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37『ナイアガラの滝』

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乙女先生とゆかいな人たち女神たち

37『ナイアガラの滝』 

       


 人が固まるというのを初めて見た。

 家の玄関を開けて、美玲を招じ入れたとき、亭主の正一は呼吸するのも忘れたかのように固まってしまった。

「勝手なことをして、もうしわけありませんでした。そやけど、これが一番ええ思てやりました!」

 乙女先生は、余計な気持ちが表れないように、大きな声で一気に詫びた。

「な、なんで……」
「美玲ちゃん。靴脱いで、スリッパ履いてついといで。正一さん、あんたもな」

 有無を言わせなかった、これからが二番目の勝負である。濁った言葉や、後腐れのある言葉は言ってもいけなかったし、言わせてもいけない。

 リビングのソファーに座らせると、乙女先生はペットボトルのお茶を三本置いて、直ぐに話に入った。

「この十五日に美子さんが亡くなりました。その手紙が四日前いつもの封筒で……これです」

 封筒の表の、美玲の字を見ただけで正一には分かったようだ。

「すみません、勝手に手紙なんか……」

 美玲が言いかけた。

「悪いけど、美玲ちゃんは、話だけ聞いてて」

 グビグビグビグビ……ゴックン

 乙女さんは、ペットボトルのお茶を一気飲みした。

「美玲ちゃんのことは生まれた時から知ってました。毎月くる『美玲の会』の封筒のことも。ウチは一生知らんふりしよと心に決めてました。そやけど美子さんが亡くなった今、第一に考えならあかんのは美玲ちゃんのことです。実の母が亡くなったら、実の父が面倒みるのが当たり前。そんで、ウチが美子さんには及ばへんけど、美玲ちゃんのお母さんになります!」
「すまん乙女」 
「謝らんでよろし! 大事なことは美玲ちゃんのこと。そんだけ。ここまでよろしいな」
「う、うん」
「あんたは、毎月美玲ちゃんの養育費として十万円を払ろてきた。ほんで、あんたは実の父親や。とくに問題はあれへん。若干法的な手続きはあるけどな。それは全部ウチに任せて。ここまでよろしおまんな」
「う、うん……」
「よっしゃ、これで決まりや。美玲ちゃん、お父さんの側いき。もう、もう遠慮することはあれへんねんさかいな」
「……はい」
「なにをグズグズ、チャッチャとしなさい!」
「美玲……!」
「お父さん……お父さん!」

 美玲は、向かいのソファーに行くと、しがみつき、長い時間泣き続けた……。

 乙女先生は二階にいくと、もう一本ペットボトルのお茶を一気飲みして栞の父親に電話をした。

 電話が終わると、トイレに駆け込んで一気に用を足した。

 新婚旅行で訪れたナイアガラの滝を思い出して、ひとり個室で笑ってしまう乙女先生であった。
 

「伯父夫婦が、親権について言い出す前に、こちらから動きましょう。とりあえず養育費の支払いを証明する、通帳かなにか……」
「はい、これが亭主の通帳。十五年分です。それから、これが美子さんの受け取りのコピーです」
「ほー、準備万端だ。では明日……は休み。あさって関係の役所を回ります。場合によっては向こうの家にも伺います。スム-ズに行けば連休明けには、親権の確認、戸籍の処理、住民票、修学手続き全部できるでしょう」
「よろしくお願いします。正直割り切れない気持ちもあるんです。せやけど諦めてた子供が授かった思うて、頑張りますわ」
「ハハ、乙女先生らしい。じゃ、こちらもビジネスライクにやらせてもらいます」
「おー怖い。ところで栞ちゃんは?」
「はあ、昨日MNBの事務所から電話がありまして、今日からレッスンですわ」

 そのとき、玄関のドアが開き、ボロ雑巾のようになった栞が戻ってきた。

「ああ、もう死ぬう……」
「そういう目に遭うてみたかったんやろ?」
「え、あ、先生。どうして家に……わたし、またなんかやりました!?」
「さあ、どないやろ。ほなお父さん、くれぐれもよろしく」
「はい、いつも娘が、すみません」

 深々と頭を下げる両名。その間で不安顔で、恩師と父親の顔を見比べる栞であった……。
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