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第二章
8-2
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だが朔弥を失ってしまったならもう、次はないだろう、そんな気がした。
これ程愛した彼を失って、今までのように次の恋を見つける気持ちにはもうなれないだろう。人を愛すること自体に怯えてしまいそうだ。
そんな弱音を蕗谷や他のメンバーに隠しながら、淡々と仕事をこなしていく。
こんなにも臆病になったのは初めてだ。どんな人間と別れようとしばらく落ち込んでそれで終わるのに、なぜ朔弥にはそれができないのだろうかと考え続けた。
酷い抱き方をした次の日、蒼褪めた寝顔を見つめながら触れることができないくらい自分がしたことが怖くなった。あんなにも愛おしいと思っていた彼の言葉を曲解して、離れていく恐怖感に駆られて、たっぷりと愛さなければ自信を無くし自己否定をする彼を一番知っていたはずなのに、力任せに犯した。かつて朔弥に失望を与えた人間と同じことをしてしまったのだ。
もう信用されないのが痛いほど分かった。
触れたときに震える手で拒絶を表した朔弥。
小さな悲鳴で怯えを見せた朔弥。
なにも言わずに出て行くことで己の意見を突きつけた朔弥。
それらを前になにも言えない自分がいた。朔弥を引き留めるものをなにも持たない自分がいた。
ただ朔弥が自分を許してくれるのを待つしかない。
携帯のGPSを確認する限り、以前住んでいたアパートに戻ったことで柾人はなんとか精神の平穏を保っている。これが別の場所ならきっと狂ってまたおかしな行動を繰り返してしまっただろう。
GPSを仕込み位置を確認されていると知ったなら、清麗な彼が知ったならもう柾人に甘い笑みを見せてはくれなくなるだろう。
だから見守るようにこっそりと位置情報を確認するだけで耐えている。
「こんな倉掛は初めてだね」
「好きに言ってくれ」
「もし良ければ助けるが、どうする?」
「止めてくれ。お前達が入るだけで話がややこしくなる」
「それは心外だよ、倉掛。僕らはみんな、君の幸せを願ってやまないんだよ」
どの口がそれを言うのか。よくも心にないことを本心かのように言えるものだ。
「社長は確実に面白がっているだけだろ」
「なにを言っているんだい。山村くんは唯のお気に入りだからね、ぞんざいに扱うつもりはないよ」
蕗谷が溺愛している養子であり事実上の妻になっている男子大学生の名前を出す。四ヶ月前のパーティで仲良くなった二人が、時折メールのやりとりをしていると朔弥から教えて貰っている。内容までは知らないが親しい友人ができるのはいいことだと思っていた。本当は、自分だけを見て欲しい、自分だけいることで満たされて欲しいと、頑是ない子供のように思っているなどひた隠しにして。
「……唯くんになにか連絡は行っているのか」
藁をも縋る気持ちで訊ねれば、ニヤリと蕗谷が笑った。
「だめだよ倉掛、それじゃカンニングだからね、知ってても教えないよぉ」
相変わらず性格が悪い。だがもっと連絡を貰っているだろう和紗には死んだって情報提供を求められない。絶対に多額の請求をしては全体の一割もない情報しか貰えないのだ。
蕗谷など一度の相談で三十万を支払うらしいと聞いて、一切の相談をしないようにしているが、今は金に糸目を付けず縋り付きたい気持ちになっている。だが、それを朔弥に知られたらと考えると一歩が踏み出せない。
できるなら自分一人でこの腕に取り戻したい。
重い溜め息ばかりが零れ落ちていく。
それを見てなにを思ったのか、蕗谷がとても楽しそうな顔をしている。
「悩め悩め。倉掛は今まで人間関係を割り切りすぎてたからね、これくらい執着があってもいいと思うよ。山村くんからしたら迷惑だろうけどね」
わはははと笑いながら、腰掛けていた倉掛のデスクから下りる。時間を見ればもうすぐ定時だ。この会社で定時に帰るのは社長のみである。
「さっさと帰れ」
それくらいしか嫌味が言えない。どうせこれを面白おかしく愛妻(だが男)の唯に話すのだろうと思うと気が重くなる。回り回って朔弥の耳に届いてみっともない柾人に失望するのではないかと懸念までしてしまう。
