深窓オメガのお見合い結婚

椎名サクラ

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 マンションの一室に帰りついた一輝は、ジャケットをソファの背に放り投げると、そのまま深くソファに腰かけた。

「はぁ……」

 深い嘆息が零れる。

 あの子は、凶器だ。

 まさかあれほどまでに可愛らしく庇護欲を掻き立てる人間が存在するなんて。

 最初は緊張してなにも話せないほど固くなっていたのに、次第にその態度が軟化し屈託ない笑みを向けてくれるようになったのは嬉しいが、それがどれほどの威力で一輝の心臓を打ち抜いてきているか本人は知ってやっているのだろうかと疑問に思うほど、何度も何度も一輝の心臓を打ち抜いてきた。

 損得勘定なくまっすぐな眼差しというのに初めて向き合った一輝は、大人の余裕という名の猫をかぶりつつ、内心は衛生兵を求める瀕死の兵士の心境だった。

(なにもかもが、可愛すぎる!)

 玄の言葉ではないが、無垢すぎる。

 なにも知らず、少しのことで喜び、小さなことでも羨望の眼差しを向けてくる。そのたびに碧に抱いていた感情がどんどんと膨れ上がっていくのだ。ただ可愛い子、だったのがどんどんと、愛しい子へと変わっていく。しかも急加速で。

「参った……」

 細い肩を抱いてた手を見つめた。

 抱きしめたら毀してしまいそうなほど小さく細く、少し高い体温の感触がまだ残っている。

 守ってやりたいと思わせる細さなのに、時折抱きしめたくなる衝動を与えてくるのだ。

「あれは……無自覚小悪魔だ……」

 本人が全く意識していないところで、ガツンガツンと男の劣情を煽ってくる。キラキラと周囲を見ていた瞳が次の瞬間すべてを諦めていると言いたげな悲しいものへと変わった時、一輝は思わずその身体を抱きしめてしまいそうになった。病気と口にするたびに悲しい表情を浮かべられて、何度も彼が飲んでいる薬の説明をしようとした。菅原家との約束で堪えるのが精いっぱいだった。

 初めてのデートで、嬉しそうな笑みを浮かべる彼が可愛くて、渋谷なのをいいことにいかがわしい宿泊施設に連れ込みそうになった自分がいたことにそっと伏せる。

 まさか、10歳も年下の見合い相手が、ここまで男の劣情をくすぐる存在だったとは……。

 今まで一輝が知っているオメガとも全く違った存在に、のめり込んでしまっている自分がいる。

 果たして結婚するその時まで、キス一つせずにいられるだろうか。

 前途多難な予感しかなかった。

「それにしても、やることが徹底的だな、菅原家」

 この情報化社会において、ネット環境が全く与えられていない高校生がいるなんて信じられなかった。

 きっと自分が飲んでいる薬のこと、オメガという現実を知らせないためなのだろうが、すべての情報をシャットアウトする徹底ぶりに愕然とした。しかも学生生活のビッグイベントすら「病気」のせいと思い込ませて休ませてしまうなんて。

 あまりにも碧が不憫だ。

 なにも知らず、なんの知識もないままでずっと生きて行かせるのは可哀想だ。

 家族がなにもしないのなら、彼をこの手で幸せにしてやりたい。

 行きたい所も行かせてもらえずにただ閉じ込められたような人生を良しとはさせたくない。

 ただオメガというだけで……。発情抑制剤を飲んでいるのだからベータと何ら変わりないだろうし、一般的な生活を送らせてもいいものを。

 都内在住で満員電車どころか公共交通機関のなにも知らないというのは異常すぎる。

 小さな美術館一つであんなに喜ぶ姿を見せてくれた碧に、もっと色々なものを見せてやりたい。そうしたらどんな表情を見せてくれるだろう。もっと喜んでくれるだろうか。もっと幸せそうな笑みを浮かべてくれるだろうか。喜びのあまりもっと抱き着いてくれるだろうか。そしてそのまま……。

