137 / 161
137《コスモス坂・9》
しおりを挟む
てんせい少女
137《コスモス坂・9》
「ダメだ、描けない!」
真一は鉛筆をスケッチブックごと投げ出した。
「もう、今日は、これで三度目よ」
芳子は辛抱強くスケッチブックと鉛筆を拾い上げ、ベッドの真一の膝元に返してやった。
「今日は、もういい……」
「そんなこと言ってたら一生絵なんか描けなくなるわよ。さ、鉛筆持って、太平洋の水平線を見るのよ!」
「こんな手じゃ、水平線なんて描けない。もう絵なんか描けないよ……」
「そんなの覚悟してデモに参加したんでしょ。なによ、右手に障害が残ったぐらいで投げ出して。世の中には左利きの絵描きさんだってたくさんいるわ。ダヴィンチもピカソも左利きよ」
「それは、みんな生まれながらの左利きだ。この歳で利き腕を変えて、まともな絵なんか描けないよ……」
「そう。じゃあ、そうやってめそめそ嘆いていなさいよ。弱虫の真一なんか大嫌いだから!」
「君が、そんなにシンパシーのない女だとは思わなかったよ!」
「じゃ、もう勝手になさいよ!」
鞄を掴むと、芳子はさっさと、病室を後にした。
湘南の海に向かう坂道は近所ほどではなかったが、あちこち咲いているコスモスが涙で滲む。
それから三月、芳子は真一に会うことはなかった。
情けなかった。兄の勲は日和って新聞記者になるし。真一は拗ねてめそめそするばかり。
安保条約と、その体制が100%正しいとは思わない。でも今の日本が取りうる一番ベターな道だったと思う。これをやり遂げた大人たちは偉いと思った。戦時中の生まれではあるけど、直接戦争を知っている者と、戦後のおとぎ話のような平和主義を教えられた若者の差……日本の若者を、そんな風にしてしまったものを芳子は憎んだ。
年が明けた三学期。小春日和に、芳子は久々に七里ヶ浜で降りて海岸に向かった。
駅から海岸に向かう緩い斜面で、それは目に入った。
真一と久美子が肩を並べて波打ち際を歩いていたのだ。
二人の距離は、自分の時より近いように感じた。瞬間嫉妬心かと思ったが、心の底を探っても、そんな暗くて熱い感情は無かった。ただ、マンガの一ページをめくったら見開き一杯が大どんでん返しのドアップであったような驚きだった。
「真一くん元気になったんだ」
ゲフ!
タイミングが悪かったんだろう、久美子は飲みかけのフルーツ牛乳にむせ返った。家の風呂が故障したので、姉妹で坂下の銭湯に来ている。久美子は銭湯が珍しく、番台のオバサンに入浴料を余分に渡すやいなや、フルーツ牛乳に飛びついた。
「そういうのって、風呂上りに飲むもんじゃないの?」
「いいの、上がってからはコーヒー牛乳飲むんだから」
そう言った直後に話をふったのが悪かったのかもしれない。
「お姉ちゃん!?」
「ずっと前から分かってた。いいよ、久美子がワカメやれば。あたしはサザエさんになるから」
「お姉ちゃん……」
「さあ、さっさと脱いでお湯につかりましょう!」
久美子の服の脱ぎ方が子供の頃とちっとも変っていないのが微笑ましく気恥ずかしくもあった。
「もう少し、女の子らしくしなさいよ」
「え、あ、そう」
そう言って、改めて恥ずかしそうに浴室にいく久美子の体は、大人びてはいるが芯のところで、まだ子供だった。
「白根さんね、また絵を書きはじめた。左手でね……お姉ちゃんに感謝してたよ」
「気を遣わなくてもいいわよ。あのボンボンをそこまでしたのなら、久美子の手柄だわよ……本気で真一のこと好きなんだ」
「うん……」
久美子は湯あたりではなくて頬を染めた。
137《コスモス坂・9》
「ダメだ、描けない!」
真一は鉛筆をスケッチブックごと投げ出した。
「もう、今日は、これで三度目よ」
芳子は辛抱強くスケッチブックと鉛筆を拾い上げ、ベッドの真一の膝元に返してやった。
