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碧の様子がおかしい。
それは今日だけではない。随分前から笑わなくなった。
家事の家庭教師(そんなのがあるのも知らなかった)が付いた辺りから笑うことが少なくなったし、笑ってもどこか作り物っぽい。
家のことを淡々とこなし、徐々に上達しているし料理も最初のころに比べてぐっと上達しているのに嬉しそうではない。それどころか日に日に沈み込んでいる。
一輝も気になって平日に有給をあえて取り二人のやり取りを観察していたが、怖い先生なのかと思っていたらとても親切で丁寧な年配の先生だし、問題が起きているという状況ではない。念のため隠しカメラを設置し、碧の日常を観察してみたが変わったところはなかった。だがぼんやりとすることが多い。
マリッジブルーなのかと様子を見守っていたが結婚式の今日になっても碧の様子はおかしいままだ。
一体なにがあったのだろう。
気になって何度も訊いてみても作った笑顔を向けられるだけ、胸の内を明かしてくれず、二次会を終えてしまった。
親しい友人たちや部下が帰っていくのを見送り、ホテルのスタッフに案内され宿泊フロアの最上階へと辿り着いた。
スタッフが気を利かせてスイートルームを用意してくれたようだ。
中に入り、先に置いてくれた荷物からラフな洋服を取り出し着替える。
昼から始まった挙式から披露宴、それに二次会を一気にこなして気が付けばもうすっかり夜になっていた。まともに食事を摂ることのないまま今の時間になってしまった。時計を見れば間もなく碧の薬の時間だ。
「碧くん、なにか食べようか。このままだと薬を飲めないからね」
「はい……」
派手なタキシードを脱いでいつもの御曹司ルックに戻った碧の表情は精彩を欠いている。そう言えば式場でずっと二人の兄が一輝を睨みつけていたのを思い出す。もしかしたらなにか知っているのだろうか。だがあの二人に連絡を取り教えを乞うのはプライドが許せなかった。
どうしても自分の力で碧の気持ちを聞き出したい。
大人の簡単な恋愛ばかりを面白おかしく繰り返してきた一輝にとって、碧の気持ちを言葉を使わずに気付くのは超難関案件だ。恋愛マニュアルのような簡単な関係ばかりしか知らなかったから、彼のようなナイーブな相手は難しい。
だからと言って簡単に放り投げたりできないほどのめり込んでいた。
彼がなにを想いなにに悲しんでいるのかをどうしても知りたい。
マリッジブルーではなさそうだし、果たしてどうしたものか。
ルームサービスでまずは簡単な食事をすぐに持ってきてもらう。
すぐにサンドイッチが用意され、テーブルに並ぶ。
「これを先に食べて薬を飲もう」
皿を差し出すと、碧はその一つを手に取り、両手で少しずつ口に入れていく。薄切りのパンを噛むために開いた唇を見つめる。
(やっぱりここにキスしたかったな……)
チャペルでの誓いのキスで一瞬躊躇ってしまった。
一度でもその唇を味わってしまえばその先にブレーキをかけるのが難しくなりはしないかと臆病風が吹き荒れた。
きっと柔らかく甘いだろう唇の感触を知って、その後解禁となる四か月後まで手を出さないでいる自信がない。絶対に押し倒してしまいそうになる。今だって唇を見るだけで疲れているのに……いや疲れているから余計に下半身がムラムラしてしまう。碧の身体の事も考えずに押し倒してしまいそうになる。
だが、性行為は禁止!
例え今日が結婚式でもダメ!
初めての夜は新婚旅行と自分に言い聞かせ、そっと碧の唇から目を離す。だが、目を逸らした先にあるのは大きなキングサイズのベッドだ。これはもうあんなことやこんなことをしなさいと言わんばかりではないか。
いやいや、ここが単にスイートルームだからであって深い意味はきっとなにもないしあっても困る!
一輝は夫として碧のことが心配だし、医師の指示に反してやってしまったあと碧が苦しんだり身体が変調するのは避けたい。
碧がサンドイッチを一つ食べきったのを見て、1/4錠になった薬を渡す。
来月にはこれが一日置きになり、再来月には二日置きとどんどん身体に与える量を減らすと医師からの指示書に書いてあった。
今、碧の身体の中はゆっくりとオメガ特有のホルモンが分泌され始めているのだろう。
もしかして彼の様子がおかしいのはそのせいか。薬を減らし始めた時期と合致するだけに、その可能性も拭えない。
だが、医師でも薬剤師でもない一輝には見極めるだけの材料がなかった。
本人に聞くしかないか。
他に注文したルームサービスが届き、遅くなった夕食を摂り始めた。
「今日はたくさんの人に会ったから疲れただろう。これを食べたら早く寝よう」
当たり障りのない話を振ってみても、いつものように「はい」とロボットのような返事だ。
心ここに在らずか。
なら攻め方を変えるしかない。
碧が先に寝ないように、早く食事を済ませ、先にシャワーを浴びる。彼にはゆっくり摂るよう言い残して。
素早く洗い終えバスルームから上がってから碧を促す。なにか思い悩んでいるような表情は変わらない。
一人になる時間を作らせ、出てきた彼にスキンシップを図った。
碧の濡れた髪をドライヤーで乾かし、櫛でなめらかな髪を整える。