彼の前では頼りになる大人でありたいのに、なぜああもおかしくなってしまったのか。後悔してもしきれず、あの日に戻って自分を殴り飛ばしたいと何度も願った。
低下していく処理能力に気づきながらもどうにもできず、ひたすら目の前のことをこなすばかりだ。年末のこの時期にと、チクチクと部下から嫌味を言われ、現在柾人がトップとなり進めている企画のチームリーダをしている徳島などは、会議室でネチネチと朔弥の不在により被る損害をわざわざ数値化して、早々とよりを戻せと説得してくるに至っている。
柾人の気持ちも知らずに。
帰ってきてくれるなら何だってするし、この腕に戻ってくれるなら土下座など容易いものだ。
けれど、朔弥が望んでいるのはそんなデモンストレーションではない。もっと深淵の部分だ。
「私が変わらなければならないんだな」
随分前に和紗に言われた言葉がある。
『籠の中に入れるだけが相手の幸せじゃない。扉を開けていてもいつも帰ってきてくれるというのが世の中にあるんだと学べ』
まさしくその通りだった。
頭でどれだけ理解してそうしようと努力しても、心の奥深くに根を張り巡らせた悲しい記憶に引きずられて彼を雁字搦めにしてしまう。誰にも見せたくない、誰にも触れさせたくない、このままマンションに閉じ込めて一歩も出したくないと願ってしまう。その心のすべてを支配してしまいたいと願っては、狂気を押さえつけていたのに。
あの日、悲しい記憶に触れる人間に出会ってパンドラの箱が蓋を開けてしまったのだ。大事な人間は皆自分から離れていく恐怖に駆られ、今最も大事な朔弥もまた自分から離れる恐怖に囚われ、犯してしまった。
あれはレイプ以外のなにものでもない。
最愛の人をあんな風に犯すなどと、どれほど落ち込んでもどうしようもなかった。
「このままじゃいけない」
初めてカウンセリングも考え始めた。こんな狂気を抱えたまま彼を連れ戻しても、いつか同じことを繰り返しそうだ。
「朔弥のためだ、私が変わらないと」
もう束縛するだけの愛し方を止めなければ。
彼の望みは柾人のために何かしたいという、人間としてとても幸福なことなのに、それを拒絶してしまう自分がいけないのだ。
朔弥を信じ切れなかった、自分が。
「朔弥……すまない」
柾人にはもうそれしか言えなかった。
これ程愛した彼を失って、今までのように次の恋を見つける気持ちにはもうなれないだろう。人を愛すること自体に怯えてしまいそうだ。
そんな弱音を蕗谷や他のメンバーに隠しながら、淡々と仕事をこなしていく。
こんなにも臆病になったのは初めてだ。どんな人間と別れようとしばらく落ち込んでそれで終わるのに、なぜ朔弥にはそれができないのだろうかと考え続けた。
酷い抱き方をした次の日、蒼褪めた寝顔を見つめながら触れることができないくらい自分がしたことが怖くなった。あんなにも愛おしいと思っていた彼の言葉を曲解して、離れていく恐怖感に駆られて、たっぷりと愛さなければ自信を無くし自己否定をする彼を一番知っていたはずなのに、力任せに犯した。かつて朔弥に失望を与えた人間と同じことをしてしまったのだ。
もう信用されないのが痛いほど分かった。
触れたときに震える手で拒絶を表した朔弥。
小さな悲鳴で怯えを見せた朔弥。
なにも言わずに出て行くことで己の意見を突きつけた朔弥。
それらを前になにも言えない自分がいた。朔弥を引き留めるものをなにも持たない自分がいた。
ただ朔弥が自分を許してくれるのを待つしかない。
携帯のGPSを確認する限り、以前住んでいたアパートに戻ったことで柾人はなんとか精神の平穏を保っている。これが別の場所ならきっと狂ってまたおかしな行動を繰り返してしまっただろう。
GPSを仕込み位置を確認されていると知ったなら、清麗な彼が知ったならもう柾人に甘い笑みを見せてはくれなくなるだろう。
だから見守るようにこっそりと位置情報を確認するだけで耐えている。
「こんな倉掛は初めてだね」
「好きに言ってくれ」
「もし良ければ助けるが、どうする?」
「止めてくれ。お前達が入るだけで話がややこしくなる」
「それは心外だよ、倉掛。僕らはみんな、君の幸せを願ってやまないんだよ」
どの口がそれを言うのか。よくも心にないことを本心かのように言えるものだ。
「社長は確実に面白がっているだけだろ」
