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91〈もう一つの始まり〉

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91〈もう一つの始まり〉  




「じゃ、また明日!」
「アハハ、明日は日曜だよ!」

 そう言いあって三叉路で別れたのが最後の記憶。

 それから、川沿いの道を歩いた。

 いつもとは違っていたような気がする。

 いつもは、もう一本向こうの道まで行って川を渡る。

 少し遠くなるけど、向こうの道が安全なんだ。お喋りも長くできるし。

 でも、その日は、なにか特別なことがあって、少しでも早く帰りたかった。

 川沿いをしばらく行くと、川の中で女の子が溺れているのが目に飛び込んできた。

 この寒さ、この流れの速さ、あたしが助けなければ、その子は確実に死んでいただろう。


 あたしは、パーカーの袖口、裾、首もとを絞った。短時間でも浮力を得るために。スカートは脱いだ。足にまといつくし、水を吸って重くなる。ハーパンを穿いているので恥ずかしくもない。
 川に飛び込むと、冷たいよりも痛かった。胸回りは、パーカーに溜まった空気で幾分暖かい。浮力もある。

「が、がんば……って!」

 口を開けると水が入って来るけど、それでも、なんとか声を掛けると、弱々しいながら、その子は、あたしの方に顔を向けた。


 大丈夫、これなら助かる!


 そして、川の中程で女の子を掴まえ抱きかかえ、橋桁に掴まった。

「だれかあ、助けて下さい!」

 十回までは覚えている、次第に体温が奪われて意識がもうろうとしてくる。


 ああ、ダメかな……そう思って目を閉じかけると、川岸の人影が何か言いながら、スマホで……119番に電話してくれている様子。

 救急車の音がかすかにした……救急隊員の人が、女の子を確保したようだ……。


 で、気づいたら、ここにいた。


 真っ白い空間。
 床はないけどちゃんと立っていられる。
 寒くはなかった。体も無事なよう……。

 でも記憶がなかった。三叉路で曲がったところまでは鮮明に覚えている。でも、だれと別れたのか思い出せない。なんで、あの道を通ったのかも……なにか楽しいことが待っていたような……女の子が溺れていた。  
 あたしは冬の川に飛び込んだ。女の子は助かったよう……でも、あたしは助かったんだろうか……実感がない。

 あたしは……あたし……え? あれ……自分の名前さえ思い出せなかった。

「余計なことをしてくれたな」

 目の前五メートルほどのところに男が現れた。周りの白に溶け込みそうな白い服で、カタチも定かではない。まるで白の中に首と手が出ているようなものだ。


「われわれは、積み木細工のように条件を組み合わせ、やっとあの子の命を取るところまできていたんだ。もう二度と、あの子には手が出せない」
「……悪魔なの、あなた?」
「なんとでも呼べばいい。それより下を見ろ」

 男が言うと、白い床が透き通って、はるか下にチューブだらけのあたしが機械に取り巻かれて眠っていた。

「あれ、あたし……」

「そうさ」
「助かったんだ」
「でもな、脳の大半は死んでいる。名前さえ思い出せないだろう……おれたちの仕事をダメにした報いだ」
「やっぱり、死んじゃうの?」
「死ぬより辛い目にあってもらう」
「死ぬより辛い目に……」
「そうとも……これからは、死ぬよりも辛い時の狭間でさまようがいい!」

 恨みの籠もった声でそう言うと、男の姿は消えてしまった。

 文句を言おうと思ったけど、もう、声の出し方も分からなくなってしまった

 床の下に見えていたあたしの姿は、どんどん遠くなり、グラリとしたかと思うと上下左右の感覚も無くなった。
 どこかへ上っていくような感じでもあるし、落ちていくような感じでもある。なにがなんだか分からない。

 ……どこかに連れて行かれるんだ。

―― 時の狭間……それって、なに? どこ? あたしは……怖いよ…… ――

 そして体の感覚が無くなり、意識も無くなった。


 無くなったことが全ての始まりだった……。
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