あとは寝るだけとなった彼とベッドの上で向き合った。
「碧くんは覚えているかな」
「なにをですか?」
「一年前の今日、お見合いの席で初めて会ったんだよ、私たちは」
「ぁ……」
「君と出会ってお付き合いをしたこの一年は、私にとってとても楽しくてかけがえのないものだ」
細い指にそっと触れる。
二人で選んだワンバゲット・ダイヤモンド・リングがそこに輝いている。
「二人で選んだこの指輪をやっと同じ指に付けることができたね」
指輪の上からキスをする。
「ぁ……」
「よく似合ってるよ、碧くん。これで名実ともに夫婦になれたね。これからの時間も、楽しくてかけがえのないものにしていこう。チャペルで誓っただろう、病める時も健やかなる時も愛し敬い慈しむと。あれは嘘ではないからね、私の本心だ。どんな時でもどんな状況でも君の傍にいると誓うよ。でもね、それよりももっと大切なことがあるんだ」
「な……んですか?」
碧の顔に不安が浮かぶ。
心配しなくていいと意味を込め頬をそっと撫でる。
「なんでも話し合うことだ。不安になってること、不満に思ってること、心配なこと嬉しいことをなんでも話すことが大事だ。夫婦になったからと言ってすぐになんでも判るわけじゃないからね。碧くんがなにを思っているのか、話してくれないか。君の話ならどんな時でも耳を傾けるから。私も、話すようにするよ」
じっと碧の目を見つめて話す。自分の真剣さが伝わるように。ゆっくりと言葉を選びながら。
「碧くんはなにを抱え込んでいるか、話してくれるか?」
指輪をそっと撫でる。
なんでも話してくれと懇願を込めて。
碧は泣きそうな顔になり、口を開いては諦めたように閉じた。だが一輝は急かさず碧が話してくれるのをじっと待っている。手を握りながら。
「ごめんなさい……」
絞り出した声は小さく儚い。
「リビングのチェストにある写真を勝手に見ちゃいました」
「写真?」
なんのだ?
変なものは残していないはずだし、デジタル化が進んだ今、紙媒体で残したいのは碧の寝顔くらいだ。だがまだそれを撮る心の余裕……いや、下半身の余裕がないし、撮ったとしても現像に行く時間もない。果たしてどんな写真だろう。
「今日二次会に来た人たちと撮った写真……」
二次会に来た面々を頭の中で思い浮かべる。
会社の部下、それに中高の友人たち。大学の友人とそれからサークルの仲間……。
サークル!
スマホやデジカメのデータではなく紙媒体で残っているものと言えばあれしかない。
一輝は一気に青ざめ、内心冷や汗をかきまくり言い訳を頭の中いっぱいに浮かべた。
アルファ主体のいわゆるヤリサーに所属していた一輝は、それは面白おかしく大学時代を過ごした。仲間もアルファが多くそこそこ自由に使える金を持っているため、ほぼ毎夜乱痴気騒ぎを起こしては、気に入った女の子(時には男も)を持ち帰って不純異(同)性交遊に耽っていた。その中で記念写真と称してスタジオを借りプロのカメラマンを呼んで、キワドイ写真を撮ってもらい遊んでいた時期があった。徐々に淫らなポーズになりそして終わった後は気に入った……以下略。
どこにしまったかもすっかり忘れていた写真が、一番碧に見られたくなかった写真が彼の目に触れたというのか。
碧が引っ越してくるまでに絶対いの一番に処分しなければならなかったものだ。だがどこにしまったか以前に存在すら忘れていた写真に気付くことができなかった。
それ以外はちゃんと処分したのにと後悔してももう遅すぎた。
「碧くん、あれはその、あのっ」
人間、パニックになるとまともに言葉が出ないものだ。営業職の一輝であっても。
「一輝さんカッコいいから恋人がいないほうがおかしいし、皆綺麗な人たちで、だからそれはいいんです。写真の一輝さん若かったし……」
本当にいいのか!
もし碧に過去の男や女がいたら、確実に嫉妬して呪い殺している自信があるだけに、そこをスルーされるのは辛い。
だが過去を蒸し返されても辛い。恋人じゃない人たちともベッドでいろんなことをしていたのを責められたら、もうどうしようもない。
「ただ……」
「なんだい、なんでも言ってくれ」
「あのっ、どうして僕には唇を合わせたキスをしてくれないんですか?」
「ひぇっ?」
無意識に変な声が上がってしまう。
なにを言い出すんですかこの小悪魔さんは。
「恋人さんたちにはして……どうして僕にしてくれないんですか?」
「どうしてって……」
そんなことをしたら押し倒してしまいそうだからです、とは言えない。
キスだけ覚えてそのあとすべてお預けさせられるこっちの身になって欲しい。悶々としすぎて仕事に集中できないどころか、自分に課した戒めすらも破ってしまいそうだからだ。
今だってぎりぎりの理性でもって生きており、同じベッドで眠ってもなるべく碧から身体を離している状況だ。気付かれないように彼より後に寝て先に起きる生活で誤魔化しているのに。
さて、どんな言い訳をしよう。
頭をフルスロットルで回転させ、一番碧が納得してくれる内容を編み出す。
「今薬を減らしている段階だからね、あまり興奮させてはいけないんだ」
それっぽく言ってみるが碧はキョトンとするばかりだ。
「興奮するの?」
しますともーーーー!
