熊人の娘

今野 真芽

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第五章

第五章

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 薄曇りの空の下、一台の馬車が、後に轍を残して荒野を進む。
 薄暗く、空気の籠もった馬車の中で、結花は膝を抱えて組んだ腕に顔を埋め、ラジオの音にだけ耳を傾けていた。
 甘い甘い恋の歌。結花がまだ知らない、おそらくは、これからも知ることのない感情。だが、歌の中であれば感じることができる。
「ねえちゃん、そろそろだよ」
 興奮した声に、結花はゆっくりと顔を上げる。幌の幕をめくると、薄暗さに慣れた目には薄曇りの空すら眩しく、目を細める。一面に続く荒野の地平線の手前、青紫の煙の塊のようなものと、それを囲む小さな蟻の群れのような物が見えた。まだ遠いが、間違いなく目的地であるようだ。それは軍の辺境警備隊の一団だった。
 こんな荒野の景色の何が楽しかったのか、御者の隣に陣取っていた颯真は、熊をかたどった彫刻の施された木製の仮面を顔につけ、頭からかぶったマントのフードを深く被り直した。結花も袖をめくり、公認呪術師の証である腕輪を露わにする。
 馬車を降りた結花は目を見開いた。水凪がヘラヘラと笑って手を降っているのはよくあることだ。腰が軽く顔の広いこの男は、あちこちの現場に顔を出している。が、佐倉の長老までいるとは思わなかった。
「おじいさま、どうして」
「ここは、佐倉に縁の深い土地だからな。俺も見ておきたいし──おまえにも会いたかった」
 多少のくすぐったさを隠して、結花は頭を下げた。水凪の紹介で辺境警備隊の雇われ仕事をするようになった結花のことを、この老人が心配してくれていることは知っていた。
 佐倉での暮らしを断って五年、随分な不義理をしたというのに、未だに結花を可愛がってくれる恩義を忘れたことはない。
「颯真も息災だったか」
 と長老は言ってくれたが、颯真は結花の背に隠れてしまった。
「おいおい、まだ小娘じゃないか。しかもガキ連れかよ。水凪さんよぉ、本当に大丈夫なんだろうな」
 辺境警備隊は臨時雇いの者が多いため、結花と初めて顔を合わせる者もいる。不審がる声にも慣れたものだ。水凪も動じず笑う。
「大丈夫ですよ、見れば分かります。あなただって聞いたことあるでしょう、『熊の賢女』のことは」
 その呼び名にはいまだ背筋が痒くなる結花は目をそらす。
「どんな呪いもたちどころに解呪してしまう、凄腕の呪術師だって噂か?でもなぁ……」
「まぁ、見ていてください。彼女の実力は確かです」
 そう持ち上げられると、この先の仕事がやりにくくなるのだが。
 だが、仕事をするより仕方がない。結花は荷物の中から、呪力を込めた珠、呪玉と呼ばれるものを取り出した。
 結花の身体がむくむくと膨れ上がると、周囲から驚きと感嘆の声がする。膨れる身体に合わせて鎧へと変化する服は、佐倉から取り寄せた特殊な織物だ。結花は前脚を大きく振りかぶって、熊の膂力で、呪玉を地面から湧き出す青紫の煙──荒野が生み出した呪毒に向けて思い切りぶん投げた。
 呪玉が炸裂するとともに、青い炎が巻き起こる。その炎は呪毒を燃やしながら、天にまで立ち上った。
「ほう、あれは颯真の炎か?」
「ええ、最近は、呪術具作りを手伝ってくれるんですよ、ね、颯真」
 颯真は照れて、結花にぎゅっと抱きついた。その髪を撫でてやる。
「これで呪毒の大半は散った。残りを殲滅するぞ」
 軍人の一人が号令をかけ、兵士たちは手分けして、呪毒の除去作業に取り掛かった。
 
