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3. 薄桜
しおりを挟む――こんなに穏やかな日々を過ごしていてもいいのだろうか。
木曜日の昼下り。薫がつくったバナナスムージーを飲むと、またリビングの大きなソファに横になる。そうしてカーテンの隙間から射しこむ温かい日差しに包まれると、ぼんやりとそんなことを思った。
冬の凍えるような寒さはゆっくりと溶け、訪れたのは春のほのぼのとした陽気。今日のように日向でのんびりしていると、ついつい心地よさに飲まれて現実を忘れてしまいそうになる。
これはもう堕落というのではないか。前までの灰色で枯れた生活とは違う、新鮮で彩りに溢れた生活。正反対といっていいほど変わった生活を送っているとふいに猛烈に心配になって、思わず薫に大丈夫なのかと尋ねてしまったことがある。
そうしたら薫はそれでいいんだと、一緒に昼寝をしたりおやつを食べたりと余計甘やかしてきた。もうすでに負担をかけまくっていると思うが、とりあえず不安にならなくてもいいんだと納得した。
この前は薫に連れられて近くにある公園に咲く桜を見に行った。今まで桜なんて季節が変わった目印くらいにしか考えていなかったけど、風に乗って飛んでいく花びらを眺めているとしみじみと綺麗だと思った。帰りにそれをぽつりと話すと、薫は何故か嬉しそうに笑っていた。
あのあと買った桜餅、美味しかったなあ。色々と思い出していると、ほんのりと両瞼に眠気が乗ってくる。その重さに従って目を閉じようとしていると、どこからかぽてぽてと可愛らしい足音が聞こえてきた。
さっき見たときはベッドの真ん中で寝てたけど起きてきたか。小さく欠伸をして近づいてくる足音の方へ顔を向ければ、黒目を細めた猫と目が合った。
「みにゃお」
「おはー」
軽く挨拶をすれば、縞々の毛玉が勢いよく飛んでくる。
「うわっ、」
猫が腹に着地した瞬間、ずしりと重みが加わる。それに押し出されるように声を上げるも、そんなオレをよそに猫は足を伸ばして毛づくろいを始める。
こいつ、完全にオレに慣れたなあ。足が終わったのか、次は腹の下辺りを熱心に舐める。気持ちよさそうに毛づくろいをする姿を見ていると、いつも勝手に口角を上げてしまう。かわいい。
猫は始めこそ警戒心むき出しでオレを見かけるたびに威嚇してきた。だけど、オレが一日中この家にいるものだからさすがに慣れたらしく、最近はこうしてオレの腹や膝に乗ってきたり顔を擦りつけて甘えたりしてくる。
住んでいるアパートの敷地内にもよく野良猫はいた。だけどオレは遠巻きで見てただけだったから、猫に触れるたびにこんなに温かくてふわふわしているのかと撫でまわしてしまう。決まってしつこいと噛まれるけど。
「みゃお」
満足したのか、猫が止まる。それをいいことにふわりと丸まった背中に手を置けば、猫がオレの顔を見て高い声で鳴く。
なんだ、オレは触っちゃダメなのかよ。オレに向けられた真ん丸の瞳を見つめて訴えてみるも、猫はぷいっと顔を逸らして寝ようと体勢を崩す。
「にゃーお」
だから、試しに猫の鳴き声を真似して呼びかけてみる。自分としてはなかなか似ていると思うが、猫はお構いなしに目を閉じて鼻をひくひくと動かす。
「うわっ! なにそれ、かわいい」
まあ、猫だからなあ。きまぐれな反応をする猫の背中を撫でると、ここにはいないはずの薫の声が飛んでくる。まさかと目をやれば、仕事部屋で絵を描いていたはずの薫が緩みきった笑みを浮かべて立っていた。
「し、仕事終わったのかよ」
薫の顔を見た瞬間、全身の体温が急速に上がって沸騰したのかってくらい熱い。聞かれているとは思ってなかったから、ついぶっきらぼうに言葉を投げてしまう。
「うん、終わったよ」
薫はそんなオレの言葉なんて気にせずに頷くと、すぐさまソファのそばにしゃがみこむ。
な、なんだこの状況。いつもだったら一目散に逃げるのに猫が腹にいるから動けない。どうしたらいいんだと目を泳がせていると、薫がオレをじっと見つめながら顔を近づけてくる。
「ねえ、もう一回言って」
「いや」