少なくとも一輝は興奮しまくるだろう。
そしていとやんごとなき結果になってしまうはずだ。
「碧くんの身体のためなんだよ」
それ以外に一輝が我慢し続ける理由などないのだ。碧が誰よりも大事でなによりも最優先にしたいから今まで堪え続けているのだから。
「……しなかったらいいんだよね」
「いや、そういう意味じゃないからっ!」
「もしかして、奥さんとはしないの? あれは恋人さんとだけなの?」
「それはない! むしろ奥さんと一番にしないといけないことだ」
「だったら……僕も一輝さんとしたい……だめ?」
首をかしげて訊ねてくる。
そんな可愛らしくおねだりされたら理性が持ちません……。
でもちょっとだけなら……舌を入れない軽いやつなら……。
一輝の淡く脆い理性が都合のいい言い訳を並べ始めた。興奮させてはいけないという言い訳を使ってしまったから、なるべく優しい、本当に触れるだけのキスをすれば大丈夫だ。
うん、大丈夫……大丈夫?
本当に大丈夫なのか自分!
だが最愛の人に潤んだ眼差しで強請られて断れるはずがない。
自分を落ち着かせるために深呼吸を繰り返し、大丈夫と思うタイミングを計った。頭を真っ白にし、下半身に意識を向けないようにする。よし、多分大丈夫。
「わかった。一度だけだよ」
碧の肩に手をかけ、ゆっくりと顔を近づけた。淡い桃色の唇に唇で触れる、ただそれだけ。なのに、その温かさと柔らかさに簡単に放すことができなくなってしまった。
想像していたよりもずっと心地よい唇を舐め尽くしたい衝動に駆られる。それだけじゃない、舌でこじ開けて唇の奥に隠れている赤い舌をも舐めとり、擦り合わせ口内を犯してしまいたい。その時、この可愛い妻はどんな声を上げるのだろう。驚いて拒絶するだろうか。それとももっととせがんでくるのだろうか。想像するだけではしたない下半身が疼き力を持ち始めてしまう。
これ以上したら本当に理性が持たない。
軽く啄んでから碧を驚かせないように、名残惜しい唇から身体を離す。
初めてのキスを体験した碧は、一輝が離れても目を閉じたままだ。長いまつ毛が目元に影を落とすから頬の赤みが強調される。
潤んだ瞳が開き、ふわふわとした雰囲気で一輝を見つめてくる。
「どうした?」
「キスって……気持ちいいんですね」
「そ……うだね」
引きつった笑顔を貼り付け、煽るようなことを言わないでくれと心の中で懇願しながら、元気になり始めた下半身に気付かれたくなくて、少し碧から距離を取る。
なのに、初めてのキスにふわふわした碧は切羽詰まった一輝に気付かないまま、夫のパジャマの袖を掴んだ。
「もう一回、して」
「え……でも…」
「だめ……ですか?」
目を潤ませながらのおねだりという一輝が絶対に断れない戦法で、可愛い妻が誘惑という大軍で攻め込んでくる。精鋭部隊の理性を総動員して防御しようとも打ち勝つことなどできるはずがない。
早々と白旗を上げた理性を前に、一輝本人もフラフラと甘い誘惑に誘い込まれてしまう。
僅かに生き残っている理性がやめろと警告しても、もう抑止力にはならない。
キスだけ、キスだけだから。
言い訳ばかりが頭を駆けまわっていく。
「もう一回だけだよ」
「……やっぱり嫌です」
「えっ?」
ここにきての拒絶か?
ニンジンをぶら下げて思いっきり誘惑しておいて「やっぱり嫌」とはどういうことだ。一輝の本能が大暴動を起こしてしまう。逆にその気にさせておいて止めさせられたほうが辛い。それこそ本能が理性を鎮圧しかねない。
しかも、生き残っている理性はほんの僅かだ。
このままでは碧を押し倒してあんなことやこんなことをしてしまいそうだ。
一輝の心の葛藤など知らず、碧は淡い桃色の唇を近づけてくる。
「もう一回だけじゃなくて、いっぱいして欲しいです。いつも……」
一輝は理性たちから魂が抜けていくのを感じた。
まだ本能の暴動の方がましだった。
さっきよりも大軍となった誘惑が四方八方から攻め入り、もう逃げ場などない。しかも総大将の碧本人はそれがどれだけ凶悪なことを言っているかを全く自覚していない。ただ自分の気持ちに素直になっているだけだ。さっき一輝が言った『言葉で伝える』を忠実に守っているだけ。
なにもしない自信が皆無だ。
いや、逆に考えたらむしろいつもしたほうが良いのかもしれない。
そうすれば、手を繋ぐとか一緒にご飯を食べるとかの日常の一コマとして慣れ、感覚がマヒするかもしれない。キスに関してだけだが。
碧もまだ性的な興奮を抱いていないようだ。
ただ触れ合う感触が気持ちいいと感じているだけ。その先になにがあるのかを知らないから、他の女性たちにしていることを自分にもしてもらえたと喜んでいるだけだ。
可愛い妻からせっかくいただいた要望だ、120%にして叶えない夫なんてクズ同然だ。
そうとなったらもう一輝はかけていたブレーキをあっさりと解除した。
「私の奥さんのワガママは本当に可愛いね」
重ねるだけのキスを何度も繰り返す。ついでに服の上から碧の身体をまさぐった。いままでずっと我慢してきたことを少しだけ自分に許していく。
薄い肌の感触を確認し、肩甲骨の形を確かめる。
四ヶ月後にはこの尖った肩甲骨の形に添ってキスマークを付けていこう。背骨に沿って舐め上げてみよう。それまでは触るだけ。
碧は一輝が何度も唇を合わせ啄んでくる動きを真似してくる。それがキスの仕方だと覚えたのだろう。
なにも知らない可愛い妻は、一輝の教えたことだけがすべてと思ってしまうのだ。比較対象が存在しないから、一輝のすることを忠実にトレースしていく。
自分のやり方に染まっていく碧が可愛くて愛おしくて、もっと淫らなことを教えてしまいたくなるのをどうにか押さえつけ、今日はこれで終わりと唇を離した。
「また、明日しよう」
「はい……あ、それから」
「それから?」
まだあるのか!