 結花と颯真は、佐倉の長老について歩く。呪毒の残滓に呪薬を吹きかけながら、長老が、ふと、話し出す。
「結花。何度も聞くが、おまえ、佐倉に来るつもりはないのか?」
 結花は首を横に振る。
「頑固者め。最近は南雲春一郎の勢力が優勢になりつつあると聞く。颯真もこのとおり、すっかり元気なものだ。遠野の家もソワソワと落ち着かん様子だぞ。おまえらが佐倉に来たところで、遠野も文句はつけんだろう」
 颯真の父、結花の義兄の南雲春一郎は、東の港町で勢力を集め、今なお戦いを続けていると、ラジオで言っていた。
 長老は、静かに語りかける。
「いいか、確かにおまえの身体は、佐倉の熊たちより小さいし、毛皮は黒い。首には白い月の輪がある。お前は、俺と同じ羆の一族ではない。だが、俺はおまえを、同じ熊人だと思っている。大切な仲間だ」
「……おじいさま」
 長老の静かな声は、結花の胸を突く。
「雌熊は生まれなくなった。ようやく生まれた子熊も、保護のためだなんだと言われ、都へ連れて行かれる。俺は、お前に感謝してるんだ。お前に会って、俺はようやく、自分の在り方を知った。俺は、子熊達を守る者なのだと」
 それだけ言うと、長老は、照れくさそうに、そっぽを向いた。
「自分の、在り方……」
 そんなものが、果たして自分にも在るのか、結花には分からなかった。

 村への帰途の馬車の中、颯真は興奮したのか、いつもより口数が多かった。
「あのさ、さっきの兵隊さんが言ってたよ。ねえちゃんはすごいって。あんなすごい呪術師、見たことないって。村の人も、いっつもね、ねえちゃんの呪符のおかげで助かってるよって言ってるよ」
 結花は苦笑いする。自分程度の呪術師はどこにでもいるとしか思えなかった。それに、感謝などたやすく忘れ去られる。
 結花の姉である糸塚の十二姫達も、その母親達も、糸塚のためにその才知を惜しむことはなかったが、彼女らの末路は悲惨だった。
 胸に去来した黒いものを、結花は、首を振って振り払う。
「俺ももっと大きくなったら、ねえちゃんみたいな呪術師になって、たくさんの人を助けるんだ!」
「剣は?」
「剣士より、呪術師の方がカッコいい!」
 それを聞いたら、最強の剣士であった颯真の父親は、果たしてどういう反応をするかなと思った。案外、笑い飛ばすかもしれなかった。
「あ!ねえちゃん、そろそろ村に着くよ」
 そう言って、颯真は、母親そっくりの美しい顔立ちに、木製の仮面を被り直す。
 
 馬車は村外れに停められ、馬車を見た村の子ども達が集まって来る。
「熊さま」
「熊さま、お帰り」
「ああ、ただいま」
 土産がないと見て取ると、彼らはさっさと去っていった。現金なものだが、逆に清々しいと感心する。
 後からやって来たのは、おんぶ紐で赤子を背負った女だった。彼女の視線はまっすぐ颯真に向けられている。
「まぁ、颯真坊っちゃん、ご無事で!お怪我などありませんか?」
「カナおばちゃん、ただいま。お土産あるよ」
 颯真の差し出した、途中で摘んだ青い野花に、カナは目を潤ませた。
「あら……!カナは感無量でございます」
 なんとなく居づらさを感じながら、結花が、
「えーと、カナ、ただいま」
 と言うと、カナは結花に向き直り、腕を組んで、きっと結花を見据えた。
「ユイカ、あんたもよ、怪我とかしてないの?」
「いや、特に」
「だいたい、あんたみたいな薄ぼんやりが、臨時雇いの辺境勤めとはいえ、軍属だなんて──」
「そういえば、急ぎの仕事があった!」
 何度となく繰り返した、口論にもならない愚痴を聞かされる前にと、結花は逃げ出した。颯真を育てることになったものの、赤ん坊の世話などしたこともない結花には、あまりに荷が重く、カナにはさんざ世話になり、頭が上がらないのだった。
 結花が熊の姿に変じると、颯真はさっと熊の背に飛び乗って、その首に両腕を回したのだった。

