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(どうしよう、もう約束の時間だ!)

 碧は慌ててクローゼットから服を取り出した。

 絵を描くのに夢中になって約束の時間ぎりぎりになってしまった。

「よかった、昨日のうちに服を決めておいて」

 お見合いしたあの日から一週間、また一輝に会えるのを楽しみにしていたと同時に、どんな話をすればいいのだろうと頭を悩ませていた。10も年の離れた相手との共通話題がない。いや、それ以前に同級生たちとの話題にすらついていけない碧である。浮世離れしているとよく言われる自分がなにを喋ったらいいのかわからない状態だ。

 でも、一輝に会いたい気持ちは強かった。

 またあの優しい笑顔が見たいと思ってしまうのだ。

(凄く華やかで優しい人だよね……)

 思い出してはぼんやりしてしまう。

「天羽さんを待たせているんだった!」

 急いで服を着替え、髪を整える。ざっと鏡で自分の姿を確認して部屋を飛び出した。

 執事に告げられたリビングの扉の前で一度立ち止まり、呼吸を整えていると中から笑い声が上がった。

 一輝のほかに誰かいるのだろうか。

 恐る恐るノックして扉を開ける。

「天羽さん、遅くなってごめんなさい……」

 顔を覗かせると、一輝の正面に長兄が座っていた。

「玄兄さんお仕事は?」

 父の会社で働いているはずの長兄が、土曜日にも拘らず家にいる珍しさに驚く。いつもなら休日返上で仕事に出かけているはずなのに。

「いや、天羽くんが来ると聞いてね。旧交を深めようと思って待っていたんだ。おいで、碧」

「お二人は知り合いだったんですか?」

 長兄に促されるまま隣に座る。

(今日もカッコイイな……)

 前回のビシッとしたスーツ姿もカッコよかったが、今日のラフな白いTシャツにテーラードジャケットを合わせた姿も男性ファッション誌のモデルみたいだ。

「あぁ、中学から高校卒業までずっと同じクラスだったんだ。確か大学も同じだったな、学部は違っていたが」

「そうだね。学生時代のほとんどを一緒に過ごしたね」

「凄い! 兄さんの学校は優秀な人が多いって言われてますよね。天羽さんも優秀なんですね」

 羨望の眼差しで見つめてしまう。

 都内在住のアルファが集うので必然的にそうなったとは知らない碧に、一輝も玄も笑ってごまかしているのに気付いていない。碧の前ではバース関連の話はご法度だ。だから学校の詳細を伝えられることもない。そのことに気付かないまま、自分と一輝の意外な共通点があったことが嬉しくて、ふわりと顔が綻んだ。

 その笑みを見て一輝が息を飲み、誤魔化すように席を立った。どうしたのだろうと碧は一輝を見上げた。

「……さて、そろそろ出かけようか碧くん」

「あっ、ごめんなさい。僕が遅くなったから……」

 ぼやぼやしていたから、時間が押してしまったのだろう。碧もあわてて席を立った。

「気にしなくていいよ。では菅原くん、またの機会にゆっくり話そう」

「玄兄さん、行ってきます」

「あぁ。気を付けて行ってこい。門限は五時だから忘れないようにな」

 長兄に見送られながらリビングを出て玄関へと向かう。優秀な執事がすでに扉を開けて待っていた。

 玄関を抜けると曲線の美しい赤いオープンカーが碧を待っていた。

「凄い、綺麗……」

 思わず感嘆の言葉が漏れてしまうほど美しい車に一輝は近づき、執事から受け取ったカギで右側の扉を開いた。

「どうぞ。車高が低いから座るときに気を付けてね」

 手を引かれ、碧はドキドキしながら車に乗り込んだ。こんなにカッコイイ車に乗るのも初めてならオープンカーも初めてで、一輝と一緒だというのも相まって興奮して落ち着かないが、皮のシートは程よい反発力を持って碧を包み込む。