「裸で抱き合っていました。あれはしないんですか?」
さすがにそれは無理だ、絶対にダメ。そんなことをしてしまったらもう自分を制御しきれない。
そればっかりは慣れることができない。むしろ一輝が最大級に興奮して死にかねない。
「ゆっくり、ね。一度に全部するものではないんだよ」
頼む、これで納得してくれ。
「……全部って、他にもあるんですか?」
「あ……いや、それは……」
「夫婦ってどんなことをするんですか、キス以外に」
「まぁ……その……手を繋いだりとか抱き合ったりとか……まぁ色々」
言葉がどんどん濁っていく。しかも、「抱き合う」には様々な意味合いを含ませすぎている。
無知は罪だというが、まさにそれだ。なにも知らないからこそ、碧は知りたがる。なのに、教えることができないのがもどかしい。
あんな写真だけで悶々としてしまう碧が、もっと大人のコミュニケーションを知ってしまったら絶対にしてくれとねだってくるだろう。さすがにそれは無理だ。
「全部、僕にしてくれます?」
「するよ、当然だろう。君は私の可愛い妻なんだから。……でもね、まずは碧くんの身体が大切だからね。せっかく病気がよくなってきているのに、悪化させたら意味がないだろう。もう薬を飲まなくてもいい状態になったら、全部するよ」
元からそのつもりです!
むしろ、どんな行為か知った後に嫌だと言っても完遂するし、それが大好きになるための尽力も惜しまないだろう。
持てるテクニックを総動員して当たらせていただきますと心の中で宣言する。
「本当に?」
「本当だよ、約束する。だから今日はもう寝よう。たくさんの人に会って、碧くんも疲れただろう」
「はい」
やっと碧の表情が明るくなった。ほっとしながらも、早く寝かし付けなければと焦る。
「あの……眠るまでキスしてくれますか?」
それはご褒美であり拷問でもあるとは知らないだろう。だがもう拒めはしない。
「当たり前だろう」
余裕のあるふりをしながら、可愛い妻の願いを叶えていった。碧が眠った後もう一度シャワーを浴びる羽目になるが、それでも今は碧を悲しませないことを最優先した。
キスが解禁になった週末は、碧が心を乱した時間分のスキンシップを求めて来て、ひたすらくっついて過ごしていた。当然、ただ隣にいるだけだが、そこにキスが追加されるだけで一輝も一層碧のことが愛おしくなった。
仔猫のようにぴっとりとくっつき、袖を引っ張ってキスをねだってくる姿にただただ悩殺される。
結婚してよかったと本気で思いながら、いつもは憂鬱な月曜日なのに元気いっぱいに出社した。
なにせ、行ってきますのキスまでするようになったのだ。
それだけじゃない、おはようのキスとかありがとうのキスまで追加されている。
部下たちに挙式して浮かれたと思われたっていい。実際浮かれすぎておかしくなりそうだ。
自分のデスクについて、いつものようにスケジュールを確認していく。金曜日の段階では来客の予定がなかったのに、なぜか朝一に「重要な来客」との記載があり、会議室が一つ押さえられている。
「なんだこれは。私に来客とは誰だ?」
部下に訊ねてみても誰も知らないという。登録者を確認すると、なんと社長だ。
大至急内線で社長に確認しようとするがそれよりも早くに来客の到着が告げられた。事務の社員に会議室までの案内とお茶出しを頼み、一輝も不安を覚えながら大至急の仕事を片付けた後、タブレットを片手に会議室へと向かう。
会議室にいたのは予想外の人物だった。
「これは……お義兄さん方どんなご用事で」
座っていたのは玄と梗だった。しかも顔がありえないくらい険しくなっている。
「どんな用事だと? 我々がお前に用があるのは碧のことだけとわからないのか」
今までにないほどの威圧感を放ってくる。むしろアルファの戦闘オーラ全開だ。
「よくも僕たちの可愛い碧を泣かせてくれたね。しかも随分と卑猥な写真を見せたんだって?」
すぐに合点がいき、言い訳をする。
「いや、あれは事故です。むしろ存在を忘れていました!」
「その存在を忘れたもののせいで碧は結婚式の控室で泣いたわけか……どう責任を取るつもりだ」
「もう碧くんに対しては責任を取りました!」
キスを解禁するという形で、だが。
それを口にしたらこの兄たちに殺されかねない。オーラがもう殺す一色になっている。
「どうやって?」
「それは……」
「もしかして、キスしたとか言わないよね」
「どうなんだ、天羽。当然していないよな」
「……しました、すみません!」
