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恋のキューピットは歪な愛に招かれる
しおりを挟む人が恋に落ちた瞬間を三度、目の当たりにしたことがある。それはいつも唐突で、深く心を抉って忘れさせてくれない。
一度目は俺が五歳の頃。母親と手をつないで散歩をしているとき、たまたますれ違った女性に母親が恋に落ちた。
母親も女性も目が合った瞬間から一秒も見逃さないと言わんばかりに見つめ合うと、どこか嬉しそうに頬を赤らめながら手を握り合う。いつの間にか手を離されていた俺は何もわからぬまま幸せそうな二人を見上げていたが、漠然と自分はここにいてはいけない存在なのだと思った。
二人は二言三言交わして連絡先を交換すると、別れの言葉を言うけどなかなか別れようとしない。だけど女性のほうはこのあとの予定が迫っていたのか時計を確認し、次に会う約束を何度も確かめると名残惜しそうにしながら離れていった。
いったいなんだったんだ。状況を全く理解できなかった俺は母親に尋ねようとしたが、母親は女性に会うと同時に俺のことを頭の中から消し去ってしまったみたいだ。俺がどんなに大声を上げても母親は我関せずといった態度でさっさと歩いていってしまうから、俺は一生懸命母親の背中を追って家まで帰った。
そのとき、実は好奇心が湧いてきて数歩走ったところで振り返った。
そこには去ったはずなのに少し離れたところで母親を一直線に見つめる女性が突っ立っていた。遠くからでもわかるほどどろりとした熱を帯びた瞳は見てはいけないもののような気がして、母親の背中を一心に見つめて逃げたのを大人になった今でも鮮明に覚えている。
そして、そんな出会いから一週間も経たずして母親は何も告げずに家からいなくなってしまった。
どうして母親は出て行ったのか、誰かに聞かなくても理由は誰よりも知っていた。だからこんなに早いのかと驚きはしたけど、感情のままに泣いたり喚いたりはしなかった。
ただせめて、「さよなら」くらいは顔を見て言いたかった。
そう思うけど、その願いが叶えられることは永遠に来ない。そのこともちゃんと頭では理解していたけど心は上手く理解できなかったようで、あの時期はしばらくのあいだ何をしても楽しくなくて笑えなかった。
そんな俺を見て何を思ったのか、母親がいなくなってから一ヶ月ほど経った頃。父親から二人だけで話す機会を設けられた。
そこで話されたのはまず、この世界には性別の他にアルファとオメガ、ベータというバース性というのがあること。
アルファは選ばれし者と呼ばれるほどに知能や見た目に優れていて、社会的地位の高い人のほとんどはこのバース性であること。
オメガは男性も子どもを孕む機能を持っており、繁殖能力が他のバース性に比べて高い。その能力が関係しているのか、オメガには魅力的で人の目を惹き寄せる見た目をしていることが多く、芸能を始めとした人前に出る職業をしている人が多いこと。
そして、アルファとオメガは全世界の人口の二割ほどしかいないため、ほとんどの人間はベータであること。
アルファとオメガの間には本能で結びついた“運命の番”という特別なつながりがあり、母親はその運命の番を見つけたから父親と離婚したこと。元々、父親と母親はどちらもアルファで家同士の政略結婚で結ばれただけのため二人の間には愛がなく、父親もいつか運命の番を見つけたらその人と結ばれること。
今振り返ると、保育園児にそこまで話したなというほど踏みこんだ家庭の事情とともにバース性について教えられた。
運命の番に出会ったら、家族でも簡単に捨てられるんだ。もし父親が運命の番を見つけてしまったら、俺はひとりぼっちになっちゃうかもしれない。
父親から話を聞いているとふいにそんな想像をしてしまい、家族に対して希望を抱くのを止めたのと同時にバース性が怖くなった。
二回目は中学一年生のとき、父親が運命の番と出会った。
今になって冷静に考えると、小学六年生のときに受けたバース検査でベータと判断された俺をできるだけ周りの印象を落とさずに捨てさせて、長年つづく会社の跡を継がせられるような優秀なアルファの子どもを父親につくらせたかったのだろう。そんなこと当時は露知らず、父親に連れられるままに会社主催の親睦会に赴くと、遠縁の親戚に連れられて挨拶しに来た女性が父親の運命の番だった。
中学一年生にもなると母親のときとは違って恋がどういうものか、実体験はなくともなんとなく理解はできた。だからこそ、お互いしかこの世界に存在しないかのように手を取り見つめ合う二人の姿に恐怖を覚えた。
母親も父親も大の大人なのに、そんな人たちでもバース性一つで狂うのか。
隣で行われるやりとりが信じられずに愕然としていると、じわじわと恐ろしさが足元から湧き上がってくる。そうすると、父親は恍惚とした表情を浮かべながら女性の手を取って去っていく。小さくなっていく背中を眺めていると血の気が引いてきて、なんとか正気を保とうと自分の手を自分で力いっぱい握りしめた。
……それから先のことは、正直あまり覚えていない。俺は気がつくと家に帰ってきていて、いつの間にか父親の従弟だという人が俺を引き取ってくれることになっていた。
その人とは全てが決まった後に初めて顔を合わせたが、どうやら俺と同じベータだったために本家から一方的に縁を切られていたらしい。その人は茫然自失になって人形のように動かない俺を連れ出すと、親戚が多い地元から遠く離れた土地での生活を整えてくれた。
そのときの俺は両親から捨てられたという傷が心を蝕み、壊れる寸前だった。だからトイレに行くために数歩歩くだけでも辛く、放っておけば一日中ベッドから出てこないような生活を送っていた。
元々は厄介払いで推しつけられたのだから適当に接していてくれればよかったのに居場所をくれた上、毎日声をかけたりご飯を食べさせてくれたりと甲斐甲斐しく世話をしてくれた。そのおかげで時間はかかったけど、少しずつ普通の人間のように生活できるようになった。
それから年月が経った頃、養父にどうして俺を育ててくれたのか尋ねたことがある。そうすると養父は俺の目を見ながら優しく微笑み、「この世界をまだ見捨てないでほしかったから」と言うと頭を撫でてくれた
