きっと明日も君の隣で

椎名サクラ

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8 嘲笑に鉄拳2

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「まだ松葉杖二本だろ……悪いのか?」

「……あ、これね」

 手術を終えてもまだ怪我をした足を着くことが許されていない。ずれた膝の回復に思ったよりも時間はかかり、もしかしたらもう一度手術することも視野に入れる必要があるといわれている。このまま順調なら夏に、そうでなければ夏休み明けにもう一度手術というスケジュールだ。とにかく足に負荷をかけてはいけない。

「一回手術は終わってるんだけど、まだ安定していないからしばらくはこのままだって。治り、悪いのかな?」

 造り笑いをしながら後頭部を掻く。

「部活、何をしていたんだ?」

「走り高跳び……だけど」

 悠人がそんなことを聞いてくるなんて思わなくて、どうしてだろう友人たちと話をするときのように言葉が出てこない。見舞いに来てくれた友人やクラスメイト達には笑いながら言えることが、悠人を前にすると自分を誤魔化しきれない。

「もう飛べないのか?」

「あ……うん。手術しても日常生活に戻すのがやっとで……飛ぶどころか走るのも難しいかも」

「……そうか。辛いな」

 言葉少なな感想は、感情が籠っていないように聞こえるかもしれないが、今まで友人たちの前で作り上げていた強固な鎧を纏うことができなくて、笑みが作れなくなる。

 いつもなら無理矢理に笑って「飛べなくなっちまったよ」と惚けて口にして、「大丈夫だって、元に戻るから」となんの確証もない返事で元気になったふりをする、そんな無駄な言葉のやり取りがない分だけ、必死で誤魔化していた自分の心が悔しさに泣いているのを露に感じる。

 本当は辛い。もう飛べなくなった現実を受け入れることができない。もっと走って踏み切って空に近づきたかった。記録よりもただひたすら自分の足で空に近づくあの瞬間を味わっていたかった。

 泣きだしそうになる心を奥歯を噛みしめて堪えた。

「どうして走り高跳びをやっていたんだ?」

「……走って、踏切をつけて飛んだ時、いつも見ている空がずっと近づくんだ。雲が迫るくらい大きくなって、夏なら青さが濃く見えて……冬なら逆に雲の白と空の白が合わさったみたいになって、すごく綺麗なんだ。一瞬空中で止まって、その時雲に手が届きそうになる」

「意外だ。記録の方を言うのかと思ったが……そうか、飛ぶってそういうものなのか」

 一度も体育の授業に参加したことがない悠人が、その晩初めて本から顔を上げた。膨らんだアーモンド型の目が夜の空を見つめている。

 夏至を迎えて夏に近づいた空は、日が沈んだ後でも雲の重さが分かるほどに明るい月光で照らされている。

「いいな、それは」

 飾り気のない感想。その後のフォローもないのに、その一瞬を体験できたことを僥倖に感じるのは、走ることすら許されなかった悠人が相手だからだろう。

「うん、あの瞬間を味わえたのは役得だったと思う……もう無理だけど」

「そうなんだな」

「膝がずれて……手術でも治らないから……何回しても、もう絶対……」

「そうか。だからずれないように足を着けないでいるのか。固定したらリハビリが始まるな」

「すごく痛いから覚悟しておけって言われた」

「最初はみんな辛いんだ。そこをやめると歩くことすらできなくなる」

 ただ事実を事実として受け止めていくだけの悠人の返事が、今まで話した誰よりも心地よい。励ますでもなく言葉を失うでもなく、静かな態度が心の涙をそっと掬っていく。ありのままを受け止めらているような心地よさのせいだろうか、いつも怪我の話をした後に必ず訪れるやるせない気持ちが全くと言っていいほど湧いてこない。

「井ノ上は? どこが悪いんだ?」

 聞いたら悪いような気がして今まで抑えていた疑問を口にした。

「心臓」

 それ以上語りたくないのか、空を見ていた悠人はまた本に目を落とした。

(それって……めちゃくちゃ重篤ってことか?)

 体育の授業に一切参加できないほどの心臓病がどんなものか想像もできないが、普段と変わらない表情をしていても入院が必要なほど大変なのだろうか。

「あ……」

「勉強を続けろ。それを覚えたら次は化学反応式と分解・化合に入るからな」

「なにそれ! めちゃくちゃ難しそうな名前なんだけど!!」

「先入観を持つから難しいと思うんだ。単なる記号だと思っておけ」

「いやいやいやいや、無理だから!」

 重苦しくなったはずの空気がいつもの軽い物へと変わっていく。ぎゃーがー喚く中西に嘆息しながらも、いつもと変わらない冷たい物言いでどんどんと授業が進められていく。必死でノートに取り、赤ペンでチェックされた箇所を読み込んでいけば、一時間と言われている勉強時間が終わる。