「「なんだとーーーーー!」」
兄たちの怒号が社内に響き渡った。
「キスだけです、しかもバードオンリーです!」
「そんな言い訳が通じるか! お前な、うちの碧に何してんだ」
「泣かせただけでも噴飯ものなのに、キスまでするなんて……よくも僕の碧を汚したな、死刑だ!」
「死刑でもいいです、もっと色々させてもらいます!」
「なんだとー!」
「私は夫なのだから当然の権利です!」
アルファの攻撃オーラが三人分になる。
そうなるともう誰も会議室に近づけなくなってしまった。謝罪なのに怒鳴る部長の声に部下たちはひたすら怯えるしかない。
中が一体どうなっているのか、誰もわからず、ひたすら三人分の怒鳴り声が社内に響き渡り、社長が出て止めるまでそれは続くのだった。
それは今日だけではない。随分前から笑わなくなった。
家事の家庭教師(そんなのがあるのも知らなかった)が付いた辺りから笑うことが少なくなったし、笑ってもどこか作り物っぽい。
家のことを淡々とこなし、徐々に上達しているし料理も最初のころに比べてぐっと上達しているのに嬉しそうではない。それどころか日に日に沈み込んでいる。
一輝も気になって平日に有給をあえて取り二人のやり取りを観察していたが、怖い先生なのかと思っていたらとても親切で丁寧な年配の先生だし、問題が起きているという状況ではない。念のため隠しカメラを設置し、碧の日常を観察してみたが変わったところはなかった。だがぼんやりとすることが多い。
マリッジブルーなのかと様子を見守っていたが結婚式の今日になっても碧の様子はおかしいままだ。
一体なにがあったのだろう。
気になって何度も訊いてみても作った笑顔を向けられるだけ、胸の内を明かしてくれず、二次会を終えてしまった。
親しい友人たちや部下が帰っていくのを見送り、ホテルのスタッフに案内され宿泊フロアの最上階へと辿り着いた。
スタッフが気を利かせてスイートルームを用意してくれたようだ。
中に入り、先に置いてくれた荷物からラフな洋服を取り出し着替える。
昼から始まった挙式から披露宴、それに二次会を一気にこなして気が付けばもうすっかり夜になっていた。まともに食事を摂ることのないまま今の時間になってしまった。時計を見れば間もなく碧の薬の時間だ。
「碧くん、なにか食べようか。このままだと薬を飲めないからね」
「はい……」
派手なタキシードを脱いでいつもの御曹司ルックに戻った碧の表情は精彩を欠いている。そう言えば式場でずっと二人の兄が一輝を睨みつけていたのを思い出す。もしかしたらなにか知っているのだろうか。だがあの二人に連絡を取り教えを乞うのはプライドが許せなかった。
どうしても自分の力で碧の気持ちを聞き出したい。
大人の簡単な恋愛ばかりを面白おかしく繰り返してきた一輝にとって、碧の気持ちを言葉を使わずに気付くのは超難関案件だ。恋愛マニュアルのような簡単な関係ばかりしか知らなかったから、彼のようなナイーブな相手は難しい。
だからと言って簡単に放り投げたりできないほどのめり込んでいた。
彼がなにを想いなにに悲しんでいるのかをどうしても知りたい。
マリッジブルーではなさそうだし、果たしてどうしたものか。
ルームサービスでまずは簡単な食事をすぐに持ってきてもらう。
すぐにサンドイッチが用意され、テーブルに並ぶ。
「これを先に食べて薬を飲もう」
皿を差し出すと、碧はその一つを手に取り、両手で少しずつ口に入れていく。薄切りのパンを噛むために開いた唇を見つめる。
(やっぱりここにキスしたかったな……)
チャペルでの誓いのキスで一瞬躊躇ってしまった。
一度でもその唇を味わってしまえばその先にブレーキをかけるのが難しくなりはしないかと臆病風が吹き荒れた。
きっと柔らかく甘いだろう唇の感触を知って、その後解禁となる四か月後まで手を出さないでいる自信がない。絶対に押し倒してしまいそうになる。今だって唇を見るだけで疲れているのに……いや疲れているから余計に下半身がムラムラしてしまう。碧の身体の事も考えずに押し倒してしまいそうになる。
だが、性行為は禁止!
例え今日が結婚式でもダメ!
初めての夜は新婚旅行と自分に言い聞かせ、そっと碧の唇から目を離す。だが、目を逸らした先にあるのは大きなキングサイズのベッドだ。これはもうあんなことやこんなことをしなさいと言わんばかりではないか。
いやいや、ここが単にスイートルームだからであって深い意味はきっとなにもないしあっても困る!