 山はすっかり秋めいて、あちらこちらを紅や黄色が彩っている。柔らかな落ち葉の土を、四つ脚で踏みしめて歩く。くんくんと風を嗅げば、ドングリや胡桃の香ばしい香り、アケビや山葡萄の甘やかな香りが入り混じり、熊の腹を空かせた。
 少し先を歩く颯真は、熊と二人きりなので仮面を外して、素顔ではしゃいでいる。たまに距離を開けすぎる時は、熊が吼えて引き戻した。
 颯真は楽しげに、手にした袋にドングリを集めている。
「ねえちゃーん、こっちにもあったよ!」
 嬉しそうに見せに来た袋には、ぎっしりとドングリが詰められていた。
「こんだけあったら、姉ちゃんも安心して冬眠できるよ」
 褒めるつもりだったが、颯真の表情には影が差した。熊はそれに気づいたが、どうして良いかは分からなかった。
「冬の間は、カナの言うことをよく聞いて、いい子にするんだよ」
「……うん」
 颯真は、今度は少しうつむいて結花に歩み寄り、熊の毛皮に顔を埋めた。
 結花が冬眠している間、颯真は村に預けられる。それを寂しがっているのだと分かる。分かるが、どう声をかけていいのか分からない。
 カナは、いつも喜んで颯真の面倒を見てくれている。というか、赤子の扱いに慣れない結花に代わり、颯真を育てたのは、ほとんどがカナだ。結花はひたすら、辺境警備隊の仕事や、呪医として近隣の村への往診、呪具の作成などをして金を稼いでいた。適材適所、颯真の暮らしや将来のために稼ぐのだ、と自分に言い訳しながら、実際は慣れない幼子の扱いから逃げていたのだという自覚はある。
 そんな自分をなぜ、この幼子はこんなに慕ってくれるのか分からない。最近では結花にせがんで、辺境警備隊の仕事にすらついてくる。その情愛にうまく応えられないことに、熊は罪悪感を覚えるのだった。
 自分なりに努力はしている。仕事をし、山の外にも出かけ、人間と交流するようになった。それでも毎年、熊は冬眠する。冬の間、山には食べ物がなくなるが、稼いだ貨幣で市場から保存食を買っておけば、冬眠は必ずしもしなくてもいい。それでも一冬眠ることを選ぶのは、きっと、証明がしたいからだ。『自分はまだ熊だ』、と。
 人の世界は匂いがうるさい。
 キンと冷たい冬の空気の中、身体を丸めて瞼を閉じ、暗闇の中で、雪の匂いを嗅ぐ。その中にこそ、自分の安寧はあるように思えた。
 颯真は、ぱっと駆け出した。
「もっと集めてくる!!」
 颯真が視界から消え、藪を漕ぐ、ガサガサという音がする。
「颯真、危ない、遠くに行ったら……」
 熊が声を上げた時、颯真の、わぁあ、という、叫び声が響いた。
「颯真っ?」
 その時、熊の鼻は、覚えのある匂いを嗅ぎ当てた。
 ガサガサと音がして、藪の中からニョキッと顔を出したのは、まるで熊のようにずんぐりした男だった。その手に襟首を掴まれているのは颯真で、ジタバタと暴れている。
「おー、チビ熊。前に辺境の仕事で会った時から、一年ぶりくらいか?すると、こいつはやっぱり颯真か。随分でかくなったな」
「来栖どの……何をされているのですか」
 熊は脱力した。