その笑みは慈しみが混ざった温かなもので、大きな手に触れられると守られていると安心できる。この人が俺と一緒にいてくれるから、俺はまだここにいられる。そんな気がした。
三回目は高校三年生のとき。親友と、俺を慕ってくれていた後輩が運命の番だった。
親友とは中学三年生のときに初めて同じクラスになったが、無意識にアルファを体現したように文武両道で皆の中心にいる彼と距離を取っていた。それに、不登校気味でクラスに馴染めないでいる俺のことなんてそもそも視界に入ってすらいないと思っていたけど、彼はどうしてだか俺のことを気にかけ、しつこいくらいに話しかけてきた。
今まで遠巻きで見られることはあれど、積極的に関わろうとしてくる人なんていなかったから、ぐいぐい距離を縮めてくる彼は怖くてしょうがなかった。とはいえ、人気者の彼を無視できるほど肝が据わっているわけもなく、彼の勢いに押されるまま一言二言と言葉を交わしていった。
ほとんど彼が一方的に話していて俺は聞いているだけだったけど、だんだんとアルファでも裏で努力していることや苦手なことがあると知った。そうすると徐々に緊張が解けていって、ちょっとずつ言葉を交わせるようになっていった。
とはいえ、俺たちは中学三年生だ。どんなに仲良くなったとはいえ、高校に進学してしまえば離れるだろうと思っていた。
高校は養父の顔を潰さないためにも頑張って進学校に入学したが、聞かれなかったのもあって進学先は担任の先生と養父以外には伝えていなかった。なのに彼は当然のように同じ高校にいて、一年生のときにまた同じクラスになったのをきっかけにあれよあれよという間に自他ともに親友と呼ぶまでの間柄になっていた。
後輩とは、俺が高校二年生のときに道迷っている様子だった後輩に声をかけたのをきっかけに仲良くなった。
普段だったら絶対にそんなことはしない。だけど俺より小さな身体で必死にきょろきょろと辺りを見渡し、誰かに助けを求めたいけどできないでいる姿は親友以外とまともに話せないでいる自分と重なって思わず声をかけてしまった。
そのときはそれきりで終わると思っていた。だけど後輩は次の日にわざわざ俺のクラスを探して会いに来てくれ、改めてお礼を言ってくれた上に仲良くなりたいと連絡を交換してくれた。
後輩はもっと仲良くなりたいと積極的に話しかけてくれた。だけど学年が違うせいでなかなか落ち着いて話せなかったのもあって、一緒に登下校していた親友の部活が終わるまでの時間、後輩とは空き教室や図書室で話したり勉強をしたりして過ごした。
俺は別に特別優しくしたわけではないし、見た目が良いわけでもない。なのに後輩はこれでもかってほど慕ってくれるし、今まで帰宅部で上下関係を体験したことがなかったから後輩から先輩と呼ばれるだけで嬉しかったからついつい気を緩ませてしまう。
親友もできて、後輩とも仲良くできて。俺にとってはとても幸せな時間だったけど、その時間はあまりに突然終わりを迎えた。
その日は朝から曇りだったが、部活の時間の途中に急に雨が降り出した。そのせいで親友の部活が時間より早く終え、気を利かせてくれた親友が俺と後輩がいる教室まで迎えに来てくれた。
今まで後輩とは昇降口で別れ、後輩はそのまま校門へ。俺は部活棟へ向かっていたから親友のことを話題に出していたものの、親友と後輩が顔を合わせるのはこれが初めてだった。
親友が教室の扉を勢いよく開け、その音に驚いた俺たちが一斉に振り返った途端。二人の間で結ばれる視線の糸がはっきりと見えた気がした。
二人は目を合わせると同時に頬を赤らめ、熱を帯びた視線をお互いに相手にだけ向ける。二人だけの世界のような一直線の視線や溢れるままに現した表情は嫌でも母親と父親を思い出させ、すぐにこの二人が運命の番なんだとわかった。
ああ、やっぱりそうだよな。そう心の中で呟くと、名前の知らない激しい感情が込み上がってきたがなんとか飲みこむ。そして、運命でつながった二人の邪魔にならないように静かにその場から立ち去ると、放心状態で家まで帰った。
見慣れた玄関が目に入ってきた瞬間に駆けこみ、後ろ手で鍵を閉める。靴を脱ぐより先に背負っていたリュックサックを置いて大きく息を吐き出すと、いきなり涙が溢れ出てきた。
親友がアルファなのも、後輩がオメガなのも知っていた。二人とこれ以上の仲になるなんて微塵も期待していなかった。
ずっとそう思っていたけど、後輩には初めて懐いてくれた年下の子への親しみを親友には自分とは真反対な性格や容姿に対する憧れを。そして、もしかしたら恋へと変貌するかもしれない愛おしさを抱いていたのだと考え尽くした末に気づいてしまった。
だけどそんなことに気づいたところですでに遅いし、どっちみちベータの俺にはどうしようもない。
運命の番は本能から来る結びつきで、恋や愛によって結ばれた恋人や夫婦よりもずっと強いなのだという。そんなものを前に、以前と全く同じようになんていられないわけがない。二人とも、母親と父親みたいに俺を捨てるんだ。
襲いかかってくるイメージの数々は頭の中で映像となって流れつづけ、恐怖や悲しみから逃げたくても逃がしてくれない。あまりに大きな絶望に心も身体も耐えきれず、高熱を出して三日間学校を休んだ。
それからはひたすら二人から逃げた。
幸いにも親友とは二年生からクラスが別になったのもあって、授業以外の時間を全て教室から出てしまえば学校で顔を合わせることがない。後輩とは元々放課後に会っていたのもあって、授業が終わると同時に一目散に帰宅してしまえば後輩に会うことはない。
そんな俺を不審に思ったのか、二人は何度も俺に話しかけてきたし、親友は家まで足を運んでやって来たことだって両手で数えられないほどある。だけど弱い俺は二人の顔を見るだけで胸が苦しくなって、無心で逃避する以外考えられなかった。
高校を卒業してからもそんな生活は変わらず、二人の目に入らないようにと生きてきた。そうして逃げていたら、いつの間にか三十歳になっていた。
十年以上経った今、かつての両親のように二人の記憶の中に俺の存在なんて一切消え去られているだろう。やはり仲良くしていたのもあって一抹の寂しさを覚えるけど、そうであってほしいと願う自分もいる。
