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40『コロンブスの卵』

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はるか ワケあり転校生の7カ月

40『コロンブスの卵』




「……もう大丈夫ですから」

 そう言うと、タマちゃん先輩は優しく手を放してくれた。

 その温もりを胸に包むようにして下足室を出た。
 タマちゃん先輩が声をかけてくれなかったら、手が出ていただろう。
 わたしのホンワカってこの程度……。

 ルリちゃんと口論になり、あやうくケンカ……いや、わたしが一方的に手を出していただだけだろう。

 人をひっぱたいたら、ひっぱたいたほうも傷つくんだ。
 一度だけ、お父さんがお母さん……に、ひっぱたかれるところを見た。
 見てしまった……ひっぱたいたお母さんが泣いているのを。
 シュチュエーションは違うけど、わたしも同じ事をやるところだった。
 タマちゃん先輩は、わたしとルリちゃんのいざこざの一部始終を見ていたはずなのに。
「またにしときぃ……な」
 そして、上げたわたしの手をつかんだときの一瞬の力の強さ。そしてフっと力を抜いたタイミング。
 かなわないと感じた……。

 駅に向かう途中、栄恵ちゃんからメールが入ってきた。

 環状線のS駅の近くに、栄恵ちゃんのお母さんは入院していた。
 だから、待ち合わせはS駅前。


「お呼び出てして、すいません」

 栄恵ちゃんは、体中で恐縮していた。

 近くのコーヒーショップに入った。ホットココアをトレーにのっけて、窓ぎわの席に。
 こういうお店は、お客の回転を早くするために、冷房がきつい。だから暖かい飲み物で、日の差す窓ぎわがいい。東京で身に付いた知恵だけど、このお店は三分の一も客席は埋まっていない。マニュアルと現実が合ってない、まるで今のわたし……考えすぎ……栄恵ちゃんが、不思議そうに見ている。

「お母さん、どうなの?」
「ありがとうございます。まだ少し検査は残ってるんですけど、思たほどひどうはないようです。お騒がせしました」
「でもしばらくは入院なんでしょ?」
「はい、このごろ家のことで、気苦労ばっかりしてきたから、ちょっと休ませたげよと思てます……すいません」
「それはいいんだけど、どうしてわたしだったの?」
「ほんまは部長の山田先輩か、タマちゃん先輩に言わなあかんのんですけど……学年も近いし、はるか先輩……話しやすいし。あきませんでした?」
「ううん、あかんくないよ。二人にはわたしから話しとく。でも学校で会ったら、一度自分で言っといたほうがいいよ。先生たちにも」
「はい、そうします。ほんまに、こんな個人的な理由で抜けてしもて……」
「ううん、ぜんぜん平気だよ……って、栄恵ちゃんがいなくてもいいってことじゃないけどね。それに『ノラ』がダメになったのは栄恵ちゃんのためばかりじゃないし(ルリちゃんの顔が浮かんで、一瞬ムッとする。だめ、だめ、ホンワカ、ホンワカ)気にしなくていいよ。それに、すぐに代わりの本も見つかったし。あ、これが台本」
「もうできてるんですか。すごいなあ……って、もうキャストまで決まってる!」
「大橋先生はすごいよ。パソコン開いたら、ダーって作品が並んでて、アレヨアレヨって間に決まっちゃった。乙女先生もすぐに音響係り連れて来ちゃったよ。山中青葉って三年の人だけど、この人もすごいんだよ。透明人間になれんの!」

「透明人間?」

 それから、しばらく『すみれ』の話と、始まったばかりだけど、密度の高い稽古の話をした。思わぬ長話になった、ココアは窓ぎわで正解。
 栄恵ちゃんも、最初は恐縮ばっかりしていたけど。だんだんノってきてた。

「あたしもできるだけ早く復帰しますね」
「無理しなくっていいよ。そりゃ、戻っては欲しいけど、バイトもきついんでしょ?」
「最初はきつかったけど、慣れたら楽しいこともありますよ。それに稼いだお金、全部家に入れるわけやないし、月一ぐらいやったら、ちょっとしたゼイタクできますよ。お買い物したり、ライブに行ったり。だいいち、スマホ代やら、パケット代気にせんですみますし。そのうちシフト変えてもろて、週三日はクラブ行けるようにします」
「時給いくら……?」
「1030円です」
 
 一日四時間……週に四日働くとして……月に八万は稼げる。

 数学は苦手だけども、こういう計算は早い。

 わたしの頭の中で、コロンブスの玉子が立った!
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