 車に乗っているのに緩やかな春の風が頬をくすぐっていく。

 毎日登下校に乗っているセダンとは違った趣につい表情も明るくなってしまう。

 そんな碧の様子を見ながら一輝も左ハンドルの運転席に乗り込み、エンジンをかける。低い地鳴りにも近いエンジン音。

「行ってらっしゃいませ」

 執事がいつものように丁寧に頭を下げるのを碧は手を振って応えた。

 それを合図に車が滑るように走り出す。

 見慣れた門扉を抜け、家の前の道を進み幹線道路へと入ると、車の流れに合わせて一輝の車もスピードを上げていった。

 助手席に乗ること自体が初めての碧は、よどみないハンドルさばきに見入っていた。

「この車、気に入ったの?」

 オープンカーだから喋る声は風に流されてしまうと思っていたが、大きな声を出さなくてもきちんと届いて碧は変な声を上げて助手席で跳ねあがった。

「どうした?」

「あっ、声……普通に喋って聞こえるんだと思って……」

「そういうところはちゃんと設計されているんだよ。せっかくのデートに恋人とお喋りもできないと困るだろう」

 さらりとデートと言う単語を使われてすぐに頬が赤くなる。

 そうだ、今自分は一輝とデートをしているんだ。しかも初めての。

 意識してしまうともう顔を上げることができない。

(な、なんか喋らないと……えとなにを訊かれたんだっけ)

 車のことだと思い付き、慌てるように口を開いた。

「気に入ったというか……すごく綺麗でびっくりしました。こんなにも綺麗な車があるんだって」

「碧くんは私と美的感覚が似ているね。この車を初めて見た時の感想が一緒だ。嬉しいな」

 信号が赤になり、車がゆっくりと停まる。ブレーキの衝撃を全く感じさせない緩やかさだ。

「これから行く場所も気に入ってくれるといいな」

「あの……今日はどこに行くんですか?」

「着いてからのお楽しみ、かな」

 いたずらを思いついた子供のような眼で碧を覗き込んでくる。

(ち、ちかい!)

 息がかかるほど顔を近づけられ、反射的に顎を引く。そんな物慣れない反応に一輝は楽しそうに笑うだけだ。右手が伸ばされ、頭を撫でてくる。

「この間も言ったけど、そんなに緊張しなくていいんだよ。いつもの碧くんの姿を見せてくれると嬉しいんだけど」

「そんな……無理です」

 こんなに綺麗で魅力的な人と一緒にいて緊張するなというほうが難しい。

 しかも初めてのデートだ。この人とではなく、碧にとって人生で初めての。

「碧くんのことを知って、私のことをいっぱい知ってもらうためのデートなんだから。そうだろう?」

「はい……頑張ります」

「あはは、頑張らなくていいんだよ。そのままの碧くんを私に見せてくれるだけでいいんだ。どんなものが好きか、いろんなものを見てどう思ったか。今なにを考えているかをそのまま話せばいいんだ。私もなんでも君に話すから」

 あぁ、そうなのか。デートというのはただ一緒にいるだけではないのか。もっと相手を知るための手段なんだ。だとしたら、ずっと俯いていたり喋らずにいるのは失礼だ。

 信号が変わるとまたスムーズに走り出す。

 走り始めると風を感じることのない空間が生まれ、また世界が二人だけのような気持ちになる。
「あの、天羽さんはお休みの日はなにをしているんですか?」

「一輝でいいよ。そうだね、学生の頃はよく友人たちと飲みに行ったりしていたけど、最近はもっぱら仕事かな。修行中の身だから覚えることが多くてね」

「意外です……天羽さん……じゃない、一輝さんならなんでもスマートにできそう」

「ははっ、それは買い被りだよ。君の兄上のようになんでもパーフェクトにできるというわけじゃない。まだまだ未熟者だからね」

 鷹揚に言われ、だが言葉をそのまま鵜呑みにはできなかった。少なくとも碧よりはずっと何事もスマートにこなしそうだ。今だって運転をしながら碧と話せるくらいだ。もしこれが自分だったらどちらかしかできない。

 それを言うとまた笑われた。

「慣れの問題だよ。碧くんも免許を取ったら運転すればわかるよ」

「家族から反対されているんです。危険だからって……もし運転中に病気が発症したら危ないって思われているのかな?」

 不自由しない生活で、自分専用の運転手までつけてもらっているのに、免許を取りたいなどというのは贅沢だと、家族の前では絶対に口に出さなかった想いがポロリと零れる。

「病気、ね。なら、私が隣にいるときだけ運転をすればいい。そうしたら病気が出ても大丈夫だろう」

「いい……のかな?」

「私と結婚すれば、二人のことは二人で決めればいいんだ」

「結婚!?」

 また素っ頓狂な声が出てしまった。

「……お見合いってそういうことだろう?」

「あっ、そっか……」

 そこまで考えが及ばなかった。

(そうだ、一輝さんは結婚するためにお見合いしたんだ……)

 親に言われるがままに生きてきた碧には全く実感がなかったが、よくよく考えればお見合い自体が結婚を前提とした出会いなんだ。

「碧くんはまだ高校生だから実感がなくて当たり前だ。でも私は、結婚するなら君がいいと思っているよ」

「……どうして、ですか?」

 まだ会ったばかりだ。

 しかも一輝は大人で魅力的な人だ。きっとお見合いなんかしなくても引く手数多だろうし、選択肢は多いはず。なのになぜ自分なんだろう。老舗製薬会社の息子ではあるが、兄たちのように有能でもないし……考えれば考えるほど、なぜ彼が自分を選ぶのかがわからない。

「どうしてだろうね……それをこれから二人で確かめようか」

「二人で?」

「そうだよ。だって私たち二人にとって大事なことだろう。どうして初めて会った時から君に興味があるか、どうして碧くんは僕といると緊張して目を合わせてくれないかとか、ね」

「……ごめんなさい」

「それをね、二人で考えよう。お互いのことを知りながら、ね」

 なんで一輝はこんなにも優しいのだろう。ちっぽけな存在でしかない碧にまで気を使い、知ろうとしてくれている。しかも結婚したいとまで言ってくれた。

 なら、自分の気持ちはどうだろう。

 なぜここまで緊張してしまうんだろう、目を合わせることもできない状態になるのか自分でもわからなかった。

 カッコいい人で、優しくて、大人で。自分にはすごく眩しくて、太陽みたいで直視できない。でもよくよく考えれば長兄と同じ年なんだ。一番身近にいた兄となにが変わらないのだろう。

 でも先週初めて会ったその時から、碧の頭の中は一輝でいっぱいになっていた。

 今日のデートの誘いの話を両親から聞いた時には舞い上がりそうになったほどだ。

 兄と一輝、一体なにが違うのだろう。

 ふわふわした気持ちのまま、碧は考え込んでしまった。

 だがその間も車は順調に走り続け、目的地へと近づいていく。

「もうすぐ着くよ」

「ぁ……ここ……」

 渋谷のスクランブル交差点を過ぎ車が向かった先は老舗百貨店。

 一輝は危なげなく走り抜け、迷いなく地下の駐車場へと入っていく。

「お買い物……ですか?」

「ついでに買い物もしようか」

 ついで、ということは買い物ではないのだろう。ではなんのためにここに来たのか。

 海外映画で見るようなエスコートに照れながら車を降り、肩を抱かれながら駐車場からのエレベータに乗った。

 初めての経験だ。誰かに肩を抱かれるのも、店に入るのも。

 買い物と言ったら百貨店の外商が家に来て持ってきたカタログや品物から選ぶのしか知らなかった碧には、駐車場から華やかな店内に入るのですら新鮮でたまらなかった。

 自分の知らない世界。

 尻込みしそうになる碧を、一輝は手慣れた仕草で出口へと誘導する。そして一度外に出て隣の大きな建物へと入っていった。

「今日の目的地はここ」

「ぁ……」

 入り口に張られたポスターに釘付けになった。ウィーンにある著名な美術館の名前と風景画の文字、そして教科書にも載っている絵画が大きく描かれている。

 そのまま動かなくなる碧の肩が優しく叩かれる。

「碧くんは風景画が好きだって言っていただろう。タイムリーな企画をやっていたからね。行こう」

 地下にある美術館へ向かい、チケットを購入して入っていく。

 その最初の絵だけでもう碧は夢中になってしまった。

「すごい……」

 神話の一場面を切り取った内容の絵は、人物を中心として描かれているはずなのに、風景が細部まで細やかに描き込まれている。遠近法を巧みに使い、遠くの山の色彩は淡く、空と同化するのではないかと思われるほどの色彩を使い、近いものははっきりとした色使いで絵なのに写真のように忠実に古い建物が描かれている。

 ただ美しいだけではなく吸い込まれてしまいそうな絵に、碧は目が離せなくなる。

 一枚一枚、ゆっくりと見つめ、解説を読む余裕すらない。時代順に飾られた絵は神話から庶民の生活を映し出す物へと変わっていく。暗い色合いのものが近代になるとどんどん明るくなっていくのが面白い。

 ゆっくりと歩く碧に、一輝はなにかを言うでもなく静かにずっと付き添ってくれていた。最後の一枚を見終わるその瞬間まで。

「すごい……」

 あまりの美しい風景画に嘆息する碧を促し、もう一周させようとしてくれる。だがそこでハッとした。

「ぁっ、一輝さんごめんなさい。僕見惚れちゃってて……」

 一輝のことを全く気に掛けることが出来なかった。連れてきてもらっているのに、隣にいる相手を忘れてしまうなんて……。

「謝ることはない、そのために来たんだから好きなだけ見て行こう。碧くんはどの絵に興味があった?」

 一瞬で途切れさせない話術で巧みに碧から言葉を引き出していく。二周目ともなると碧にも余裕ができ、二人で一枚一枚感想を語り合いながら進んでいった。

「僕これが好きです」

「ブリューゲルのバベルの塔か。聖書ではこの塔が神によって壊されるまで人々は同じ言語を用いていたと言われているね。この絵は建設中なのかな」

「一輝さん凄い、詳しいんですか?」

「聞きかじりだよ」

「凄い……僕ももっと勉強しないと」

「ネットで探せばすぐにわかるよ」

「ネット?」

 耳慣れない単語に首を傾げた。

「……スマホは持っていないのかい?」

「必要ないからって持たせてもらってないんです。あれは使われる側の人間が持つものだし、うちはいつも誰かいるからって」

 家族がいなくても執事やお手伝いさんが常に家にいるので、電話を取り損ねることがなく、それゆえに家族には不要だと言われていると伝えると、一輝は一瞬驚いたような表情をしたが、すぐにいつもの優しい笑みに戻って「そうか」とだけ答え、次の絵の話をした。

 時間をかけて何度も美術館の中を廻りながらたっぷりと飾られた絵を堪能すると、すっかり昼を過ぎてしまっていた。

「お腹が空いただろう。お昼にしよう」

「はい!」

 もうその頃には一輝に対する緊張も一気に和らぎ、家族と接しているような気持ちになっていた。

 美術館から出ると一輝はおもむろに入り口に積まれてある分厚い本を一冊手に取り、会計を済ます。なにを買ったんだろうと気にはなったが、それを問うのはなんとなく卑しい感じがして口を噤んだ。

 お腹を空かせた二人は美術館のある建物から出ると、一輝のエスコートに従うように駅のほうへと向かう。

「少し歩くけど大丈夫かい?」

「僕は大丈夫です!」

「碧くんはアレルギーとか好き嫌いとかあるのかな?」

「ない……はずです」

 家のコックやお手伝いさんが作ってくれた物しか口にしたことがないので、実は碧はよくわかっていなかった。多分大丈夫だろうと高を括る。

「なら店は私のチョイスでいいかな?」

「お願いします!」

 さすが休日の渋谷は人で溢れかえっており、碧は物珍しそうに周囲をきょろきょろと見渡した。
「凄い人ですね」

「碧くんは渋谷に来るのは初めて?」

「こんな風に歩くのは初めてです。電車も駅もすごい人だ……」

「電車も気になるのかい?」

「乗ったことがないので」

「修学旅行は?」

「病気があるからって参加してません。クラスメイトの話を聞くからちょっと憧れるんです」

 満員電車や新幹線で旅行など、碧とは縁遠く憧れるばかりだ。特に飛行機に乗って海外旅行をしたという話を耳にすると、羨ましくなってしまう。

 だが病院や薬の都合で無理ができないと言い続けられているから、すべて諦めるしかなかった。
「碧くんはなにがしたい?」

 一輝が優しく訊ねてくる。

 したいこと……。

 少しだけ欲が出る。

「もっといろんな絵を……今日みたいに見てみたいです。あと、絵の中の場所にも行ってみたい……」

 物語の一場面を切り抜いた絵は無理だろうけど、今日見た絵の中に実際の街並みを描いたものも多く、そこに立ってみたいと感じていた。家と学校以外の風景がこの世界にはたくさんあって、自分は本当になにも知らない状態だと突きつけられたような気持ちになる。

 もっといろんな世界を見てみたい。できるならそれらを描き写してみたい。

 でもきっとダメだ。

 そんな遠いところに行って病気で倒れてしまったら大勢の人に迷惑をかけてしまう。

 輝いていた顔がすっと暗くなる。

「できるよ」

「え?」

「行きたいなら私が連れて行ってあげる」

「でも、僕は病気で……」

「君の病気のことは私がなんとかする。だから碧くんはどこに行きたいかを考えてくれ」

「本当に?」

「約束しよう」

「ぁ……一輝さんありがとう!」

 諦めなくていいんだ。

 それが嬉しくて、兄たちにするように一輝に抱き着いた。

 無邪気に抱き着かれた一輝が困った顔を浮かべているとも知らずに。

「諦めなくていいんだ……」

 本音がポロリと零れだす。今まで疑問を抱かないようにそっと諦めてきてばかりだったから、とても嬉しくて今にも踊り出してしまいたくなる。こんなに嬉しいこと、今までなかった。