俺はベータだから運命の番なんていない。だから俺は一生恋人や結婚に縁遠いまま、一人で死んでいくんだ。そう自分に言い聞かせ、今日もひっそりと生きていく。
「今日は来てくれてありがとう」
助手席に座って外の景色を見つつ白のネクタイを緩めると、運転してくれている養父が明るい声色で話しかけてくる。その声に応えるようにゆっくりと養父のほうへ顔を向けてみれば、背筋をまっすぐ伸ばした養父がハンドルを回した。
「金婚式なんて初めてだから参加できてよかったよ」
笑みを浮かべて率直な感情を言えば、養父の横顔が綻ぶ。その顔に俺も頬を緩ませると、改めて背もたれに身体を預けて窓の外をぼんやりと眺めた。
この一ヶ月間ヨーロッパに出張に行っていて、日本に帰ってきたのが二日前だったから日本語の看板が並んでいるのを見ているだけで安心する。だけどそれと同じくらい、養父と一緒に住んでいた街に帰ってきたのが数年ぶりなのもあってなんだかそわそわして落ち着かない。
「まさか二人とも全身金色の衣装で出てくるとは思ってなかったけど」
「母さんが老い先短いからパアとやるとは言っていたけど、まさかあんなに派手だとは想像してなかったなあ」
ふいに思い出して呟けば、隣から笑い混じりの声が返ってくる。それに思わず笑ってしまえば、疲れもあって全身を脱力させた。
今日は養父の両親、俺から見たら養祖父母の金婚式に参加するために帰ってきた。
養祖父のほうが俺の血のつながった父親の血筋で、今回の金婚式にはその親戚筋の人間も参加すると事前に聞かされていたから出席するか迷ったけど、養祖父母は他人の俺に対しても本当の孫のように接してくれているから無理してでも参加したかった。
今まで数少ない縁を切ってばかりいたから、結婚式のような式に参加するのは初めてだった。だから始まるまで慣れない雰囲気にずっと緊張していたけど、終わってみれば養祖父母の明るい性格が反映された、笑顔に満ちた式だったから行ってよかったと本当に思った。
「……あと、ごめんな」
華やかな式を思い出して胸を温かくしていると、静かだった車内に申し訳なさそうな声がぽつりと呟かれる。
ああ、あのことか……。今日さっそく頭の片隅に追いやっていた記憶を引っ張り出してくると、養父が気にする必要はないのにと思いつつ返答の言葉を考える。
アルファとオメガは二割ずつしかいないのもあり、運命の番に出会うのは奇跡に近いのだという。なのにその運命の番の出会いに三回も遭遇しているとあって、親戚や同級生間で密かに俺は恋のキューピットと呼ばれているのだと噂で聞いたことはあった。だけど、俺はそんな人らから積極的に遠ざかっていたから一切害はなかった。
それが今日、俺が珍しく現れたとあって特に父親の血筋の人間はどうにか自分の運命の番を見つけてもらおうと隙を見つけては我先にと話しかけてきた。ほとんどは隣にいた養父が追っ払ってくれたけど、よく知らない人間が欲を露わにしてくるというのは気分が良いものではなかった。
「全然気にしてないと言ったら嘘になるけど、養父さんと一緒にいたらすぐに忘れられるって思えるくらいには気にしてないよ」
俺にしては明るい声色をつくると、運転している養父の太ももを軽くポンと叩く。そうすると、まだ完全には安心できていないようだけど幾分かは紛れたのではないだろうか。
本当に、この優しい人と家族になれてよかった。常々思っていることではあるけど、今日の養祖父母の姿や正反対の親戚の様子を見たのもあって強く思う。
「俺、養父さんと家族になれてよかった。本当にありがとう」
気がつくと、心の底から湧き出てきた言葉をそのまま口から出していた。
ちょっと恥ずかしいけど、悪い気はしない。照れくささから頬がほんの少し熱くなるのを感じながらも様子を窺うようにちらりと養父の顔を見てみれば、硬い表情のまま固まっていた横顔がふんわりと緩む。
「なんだよいきなり」
養父ははにかみながらそう言うと、こちらに伸ばした手でそっと俺の手を握る。その手に応えるようにつながった手に力を込めると、この手に握られたときの温かくて穏やかな記憶が次から次へと頭の中を流れていく。
「こちらこそ、僕と家族になってくれてありがとう。これからもよろしく」
養父の穏やかな声でそう言われた瞬間、ツンと鼻の奥が痛くなった。じわじわと潤んでいく視界に急いで下唇を噛みしめると、養父に見えないように顔ごと窓のほうを向いた。
正直、今でもバース性を憎んでいるのにどこか望みを捨てきれず、誰よりも固執している自分がいる。だけど養父といる間はそんなこと一切考えず、ただ目の前にある幸福を素直に喜べる。
養父には孫はおろか、伴侶の姿すら見せられないだろう。だからせめて、それ以外のところで叶えられる幸福をこれからも一緒に大切にしていきたい。
震える唇に歯を立てつつ小さく鼻を啜ると、養父の手の温かさを噛みしめた。
「うう」
耳元で鳴り響くアラームに強制的に起こされると、唸りながら目を覚ます。すぐさま音の発生源であるスマホを掴んで画面を見てみると、朝の六時と表示されている。
アラーム、切るの忘れてた。鳴りつづけるアラームがうるさくて眉間に皺を寄せると、止めてのろのろと上半身を起こす。大きく欠伸をしてまだ眠気が乗っかって重い瞼をなんとか開けると、一人暮らししている部屋とは違う懐かしい光景にみるみる頭が覚醒していった。
そういえば、養父の家に帰ってきてるんだった。思いっきり背伸びをしながらそんなことを思えば、ベッドから下りてリビングへと向かう。
その道中にある洗面台で歯磨きと洗顔を済ませる。そうしてリビングへと入っていくと、養父はすでに支度を終えていて、テレビに映る朝のニュース番組を見ながらお茶を飲んでいた。
「おはよう」
「おはよう。よく眠れたか?」
「うん、爆睡してた」
「それはよかった」
朝の挨拶をしてキッチンへと入っていくと、養父が用意しておいてくれた朝食が並んでいる。たまごサンドにツナサンド。鍋には野菜がたくさん入ったコンソメスープに、小鉢にはさくらんぼ。全部俺の好きなもので、朝から感じる養父の優しさに心が躍った。
早く食べよう。普段、朝はあまり食欲がないのだけど、養父がつくってくれた朝食を前にするだけで自然と空腹感が出てくる。