 妖しいほうへと向かってしまう思考を慌てて中断させる。

 あれほど純真無垢な存在になにを考えているのか。

 きっとキスすら知らないだろう子に唇を合わせることへの快楽を教えたらどうなるかとか、色々妄想しそうになるのを慌てて打ち消し、ただ純粋に碧のことだけを考える。

「次はどこに連れて行ってあげよう」

 国立美術館がいいか、それとも……。

 一輝は立ち上がり、仕事部屋にしている一室に入る。

 今日の美術展も昨夜調べ抜き、作品の詳細まですべて頭に叩き込んだ一夜漬けだったのは碧には内緒だ。まさか僅かな知識であれほどまでに羨望されるとは思いもよらなかった。

 あの可愛らしい顔をまたみるために美術情報を無駄に優秀な頭脳にインプットさせていく。

 もう一輝はどっぷりと「菅原碧」という存在にはまってしまっていた。

 菅原家の御曹司だとかオメガだとかよりも、ただ碧一個人に関心のすべてが向かっている。

 そんなこと、今までなかった。

 30歳目前となったこの年までそれなりに……一般的以上に多くの人と交際してきたし、一夜限りというならもっと多いだろうが、その誰にも抱いたことのない感情が、不思議と碧に向かっている。こんなにも誰かのためになにかをしたいと思ったことはなかった。

 興味のない美術関係の情報を漁ったり、なにをしたら喜ぶだろうか考えたり。

 いつもは自分の欲望の赴くままに動いていた一輝にはありえないことだった。

(親父、この見合いをセッティングしてくれてありがとう!)

 滅多に会わない父親に、この件だけは感謝してしまう。

 親の下心が満載の見合いだとわかっていても、なにもない状況なら絶対に碧とは知り合えない事が痛いほどわかってしまった今、神と親の野心にすら感謝してしまう。

 深窓の令息である碧は、こんな機会でもなければずっと家に閉じ込められていたことだろう。

 この幸運を決して手放してはならないと本能が強く訴えかけてくる。

 だがそれは転じて、菅原家の言いつけを守れということでもあった。

 今日は手を出さなかったが次に会うときは大丈夫だろうか。

 不安になる。

 あんなにも可愛い子に唾を付けることすら許されないなんて……。人込みではぐれないようにと肩を抱いて自分のものだと主張するのが精いっぱいだった。それが一体いつまで続くのだろうか。

(もう早々と結婚を申し込んでしまおうか)

 だが玄の人を鼻で笑うような顔を思い出すと、自分だけが碧にのめり込んでいるように見せるのは業腹だ。

 もっともっと碧に自分を知ってもらわなければ。もっと好きになってもらわなければ。

 結婚の申し込みをしてすぐに返事がもらえるほど、相手の心を掴んでみせたい。

 そしてあの無垢な心もなにも知らない身体も全部自分のものにしたい。

 手元に残したままの釣り書きをぼんやりと眺めた。

 生年月日の欄に碧の誕生日が書かれている。

 目指すはこの日だ。

 それまで誠実な大人を演じよう。

 碧との時間を作ろうと平日はがむしゃらに働き出した。三代目は家業をつぶすの定石にならないよう、ビシバシと部下に鞭を打ち、これからやってくる繁忙期に備える。夏に向けて飲料業界は今が稼ぎ時とばかりに動き出す。一輝も営業部を任されている身として、どんどん仕事に打ち込んでいった。

 それもすべて休日に碧との時間を設けるため。

 仕事の合間に彼が好きそうなものはないかとネットを駆使し、部下からも情報を集めていく。

 そんな一輝を部下一同が遠目で見守っていた。

「部長、壊れたな」

「壊れるなら夏が終わってからにしてくれよぉ」

「諸兄、凄い情報が入ったぞ!」

「なんだ、そのすごい情報って」

「部長の見合い相手、あの菅原製薬のご令嬢らしいぞ。しかも凄い美人、らしい」

「まじか!」

「政略結婚か?」

「部長はマジのめりしてるって噂だ」

「あの部長が? だとしたら傾城の美女レベルってことか」

 少し情報がねじ曲がって社内に広まっているとも知らず、一輝は今までにないくらい仕事に励んでいった。次の週末を心の支えにして。

 そしてようやく訪れた週末、どこに行くかは碧に任せると伝えた返事は、意外にも水族館だった。

 美術館ばかりを調べていただけに一瞬拍子抜けをしたが、ならばと都内からそう遠くない水族館を探す。都内から出たことがない碧のために、少し遠い水族館へと場所を決めた。

 前回よりも早い時間に迎えに行くと、碧はすでに玄関で待っていてくれていた。

「待たせてしまって申し訳ない」

「違うんです……楽しみで早起きしちゃって……」

 前回打ち解けたと思ったが、また時間が少し戻ってしまい緊張が芽生え始めたようだ。頬を赤らめた顔で少し俯き加減にしているだけなのに、それだけで可愛いと思ってしまう。もし発情している彼がこんな表情を見せてきたら、迷わずそのうなじに歯を立てることだろう。しっかりと抗フェロモン剤を飲んでおかないと衝動で噛んでしまいそうだ。