一輝は夫として碧のことが心配だし、医師の指示に反してやってしまったあと碧が苦しんだり身体が変調するのは避けたい。
碧がサンドイッチを一つ食べきったのを見て、1/4錠になった薬を渡す。
来月にはこれが一日置きになり、再来月には二日置きとどんどん身体に与える量を減らすと医師からの指示書に書いてあった。
今、碧の身体の中はゆっくりとオメガ特有のホルモンが分泌され始めているのだろう。
もしかして彼の様子がおかしいのはそのせいか。薬を減らし始めた時期と合致するだけに、その可能性も拭えない。
だが、医師でも薬剤師でもない一輝には見極めるだけの材料がなかった。
本人に聞くしかないか。
他に注文したルームサービスが届き、遅くなった夕食を摂り始めた。
「今日はたくさんの人に会ったから疲れただろう。これを食べたら早く寝よう」
当たり障りのない話を振ってみても、いつものように「はい」とロボットのような返事だ。
心ここに在らずか。
なら攻め方を変えるしかない。
碧が先に寝ないように、早く食事を済ませ、先にシャワーを浴びる。彼にはゆっくり摂るよう言い残して。
素早く洗い終えバスルームから上がってから碧を促す。なにか思い悩んでいるような表情は変わらない。
一人になる時間を作らせ、出てきた彼にスキンシップを図った。
碧の濡れた髪をドライヤーで乾かし、櫛でなめらかな髪を整える。
あとは寝るだけとなった彼とベッドの上で向き合った。
「碧くんは覚えているかな」
「なにをですか?」
「一年前の今日、お見合いの席で初めて会ったんだよ、私たちは」
「ぁ……」
「君と出会ってお付き合いをしたこの一年は、私にとってとても楽しくてかけがえのないものだ」
細い指にそっと触れる。
二人で選んだワンバゲット・ダイヤモンド・リングがそこに輝いている。
「二人で選んだこの指輪をやっと同じ指に付けることができたね」
指輪の上からキスをする。
「ぁ……」
「よく似合ってるよ、碧くん。これで名実ともに夫婦になれたね。これからの時間も、楽しくてかけがえのないものにしていこう。チャペルで誓っただろう、病める時も健やかなる時も愛し敬い慈しむと。あれは嘘ではないからね、私の本心だ。どんな時でもどんな状況でも君の傍にいると誓うよ。でもね、それよりももっと大切なことがあるんだ」
「な……んですか?」
碧の顔に不安が浮かぶ。
心配しなくていいと意味を込め頬をそっと撫でる。
「なんでも話し合うことだ。不安になってること、不満に思ってること、心配なこと嬉しいことをなんでも話すことが大事だ。夫婦になったからと言ってすぐになんでも判るわけじゃないからね。碧くんがなにを思っているのか、話してくれないか。君の話ならどんな時でも耳を傾けるから。私も、話すようにするよ」
じっと碧の目を見つめて話す。自分の真剣さが伝わるように。ゆっくりと言葉を選びながら。
「碧くんはなにを抱え込んでいるか、話してくれるか?」
指輪をそっと撫でる。
なんでも話してくれと懇願を込めて。
碧は泣きそうな顔になり、口を開いては諦めたように閉じた。だが一輝は急かさず碧が話してくれるのをじっと待っている。手を握りながら。
「ごめんなさい……」
絞り出した声は小さく儚い。
「リビングのチェストにある写真を勝手に見ちゃいました」
「写真?」
なんのだ?
変なものは残していないはずだし、デジタル化が進んだ今、紙媒体で残したいのは碧の寝顔くらいだ。だがまだそれを撮る心の余裕……いや、下半身の余裕がないし、撮ったとしても現像に行く時間もない。果たしてどんな写真だろう。
「今日二次会に来た人たちと撮った写真……」
二次会に来た面々を頭の中で思い浮かべる。
会社の部下、それに中高の友人たち。大学の友人とそれからサークルの仲間……。
サークル!
スマホやデジカメのデータではなく紙媒体で残っているものと言えばあれしかない。
一輝は一気に青ざめ、内心冷や汗をかきまくり言い訳を頭の中いっぱいに浮かべた。
アルファ主体のいわゆるヤリサーに所属していた一輝は、それは面白おかしく大学時代を過ごした。仲間もアルファが多くそこそこ自由に使える金を持っているため、ほぼ毎夜乱痴気騒ぎを起こしては、気に入った女の子(時には男も)を持ち帰って不純異(同)性交遊に耽っていた。その中で記念写真と称してスタジオを借りプロのカメラマンを呼んで、キワドイ写真を撮ってもらい遊んでいた時期があった。徐々に淫らなポーズになりそして終わった後は気に入った……以下略。
どこにしまったかもすっかり忘れていた写真が、一番碧に見られたくなかった写真が彼の目に触れたというのか。
碧が引っ越してくるまでに絶対いの一番に処分しなければならなかったものだ。だがどこにしまったか以前に存在すら忘れていた写真に気付くことができなかった。
それ以外はちゃんと処分したのにと後悔してももう遅すぎた。
「碧くん、あれはその、あのっ」
人間、パニックになるとまともに言葉が出ないものだ。営業職の一輝であっても。
「一輝さんカッコいいから恋人がいないほうがおかしいし、皆綺麗な人たちで、だからそれはいいんです。写真の一輝さん若かったし……」
本当にいいのか!
もし碧に過去の男や女がいたら、確実に嫉妬して呪い殺している自信があるだけに、そこをスルーされるのは辛い。
だが過去を蒸し返されても辛い。恋人じゃない人たちともベッドでいろんなことをしていたのを責められたら、もうどうしようもない。
「ただ……」
「なんだい、なんでも言ってくれ」
「あのっ、どうして僕には唇を合わせたキスをしてくれないんですか?」
「ひぇっ?」
無意識に変な声が上がってしまう。
なにを言い出すんですかこの小悪魔さんは。
「恋人さんたちにはして……どうして僕にしてくれないんですか?」
「どうしてって……」
そんなことをしたら押し倒してしまいそうだからです、とは言えない。
キスだけ覚えてそのあとすべてお預けさせられるこっちの身になって欲しい。悶々としすぎて仕事に集中できないどころか、自分に課した戒めすらも破ってしまいそうだからだ。
今だってぎりぎりの理性でもって生きており、同じベッドで眠ってもなるべく碧から身体を離している状況だ。気付かれないように彼より後に寝て先に起きる生活で誤魔化しているのに。
さて、どんな言い訳をしよう。
頭をフルスロットルで回転させ、一番碧が納得してくれる内容を編み出す。
「今薬を減らしている段階だからね、あまり興奮させてはいけないんだ」
それっぽく言ってみるが碧はキョトンとするばかりだ。
「興奮するの?」
しますともーーーー!