気持ち多めにスープをよそい、養父と同じお茶を注ぎ。全てをトレーに乗せると、養父の正面にある椅子へと腰かけた。
「朝ご飯、ありがとう」
「せっかく秀斗が来てるんだから、これくらいやらせてよ」
「夜は俺がつくるから」
「おっ! じゃあ今日は早く帰ってこないとな」
手を合わせると、さっそくコンソメスープから口にしてみる。すると、じわじわと口の中が温かくなるとともに優しい味が広がっていき、満足感から思わずふうと息を吐き出した。
この家に俺が来てから出て行くまで、養父は忙しいのにも関わらずほぼ毎日手料理を出してくれた。だからか、帰省して口にするとそこでやっと帰ってきたんだと安心できて、つい養父の料理を求めてしまう。
「今回はいつまで休みなんだ?」
「上司にいい加減有給消化しろって言われたから、思い切って三日休んだ。とはいえ、そのあともリモートでいいって言われてるから合計で一週間はこっちにいる予定」
「秀斗はよく頑張ってるんだから、たまにはそれくらい休んだほうがいい。存分に家でゆっくりしていきな」
「うん、そうするよ」
大人になって、こんな無条件に褒めてくれる人なんてそうそういない。昔から養父は些細なことでも見つけては褒めてくれるけど慣れる気配は今のところ一切なく、言われるたびに胸の辺りがくすぐったくて勝手に口角が上がってしまう。
「養父さんは今日、定時で帰ってくる?」
「ああ、よっぽどの緊急事態がないかぎりは定時だな」
「じゃあ、間に合うようにつくらないといけないね」
そんな会話をしつつ、朝食をゆっくりと味わっていく。一人だとどうしても時間に追われて腹を満たせればいいと適当になりがちだから、稀にあるこの穏やかな時間を大事にしていきたい。
「あっ、そろそろ出る時間だ」
そうして時間をかけて食べていると、養父が時計を見て呟く。その声に口の中に入っていたサンドイッチを飲みこむと、鞄を持った養父と一緒に玄関へと向かった。
「気をつけてね」
「うん、秀斗も気をつけろよ」
靴を履き終えた養父に、養父がいつも俺に言ってくれていた言葉をかける。こうすると養父がちゃんとこの家に帰ってきてくれる気がして、養父を見送るときは絶対に言うようにしている。
「それじゃあ、いってくる」
「いってらっしゃい」
養父の後を追って玄関の扉を出ると、養父が乗る車が見えなくなるまで見送る。登校する子どもや通勤する車の様子に忙しない空気を感じつつ朝の日差しを直接浴びると、なんだかすっきりした気分になった。
「よし! とりあえず皿洗って洗濯するか」
自分を元気づけるように小さく呟くと、家の中へと入っていった。
シンクにあった皿は全部洗ったし、洗濯も干すまでやったし。簡単だけど掃除機をかけたから、あとは夕飯をつくるくらいか……。
ソファに腰を下ろして休むと、ぼんやりとこれからの行動を考える。今まで夢中になってやっていたから時間を気にしていなかったけど、時計を確認してみると余裕で一時を過ぎていた。
けっこう動いたけど、そんなに腹は減っていない。背もたれに体重をかけてもたれかかると、誰にも見られていないのをいいことに四肢を伸ばして脱力した。
ずっと休みたいと思っていたけど、いざいきなり暇ができると何をしていいのかわからない。せっかくだから普段できないことをしようと思うけど、なんだか今は考える余力がない。
ちょっと口を開けた情けない顔をしつつ天井を見つめる。こうして何もしないでいるのも普段できないことといえばできないことだ。だけど、そういうことじゃあないんだよなあ。
じっとしていると、穏やかな眠気がやって来て欠伸が出てきた。カーテン越しに射しこんでくる日差しは心地よく、どんなにだらけても柔らかいソファが身体を支えてくれる。
……散歩ついでに近くのパン屋で何か買うか。夕食の買い出しもできるしちょうどいい。
微睡みに包まれながらもこれからの計画を大まかに立てると、勢いをつけてソファから立ち上がる。とぼとぼと重い足を動かして自分の部屋へと戻っていくと、適当に服を選んで着替えていった。
近所だし、これくらいでいいよね? 平日はスーツで休日はほとんど部屋着でいるからか、久しぶり見る緩い格好をした自分に思わず笑ってしまう。キッチンにかけてあるエコバックを手に持つと、鍵をかけて道路へと出た。
たしか、スーパーはこっちだったはず。たまにきょろきょろと辺りを見渡しつつ、土地勘を頼りに進んでいく。
あっ、ここにあった古い家。結構昔からあるけどボロいし住んでいる人がいるのかずっと疑問だったけど、やっぱりなくなったか。ここ、高校生のときに空き地になった新しい家が建っている。
気持ちゆっくりめに歩きつつ街並みを眺めていると、見慣れた景色の中にも小さな変化を見つけていく。平日の昼下がりだからあまり人はおらず、平穏な時間をじっくりと堪能できる。
なんか、すごくのどかでいいなあ。心地よい気分の中、そんなことを思っていると公園が見えてきた。
前からあった公園だけど記憶の中では閑散としていて、散歩途中のおじいちゃんやおばあちゃんがベンチで座っているところくらいしか見たことがない。だけど今は新しい遊具がいくつか増えていて、色鮮やかな花や緑で囲われている。周りに日差しを遮るほどの高い建物がないから公園全体が明るく、親子連れが何組か遊んでいるようだ。
別に何かする気は一切なくとも成人男性が見ているだけで怖がられるだろう。ふとそう思うと、公園の横の道を歩きながらも視線は前へと固定させる。そうして通り過ぎようとしていると、どこからか小さな足音が近づいてくるのが聞こえてきた。
「しゅうくん、まって!」
子ども独特の高い声で懐かしい呼ばれ方をされ、つい足を止めてしまう。
「えっ?」
その呼び方をするのは……。頭がそう考えようとした途端、こちらに走ってきた見知らぬ男の子が俺の足に抱きついてきた。
ダメだ、ダメだ。聞き覚えのある呼び方のせいでじわじわと恐怖を覚えながらもおそるおそる腰辺りにある男の子の顔を見てみる。そうすると男の子も俺を見上げ、タイミングよく目が合う。その真ん丸な瞳を見た瞬間、今すぐ逃げないといけないと頭の中で爆音の警笛が鳴り響いた。
「えっ、あっ、ごめん、ごめんね」