 碧の顔を見ただけで悶々としてしまう自分にしっかりと「大人の余裕」という猫を被り、助手席へとエスコートする。さりげなく握った手の細さに、手折ってしまいたいという欲求が芽生える。

(だめだ、だめだ。今ここで変なことをしてしまったらお見合いがパーになる)

 必死で己の欲望を押さえつけ、助手席へと導く。

「一輝さん、ありがとうございます」

 ふわりと笑みを浮かべた謝辞にすら鼻血が噴き出しそうだ。

 だが鉄壁の仮面で余裕の表情をその面に張り付けるといそいそと運転席へと向かう。

(やっぱり可愛い!)

 だめだ、このまま自分のマンションに連れ帰ってしまいたい。

 すぐに押し倒して、なにも知らないであろう身体にあんなことやこんなことをしたい欲求に駆られる。大人の余裕なんてはぎ取って獣に戻ってしまえと囁く心の悪魔を追い払い、平常心を取り戻すために大きく深呼吸をしてから車を出発させる。

 水族館と遊園地が併設されている近郊の水族館へと向かう。少し子供っぽいチョイスかもしれないと思ったが、聞いてみると水族館すら行ったことがないという。

「だから今回は水族館にしたのかい?」

「はい……一輝さんにはつまらないかもしれないけど……」

「いや、あまり行かないから実は私も楽しみなんだ」

「そうなんですか、良かった」

 ほっとした顔が見れないのが辛い!

 だが今見てしまったら絶対に別の目的地に向かいそうだ。いくらなんでも初めてがラブホテルは可哀想だ。せめて綺麗なホテルか……やっぱり色々揃っている自分のマンションが一番か。

 そんなことを考えながら運転しているなど知らない碧は楽しそうに車窓を見ている。他愛ない話をしながら高速を滑るように走り、目的地へと向かう。東京湾に面した水族館は家族連れやカップル同士で賑わっており、楽しそうな声があちらこちらから聞こえてくる。

 ジェットコースターからメリーゴーランドまで揃っているアトラクションに興味津々で見つめる碧は、一輝に肩を抱かれることに慣れてしまったのか恥ずかしがるそぶりを見せなくなった。むしろ、人の多さに驚き怯えるように身体を寄せてくる。手練手管でしな垂れかかってくるのとは違い、一輝だけを頼りにしてくるその仕草が庇護欲を掻き立てる。

 守ってやりたいという気持ちが会うたびに大きくなっていく。

 いつも隣にいて彼を守って一緒に歩いていきたい。不思議とそう思わせる魅力があるのだ。

 ワンデーパスを購入し、まずはと水族館の中に入っていく。小さな魚たちが出迎えてくれる入口付近をさらに奥へと進むと、様々な種類の魚たちが泳ぐ見上げるほど大きな水槽が待ち受けていた。

 正面に立つと自分が海底にいる気分になる。

「わぁ……」

 さすがにこれはと一輝も碧と一緒に見入ってしまった。イワシが群れをなして水槽いっぱいに泳ぎ、その合間を縫うようにサメやエイが泳いでいく。

「凄いな、これは」

「うん……海の中ってこんなふうになっているんだね」

 本当に海の中に沈んでいる感覚になったのだろう、一輝のシャツを強く掴んでくる。

 だから彼が安心するように一輝も抱く指先に力を入れた。自分から離さないように。

 アクアチューブと名付けられた水槽の中を通る形になっているエスカレーターに乗り、上の階に上がると、薄暗い室内に近海や深海の魚たちが展示されたスペースへとたどり着く。砂と擬態する魚を二人で真剣に探し、円柱型の水槽で気持ちよさそうにたゆたうクラゲをぼんやりと眺めたりしながらゆっくりと屋上へと向かっていく。

 深海にいた自分たちが陸に上がってきた、そんなイメージだ。

 定番のイルカのショーを堪能し、隣のスペースでフラミンゴやカピバラを間近で見てと、それほど大きくはない水族館なのに出口を通った時の満足感は言いしれなかった。

「凄かった……水族館って面白いんですね」

「そうだね」

 思わず同調する。一輝も全く知らなかった。

 ここまでじっくりと水族館を堪能したのは自分も初めてだったからだ。予備知識なく来て碧が様々な事を訊ねるので、つい真剣に解説を読んだり、彼がポロリと漏らす感想になるほどと思ったりと、空間の中にいる間に感じたり考えたりすることが多かったせいかもしれない。