「今日は、もういい……」
「そんなこと言ってたら一生絵なんか描けなくなるわよ。さ、鉛筆持って、太平洋の水平線を見るのよ!」
「こんな手じゃ、水平線なんて描けない。もう絵なんか描けないよ……」
「そんなの覚悟してデモに参加したんでしょ。なによ、右手に障害が残ったぐらいで投げ出して。世の中には左利きの絵描きさんだってたくさんいるわ。ダヴィンチもピカソも左利きよ」
「それは、みんな生まれながらの左利きだ。この歳で利き腕を変えて、まともな絵なんか描けないよ……」
「そう。じゃあ、そうやってめそめそ嘆いていなさいよ。弱虫の真一なんか大嫌いだから!」
「君が、そんなにシンパシーのない女だとは思わなかったよ!」
「じゃ、もう勝手になさいよ!」
鞄を掴むと、芳子はさっさと、病室を後にした。
湘南の海に向かう坂道は近所ほどではなかったが、あちこち咲いているコスモスが涙で滲む。
それから三月、芳子は真一に会うことはなかった。
情けなかった。兄の勲は日和って新聞記者になるし。真一は拗ねてめそめそするばかり。
安保条約と、その体制が100%正しいとは思わない。でも今の日本が取りうる一番ベターな道だったと思う。これをやり遂げた大人たちは偉いと思った。戦時中の生まれではあるけど、直接戦争を知っている者と、戦後のおとぎ話のような平和主義を教えられた若者の差……日本の若者を、そんな風にしてしまったものを芳子は憎んだ。
年が明けた三学期。小春日和に、芳子は久々に七里ヶ浜で降りて海岸に向かった。
駅から海岸に向かう緩い斜面で、それは目に入った。
真一と久美子が肩を並べて波打ち際を歩いていたのだ。
二人の距離は、自分の時より近いように感じた。瞬間嫉妬心かと思ったが、心の底を探っても、そんな暗くて熱い感情は無かった。ただ、マンガの一ページをめくったら見開き一杯が大どんでん返しのドアップであったような驚きだった。
「真一くん元気になったんだ」
ゲフ!
タイミングが悪かったんだろう、久美子は飲みかけのフルーツ牛乳にむせ返った。家の風呂が故障したので、姉妹で坂下の銭湯に来ている。久美子は銭湯が珍しく、番台のオバサンに入浴料を余分に渡すやいなや、フルーツ牛乳に飛びついた。
「そういうのって、風呂上りに飲むもんじゃないの?」
「いいの、上がってからはコーヒー牛乳飲むんだから」
そう言った直後に話をふったのが悪かったのかもしれない。
「お姉ちゃん!?」
「ずっと前から分かってた。いいよ、久美子がワカメやれば。あたしはサザエさんになるから」
「お姉ちゃん……」
「さあ、さっさと脱いでお湯につかりましょう!」
久美子の服の脱ぎ方が子供の頃とちっとも変っていないのが微笑ましく気恥ずかしくもあった。
「もう少し、女の子らしくしなさいよ」
「え、あ、そう」
そう言って、改めて恥ずかしそうに浴室にいく久美子の体は、大人びてはいるが芯のところで、まだ子供だった。
「白根さんね、また絵を書きはじめた。左手でね……お姉ちゃんに感謝してたよ」
「気を遣わなくてもいいわよ。あのボンボンをそこまでしたのなら、久美子の手柄だわよ……本気で真一のこと好きなんだ」
「うん……」
久美子は湯あたりではなくて頬を染めた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
先生!放課後の隣の教室から女子の喘ぎ声が聴こえました…
ヘロディア
恋愛
居残りを余儀なくされた高校生の主人公。
しかし、隣の部屋からかすかに女子の喘ぎ声が聴こえてくるのであった。
気になって覗いてみた主人公は、衝撃的な光景を目の当たりにする…
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる