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「はあ……」

理事長室へとつづく人気のない廊下を進んでいきながら密かに溜息をつく。騒がしい生徒会室がもう懐かしい。沈んでいく気持ちから目を背けようと横に並ぶ窓から中庭を眺めた。

あれは美術部だろうか。スケッチブックを持った数人が散らばって風景を描いている。その横には陸上部が校舎の壁に沿うように並び、喋りながら柔軟をしている。なんて平穏な光景なんだろう。

……やっぱり、今日も会いに行こうかなあ。逃げたい気持ちから縋るように彼氏の伊武征太郎の顔を頭の中に思い浮かべると、自然と彼が所属している弓道部が活動している道場のほうへと顔を向けていた。

征太郎とはクラスが同じだからほぼ毎日顔を合わせているけど、副会長と風紀委員長という立場上、学校にいても寮にいても次から次へと仕事や厄介事が舞いこんでくる。だから放課後は私が風紀委員室に顔を出したり、お互いの寮の部屋に通ったりして二人の時間をつくっている。

今日は二人とも生徒会や部活で帰りが遅くなるのがわかっていたから止めておこうと思っていたけど、今日みたいな日こそ征太郎のそばにいたい。ゆっくり話をしたいし、できれば同じベッドで寝たい。

そのためにもまずは目の前にある仕事を早く終わらせないと。そう言い聞かせて自分自身を鼓舞すると、さっそく理事長から貰った書類に書いてあった転校生の情報を頭に浮かべた。

浅見翔大、高校二年生。あちらこちらに跳ね放題伸び放題の髪の上、顔の大きさに合っていない丸眼鏡をかけていたから顔の半分以上が隠れていた。理事長の甥で、つい最近まで遠方の公立高校に通っていたという。

あの髪、カツラだろうなあ。あからさまに顔を隠しているけど、何か理由でもあるのだろうか。それに理事長の甥とはいえ、わざわざ遠いこの学校に転校してくるというのも不思議だ。もしかして前の学校にいられなくなったわけがあるとか?

……まだ会ってもいないのに詮索するのはよくないな。ふうと息を吐き出すと、勝手にあれこれと転校生について考えてしまうのを止める。

由緒正しい家柄の次男として生まれ、家の繁栄に貢献するようにと幼い頃から社交場に連れて行かれることが多かった。そこで腹の探り合いや人の心の闇をたくさん見てきたからか、不安要素を一つでも見つけると疑って考えこんでしまう。

転校生は二年生だから三年生の私と関わるのはよっぽどのことがないかぎり今回だけだ。そんな人間には深入りしないのが一番。そう結論を出すと大袈裟に顔を左右に振り、強制的に気分を切り替える。

転校生の校内案内をして、生徒会室で書類の確認をして、征太郎のいる道場まで迎えに行って。転校生のことはこれ以上考えないように頭の中を整理すると、ちょうど理事長室の前に着いた。

やっぱり緊張するなあ。目の前にある理事長室の扉を見つめると、激しく動く心臓の上に手を置いた。

理事長は三十代後半と学校の理事長としては若いが教育に熱心に取り組んでいて、自分自身も様々な分野の学問を学びつづけているような人だ。その上、元モデルとあって整った顔立ちで凛とした佇まいをしているから一見近寄りがたいが、話してみるととても気さくで優しい。私はそんな理事長に憧れているからどうしても緊張してしまう。

何度か深呼吸をし、乱れたところがないようにと制服を正す。よし、大丈夫。最後に前髪を手櫛で梳いて心を決めると、理事長室の扉をノックした。

「理事長、香月です」
「香月くんか! 入ってくれ」
「失礼します」

扉越しに聞こえてくる理事長の声に改めて背筋を正すと、ゆっくりと扉を開いていった。

室内へと三歩足を踏み入れると両足を揃え、理事長へと頭を下げる。そのとき視界の端に映った制服を着た人間のほうへと身体ごと向くと、表情筋を動かして微笑みかける。

「初めまして。私はこの月見里学園で生徒会副会長をしています、香月絢人と申します。今回、校内案内をさせていただきます」

第一印象は良ければ良いほうがいい。昔から人脈づくりを円滑にできるようにと躾けられてきたとあって笑みはすっかり板についている。……あの写真そのままの見た目にはちょっと驚いたが、感情を顔に出さないのはお手の物だ。

「オレは浅見翔大、よろしく!」

すると、大声の挨拶とともにモサモサと髪が重く揺れる。だと思えば、転校生は座っていたソファから飛び跳ねるように立ち上がり、何が楽しいのかニコニコと笑いながら駆け寄ってきた。

「よ、よろしく、お願いします」

元気がいい、というか良すぎる。それよりも距離が近すぎるから離れてほしい。

目の前にやってきた転校生は今にも手を伸ばして触れてきそうで怖い。あまり感情を察せられるような行動はしたくないが、思わず後退りしてしまう。

「コラ、翔大! 香月くんはお前にとって先輩に当たるんだから言葉遣いには気をつけなさい」

転校生の言動にすでに振り回されかけていると、理事長の声が飛んでくる。

どうやら理事長は甥だからといって甘やかしているわけではないようだ。さすがにこの転校生を自由奔放にさせたらどうなるかは想像に難くないからつい安心してしまう。

「大丈夫ですよ、理事長」

眉間に皺を寄せてじろりと転校生の背中を睨む理事長に笑いかけると、突然両手を取られて握りしめられた。

なんで触った? ゆっくりと視線を落としてみれば、転校生の両手に包まれるように自分の手が持たれている。手袋越しに伝わってくる他人の体温に悪寒が走り、足元から這い上がってくる嫌悪感に奥歯を噛みしめる。

「なんか……お前の笑顔って仮面みたいだな」

不快感を我慢するのに必死で黙っていると、不躾な言葉をぶつけられる。

私がこうして笑っているのは自分の弱点を見せないためであり、相手に少しでも好感を持ってもらうためにと得た武器だ。それを初対面の何も知らない人間に否定されるなんて……。そう思うと、心がみるみると心が冷えていくのがわかる。

「仮面、ですか?」
「その笑顔、嘘っぽいもん。笑いたいときだけ笑えばいいんだよ」

何言ってるんだ、こいつ。

自分らしくないと思いながらも心の中で口悪く吐き捨てると、口角をヒクつかせつつも笑みを保つ。そうしてなんとか心の平穏を保つと、転校生に見せつけるように笑みを深めて心の壁を強固にする。

「……善処します」
「敬語もやめてよ。オレよりも年上なんだし」
「これも昔からの癖なので」
「翔大! お前は何度言えばわかるんだ!」

転校生へ当たり障りない返事をしていると、早足で歩み寄ってきた理事長の拳が転校生の頭を殴った。

「いった~~~」

転校生は涙目になって殴られた後頭部を両手で押さえると、すぐさま後ろを向いて理事長と対峙する。

「お前は何度言えばわかるんだ。香月くんはお前の先輩であり、今日初めて会うんだから敬語で話しなさい」
「でも叔父さん、オレそういうの苦手なんだよ」
「苦手とか嫌いとかじゃない! お前にとって必要だからやれと言っているんだ」

理事長とはこの学園に通う前から付き合いがあるが、この人に対してこんな馴れ馴れしい態度で接している人間なんて見たことがない。

まあ、叔父さんだから親戚としての付き合いがあるんだろう。そう思うけど、親戚にしても私の家とは距離感が違いすぎて異なる世界の様子を眺めているみたいだった。

「香月くん、本当にすまない」
「いいえ、大丈夫ですよ」

そばで行われる転校生と理事長のやりとりに置いてきぼりになっていると、突然理事長が私に向かって頭を下げてきた。まさか理事長に謝られるなんて思っていなかったから私も反射的に頭を下げた。

「この子は普段からこんな調子だから先にこの学園の見本である生徒会役員の姿を見せたかったんだ。香月くんなら任せられるって思ったんだけど、この子にはまだ早かったかもしれない」

理事長は少し疲れた様子で言うと、大きく溜息をついた。

そういうことだったのか。ここに来て理事長の考えを知り、なんで理事長がわざわざ生徒会に転校生の校内案内を任せたのか理解できた。

「私、精一杯務めさせていただきます」

理事長に認められていて嬉しい。その期待にちゃんと応えたい。理事長の言葉から生徒会や私に対する信頼が伝わってきて高揚したのもあり、自然と口元を緩めながら了承の言葉を言っていた。

「それでは浅見くん」

心を決めて再び転校生に向き合うと、さっきよりも広い心で転校生に声をかけることができた。転校生の頭は理事長に殴られたせいか、ちょっとカツラがずれている。

「校内案内に行きましょうか」

カツラから目を逸らして転校生に促すと、理事長に頭を下げて出入り口へと向かっていった。





「これで校内案内は終わりです」

大まかとはいえ校内を端から端まで回るのはさすがに疲れた。そう思いながらも寮の前に辿り着くと、転校生に向かい合いながら胸を撫で下ろした。

「自分の部屋はわかりますか?」
「うん、寮は昨日叔父さんと来たからわかる」
「そうですか。それでは私はここで失礼します」

最後に確認をして頭を下げると、早く去ろうと靴先を校舎へと向ける。

急いで生徒会室に行って、まだ莉央がいるのなら頭を撫でさせてもらって癒されよう。もしも莉央がいないのなら、仕事を終わらせて征太郎の迎えに行こう。征太郎の顔を見たら、疲れなんてどこかに吹き飛ぶ。

「ねえ、」

すでに頭の中は莉央や征太郎のことでいっぱいにしていると、いきなり転校生に声をかけられた。

「どうかされましたか?」
「絢人の部屋はどこ? 教えてよ」

いつの間にか呼び捨てになっている。そう思うけどそれを指摘しても面倒なことにしかなりそうにないから放置しつつ、一応上げていた足を止める。

「私の部屋があるフロアは一般生徒立ち入り禁止なのでお断りさせていただきます。それと、まだ生徒会の仕事がまだ残っていて急いでいますので用がないようならもう行きますね」

理事長から任された仕事は終わったのもあって思わず早口で告げると、転校生は納得したのかにこやかに手を振る。

「今日はありがとうな」
「こちらこそ。では」

小さく頭を下げると、いち早く転校生から離れようと足早に生徒会室へと歩いていった。

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