本当はすぐにでも子どもを振り払い、全力で走って家に帰ってしまいたい。だけど僅かに残った理性がなんとかその衝動を抑えこむと、自分の足にしがみつく子どもの腕にそっと触れて距離を取ろうと試みる。
初対面の子どもだから扱いが全然わからない。それに、子どもとなんて普段全くといっていいほど関わらないから触れることすら躊躇われる。それでもなんとか離そうと軽く掴んでみるけど、そうすればするほど巻きつく子どもの腕の力が強くなっていく。
「秀斗」
不慣れで腰が引けながらも子どもに格闘してもだもだしていると、追い打ちをかけるように後ろから名前を呼ばれた。その声はどんなに時間が経とうと忘れられないもので、奥底にしまっていたはずの記憶が強制的に引っ張り出される。
「久しぶり」
必死に振り向かないようにしているのにまた声をかけられる。近づいてきたその声に我慢できなくなって子どもがくっついているのにも関わらず足を前へと運ばせようとすれば、後ろから回ってきた腕に抱き寄せられて引き留められる。
「やっと見つけた」
突然の拘束に驚けば、耳元で呟かれる。ただでさえ子どもに片足の自由を奪われているのに上半身まで動けなくされ、一気に鼓動が速くなって苦しくなる。
「あっ、えっ、」
「久しぶりだな、秀斗」
強制的に身体ごと後ろを向かされれば、唯一の親友だった二見蒼が立っていた。
蒼とは高校を卒業して以来噂すら聞かないようにしていたけど相変わらず顔が整っていて、あの頃の若さから来る無邪気さが薄れた代わりに品や自信が加わって大人っぽくなっている。出会ったときから無意識に気づかないようにしていたけど、改めて真正面から見てみると容姿一つとっても自分とは住む世界が違う人間なのだと突きつけられる。
そんなこと、ずっと前からわかっていたじゃないか。そう思うのに、すごく惨めな気持ちになってどんよりと暗い気分になっていく。なのにどこか、こうして見つけてくれたことを喜ぶ自分がいて。そんな自分が嫌で放り出したいのに、蒼は俺の手首を掴んで話してくれない。
「おとうさん、しゅうくん見つけたよ!」
「光希、よくやった」
「えへへ、すごいでしょ!」
どうにか離してもらえないかと腕を揺らしていると、子どもが褒めてと言わんばかりに大きな声でそう言い、今度は蒼の足に抱きつく。蒼はそんな子どもに微笑みかけると、もう片方の手で柔らかな髪の毛を混ぜるように頭を撫でる。
拒む俺をよそに一見微笑ましいやりとりをする二人を見ていると、子どもの顔が蒼にも似ているけど後輩にも似ているのに気づいてしまった。その瞬間、直接見聞きしたわけではないけど二人のその後どうなったのか悟った。
「ここだと落ち着いて話せないから俺の実家に行こう。今ちょうど家族で帰省してるんだ」
「い、いや、俺は……」
蒼はもちろんのこと、子どもの顔もまともに見れなくて目を逸らしていると、蒼が問答無用で連れて行こうと腕を引っ張ってくる。あまりに強い力に上半身が傾くも、ここで流されてしまったら全てが台無しになってしまうと思いっきり足を力に込めて踏ん張った。
ここからどうやったら逃げられるか、どうしたら離してもらえるか。無言で抵抗しつつ思考を働かせていると、子どもが不思議そうに俺の顔を覗きこんでくる。純粋すぎるほど綺麗なその真ん丸な目は後輩によく似ていて、胸がズキリと痛むと蒼に疲れていないほうの手を触れられ、小さな両手で優しく握りしめられる。
「しゅうくん、いかないの?」
なんでこの子は初めて会った俺にこんなに好意を持っているのだろうか。ちょっと泣きそうになっている子どもの目で見つめられると申し訳なくなって力が抜けてしまい、それを見逃さなかった蒼に引っ張られて前へと進んでしまう。
「家に日向もいるから三人で話すぞ」
数歩歩いたところで突然蒼が振り返ったと思えば、絶望を重ねてくる。
日向もいるなんて……。もう、どうしたらいいんだ。一気に全身が重くなると、二人に手を引かれるままにとぼとぼと歩いていった。
また、この家に来るとは思ってなかった。
ここに来るまでコンクリートの地面だけを見つめていたが、前を歩く二人が止まると同時にゆっくりと顔を上げてみる。ドラマにでも出てきそうなほど立派な日本家屋。蒼と光希に連れられるままに門を抜けると、待ち構えていたかのように玄関の扉が開いた。
「おかえりなさい」
こんないきなり会うなんて……。気持ちなんてできているわけもなく息を呑めば、元気な声とともに日向が姿を現した。とっさのことで目が合ってしまえば、ただでさえ大きな瞳がこれでもかってほど広げられる。
日向も蒼と同じように大人っぽくなっていて、あの頃の可愛らしさを保ちつつも色気が足されている。高校のときから人目を惹く魅力を持っていたが、年月とともにその魅力を深めていったのが一目見ただけでもわかる。
「秀くん!」
日向はあのときと変わらないあだ名で俺を呼ぶと、すぐ駆け寄ってきて俺に飛びつく。あまりの勢いのよさに後ろに倒れそうになったが、気づかぬ間に手を離していた蒼がそっと傾いた背中を支えてくれた。
「本物? 本当に秀くん?」
日向は身体を起こすと、俺の両頬に手のひらを乗せて壊れ物に触れるかのように慎重に触れる。真正面にある目にはうっすらと涙が見え、それを見た途端に居た堪れなさやら罪悪感やらが胸の中で渦巻き、目を逸らしたくても逸らせなかった。
「ぼくがみつけたんだよ!」
「光希が見つけてくれたの」
すると、足元から明るい声が飛んでくる。突然の声に目線を下げれば、光希がその場でぴょんぴょんと飛びながら主張をする。日向はそれに満面の笑みを浮かべると、膝を地面につけて小さな身体を抱きしめた。
「どこで見つけたの?」
「あそこの公園。しゅうくん、あるいてたの」
「えー、すごい」
会話の内容を知らなければ、微笑ましい親子の姿にしか見えないだろう。それにしても俺は場違いなのに横に立つ蒼に腰を抱かれているせいで強制的に家族の輪の中から抜け出させてくれない。
「光希」
日向は親らしく言葉や身体を使ってたくさん褒めると、改めて光希の名前を呼ぶ。さっきまでとは違って真面目な声から察したのか、光希は日向に甘えていた身体を正して手をつなぎ合う。
「今からお父さんたちは秀くんとお話するから、それが終わるまで光希はおばあちゃんとおじいちゃんの部屋で遊んでてくれる?」
