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032『ま、間違えた!』

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漆黒のブリュンヒルデ

032『ま、間違えた!』 

 

 
 楽勝だったニャあ!

 グビグビグビ……

 
 国語の試験のあと、ねね子は爽やかに言い放って、風呂上がりのオッサンのようにペットボトルのお茶を飲み干した。

「ほう、余裕だな」

 からかってやりたくなって空いている前の席に腰を下ろす。

「苦手な漢字をがんばったから完ぺきニャ!」

 近ごろの高校生はロクに漢字が読めないというので、漢字熟語の読みやら意味を問う問題が半分近くだったのだ。クラスのみんなが呻吟していた問題を言ってやる。

「『嬲』は分かったか? みんな苦労していたようだが」

「簡単、『三角関係』ニャ!」

「え……なるほど、男二人に女が一人だもんな。でも、二股とか両天秤とも読めないか?」

「え? そうニャのか?」

「まあいい、じゃ『湯湯婆』は?」

「『ユバーバ』にゃ! 『千と千尋の神隠し』に出てくる風呂屋の魔女ニャ!」

 間違いだが愉快だから笑って済ませる。正解は『ゆたんぽ』だがな。

「これはどうだ『美人局』」

「『びじんきょく』! 美人が多い郵便局のことニャ!」

「クッ(正解は『つつもたせ』だ)」

「ひるでも笑っちゃうくらい優しい問題だったニャ」

「『準備万端』は?」

「『じゅんびまんたん』ニャ!」

 アハハハハハハハハハハ!

 いつの間にかクラス中が耳を傾け、教室は笑いの渦になってしまった(^_^;)。

 
 その帰り道、駅の近くでヘバッているOL風を見かけた。

 
 目についたときは電柱に寄り掛かっているだけだったが、直ぐに腰が折れ、電柱を背にくず折れてしまう。

 ……妖か?

 数秒後には確信になった。

 通行人が彼女の存在に気づかずに、そのまま通っていく。通行人は彼女に躓くこともなく、CGのポリゴン抜けのように、何事もなく通過していく。

『おい、何をしている』

 人を待っているふりをして心で語りかける。

『見えるの? わたしが?』

『見えてる、こんなところでグズグズしていたら、他の妖に食われてしまうぞ。おまえ、見るからに弱弱しいからな……おまえ、死んで間もない霊体か?』

 そいつの胸の中には、魂の抜け殻が卵の薄皮のように、ヒラヒラと揺れている。上空を仰ぐと青白い魂がガス圧の足りない風船のように中空で漂っている。

 ただ、肉体と魂を繋ぐ緒は切れてしまっていて、凧の足のようにそよいでいる。元に戻ることは無いだろう。

『わたし、字を、字を間違えてしまった……』

『どういうことだ』

『男が憎くて自殺をしたのよ、ついさっき……男は、わたしの恋人だったけど、こともあろうに妹に手を出しやがって、わたしを捨てたのよ。もう、妹のお腹には男の赤ちゃんができているし……だから、だから、遺書に書いてやった「祝ってやる」って』

 プ(`艸´)

 爆笑するところだった。字は『祝』だが、心情は『呪』だ。爆発する気持ちのままに呪いの遺書を書いて、肝心の文字を間違えて、魂が抜けてから気が付いたという抜け作だ。

 強い想いで書かれた文字は力を持つ。正しく『呪』の字が使われていれば、相当霊力の強い、例えばおきながさんのような神さまか、能力者によらなければ解呪できない。

 しかし、真逆の『祝』を書いてしまっては、文字の力によって、強い祝福を与えてしまうことになる。

『これを見て観ろ』

 そいつの眼前にバーチャルモニターを出してやった。

『なに、これ?』

『ちょっと未来の映像が映る。まあ、見てろ』

 動画の画面を早回しにするようにカーソルを動かしてやる。

 そいつの妹は男と結ばれて、無事に家庭を持ち女の赤ちゃんを産む。

 すくすくと赤ちゃんは成長し、そいつと同じくらいの女性に成長する。そこで停止にしてやった。

『え……わたしにソックリだ』

 そう、赤ちゃんは妹の強い願いで亡くなった姉の名前を受け継いで、女にソックリの女性に成長するのだ。

 そして、巻き戻してやると、数か月前に、女は男にひどい仕打ちをしている。仕打ちをした本人は、それほどの事とは思わずにいたのだが。男を慰めてくれた妹と結ばれたと言うのが真相だ。

『そ、そうだったんだ……』

『字を間違えて良かったな』

『う、うん……でも、わたしは、どうしたら……』

『しかたがない……』

 そいつを抱き上げて、数十メートル上空に向かう。

 さっきまで魂が漂っていたところは、あの世への通路が出来ていて、魂を呑み込んだところだ。

『本当は自力で、ここに入らなきゃいけないんだがな……さ、向こうへ行け』

『あ、ありがとう……あなたは?』

『主神オーディンの娘にしてブァルキリアの主将 堕天使の宿命を背負いし漆黒の姫騎士 ブリュンヒルデ……という』

『ブリュンヒルデ……ごめんなさい、もう一度』

『二度は言わん。向こうの世界で祝福のあらんことを』

 通路は閉じて、わたしは地上に降りた。

 
「ごくろうでした」

 
 降り立った道路には、いつから居たのかおきながさんのところの武内宿禰(たけのうちのすくね)が笑顔で立っていた。

「スクネさんか」

「武内宿禰、しっかりと見届けましたぞ」

「な、なにを見届けたと言うのだ(;^_^A」

「今日は縞柄でござったな」

「ん…………こ、こらあ!」

 拳を上げようとしたら、カラカラと笑い声だけ残してスクネは消えていた。 
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