。贈答用とするなら化粧箱やラッピングは自分達で揃えなければならない。今以上に人手が必要だし、米だって農協が指定する袋に入れればいいのとは違い、精米など相応の準備が必要だ。
なによりもすでにネットには数多の農家が登録している。その中で勝ち抜き、自分達が作ったものを買って貰う戦略がそこには存在していない。出せば確実に売れ、リピーターが新たな客を呼ぶことしか想定されていない。
リスクが一切記載されていない企画書だ。
とてもじゃないが、父と母の二人でできるものではない。
「なんだ、おい。まだ学生のお前が偉そうなこと言ってんじゃねーよ」
その学生でも分かるほどの穴だらけの企画書なのだ。
サーシングで目にする企画書はもっと綿密だ。必要な人員に工数、そこから生み出される利益想定と損益までが綿密に記載されている。その両方を天秤に測り、リスクを承知の上で行うかどうかをジャッジするのが柾人たち上層部の仕事だ。
そこまで先を想定していない楽観的な企画書を自信満々に出し鼻を高くする兄、その違和感にすら気づかずに諸手を挙げて褒めそやす父。
まだ学生で実際に仕事をしていない朔弥でもこれが失敗することくらい簡単に理解できた。
「ネットで新たな顧客を開発するのは悪くないと思うけど、初年度はここまで売れないと思う。もし誰も買わなかったらどうするんだ? その後の商品を農協は引き取ってくれないよ」
熟し切った農産物を引き取るのは難しいだろう。傷があっても多少値段が下がっても引き取ってはくれるが、腐ってしまう直前のものを市場には回せない。今ある生産数の三分の一もネット用に確保して売りさばくのは難しい。
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