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030『泳げたあ!』

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せやさかい

030『泳げたあ!』 

 

 
 プッハーーーー!

 
 顔をあげると田中さん。

 ワァ! ちょ……!!

 言う間もなく、抱き付かれてプールの中へ。水中で一回転して、二人で立ち上がる。

「やった! やったよ酒井さん! 五メートル泳げたよおおおおおおおおおお!」

「え? え? ほんま!?」

「ほんま! ほんま! ほんまあ!」

 ザッブーーーン!

 再び二人で水中に……。

 

 わたしが、生まれて初めて泳げた瞬間。泳げたわたしよりも酒井さんの方が感激してる。

 

 金槌、いや、A班に分けられて、四回目の授業で泳げるようになった。

 田中さんは、我がことのように喜んでくれた。自転車に乗れるようになった時に似てる。

 せや、あの時はお父さんやった。瞬間、お父さんの顔がうかんだけど、頬をスリスリして喜んでる田中さんが圧倒的なんで、オボロなお父さんの顔は、田中さんに置き換わってしもた。そう思うと、同じように感激が湧いてきた。

「ありがとう、田中さんのお蔭や。めっちゃ嬉しい!」

「ううん、酒井さんが努力したからよ。わたしは手助けしただけ!」

「ほんまに、ありがとう! これからは師匠て呼ばせてもらうわ!」

「やめてよ、恥ずかしい!」

「師匠、師匠~♡」

 先生も、その場でB班(苦手班)への昇段を許してくれて、お昼を二人で食べることを誓い合った。

 

 せやけど、お昼を二人で食べることはでけへんかった……田中さんは早退してしもたから。

 

 あくる日、田中さんは欠席やった。

 次の日も欠席で、その次も欠席やったら菅ちゃんに聞こと決心して、朝礼で手ぇあげた。

「田中さんは転校することになりました。ご家庭の事情です……」

 それだけ言うて菅ちゃんは、どうでもええ諸連絡の話題に移っていった。

 家庭事情で転校なんて嘘や。いつも生徒の名前は呼び捨てにするのに「田中さん」と呼んだのがしらこい。田中さんが、もう関係ない他人やいう感じにしか聞こえへん。

「ほんなら、朝礼おわり」

 それだけ言うて、そそくさと教室出ていく菅ちゃんを追いかけた。

「先生、待って!」

「なんや、一時間目始まるぞ」

「ちゃうでしょ、田中さん家庭事情なんかとちゃうでしょ、やっぱり、制服切られたからでしょ、いじめとかがあったんでしょ、あったんでしょ……答えてえよ! 答えてくださいよ!」

「…………」

「せやさかい、せやさかい、事件が起こった時に言うたでしょ! ちゃんと調べてて! 調べてくださいて!」

 菅ちゃんは、なんにも言わんと職員室に入ってしもた。わたしも勢いで入ってしもたけど、先生らの困ったような圧を感じて立ちつくしてしまう。

 もう一発「せやさかい」を言うたら、取り返しのつかん言葉が出てきそうで……唇をかみしめて回れ右した。職員室は誰かを責めるような安心したような空気になる、それを背中に感じて階段を上がる。

 踊り場、階段の手すりを握りしめて留美ちゃんが迎えに来てくれてた……。

 
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