 新鮮な充足感に、一輝も年甲斐なく楽しんでしまっていた。

「碧くんとカワウソの握手、写真に撮ればよかった」

 小さな手を恐る恐る握る彼の表情を記憶だけでなく形として残せばよかったと後悔する。

 スマホを持っているのだからカメラ機能を起動すればいいだけなのに、一輝も夢中になり童心に返ってしまいすっかり忘れていた。

 思いの外楽しんだのは、碧と一緒だからだ。彼が見つける世界は本当に綺麗で、しかも見つけて終わりではなく様々なアプローチで楽しもうとしている。今まで休日を一緒に過ごしてきた人たちとは違う物の見方に感心してしまうと同時に、彼となら世界がこんなにも楽しいものなのだと感じられることに気づく。

 前回のデートもそうだが、芸術方面に疎い一輝も、碧と一緒なら美術館を何周もできた。絵の一つ一つのメッセージを知ることができた。

 気の利いた言葉を重ねなくても楽しい時間が過ごせる。

 水族館の興奮を引きずりながら屋外をゆったりと散歩する。

「今日は人が多いからできなかったが、今度はバックヤードツアーに行こう」

 水族館が開催しているツアーは、申込者が多く諦めたが、参加したらきっと彼は喜ぶだろう。

 今日できなかったことを約束すると、あのふわりとした幸せそうな笑顔が向けられた。

「絶対ですよ、約束です!」

「あぁ、約束」

 こんな小さな約束に喜んでくれるだけで、一輝まで幸せな気持ちになる。そして絶対にこの約束を果たそうという気持ちになるのだ。

(不思議な子だ)

 隣にいるだけで幸せを与えてくれるなんて。

 だから愛おしさが増すのかもしれない。

 人の少ない丘の上へと上がっていく。

 一輝が思っていた通り、人は少なかったが、たくさんの機材を持った一団と遭遇した。

 その中心にいたスラリとし背の高い女性と目が合う。

(まずい!)

 瞬間的に鳴った心の警報に従ってその場を離れようとするより先に、女性が声をかけてくる。

「一輝、仕事を見に来てくれたの?」

 こっちに来るなと心で叫びながらも、みっともない姿を碧に見せなくないから平静を装う。

「やあリナちゃん、久しぶりだね」

「久しぶりじゃないよ。ずっと連絡してたのに未読スルーするなんて酷い」

 面倒な女に会ってしまった。なんでこんな時に出会うのだ。自分運のなさを呪ってしまう。

 自社の広告で起用したタレントだが、立ち会った一輝のことを気に入り、ガンガンにアプローチしてきた。その頃はまだ特定の相手がいなかったから暇つぶしにもってこいでちょっと遊んだだけ、というのが一輝の認識だがどうやら相手は違ったようだ。

(三か月も連絡を無視しているのだからいい大人ならそこ解ってくれよ)

 もしこの場に碧がいなかったらそうぶつけていただろう。

 碧の前ではとてもじゃないが、そんな言葉を口にするのも憚られる。

「あの……一輝さんのお友達ですか? 僕、むこうに行ってますね」

 ただならぬ雰囲気を感じているだろう碧が、そっと一輝の傍から離れようとするのを力で阻止してしまう。どうしてもこの子を手放したくない。

 リナは第三者の声に初めて一輝が一人ではないのに気付いたようだ。高慢な性格のリナが蛇のような鋭い目つきで碧を睨みつける。しかも一輝に肩を抱かれているのが気に入らないのかあからさまに侮蔑した表情をし出した。

「しばらく連絡がなかったと思ったら、子守に忙しかったの。随分地味な子だけど、一輝の親戚とかなの? こんなパッとしない地味でちびでなんの取り柄もなさそうな子をまさか新しい恋人とか言わないよね」

 攻撃的な口調が容姿だけでなく身に着けているものまで攻撃を始める。そのどれも的外れだ。碧の魅力はそんな目に見えるものではないというのに。だからすぐ飽きたのだ、こんな中身のない人間といても楽しいのは一瞬だけだ。容姿しか取り柄のないリナだから連絡を絶ち切ったというのに。