「うん、いいよ!」
「お話のあと、みんなで遊ぼうね」
「やったー」
俺の予定も聞かず、どんどん決められていく。だけどさすがに二人の会話に口を挟めるわけもなく、それでいて何も言わずに立ち去るなんてこともできない。さすがに養父には連絡しておきたい。
二人の楽しげな会話を聞きながら諦めをつけていくと、せめて養父にだけは連絡を入れられないかと考える。すると、日向が光希に向けていた顔を俺の隣に立つ蒼へとやった。
「それじゃあ、僕はお義母さんにお願いしてくるから二人は先に離れに行ってて」
「ああ、わかった」
踏ん切りはついたもののいざそうなるとなれば、思考の九割はこれからの話し合いに満たされて戦々恐々とする。少しでも落ち着けないかと深く呼吸をすると、日向が立ち上がって蒼と向き合う形になった。
俺の記憶の中で二人が一緒にいるのを見たのは、運命の番として出会った後に廊下や教室で何か話し合っているのを一瞬見かけたくらい。高校にいる間は一生懸命にと言っていいほど見ないようにしていたから、ふいに夫婦としての距離感で行われるやりとりを見せられ、やっぱり運命の番なんだと目を逸らしてきた現実を突きつけられた。
ああ、だからこの二人とは会いたくなかったんだ。
俺はベータで、アルファでもなければオメガでもない。だから、運命の番に対して希望を抱くこと自体がおかしいんだ。なのに、なんで捨てられないんだろう。ずっしりと胸に圧しかかる鬱々とした感情に天を仰ぐと、そんな俺の気持ちなんてお構いなしに日向は光希と手をつないで玄関へと戻っていった。
「秀斗、行くぞ」
呆然としていると、勝手に手をつながれ離れがあるほうへと連れて行かれる。
全く行きたくないけど、反抗するほどの元気もない。それでいて一歩ずつ離れへと近づくごとに鼻の奥が痛くなってきて、油断すると涙が出てしまいそうで必死に塞き止める。
どんなに敷地が広いとはいえ、寄り道なんて一切せずに歩いていけば、離れにはすぐ着いてしまう。丸い窓が印象的な離れを前にちょっとずつ記憶が浮かんでくると、懐かしさが込み上げてくると同時に胸が締めつけられる。
蒼と仲良くなってからというもの、よくこの離れで勉強を教えてもらったりゲームや漫画を楽しんだりした。人気者の蒼は中学でも高校でも大勢の友人に囲まれていたから、この離れにいる間はこんな俺でも蒼を独り占めできるのだと心地がよかった。
当時を振り返ってみると、距離感というものを忘れていた気がする。なんてったって、俺の人生の中で友達と言えたのは蒼と日向しかいなかった。だから加減なんて知っているはずもなく、二人の優しさに甘えて心を許しきっていた。
……こんなことになるなら、他の人と同じように一定の距離を取って接しておけばよかった。そうしたらこんなに傷つきつづけなくても済んだのに。なんて、たられば話なんてしようと思えばいくらでもできてしまうんだけど。
「ここに座ってくれ」
久しぶりに離れに入って感傷に浸っていると、いつの間にか座卓の前に座布団が置かれていた。その一つを指差す蒼に従って腰を下ろすと、そういえばと鞄からスマホを取り出して養父に送るメッセージを考える。
せっかく夕食をつくる約束をしたのに……。まあ、一週間もいるんだからまだつくる機会はあるか。
蒼に会ったこと。それで少し話すことになったから今日の夕飯をつくれなくなったこと。簡潔に文章をまとめると、小さく溜息をついて送った。
「何してるんだ?」
すると突然、障子の向こうに行ったはずの蒼がお盆を持ちながら声をかけてきた。
そういえば、あっちには簡易キッチンがあったっけ。反射的に顔を上げると、こちらをじっと見つめる蒼の眉間にうっすらと皺が刻まれているのが見えた。
「養父さんに、今日の夕飯つくれなくなったって伝えておこうと思って……」
なんで怒っているんだ? 表情や声から伝わってくる蒼の感情に疑問を抱きつつもおそるおそる答えれば、正面に座った蒼が緑茶の入ったコップをそばに置いてくれる。
「それだけか」
「それだけ、だけど?」
「ならいい」
戸惑いつつも聞かれるままに答えれば、怒りで歪んでいた蒼の顔が徐々に緩まっていく。いったいなんだったんだと小さく首を傾げるも聞けるわけもなく、養父へメッセージを送れたのもあってスマホを閉じた。
「もう終わったのか?」
「うん」
「じゃあ、スマホは机に置いてくれ」
蒼を刺激したくなくて言われるがままにスマホを伏せて机の上に置くと、とりあえず出された緑茶を一口飲む。ほどよく冷たい緑茶はスッキリとした口当たりをしていて、喉に通ったところで乾ききっていたことに気づいた。
静かにコップを机に置き、手持ち無沙汰の手を太ももの上で軽く拳を握る。ただでさえずっと避けていた人間といざ二人きりになったところでどう話せばいいのかわからない。それでいて、この気まずい雰囲気を和ませられるような雑談ができるほどの話術を持っているわけもなく、開きかけた口を固く閉じると目の前の蒼を見ないように机を見つめた。
これから三人で何の話をしようとしているのだろうか。いや、いくつかは思いついているんだけど聞かれるだろうと予測できる話題はもれなく話したくないし、仮に聞かれたとして上手く誤魔化せる自信もない。
蒼も黙っているから余計にぐるぐると思考が巡り、悪い妄想ばかりが膨らんでくる。そうするとどんなに緑茶を飲んでもすぐに口が渇いてしまい、ちびちびと飲んでは熟考してを繰り返す。
せめて光希がこの場にいてくれたら幾ばくか安らげるかもしれない。さっき初めて会ったというのに、子どもの天真爛漫さに助けを求めてしまう。だけど、いざこんなところに子どもがいたらすぐさまどこかに逃すだろう。なんて考えを寄り道させてこの息苦しい空気になんとか耐えようとしていると、ガラガラと玄関の扉が開く音が静寂に響いた。
「入るよー」
日向も来てしまった。ああ、嫌だいやだ。心の中で拒みつつもぎこちなく玄関のほうへと顔を向けると、離れ全体に漂う重苦しい空気を一掃するみたく勢いよく障子が開いた。
「ごめん、遅くなった。あっ、お茶ありがとう」
日向が満面の笑みでそう言いながら入ってくると、まっすぐ俺の隣にやってきたと思えばそのまま腰を下ろす。
えっ、夫婦なんだから蒼の隣に座るんじゃないのか?
