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137《コスモス坂・9》

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てんせい少女

137《コスモス坂・9》





「ダメだ、描けない!」

 真一は鉛筆をスケッチブックごと投げ出した。

「もう、今日は、これで三度目よ」

 芳子は辛抱強くスケッチブックと鉛筆を拾い上げ、ベッドの真一の膝元に返してやった。

「今日は、もういい……」
「そんなこと言ってたら一生絵なんか描けなくなるわよ。さ、鉛筆持って、太平洋の水平線を見るのよ!」
「こんな手じゃ、水平線なんて描けない。もう絵なんか描けないよ……」
「そんなの覚悟してデモに参加したんでしょ。なによ、右手に障害が残ったぐらいで投げ出して。世の中には左利きの絵描きさんだってたくさんいるわ。ダヴィンチもピカソも左利きよ」
「それは、みんな生まれながらの左利きだ。この歳で利き腕を変えて、まともな絵なんか描けないよ……」
「そう。じゃあ、そうやってめそめそ嘆いていなさいよ。弱虫の真一なんか大嫌いだから!」
「君が、そんなにシンパシーのない女だとは思わなかったよ!」
「じゃ、もう勝手になさいよ!」

 鞄を掴むと、芳子はさっさと、病室を後にした。

 湘南の海に向かう坂道は近所ほどではなかったが、あちこち咲いているコスモスが涙で滲む。

 それから三月、芳子は真一に会うことはなかった。

 情けなかった。兄の勲は日和って新聞記者になるし。真一は拗ねてめそめそするばかり。

 安保条約と、その体制が100%正しいとは思わない。でも今の日本が取りうる一番ベターな道だったと思う。これをやり遂げた大人たちは偉いと思った。戦時中の生まれではあるけど、直接戦争を知っている者と、戦後のおとぎ話のような平和主義を教えられた若者の差……日本の若者を、そんな風にしてしまったものを芳子は憎んだ。

 年が明けた三学期。小春日和に、芳子は久々に七里ヶ浜で降りて海岸に向かった。

 駅から海岸に向かう緩い斜面で、それは目に入った。

 真一と久美子が肩を並べて波打ち際を歩いていたのだ。

 二人の距離は、自分の時より近いように感じた。瞬間嫉妬心かと思ったが、心の底を探っても、そんな暗くて熱い感情は無かった。ただ、マンガの一ページをめくったら見開き一杯が大どんでん返しのドアップであったような驚きだった。

「真一くん元気になったんだ」

 ゲフ! 

 タイミングが悪かったんだろう、久美子は飲みかけのフルーツ牛乳にむせ返った。家の風呂が故障したので、姉妹で坂下の銭湯に来ている。久美子は銭湯が珍しく、番台のオバサンに入浴料を余分に渡すやいなや、フルーツ牛乳に飛びついた。

「そういうのって、風呂上りに飲むもんじゃないの?」
「いいの、上がってからはコーヒー牛乳飲むんだから」

 そう言った直後に話をふったのが悪かったのかもしれない。

「お姉ちゃん!?」
「ずっと前から分かってた。いいよ、久美子がワカメやれば。あたしはサザエさんになるから」
「お姉ちゃん……」
「さあ、さっさと脱いでお湯につかりましょう!」

 久美子の服の脱ぎ方が子供の頃とちっとも変っていないのが微笑ましく気恥ずかしくもあった。

「もう少し、女の子らしくしなさいよ」
「え、あ、そう」

 そう言って、改めて恥ずかしそうに浴室にいく久美子の体は、大人びてはいるが芯のところで、まだ子供だった。

「白根さんね、また絵を書きはじめた。左手でね……お姉ちゃんに感謝してたよ」
「気を遣わなくてもいいわよ。あのボンボンをそこまでしたのなら、久美子の手柄だわよ……本気で真一のこと好きなんだ」

「うん……」

 久美子は湯あたりではなくて頬を染めた。
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