少なくとも一輝は興奮しまくるだろう。
そしていとやんごとなき結果になってしまうはずだ。
「碧くんの身体のためなんだよ」
それ以外に一輝が我慢し続ける理由などないのだ。碧が誰よりも大事でなによりも最優先にしたいから今まで堪え続けているのだから。
「……しなかったらいいんだよね」
「いや、そういう意味じゃないからっ!」
「もしかして、奥さんとはしないの? あれは恋人さんとだけなの?」
「それはない! むしろ奥さんと一番にしないといけないことだ」
「だったら……僕も一輝さんとしたい……だめ?」
首をかしげて訊ねてくる。
そんな可愛らしくおねだりされたら理性が持ちません……。
でもちょっとだけなら……舌を入れない軽いやつなら……。
一輝の淡く脆い理性が都合のいい言い訳を並べ始めた。興奮させてはいけないという言い訳を使ってしまったから、なるべく優しい、本当に触れるだけのキスをすれば大丈夫だ。
うん、大丈夫……大丈夫?
本当に大丈夫なのか自分!
だが最愛の人に潤んだ眼差しで強請られて断れるはずがない。
自分を落ち着かせるために深呼吸を繰り返し、大丈夫と思うタイミングを計った。頭を真っ白にし、下半身に意識を向けないようにする。よし、多分大丈夫。
「わかった。一度だけだよ」
碧の肩に手をかけ、ゆっくりと顔を近づけた。淡い桃色の唇に唇で触れる、ただそれだけ。なのに、その温かさと柔らかさに簡単に放すことができなくなってしまった。
想像していたよりもずっと心地よい唇を舐め尽くしたい衝動に駆られる。それだけじゃない、舌でこじ開けて唇の奥に隠れている赤い舌をも舐めとり、擦り合わせ口内を犯してしまいたい。その時、この可愛い妻はどんな声を上げるのだろう。驚いて拒絶するだろうか。それとももっととせがんでくるのだろうか。想像するだけではしたない下半身が疼き力を持ち始めてしまう。
これ以上したら本当に理性が持たない。
軽く啄んでから碧を驚かせないように、名残惜しい唇から身体を離す。
初めてのキスを体験した碧は、一輝が離れても目を閉じたままだ。長いまつ毛が目元に影を落とすから頬の赤みが強調される。
潤んだ瞳が開き、ふわふわとした雰囲気で一輝を見つめてくる。
「どうした?」
「キスって……気持ちいいんですね」
「そ……うだね」
引きつった笑顔を貼り付け、煽るようなことを言わないでくれと心の中で懇願しながら、元気になり始めた下半身に気付かれたくなくて、少し碧から距離を取る。
なのに、初めてのキスにふわふわした碧は切羽詰まった一輝に気付かないまま、夫のパジャマの袖を掴んだ。
「もう一回、して」
「え……でも…」
「だめ……ですか?」
目を潤ませながらのおねだりという一輝が絶対に断れない戦法で、可愛い妻が誘惑という大軍で攻め込んでくる。精鋭部隊の理性を総動員して防御しようとも打ち勝つことなどできるはずがない。
早々と白旗を上げた理性を前に、一輝本人もフラフラと甘い誘惑に誘い込まれてしまう。
僅かに生き残っている理性がやめろと警告しても、もう抑止力にはならない。
キスだけ、キスだけだから。
言い訳ばかりが頭を駆けまわっていく。
「もう一回だけだよ」
「……やっぱり嫌です」
「えっ?」
ここにきての拒絶か?
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しかも、生き残っている理性はほんの僅かだ。
このままでは碧を押し倒してあんなことやこんなことをしてしまいそうだ。
一輝の心の葛藤など知らず、碧は淡い桃色の唇を近づけてくる。
「もう一回だけじゃなくて、いっぱいして欲しいです。いつも……」
一輝は理性たちから魂が抜けていくのを感じた。
まだ本能の暴動の方がましだった。
さっきよりも大軍となった誘惑が四方八方から攻め入り、もう逃げ場などない。しかも総大将の碧本人はそれがどれだけ凶悪なことを言っているかを全く自覚していない。ただ自分の気持ちに素直になっているだけだ。さっき一輝が言った『言葉で伝える』を忠実に守っているだけ。
なにもしない自信が皆無だ。
いや、逆に考えたらむしろいつもしたほうが良いのかもしれない。
そうすれば、手を繋ぐとか一緒にご飯を食べるとかの日常の一コマとして慣れ、感覚がマヒするかもしれない。キスに関してだけだが。
碧もまだ性的な興奮を抱いていないようだ。
ただ触れ合う感触が気持ちいいと感じているだけ。その先になにがあるのかを知らないから、他の女性たちにしていることを自分にもしてもらえたと喜んでいるだけだ。
可愛い妻からせっかくいただいた要望だ、120%にして叶えない夫なんてクズ同然だ。
そうとなったらもう一輝はかけていたブレーキをあっさりと解除した。
「私の奥さんのワガママは本当に可愛いね」
重ねるだけのキスを何度も繰り返す。ついでに服の上から碧の身体をまさぐった。いままでずっと我慢してきたことを少しだけ自分に許していく。
薄い肌の感触を確認し、肩甲骨の形を確かめる。
四ヶ月後にはこの尖った肩甲骨の形に添ってキスマークを付けていこう。背骨に沿って舐め上げてみよう。それまでは触るだけ。
碧は一輝が何度も唇を合わせ啄んでくる動きを真似してくる。それがキスの仕方だと覚えたのだろう。
なにも知らない可愛い妻は、一輝の教えたことだけがすべてと思ってしまうのだ。比較対象が存在しないから、一輝のすることを忠実にトレースしていく。
自分のやり方に染まっていく碧が可愛くて愛おしくて、もっと淫らなことを教えてしまいたくなるのをどうにか押さえつけ、今日はこれで終わりと唇を離した。
「また、明日しよう」
「はい……あ、それから」
「それから?」
まだあるのか!