「申し訳ないが、君には関係ない事だ。行こう、碧くん」

 こんな女と話していても意味がないとその場を離れようとするのに、行く手を塞いでくる。

「ちょっと、関係ないとかどういう意味よ。一輝の恋人はあたしでしょ」

 さらに突っかかってくる。

 本当になんでこんな女と付き合ってしまったのか、あの時の考えなしだった自分を殴ってしまいたい。

「あの……一輝さんの恋人さん、なんですか?」

「そうよ。判ったら早く離れてよ。あんたじゃ一輝の隣に立つだけで恥ずかしいの。そんなこともわからないの? 本当になんでこんな子といるのよ」

「違うよ。私の恋人は君だ、碧くん。さぁ行こうか」

 馬鹿みたいに吠えているリナを無視して先を促す。

「でも……」

「気にしなくていい。碧くんには関係のないことだよ」

 悪しざまに言われているのに碧にはリナを無視することができないようだ。だが彼女は悪影響でしかない。無垢な碧に悪意を向ける人間など傍にいさせたくない。

 それだけじゃない、綺麗な世界を見ている碧にこんな醜い顔を覚えさせたくない。

 彼の見る世界は綺麗なままでいい。

 なのに、リナは意地になっているのか何度も行く手を塞いでくる。さらには碧を一輝から引き離そうと乱暴にその細い腕を掴んで転ばせようとまでしてくる。彼女の手を叩き落とし、さすがの一輝も堪忍袋の緒が切れ始めた。

 一輝にしがみついて来ようとする女の身体を乱暴に手で払いのける。

 その時、別の方向から碧を呼ぶ声がした。

きょう兄さん!」

 碧の表情がふわりと明るくなる。

 リナがいた一団の中から玄に似た顔つきの男が近づいてくる。次兄の突然の登場に強張っていた碧の身体がリラックスした状態に戻る。そして次兄の手招きに嬉しそうに近づいていく。

「なんなのよ、あの子! 菅原製薬の次男と仲がいいの? 狙ってたのに……まぁいいわ。一輝、すぐに撮影を終わらせるからこの後デートしよう。リナ欲しいバッグがあるの」

「うるさいな」

「え? どうしたの一輝。リナは一輝の恋人じゃん」

 害虫を見るような目で彼女を見つめた。いつも優しい笑みばかりを浮かべている一輝の酷く冷たい一瞥に、リナは本能的な恐怖を感じ、身体を強張らせた。

「消えろ、クズ」

 今までにないほど低い声で命じた。アルファの威嚇に、ベータのリナは本能的な恐怖にただ怯えるしかなかった。

 静かな怒りが大きくなっていく。圧倒的な威圧にリナの腰が抜ける。

 これで終わりだ。もう彼女はなにもできはしないだろう、アルファに威圧されてまだ近づいてこられるのは同じアルファだけだ。しかも一輝よりもずっと強い者だけ。

 座り込んだリナから離れ、次兄と楽しそうに話す碧の傍へと歩いていく。

 まだ怒りのオーラがその身にまとわりついているのか、撮影スタッフが一様に身体を怯ませる。

 そのオーラを感じ取っているのに、菅原の次兄は一輝に目もくれない。ひたすら弟になにかを話しかけている。そして俯く碧から言葉を引き出すとなにか頷いている。一体どんな話をしているのだろうか。

 家族に向けているからなのはわかっているけれど、自分以外に優しい顔を見せるのが許せない。

 この子はすべて自分のものだ。例え親兄弟でも親しく話すのは許さない。

 すたすたと碧の横に立つ。

 一輝の存在に気づいた碧が顔を上げ、驚いた表情をしていた。

 表情が少し寂しそうだ。さっきまであんなに楽しそうにしていたのに。深呼吸をし、刺々しいオーラを引っ込め、いつもの表情に戻すと碧の髪を撫でた。

「碧くん、ごめんね。さぁ行こうか」

「ぁ……一輝さんいいんですか?」

 リナの存在を気にしているのだろうか。あんな女よりも碧のほうがずっと大事なのに。

 まだ二度目のデートだというのに、彼に対する独占欲がどうしようもないほどに膨れ上がる。今まで自分は人間関係に対して淡白だと思っていたのに、彼にだけはなにかが違う。アルファ特有の執着心を露骨に表す自分がいるのだ。誰にも執着したことがないのに。