 ひとまず、来栖をねぐらへと案内した。
 この五年の間に、熊のねぐらの様子は様変わりした。
 村から入り口へと続く細い獣道が、まずそれだ。
 入り口の洞窟は石工を呼んで広げ、素朴な木の扉を取り付けて、呪術師の徴である小さな緑色の旗を掲げている。
 扉を開ければ、そこかしこに山と積まれた書物。これは、水凪や佐倉の長老から贈られたり、商人から買ったものだ。中でも宝物にしている九連博士の著した呪術学の本は、大切に机の上に飾っている。
 大工を入れて簡単な煮炊きのできる竈を作り、元からあった空気穴を利用して煙突も通した。今は竈の火は消え、調合した呪薬の鍋がそのまま冷まされている。
 木箱には、仕事先でお礼の品としてもらったり、農民らから買った果物や穀類が溢れている。
 以前と比べ、生活感というものがあるのだと思う。それも颯真がいるからだ。颯真が独り立ちしたらまた以前のガランとした部屋に戻るのだろうな、となんとなく感じている。
「ずいぶん食べ物があるな。二人分には多くないか?」
「もうじき冬眠するので、その準備です」
「えっ? おまえ、冬眠とかするのか? しまった! 冬眠中の心拍数や体温の観測機材を持ってくるべきだった!」
「やめてくださいよ! 冬眠中は気が立ってるんです! 夢うつつにあなたを殺しかねません!」
 結花は人の姿に戻ると、燐寸で竈に火を入れ、鍋で湯を沸かす。呪薬の制作に使った鍋だが、洗ってあるし大丈夫だろう。自作の柿の葉茶を急須に入れ、お湯を注ぐ。湯加減は適当だ。招いてもいない客である上、どうせ味など分かる男ではない。
 茶を持っていくと来栖は、床に膝をついて、壁の紋様を見聞していた。人の家で自由な男だ。そういえば、前に一緒に仕事をした時も、蝶を追って崖から落ちた来栖を、結花が背負って崖をよじ登るはめになったのだったか──。
 颯真はねぐらに着くなり仮面を被り、部屋の中だと言うのに頭から外套を被って、部屋の隅で四つん這いになり、ぐるると唸っている。熊が育てたせいか、颯真は時折、獣めいた仕草をするのだった。
 来栖は結花を振り返ると、
「颯真のやつ、また仮面被っちまった。綺麗な顔してんのにな」
「……あなたでも、綺麗とか思うんですね」
「そりゃ、思うさ。ここに来る途中に見た銀色の蝶も、薄青い花も綺麗だった。それに、おまえの熊姿の前脚の筋肉も綺麗だと思うぞ」
 それらを一緒くたにするのはどうかと思うが、一応褒められたらしい。
「それは、どうも」
 と、モゴモゴと答える。
「それで、今日は、なんの御用でいらしたのですか?」
「いや、ぽっかりと予定が空いたからな。おまえが古人の遺跡に住んでいると聞いてから、一度、見てみたかった。見てみたら、ずいぶんと面白いな。このあたり」
 来栖が、紋様の一部をなぞる。来栖の指が埃で真っ黒になったのを見て、結花は真っ赤になったが、来栖は頓着しない。
「古い呪術の一部を示しているようだ。こりゃ、しばらく逗留だな。じっくり調べたい」
すでに、背負った大荷物から機器を取り出し、本格的に調べるつもりでいるようだ。
 冗談じゃないと思いながらも、結花は押しに弱い己を自覚していた。
「うち、颯真と二人で精一杯なんで、泊まれませんよ」
「野宿でいいよ」
 せめてもの抵抗は、うまくはいかなかった。諦めて首を振る。
「そうもいかないでしょう。村の、私の知人の家に泊まれるよう頼んでみます。……颯真、カナのところにお使い行っておいで」
 颯真は、不服気な了承の唸り声を一声上げると、外に出て行った。
 それを見送って、来栖は不思議そうに問いかける。
「颯真のやつ、なんで仮面なんかしてるんだ?赤ん坊のときの火傷は、今はもうすっかり治ってるんだろ?」
 結花の脳裏に浮かぶのは、火傷に覆われた赤子の姿。伝染るのではないかと二人を遠巻きにし、我が子らを近づけまいとする、村の者達。
 颯真は未だに、村の子ども達の輪に入れない。
「……時間が経っても、忘れられないことだってあるんですよ。私は颯真に、無理をさせる気はないです」
 結花はそう言ったきり、黙った。
 しばらくの後、
「悪かったな」
 という声がした。驚いて顔を上げれば、
「疑問に思うと聞かずにいられないんだ。俺は、『暴く者』だから。俺の村では、生まれた時に占者に将来を占ってもらうんだが、俺はそう言われたそうだ。そう言われたからそうなったのか、元々そうだったのか、今ではわからん。分かるのは、そういう風にしか俺は生きられないってことだ」
 困ったように、自分のことを語るのは、来栖なりの詫びなのだろう。
 胸の内の黒いものがほぐれて、結花は、ほっと胸を撫で下ろした。
「自分が何者か分かっているのって、羨ましい気がします」
 そう言うと、来栖は、くしゃりと結花の髪を撫でた。