「裸で抱き合っていました。あれはしないんですか?」
さすがにそれは無理だ、絶対にダメ。そんなことをしてしまったらもう自分を制御しきれない。
そればっかりは慣れることができない。むしろ一輝が最大級に興奮して死にかねない。
「ゆっくり、ね。一度に全部するものではないんだよ」
頼む、これで納得してくれ。
「……全部って、他にもあるんですか?」
「あ……いや、それは……」
「夫婦ってどんなことをするんですか、キス以外に」
「まぁ……その……手を繋いだりとか抱き合ったりとか……まぁ色々」
言葉がどんどん濁っていく。しかも、「抱き合う」には様々な意味合いを含ませすぎている。
無知は罪だというが、まさにそれだ。なにも知らないからこそ、碧は知りたがる。なのに、教えることができないのがもどかしい。
あんな写真だけで悶々としてしまう碧が、もっと大人のコミュニケーションを知ってしまったら絶対にしてくれとねだってくるだろう。さすがにそれは無理だ。
「全部、僕にしてくれます?」
「するよ、当然だろう。君は私の可愛い妻なんだから。……でもね、まずは碧くんの身体が大切だからね。せっかく病気がよくなってきているのに、悪化させたら意味がないだろう。もう薬を飲まなくてもいい状態になったら、全部するよ」
元からそのつもりです!
むしろ、どんな行為か知った後に嫌だと言っても完遂するし、それが大好きになるための尽力も惜しまないだろう。
持てるテクニックを総動員して当たらせていただきますと心の中で宣言する。
「本当に?」
「本当だよ、約束する。だから今日はもう寝よう。たくさんの人に会って、碧くんも疲れただろう」
「はい」
やっと碧の表情が明るくなった。ほっとしながらも、早く寝かし付けなければと焦る。
「あの……眠るまでキスしてくれますか?」
それはご褒美であり拷問でもあるとは知らないだろう。だがもう拒めはしない。
「当たり前だろう」
余裕のあるふりをしながら、可愛い妻の願いを叶えていった。碧が眠った後もう一度シャワーを浴びる羽目になるが、それでも今は碧を悲しませないことを最優先した。
キスが解禁になった週末は、碧が心を乱した時間分のスキンシップを求めて来て、ひたすらくっついて過ごしていた。当然、ただ隣にいるだけだが、そこにキスが追加されるだけで一輝も一層碧のことが愛おしくなった。
仔猫のようにぴっとりとくっつき、袖を引っ張ってキスをねだってくる姿にただただ悩殺される。
結婚してよかったと本気で思いながら、いつもは憂鬱な月曜日なのに元気いっぱいに出社した。
なにせ、行ってきますのキスまでするようになったのだ。
それだけじゃない、おはようのキスとかありがとうのキスまで追加されている。
部下たちに挙式して浮かれたと思われたっていい。実際浮かれすぎておかしくなりそうだ。
自分のデスクについて、いつものようにスケジュールを確認していく。金曜日の段階では来客の予定がなかったのに、なぜか朝一に「重要な来客」との記載があり、会議室が一つ押さえられている。
「なんだこれは。私に来客とは誰だ?」
部下に訊ねてみても誰も知らないという。登録者を確認すると、なんと社長だ。
大至急内線で社長に確認しようとするがそれよりも早くに来客の到着が告げられた。事務の社員に会議室までの案内とお茶出しを頼み、一輝も不安を覚えながら大至急の仕事を片付けた後、タブレットを片手に会議室へと向かう。
会議室にいたのは予想外の人物だった。
「これは……お義兄さん方どんなご用事で」
座っていたのは玄と梗だった。しかも顔がありえないくらい険しくなっている。
「どんな用事だと? 我々がお前に用があるのは碧のことだけとわからないのか」
今までにないほどの威圧感を放ってくる。むしろアルファの戦闘オーラ全開だ。
「よくも僕たちの可愛い碧を泣かせてくれたね。しかも随分と卑猥な写真を見せたんだって?」
すぐに合点がいき、言い訳をする。
「いや、あれは事故です。むしろ存在を忘れていました!」
「その存在を忘れたもののせいで碧は結婚式の控室で泣いたわけか……どう責任を取るつもりだ」
「もう碧くんに対しては責任を取りました!」
キスを解禁するという形で、だが。
それを口にしたらこの兄たちに殺されかねない。オーラがもう殺す一色になっている。
「どうやって?」
「それは……」
「もしかして、キスしたとか言わないよね」
「どうなんだ、天羽。当然していないよな」
「……しました、すみません!」
「「なんだとーーーーー!」」
兄たちの怒号が社内に響き渡った。
「キスだけです、しかもバードオンリーです!」
「そんな言い訳が通じるか! お前な、うちの碧に何してんだ」
「泣かせただけでも噴飯ものなのに、キスまでするなんて……よくも僕の碧を汚したな、死刑だ!」
「死刑でもいいです、もっと色々させてもらいます!」
「なんだとー!」
「私は夫なのだから当然の権利です!」
アルファの攻撃オーラが三人分になる。
そうなるともう誰も会議室に近づけなくなってしまった。謝罪なのに怒鳴る部長の声に部下たちはひたすら怯えるしかない。
中が一体どうなっているのか、誰もわからず、ひたすら三人分の怒鳴り声が社内に響き渡り、社長が出て止めるまでそれは続くのだった。
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