「ご無沙汰してます、天羽先輩」

「久しぶりです、梗くん」

 二つ下の後輩の名を口にする。兄に似て不遜な表情だ。

「そういえば、どうして梗兄さんはここにいるの?」

「玄兄さんの代わりに、CM撮りの立ち合いをしに来たんだよ」

 そのCMに起用されたのがリナ、ということか。

 それとも、それを見込んで水族館とリクエストしてきたのか。深読みのし過ぎかと思いながらも、梗の顔が挑発的だ。玄と同様、碧の隣に一輝がいるのが面白くないと、露骨に表情に書いてある。

「梗兄さんお仕事だったんだね。邪魔しちゃってごめんなさい」

「いいんだよ碧。少し待ってくれたら終わるから、一緒に帰ろうか」

「申し訳ない。まだ碧くんとデートの最中なんです。きちんと門限までには送り届けるので安心して任せてください」

 リナの事でフォローをしていない状況で離されてたまるかと碧が返事をする前に言葉を挟む。

「天羽先輩はどうやら色々とお忙しいようですから、愚弟のことで煩わせては申し訳ないですよ」

「いや、そんなことはない。私は碧くんといるのが一番幸せですから。さあ碧くん、デートの続きをしよう」

 優しい笑みを浮かべながら再び肩を抱いてその場を離れた。

 人の少ないところを選ぶんじゃなかったと激しく後悔しながら。

 去っていく一輝を憎らしげに見つめ、梗はリナの元へと向かった。

「大丈夫ですか?」

 手を差し伸べられ頬を赤くしながらリナが立ち上がる。だがその手はすぐに放された。

「今日の撮影は中止します。これからあなたの代わりを探さないといけないので」

「えっ、どういうことですか!?」

「僕の弟を悪し様に言う人間に菅原製薬の商品の顔になって欲しくない。分かっていただけますね」

 リナが驚愕するのを横目に梗はそれだけ言うと広告代理店の担当者の元へ向かった。

 その一部始終を知らない二人は丘を降り、クルーズ船の乗り場へと向かう。すでに乗船を始めていた船に乗り込み、二階デッキで出発を待つ。

「さっきは嫌な思いをさせて申し訳なかった」

「いえ……本当のことだから気にしてません。あんな綺麗な人が一輝さんの恋人だったんですね」

 無理に笑う碧の表情が痛ましい。

「彼女は恋人でもないし、ただ仕事で知り合った人だよ。私の恋人は君だと思っている」

 半分だけ嘘を吐く。碧に嫌な思いをさせたくないし、過去の性関係を知られたらきっと、なにも知らない碧に怖がられてしまうんじゃないかという恐怖もあった。

「それに君はとても魅力的だ。一度会っただけで結婚したいと思わせるほどの魅力があるから、自分に自信をもって」

 すぐにわからない魅力だ。だがそれは自分だけが知っていればいい。彼のいいところを皆が知ってしまったらこんなに可愛い子はすぐに取られてしまう。穢れのない彼のまっすぐさを知ったら、欲しがる人が増えてしまう。だから誰も知らなくていい、自分だけが理解していればいいと、リナにはなにも言わなかった。

 だが彼の表情は晴れない。

「……僕になんの取り柄もないの、自分が一番よくわかってます。兄さんたちのように頭もよくないし、顔だってカッコよくないから……」

「碧くんの良さはパッと見てわかるものじゃないが、それでも私はそういう君に惹かれているよ」

 悲しい顔をさせたくないから言葉を重ねる。

 そのたびに言葉が薄っぺらくなっていっているのではと気になる。

 心の中で「あのバカ女っ!」と毒づきながらどうしたら彼の顔が先ほどの笑みに戻るだろうと思案する。

 その気持ちに気付いたのか無理矢理笑みを浮かべるのが痛ましい。そんな笑顔が見たいのではない。あの屈託ない笑みが見たいのだ。

 いろんなアトラクションに乗ってみたが、帰るまで碧の表情は曇ったままだ。

 車に乗っても会話が弾まない。

 どんな話を振っても彼はその瞬間頑張って笑って答え、次に沈黙が続いた。

 一輝は手を拱いたまま、執事に彼を引き渡すしかなかった。

 こんなはずじゃなかったのに。

 扉の向こうへと消えていく背中を見送りながら、だが原因は自分だ。いい加減な関係を続けてきた結果、碧に悲しい思いをさせてしまった。原因はリナではない。今までの自分が一番彼を傷つけてしまったのだ。

 一輝は嘆息しながら今までの軽薄な自分を呪い、帰途に就いた。
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