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71『ティースプーンの存在意義』

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真夏ダイアリー

71『ティースプーンの存在意義』    



 だれかが膝枕をしてくれていたような感触が残っている。

「あら、目が覚めたのね」

「ジーナさん……」

「フフ」

「わたし……」

「何度目覚めても、ここの感触には慣れないようね」

 ああ……ここは、ジーナさんの四阿(あずまや)だ。

「今まで、ここにだれかいました?」
「ええ、ほら、あそこ……」

 エンジンの音がして、赤い飛行艇が一つ舞い上がっていった。

「あれ……省吾?」
「ええ、たった今まで。あなたの膝枕になっていたけど、いてもたってもいられないみたい……」

 少しずつ記憶がもどってきた。ワシントンでやってきたことを……国務省に行ったところまでは思い出していた。

「ほんとうにお疲れ様。もうあなたにやってもらうことはないわ」
「一つ聞いていいですか?」

 わたしは思い出せないもどかしさを、ジーナさんに質問することで紛らわせた。

「なあに?」
「ジーナさん、若くなりましたよね?」
「これが、わたしの本来の姿……前、そう言ったわよね」
「はい、そんな気が……」

 赤い飛行艇が、空中でデングリガエシをやったかと思うと、四阿の真上をスレスレに飛んでいった。

「うわー!」
「省吾も、だいぶ焦れてる。どうしていいか分からないのね」
「……省吾の顔が思い出せない」
「どっちの、省吾?」
「ワシントンでいっしょだった、高野とかいうオジサンのほう……」
「じゃ、話しておくわ。いずれ全ての記憶が無くなる。でも、なにも知らなくて記憶がなくなるよりも、知ってから無くなったほうが、あなたの心にはいいと思う」

 ジーナさんわ、紅茶を一口飲んで語り始めた。

「省吾と省吾のお父さんは、三百年の未来から真夏の時代にきた。これは覚えてるわよね?」
「ええ、2022年に来ることが限界で、それより昔にさかのぼるのに、わたしの力が要ったって……」
「そう、あの戦争で、日本が無条件降伏したところから、歴史が狂いはじめた」
「でも、あの戦争に勝っちゃったら、それはそれでおかしなことに……」
「程よいところで、講和……このスプーンを垂直に立てるほど難しいことだけど……」

 ジーナさんは、見事にスプーンをテーブルの上に垂直に立てた。

「ちょっとしたマジック。見えない力で、スプーンを支えてるの」
「なにも見えませんけど……」
「ハハ、だから言ったじゃない。見えない力だって。ほら、こんなこともできる……」

 なんと、スプーンが、四阿の中で曲芸飛行を始めた。

「すごい!」

 スプーンは、穏やかに、ティーカップの横に収まった。

「真夏、あなたは今スプーンが曲芸飛行をするのに必要な見えない力なの」
「わたしが……」
「そうよ。真夏がいなければ、省吾たちは1941年にいけないばかりじゃないわ。2022年に居続けることさえできなかった」

 コトリと音がしてティーカップが消え、スプーンは、お皿のうえを転がった。そして、コトンと音がして、今度はお皿が無くなり、スプーンは、テーブルの上に直接載っているかっこうになった。

「そして……」
「はい……」


 チャリーン……。


 今度は、テーブルそのものが無くなって、スプーンは床に落ちた。

「こういうことよ……スプーンは何が自分におこったのか分からないでしょうね」
「このスプーンは、わたしのことですか……?」
「鋭いわね……床の上じゃかわいそうだから……」

 スプーンは、再び宙に浮き、新しいテーブルとティーカップが現れた。それは、さっきまであったのとは少し違っていた。

「……さっきのとは違いますね」
「でも、ティースプーンは気が付かない。少し変だなとは思っているかも……どうぞ、この紅茶は、真夏のために用意したものだから」
「あ、ありがとうございます」

 真夏は、少しの砂糖とミルクを入れてティースプーンで軽くかきまぜた。

「何気ないことだけど、スプーンが無ければミルクティーは飲めない。スプーンはお皿や、カップ、テーブルが無ければ床に落ちているしかない……」

 ジーナさんは、ごく当たり前なことを言っているだけ。でも、とても大事なことを言っているような気がした。紅茶の香りが広がり、省吾の飛行艇の爆音がかすかになっていき、真夏の意識は再びおぼろになっていった……。
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