「立ち止まったら通行の邪魔だからね。行こうか、碧くん」

 さりげなく碧を引き離した一輝に素直に従う。

 だが嬉しい気持ちが止まらなくていつもよりも足取りが軽く感じられる。

 一輝に連れられて行ったのは宮益坂から少し入った隠れ家のようなフレンチレストランだった。全席個室となっている。まるで家にいる雰囲気に、初めてのレストランというのも忘れて料理を楽しんだ。ランチにしてはボリュームがあり、店を出た時には二人とも少し食べすぎたと笑ってしまうほどだ。

 車を降りた時に言った買い物も忘れていなかったのか、一輝が好きだというブランドの店舗に入りネクタイを選んでくれと頼まれた。あーでもないこうでもないと二人で話し合いながら一つのものを選ぶのは今までにない経験で、想像していた以上に楽しく、帰る時間が迫ってきてももっと一輝といたいと思ってしまう。

 地下駐車場で二人をずっと待っていた車に乗り込んだ時、またこの車に乗れると喜ぶ半面、もうすぐ別れなければならないんだと寂しくなった。

「どうしたんだい?」

 運転する一輝に訊かれてつい、本音が漏れる。

「もっと…一緒にいたかったなって……」

 この楽しい時間がもっともっと長ければ。門限があるからそれを破ることはできないが、できるなら一分でも一秒でも長く、この人の傍にいたい。まだ二度しか会っていない一輝にここまで自分が心を許してしまうなんてと驚きながらも、それが本音だった。

「まいったな……」

 一輝の呟きはあまりにも小さすぎて碧の耳には届かない。

「来週もどこかに行こう。来週だけじゃない、これから週末は二人でいろんなところに出かけよう」

「本当ですか? ……嬉しい」

 今日だけで、たくさんの約束をもらった。諦めていた色々を、諦めなくていいと言ってもらった。きっと一輝はなんの気なしに言った言葉かもしれない。それでも、碧には嬉しかった。

 一輝がくれた約束が全部、未来へとつながるものだったから。今までぼんやりとしてきた自分の未来が、とても輝かしくなるのを感じるからかもしれない。

 詳細はまた追って連絡をくれるというのを信じて、玄関まで送ってくれた一輝にお礼を言った。

「そうだ、これを渡し忘れていた」

「なんですか?」

 シートベルトを外す前に重いものが膝に置かれる。

「これ……」

 美術館で最後に買っていたものだ。

「今日見た絵と解説が載っているカタログだ。碧くんなら喜んでくれると思ってね」

「一輝さん……本当にありがとうございます!」

「そんなに喜んでもらえたら、私も嬉しいよ」

「あっ、お金!」

「私からのプレゼントだ。貰ってくれるね」

「でも……美術館もお昼も……」

「デートで10歳も年下の子に見栄を張るくらいには稼いでるつもりだ。可愛くありがとうと言ってくれるだけで充分だよ」

 助手席へと回りこみ、ドアを開けてくれる。

「また来週。今度は碧くんの行きたいところに行こう」

 耳元で囁かれて頬が熱くなる。

「はい……」

 内緒話のように、碧も小さい声で返した。

 優しい手が頭を撫でてくれる。そして走り去る車が消えるまで見送ってから家に入った。

 初めてのデート。

 たくさん緊張もしたけど、想像していた以上に楽しくて、さっき別れたばかりだというのに頭の中が一輝でいっぱいになっていた。直視するのが恥ずかしいと思っていた昨日までが嘘のように、今はもっと一輝の顔を見ていたいと思う。もっと一輝と話したいと願う。そして自分の部屋のベッドに腰かけると、貰ったカタログを抱きしめながらもっと一輝といられる時間が長くならないかと思案してしまう。

 今日一日を思い返すと、ずっと肩を抱いてもらっていたことに気づく。人込みでも、碧が人にぶつからないようにさりげなく導いてくれていた。まるで本当の恋人のように。

「早く来週にならないかな……」

 またあの人に会いたい。

 碧は目を閉じ、優しい一輝の表情を思い浮かべながらベッドに倒れた。
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