いきなり想像と違ったことが起こり、おずおずと二人に視線をやってみる。だけど二人はこれが当たり前であるような顔で座っており、まるでこの状況を訝しむ俺がおかしいみたいじゃないかのように思えてくる。
内心はすっかり乱れているが、それを言い出せるような空気でもない。それに再び二人が揃ったことでまた心臓がバクバクとうるさくなってきて、深く吸っては吐いてを繰り返してながらちらちらと二人の顔色を窺った。
「さっそくだが本題に入ろう」
何度か二人の間を往復し、ふいに蒼と目が合ってしまう。その瞬間、強い視線に捕えられると逸らすことを許されない。
「なんで俺たちの前から消えた」
唐突に核心を突かれ、ただでさえうるさい心臓が大きく跳ねる。
多分、この問いに答えないと帰らせてくれない。それはわかっているけど絶対に答えたくない。
二人の前で言葉にしてしまったら、あのときの情けなくて苦々しい気持ちが甦ってしまう。せっかく薄れかけてきたところだったのに、一瞬で全てが戻ってきてしまう。嫌だ、もう俺はあんな思いしたくないんだ。
喉の奥がじわじわと締まるような感覚がして顔を伏せると、この居心地の悪い空気をどうにかできないかと思案してみる。だけどそんな甘い考えは許さないと言わんばかりに前と横から鋭い視線が俺に刺さってきて、呼吸をしようと口を開けただけで唇が大きく震えてしまう。
「俺と日向が会った後からあからさまに避けていたよな? 俺たちは何度もお前と話し合おうとしたのに取り合わなかった上、進学先すら言わずに逃げたのはなんでだ」
怒気の籠った蒼の声がぐさぐさと弱り切った心を切り刻んでいく。聞きたくなくて耳を塞ぎたいのに、緊張した身体は全くといっていいほど動いてくれない。それでもなんとか落ち着こうと一点を見つめてじっと小さくなっていると、太ももの上で強く握りしめていた手に冷たい手が重なった。
「僕、秀くんに何かしちゃった?」
触れているだけだった日向の手が上から握ってきたと思えば、俺の足に日向の膝がぶつかる。蒼の言葉に集中していて気づかなかったけど、いつの間にかすぐそばまで近づいてきていたみたいだ。
「僕たち、ずっと探してたんだよ? 僕たちのこと、嫌いになっちゃった?」
話すにつれ、日向の声にどんどん泣き声が混ざっていく。それを聞いても俺に何ができるわけもなく硬直していると、日向は鼻を啜りながら俺にしなだれかかり、俺の肩に顔を埋めると本格的に泣いてしまった。
今まで逃げ回っていたとはいえ、唯一の親友と初めて慕ってくれた後輩が自分のために怒り、悲しんでいる姿は見てだけで胸が痛くなる。それでも言いたくなくて奥歯に力を入れてみるけど、耳の近くで日向の泣き声をずっと聞いていると堪えられなくなってきて、ゆっくりと唇を開いた。
「……運命の番の邪魔なんて、できるわけないだろ」
こんなこと、誰が好き好んで本人に言いたいんだ。ずっと胸の内にあった考えの一つを声にしてみると途端に暗澹とした気持ちが急速に膨らみ、じわりと両目が涙の膜で覆われる。
泣きたくないのに、二人の前では泣きたくなかったのに。心の中で強くそう思っても、一度流れてしまった涙は止まってくれない。これまでの我慢が嘘のように次から次へと頬を濡らしていき、それを力任せに拭えば、机を挟んで座っていた蒼の腰が上がるのが視界の端に映った。
「お前らはアルファとオメガで、運命でつながってるんだろ? じゃあ、ベータの俺のことなんてさっさと忘れろよ」
投げやりにそう言って突き放したいのに、泣きながらのせいでみっともない声になってしまった。どうにか止められないかと息を吐き出せば、口の隙間から呻き声みたいな声が漏れる。無理やりにでも止めようと鼻を啜りすぎて鼻の奥が痛くてしょうがない。
蒼はこちら側に歩いてくると、日向とともに俺を挟むように身体を寄せて座るともう片方の手を両手で握りしめてくる。この二人の手を振り払ってしまえばちょっとは吹っ切れられそうなのに、蒼と日向との間で築いてきた情を思い出してしまった俺にはできなかった。
打つ手を何も思いつかなくていっそ身体に入った力を抜くと、俺の肩に顔を埋めていた日向の顔が上がるのを感じる。だけどなんか、なんと声をかければいいのかわからない。涙を流しすぎてぼんやりとしてきた思考を放棄して項垂れると、手を握っていた蒼の手が片方離れ、その手で俺の腰を抱いた。
「秀斗、俺を見てくれ」
すると、横から囁くような柔らかな蒼の声が聞こえてくる。その声にはさっきまでの怒りは感じられず、おそるおそる蒼のほうへと顔を向けてみると、まっすぐ見つめる視線に捕えられた。
「俺は秀斗が好きだ。だから、忘れる気はない」
好き。……蒼が、俺のことを? 突然の告白に完全に固まってしまい、見つめられるままに蒼を見つめ返す。
蒼が俺を好きなんて信じられない。好きになる場所なんてどこにあるんだ。どうして。蒼はいったい何を言っているんだ。ちゃんと、ちゃんと考えないと。
全く想像してなかった言葉にすっかり動揺してしまい、頭がどうにかなってしまいそうだ。それでもなんとかこの状況だけでも把握しようと停止した頭をなんとか動かそうとしていると、今まで黙っていた日向が力いっぱいに抱きついてきた。
「僕も秀くんが好き。ずっと、ずっと大好き」
ぐいぐいと俺の身体に巻きつけた腕に力を入れて一ミリでも惜しむようにくっつくと、俺の肩に顔をくっつけて縋りついてくる。
まさか二人から今になってこんな言葉を言われるなんて思ってなかった。ぎこちなく二人の顔を見比べると、ちょっとずつ緩んでいく心の隙間から希望を抱きそうになってまた自分が嫌になる。
「お前ら、子どもがいるだろ……」
そんなとき、真っ白な頭にぽつんと光希の顔が浮かんだ。
