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第二章

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 旅行に行こうと柾人まさとが言い出したのは、指輪を交互に嵌めまた一度愛し合った後だった。

 ぐったりとベッドに臥せっている朔弥さくやは視線だけを柾人へと向けた。

「旅行、ですか?」

「あぁ、もうすぐシルバーウィークだろう。ゆっくりと休みを取れるのはこの先ないから、朔弥と出かけたいんだが、どうだい?」

「でも今からだったら、宿取るの難しいんじゃないんですか」

 ゴールデンウィークの次に大型の連休だ、既に主要な宿泊施設は予約で埋まっていることだろう。それに、二週間もの出張を終えてまた残務処理が週末から山積みになっている柾人に連休はゆっくりして欲しいのが朔弥の本心だった。最近の柾人は多忙すぎる。その理由を知っているからこそ、少し休んで欲しいのだが精力的な恋人は汗が滲む朔弥の額に口づけを落としながら覗き込んでくる。

「すまない。実はもう宿は取ってあるんだ」

「そうなんですか? じゃあ行かないといけないですね」

 これからのことの相談だったら、休んで欲しいと言えるが、もう宿を取っているのであれば朔弥は嫌とは言えなかった。

 本当は柾人とどこかへ出かけるのが嬉しいから。

 二人で手を繋いで歩きながら他愛ない話をするだけでも楽しい。

 それに、初めての旅行だ。

 実家は忙しい家業があるため、修学旅行以外の旅行には行ったことがなかった。

「どこに行く予定ですか?」

「清里だ。暑い東京から離れたくてね」

「オレ、行ったことないです」

 実家から近いはずの観光地ではあるが、朔弥はテレビで見るだけの場所だった。

「すごく楽しみ……」

 気だるい身体を柾人にくっつけて朔弥はその体温を感じながらフワリと笑った。疲れで少し眠気が沸き起こり始めた身体は、そのまま眠りに入ろうとしている。

「朔弥、まだ寝てはだめだ。食事をしていないだろう」

 食事を摂る前にたっぷりと快楽を貪ってしまったせいで、もう満足だと言わんばかりに弛緩していく。ついさっきまで柾人の欲望を咥え続けていた蕾は、たっぷりと愛された後の、興奮がまだ収まらないとばかりに小さな収縮を繰り返している。

「すこしだけ……」

 ほんの少しだけ眠れば、すぐに元気になるからと伝えたいのに、心地よい布団で、久しぶりに味わう恋人の体温に、朔弥はずっと抱えていた緊張が失われていた。

 長い間の一人寝に、あまりよく眠れていなかった。

 無意識に緊張していた身体が、欲しかった温もりを得てようやく力を抜き、その間の寂しさや不安をすべてリセットするために眠りに就こうとしている。

「こら、そんなに張り付いたらまたしてしまいたくなる」

 なにを、とはもう訊かない。それが意味することを朔弥はよく知っているから。むしろ、恥ずかしいからなかなかねだれないが、朔弥も柾人とそれをするのは好きだった。肌を重ね欲望のままに相手を貪り、どこまでも上り詰めながら愛の言葉を交わす。何度もしていることなのにどこまでもし続けていたいと願ってしまう。

「すこしねたら……するか…ら……」

 猫のように柾人の胸に顔を埋めながら、朔弥はそのままゆっくりと安らかな寝息を立て始めた。

 僅かに目の下のクマにできた恋人の顔に苦笑し、柾人は少しだけ細くなった身体を抱きしめた。離れている間にまた痩せてしまったようだ。どうやら朔弥は自分の寝食に疎いようだ。やっと少しずつ肉が付き始めたのに、また細くなっては倒れやしないかと心配になってしまう。

 そうでなくても、これから夜毎にたっぷりと柾人の相手をしなければならないのだ。

 柾人の不安を落ち着かせるために。

「年甲斐もない……」

 柾人はそんな自分に自嘲した。

 なによりも愛おしい存在をようやく手に入れ、その相手が生涯を自分と共にいたいと告げられた時に湧き上がったのは、歓喜とそして、恐怖だった。抱きしめてその愛情を確かめなければ狂ってしまいそうなほどの恐怖が、未だに柾人の心に宿っている。

 交情の余韻を残した僅かに赤い目元をそっと親指で撫でた。

 人を愛するとき、柾人は必ずその相手を閉じ込めてしまいたいと願う。

 どこにも行かせないために檻に閉じ込めて、ただ自分だけを見つめてくれることを願ってしまう。

 それは、常に恐怖からくる感情だと理解していても、自分の中でなかなか割り切ることができずにいた。

(今度こそ大丈夫だ、朔弥は自分の前から消えたりしない)

 そう何度も自分に言い聞かす。

『いい加減大人になれ』

 同僚から浴びせられた言葉が頭の中にこだましている。あの一言は、柾人の心に影を落としていた。

(そろそろ割り切らないと……)

 だが上手くできるのなら、こんなにまでも朔弥に執着しないだろう。いつも一緒にいるためにこの家での同居を提案し、休日は決して一人で外出することを許さず、その日あったことをすべて報告させて、時折探偵を雇い彼の行動を監視させるなど常軌を逸していると自分でもわかっている。だが不安は拭えないでいた。

 自分が出張している間も、朔弥の行動を常に報告させていたと知ったら、さすがに優しい彼も、この指輪を返してくるだろうか。

 繋ぎとめる自信が未だに柾人にはなかった。

 まさか探偵が報告してきたハイジュエリーブランドで購入した物の贈り先が自分だとは思わず、箱を開けた時に目に飛び込んだブルーサファイヤに驚いた。何を購入したかは知っていたが、これほどまでに美しいものを自分のために選んでくれたのが嬉しくて、誕生石を敢えて選んでくれたことが胸に突き刺さった。

(きっと君は知らないで贈ったんだろうね)

 誕生石を贈るというのは、相手の災いを払い幸福を願うというもの。

 遥か昔、一度だけ贈られたことのある柾人は、久しぶりに贈り主のことを思い出した。

 正直、顔がはっきりとは思い出せない。ただ優しい手がいつも自分を撫でてくれたことだけが朧げに残っている。

(あれからもうすぐ20年か……)

 すっかり眠りについた恋人の顔を眺めながら、今日で30歳になった自分の過去を振り返りながら、暗い気持ちを拭い去るように強く朔弥を抱きしめた。

 腕の中で心地よい寝息を立てる愛おしい存在が、いつか霧のように消えてしまわないことを願いながら、早く目を覚ましてくれと願った。

 あの日と同じように忽然と姿を消さないことをただひたすら願い続け、その温もりを味わう。

(大丈夫だ、朔弥は私の前から消えはしない)

 また一人になることはない。

 だがいつまで経っても柾人の中にある不安が拭えることはなかった。
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