「えー、一回だけだから」
「ムリ」
薫が一音発するたび、二人の鼻先の間の距離が縮まっていく。気付けば猫の背中に置いていない方の手は両手で握られていて、オレが言うまで逃す気はないのだと察した。
「お願い」
薫は上目遣いになると、包んでいる手を撫でたり指を絡めたりしてくる。こいつ、この顔が可愛いってわかっててやってんな。言葉では勝てないと思って目を尖らせて反抗してみるも、そんなの意にも介さず微笑みを返してくる。
確かに、客から出された要望にはできるだけ応えてきた。金のためなら無心でできたのに、薫相手だとどうしても恥ずかしさが勝ってしまう。どうしようと考え抜いた末、巻きつくような熱の籠った視線を振り切ると、薫の唇に自分の唇を押しつけた。
「これで勘弁しろ」
「えへへ、愛琉がキスしてくれた」
触れるだけのキスをしてすぐに顔を離せば、ただでさえ緩みきっていた薫の顔がさらに蕩けて情けないことになっている。薫がそのまま力なくオレの胸に倒れてくると、邪魔された猫がぴょんと飛んでどこかへと歩いていった。
「あーあ、温かかったのに」
ピンと立った猫のしっぽを見送り、いなくなった猫の代わりに薫の頭を撫でる。慣れないなりに後頭部の形に沿って手を動かせば、心地いいのか頬を擦りつけてくる。
……なんか、付き合ったばかりの恋人みたいなんだよなあ。
薫とこうして手をつないだりキスをしたりしていると、どんどん甘酸っぱい雰囲気に包まれて胸の辺りがムズムズする。薫とは他の客と同じように金でつながった関係なのに、それ以上の深みに自ら嵌っていっている気がする。
いつか、油断しているところにぽっかりと穴が開いて暗闇に落とされるんじゃないか。オレの居場所は穴に落ちた先にある底辺であるはずなのに、薫に引っ張られてやって来た陽だまりにいたいとみっともないけど縋りついてしまう。
「あっ、そうだ」
うなじに手を置いて直接薫の体温を感じていると、薫が何かを思い出したのか上半身を起こす。手持ち無沙汰になった手を引っ込めて猫がいた場所に落ち着けると、薫はくるりと回ってソファに背中を預けた。
「いいこと思いついちゃった」
楽しそうな声に誘われて身体を少し起こせば、薫がそばに置いていたタブレット端末に手を伸ばす。後ろからそっと抱きつきながら何を描くのだろうと見守れば、真っ白な画面が表示されている。
「ちょっと待っててね」
スラスラと滑らかにペンを動かし、人の形を描いていく。
またオレを描いているのだろうか。薫は仕事の合間にオレを描いてはSNSに載せているようで、載せる前には絶対に見せてもらっている。確かに似ているけど何倍にも美化された自分は見るたびに不思議な気持ちになる。
「おい!」
画面の中のオレが女の子座りをし、潤んだ瞳でこちらを見つめている。その絵が完成する様子をぼんやりと眺めていると、そんなオレに猫耳がつけられた。
「やめろ」
「だって、思いついちゃったんだもん」
抱きついたまま薫の身体を揺らして妨害を試すも、全くといっていいほど効果はない。たとえ絵だとしても自分が猫耳をつけているのは恥ずかしい。
「たまにはラクガキを載せるのもいいかもね」
止まらない手にしぶしぶ諦めて薫の肩に顔を埋めれば、薫は呑気にそう言う。
「はい、投稿したよ」
まあ、オレは滅多に見ないからいいか。そう自分を納得させて顔を上げると、SNSに猫耳をつけたオレの絵が載っている。
「な、なんか、すごくないか?」
やっぱり猫耳はついたままか。それを確認して目を離せば、下にある拡散を知らせる数字がものすごい勢いで増えていっているのが視界に入ってきた。
「まあ、愛琉は可愛いから当たり前だよね」
薫はさも当然のようにそう呟くと、他の人の投稿を適当に眺める。薫が口癖のように可愛いって言ってくるけど、オレはまだ全然慣れていないんだ。
「オレは、可愛くない」
なんとか抵抗してみるも頬が熱くてしょうがない。今はこれ以上の言葉が出てこないから、代わりに薫のほっぺたを摘まんだ。
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