その瞬間、突き放さないといけないと一気に力が湧き出てくる。カラカラに乾いた喉からなんとか言葉を吐き出すと、身体に巻きつく蒼と日向の腕に触れて離そうと試してみるけど二人とも微動だにしない。
「突然理由も言わずに突き放して逃げたのは謝る。だけど、運命の番であるお前らの間に俺なんて異分子はいらないだろ? だからとりあえず離してくれ」
二人から言葉が返ってこないのをいいことに、言葉をつっかえさせながらも訴えてみる。
「お前らは運命でつながっていて、子どもまでいるんだろ? だったら、それでいいじゃないか。幸せなんだから、わざわざ不幸になる必要はない」
慎重に言葉を選びながらも抱いてしまいそうな希望を自分の言葉で打ち消す。ちゃんと二人を正しい道に戻さないと。そんな思いから言葉を重ねると、言い終えようとしたところで両側から痛いほどの力で抱きしめられた。
「なんでそんなこと言うの!」
日向が悲痛に叫ぶと、蒼の手にも力が入るのを感じる。
「ずっとずっと、高校のときから秀くんが大好きだったの。高校のときだって何度も告白しようとしたのにできなくて、避けられてからも何度も話そうとしたのに聞いてすらくれなかったのは秀くんじゃん! やっと言えたのに、なんで不幸になるとか言うの……」
日向は普段では想像できないほど乱れた声でそう訴えると、俺の足に倒れこんで子どものように号泣する。自分の足の上で震える背中を前にすると胸の奥がズキリと痛み、とっさに口の中を噛みしめると血の味がした。
「俺たちは家族としての絆や愛がある。だけど、その愛とは別のところに秀斗への愛があるんだ」
蒼が声を上げて泣きつづける日向の背中を撫でると、俺の頬に手のひらを当てる。その手に導かれておもむろに蒼と目を合わせれば、ドクドクと今までとは全く違う鼓動が聞こえてくる。
「俺も中学で同じクラスになってからずっとお前を愛している。だからちゃんと話して秀斗の気持ちを知りたかったし、どんなに逃げられようと追いかけた。受け入れるかどうかは秀斗に任せるけど、どうか俺たちの愛だけは疑わないでくれ」
俺しか映さない蒼の瞳。それをじっと見つめると、じわりと目の表面に涙が滲んでいく。
蒼が泣いているのなんて初めて見た。そのことに気づくといつの間にか俺の目から流れていた涙は止まっていて、日向の泣き声に混じって激しく打ちつける自分の心音に熱が帯び始める。
「あと、確かに俺らは運命の番だが、番ってはいない」
蒼はそう言ってぐいっと涙を拭うと、濡れた指で下を差す。その先を追って目線を下げてみれば、日向の長い後ろ髪とシャツの襟で隠されている項が目に入ってきた。
オメガとアルファは、オメガの項をアルファが噛むことで正式に番う。だからオメガにとって項はとても大事な場所で、パートナーだろうと番うまではむやみに見たり触ったりしてはいけないと教えられた。
それが頭にあるからやっぱり見てはいけないと意識が働き、ちらりと視界の端に入れるだけで精いっぱいになる。だけど蒼の言葉の真意を知りたくて黙っていると、泣きながらも俺たちの話を聞いていた日向が自ら項を晒した。
「えっ、」
そこには蒼に噛まれた痕があると思っていたのに、何の痕もなかった。
「これが証拠だ。心はずっと秀斗にある」
「僕だって同じだよ」
目の当たりにしているのに信じられなくて、思わず日向の項に釘付けになっていると、蒼の言葉に反応した日向が勢いよく起き上がる。その泣き腫らした顔でじろりと俺を睨むと、両腕を首に巻きつけてきた。
「だから、秀斗の本当の気持ちを教えてくれ」
「教えて」
そう言いながらも二人の顔がすぐそばまで来て、逃げようにも逃げられない。
いっそ、全て白状してしまおうか。二人から言葉をもらうたびに心臓は壊れてしまいそうなほど激しく動き、小さかったはずの希望や期待が膨らんでいくのがわかる。だけどどうしても長い年月をかけて蓄積してきた負の感情からは目を逸らせず、抜け出せない。
「……俺も二人みたいにアルファかオメガだったら、素直に受け入れられたと思う。でも、俺はベータなんだよ」
ここにいる三人の中で俺一人だけがうじうじと悩み、煮え切らない態度をしているのはわかっている。だけど俺にとってバース性や運命の番は大きな心の傷になっていて、どうしたって割り切れるものではない。
迷いから目が右往左往していると、二人に片方ずつ頬を摘ままれる。
「俺たちは好きか嫌いかを聞いてるんだよ。そこにアルファかオメガなんて関係ないだろ」
「今だけでいいからオメガとかアルファとか関係なく、僕と蒼だけを見て」
二人に頬を摘ままれたまま、強制的に前を向けられる。俺の顔をじっと見つめる二人の必死な表情を真っ正面から受け入れてみると、自分はオメガやアルファといったレンズ越しにしか二人を見ていなくて、本当の意味で二人を理解しようとしていなかったのだと気づかされる。
「好き、だよ。だけど、これが恋とか愛なのかはまだ自信がない」
胸の内で膨れ上がった感情に押し出されるかのようにぽつりと呟く。その声は小さくてちょっと掠れてしまったけど、二人にはしっかり聞こえたのか周りの雰囲気ががらりと柔らかくなった。
「今はそれでいい」
そんな言葉とともに摘まんでいた指が離されると、次は優しく撫でられる。一度受け入れようと心を解放してしまうとそれだけでさっきまでよりずっと二人の愛を間近に感じられ、なんだかくすぐったくて慣れない。
「絶対に堕とすから」
「僕だって、秀くんに好きって告白してもらうんだから」
ここに来てから幾分か和らいだ空気の中、二人が真面目な表情をすると俺に宣言する。その言葉を受け取り、俺も背筋を伸ばして頷くと、心の奥で熱が灯るのがわかった。
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