「なにを言っているんだい。山村くんは唯のお気に入りだからね、ぞんざいに扱うつもりはないよ」
蕗谷が溺愛している養子であり事実上の妻になっている男子大学生の名前を出す。四ヶ月前のパーティで仲良くなった二人が、時折メールのやりとりをしていると朔弥から教えて貰っている。内容までは知らないが親しい友人ができるのはいいことだと思っていた。本当は、自分だけを見て欲しい、自分だけいることで満たされて欲しいと、頑是ない子供のように思っているなどひた隠しにして。
「……唯くんになにか連絡は行っているのか」
藁をも縋る気持ちで訊ねれば、ニヤリと蕗谷が笑った。
「だめだよ倉掛、それじゃカンニングだからね、知ってても教えないよぉ」
相変わらず性格が悪い。だがもっと連絡を貰っているだろう和紗には死んだって情報提供を求められない。絶対に多額の請求をしては全体の一割もない情報しか貰えないのだ。
蕗谷など一度の相談で三十万を支払うらしいと聞いて、一切の相談をしないようにしているが、今は金に糸目を付けず縋り付きたい気持ちになっている。だが、それを朔弥に知られたらと考えると一歩が踏み出せない。
できるなら自分一人でこの腕に取り戻したい。
重い溜め息ばかりが零れ落ちていく。
それを見てなにを思ったのか、蕗谷がとても楽しそうな顔をしている。
「悩め悩め。倉掛は今まで人間関係を割り切りすぎてたからね、これくらい執着があってもいいと思うよ。山村くんからしたら迷惑だろうけどね」
わはははと笑いながら、腰掛けていた倉掛のデスクから下りる。時間を見ればもうすぐ定時だ。この会社で定時に帰るのは社長のみである。
「さっさと帰れ」
それくらいしか嫌味が言えない。どうせこれを面白おかしく愛妻(だが男)の唯に話すのだろうと思うと気が重くなる。回り回って朔弥の耳に届いてみっともない柾人に失望するのではないかと懸念までしてしまう。
彼の前では頼りになる大人でありたいのに、なぜああもおかしくなってしまったのか。後悔してもしきれず、あの日に戻って自分を殴り飛ばしたいと何度も願った。
低下していく処理能力に気づきながらもどうにもできず、ひたすら目の前のことをこなすばかりだ。年末のこの時期にと、チクチクと部下から嫌味を言われ、現在柾人がトップとなり進めている企画のチームリーダをしている徳島などは、会議室でネチネチと朔弥の不在により被る損害をわざわざ数値化して、早々とよりを戻せと説得してくるに至っている。
柾人の気持ちも知らずに。
帰ってきてくれるなら何だってするし、この腕に戻ってくれるなら土下座など容易いものだ。
けれど、朔弥が望んでいるのはそんなデモンストレーションではない。もっと深淵の部分だ。
「私が変わらなければならないんだな」
随分前に和紗に言われた言葉がある。
『籠の中に入れるだけが相手の幸せじゃない。扉を開けていてもいつも帰ってきてくれるというのが世の中にあるんだと学べ』
まさしくその通りだった。
頭でどれだけ理解してそうしようと努力しても、心の奥深くに根を張り巡らせた悲しい記憶に引きずられて彼を雁字搦めにしてしまう。誰にも見せたくない、誰にも触れさせたくない、このままマンションに閉じ込めて一歩も出したくないと願ってしまう。その心のすべてを支配してしまいたいと願っては、狂気を押さえつけていたのに。
あの日、悲しい記憶に触れる人間に出会ってパンドラの箱が蓋を開けてしまったのだ。大事な人間は皆自分から離れていく恐怖に駆られ、今最も大事な朔弥もまた自分から離れる恐怖に囚われ、犯してしまった。
あれはレイプ以外のなにものでもない。
最愛の人をあんな風に犯すなどと、どれほど落ち込んでもどうしようもなかった。
「このままじゃいけない」
初めてカウンセリングも考え始めた。こんな狂気を抱えたまま彼を連れ戻しても、いつか同じことを繰り返しそうだ。
「朔弥のためだ、私が変わらないと」
もう束縛するだけの愛し方を止めなければ。
彼の望みは柾人のために何かしたいという、人間としてとても幸福なことなのに、それを拒絶してしまう自分がいけないのだ。
朔弥を信じ切れなかった、自分が。
「朔弥……すまない」
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