「あのさ、良かったら病室まで送ろうか?」

 もしかしたら、ここに来るのも大変なのではないかと漸く思い至った中西は申し出てみたが、「お断りだ」とあっさりと棄却され、いつものように本を膝に置きながら慣れた手つきで車椅子がエレベータホールへと向かっていく。

 松葉杖を突きながら慌てて追いかけ、いつものように悠人のために扉を押さえた。

 中西よりも下階で降りる悠人のために「開延長」のボタンを押し、彼がスムーズに下りられるように隅に身体を寄せる。多分以前の自分だったらしないことだ。車椅子の可動域がどれだけのものか、なぜ病院のエレベータに鏡が必ずついているのかも分からなかった。何も言わない悠人がじっと鏡を見つめて、開いた扉の向こうに人がいないのを確認してからブレーキレバーを下ろし車椅子を動かしているのに気付いて、初めて理解した。どんなに大きめに作られたエレベータでも、車椅子を回転させるのは困難だ。そうやって慎重に動かさなければ人とぶつかってしまうのだと知ってから、なるべく邪魔にならないようにコントロールパネルの傍でじっとするようにしている。悠人が完全に下りたのを確認してから少しだけ身体を動かした。

「じゃあまた明日な!」

 元気な中西の声が夜の静まり返ったホールに響く。

 眉間にしわを寄せてうるさいと言わんばかりの表情をしながら、悠人が車椅子を回転し病室へと向かったのを見届けてから扉を閉めるボタンを押した。

 誰もいない箱の中で考えてしまう。心臓が悪いとはどういうことなのかを。

「明日、杉山医師に聞いてみようかな?」

 とはいえ、今の医師は簡単に患者の病状を誰かに伝えることはしないだろう。分かっていても、もっと悠人のことを知りたくてしょうがなかった。

 病室に戻ると、悠人に言われた原子記号を丸暗記して、そのあと彼の負担が減るように化学反応式のページに目を通す。原子を丸で表現したモデル画像を目にしても全く分からない。なぜ水素と酸素がくっつくと水になるのだろうか。そもそもどこでくっついてどこで離れるのだろうか。全ての水素が酸素と反応したなら、水素は全部消えるのだろうか。

 疑問はどんどんと湧いてくる。

「こんな時井ノ上がいたらなぁ」

 中西の疑問にすぐにでも答えてくれるだろう。あの少し冷たく面倒くささを隠さない口調で。

「こんなのが理解できるってすげーよなぁ」

 でも悠人は知らないのだ。走った後の爽快感も、飛んだ時に見る空の美しさも。どれほど高層な場所で見るよりも、自分が飛んだ時にしか得られないあの感覚もなにもかも、知らないままだろう。

「見せてあげたいな、井ノ上に」

 手を伸ばしてしまいたくなるほどに美しい空が自分の視界いっぱいに広がっているあの瞬間を。その時、いつも澄ましている彼はどんな表情をするだろうか。見てみたいという欲求に駆られる。

 初めて空に近づいた自分と同じように悠人も驚き目を見張るだろうか。つい手を伸ばして雲をつかもうとするだろうか。

「いつかやらせてやりたいな……」

 そして一瞬だけ空中で止まるあの瞬間を味わえば、自分が鳥になったような気持になるのだ。飛べないはずの人間が、僅かな時間だけ重力に逆らうように宙に身体を留められる。

 その感触を思い出して、奥歯を噛みしめた。世界で一番幸福な一瞬を失ってしまった。ずれたこの足ではもう踏み込むことはできない。ただ歩くのが精一杯で、風を感じて走ることもできない。

 だがそれは悠人も同じだ。彼も走ることができないのだ。動くだけで心臓は負担がかかるのだろう。だからなるべく大人しくしているのかもしれない。

 自分たちは同じなのだと新たに知った共通点は酷く悲しい。それでももう見ることができないあの瞬間を悠人に見せてやりたい。彼はそれができるのだろうか。

 とにかく明日、担当医に聞くしかないだろう。自分が「悪徳弁護士」と呼んでも笑って済ませてくれたあの優しそうな医師ならもしかしたら教えてくれるかもと一縷の望みを胸に、とにかく予習だとばかりに消灯した室内で小さく明かりをつけて勉強を続けた。

 今中西にできるのはそれだけだった。

 疲れて眠って、けれど元気な身体は余った体力を消費したいとばかりに早く目が覚める。

 日付が変わるまで起きていたにも関わらず、朝食を用意する人々の音で簡単に目を開け、目の前に運ばれたあまり美味しいとは言えない食事を腹に詰め込んですぐに中西は病室を出た。

「朝飯足りなかったので売店いってきます!」
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