 その日の夕方、来栖を村に送っていくと、カナが駆け寄ってきた。
「あっユイカ、来た来た、水凪さんがいらしてるよ!」
 水凪がこの村に来ることは珍しくない。呪術具の制作依頼や解呪の依頼など、とかく厄介事を持ち込んでくる。今度はどんな難題を持ってきたのやらと、ややげんなりしてしまう。今は来栖のことだけで手一杯だった。
 水凪は来栖を見て呆れ顔になった。言い訳するように、手をひらひらと振る。
「今回は依頼じゃありません。来栖が結花どののところに行ったと聞いて、ご迷惑をおかけしてるんじゃないかと、来栖のお目付け役としては気になったわけです」
「誰がお目付け役だ」
「おまえが毒蜂の巣をつついて死にかけた時、山道を背負って医者のところまで運んでやったのは誰だ?」
 他愛のない掛け合いに、二人の親密さが垣間見える。結花の知らない信頼を重ねてきたのだろう。
「ジープだ、すごい、本物だ!」
「さっきのバイクもカッコよかったけど、ジープもいいな!」
 嫌な予感がした。
「……バイクに、ジープ?」
 結花が呟くと、
「バイクは俺が乗ってきた」
 と来栖が、
「ジープは私が。最近買ったんですよ、御者がいらない分、馬車より便利で」
 と水凪が言う。
 昔気質の村長の不機嫌面を思い出し、結花は気が重くなる。
「あの、この村の村長は、昔気質の方で、外つ国のものは、あまり……」
「いや、村長殿も最近は、なかなかに先進的になっておられますよ。特に、俺がお土産に持ってくる『ウィスキー』という酒がお気に入りのようでね」
 水凪がヘラヘラと笑う。
 結花は、空いた口が塞がらない。結花が颯真を引き取るに当たって、村長を説得してくれたのは確かに水凪だが、まさかここまで村長を籠絡しているとは。
「おい水凪、おまえも、しばらくいるつもりなのか?」
「来栖がいるんだから、お目付け役の俺も、必要だろう」
「まだ言うか」
 口論を続ける二人に、結花はため息をついたのだった。

 その夜、水凪と来栖を交えて、カナの家で一緒に食事を取っていると、カナが、結花を手招きして、耳元でコソコソと囁いた。
「ねぇねぇ、ユイカ。ユイカは、来栖どのと好きあってるの?」
「あの人は、ただの呪術学仲間だよ」
 どうしたら、あれが研究以外に興味があるように見えるのか。
「じゃあ、水凪どの? 顔立ちの整った方よね」
「あの人は、ただの仕事仲間」
 どうしたら、あれが、損得勘定以外に興味があるように見えるのか。
 カナの思考は、結花には意味不明だ。眼の前にある現実より、男女とはかくあるべしという思い込みを見て、それに現実を当てはめようとしている気がする。
 彼女と話すと疲れるのだが、かといって、彼女が嫌いなわけではないし、さんざ世話になっている気兼ねもあるのだった。
 ふと、カナの表情が曇った。
「……でもそうね、あの二人じゃなくたって、ユイカはいつか結婚して、村を出ていくのよね。そしたら、寂しくなる」
 本当に寂しそうなその声音に、結花は、こういうところがカナは憎めないのだ、と思った。
 藤乃とは違い、深く心が通じ合うことはない。が、過ごした年月の分だけ、情としか言いようのないものを、カナに感じていた。
 いつか颯真が巣立ち、結花が山に帰ったときには、やはり、カナは寂しがるだろうか。
 見回せば、颯真がいて、カナがいる。すっかり顔なじみのカナの夫は気のいい人物で、カナの子どもたちは珍しい客人にはしゃいでいる。水凪はなんだかんだ頼りになる仕事仲間で、来栖とは呪術への情熱を理解し合えた。
 今が永遠に続けばいい、と思うが、同じくらい、一人になりたかった。

 しばらくすると、来栖と水凪はすっかり村に馴染んでいた。来栖は、山に入って植物や生き物の採集をしたり、古人の痕跡を集めるのに夢中だったが、水凪は、村の子供達と遊んでやったり、颯真に剣の稽古をつけたりしていた。
「颯真には才能がありますよ。なんというんでしょうね、子どもだから攻撃は軽いんですが、教えたことは、砂が水を吸い込むように覚えて、型が崩れない。それに、まるで獣のような、妙な俊敏性がある。山育ちのせいですかね」
 結花は、義兄のことを思い出さずにはいられなかった。血とは争えないものだ。
 そんなある日、水凪が、結花と颯真をジープに乗せてやると言ってくれ、すっかりはしゃいだ颯真を見て、結花も厚意に甘えることにした。
「あんまり遠くには連れてってあげられませんけどね。ガソリンは関税がバカ高いもので」
 風が結花の髪をなびかせた。流れていく景色は、初めて見るわけでもないのに、やけに、物珍しく映る。
「動力だけ、呪力にできないんですか?」
「良い呪玉は、最近手に入りにくいんですよ。このあたりは、神域だけあって霊脈が枯れているということはないし、結花どのがおられますから、あまり影響はないのかもしれませんが」
 お世辞は聞き流し、
「霊脈が、枯れている?」
 と聞くと、
「ええ、あちこちでね。ちょうど、外つ国との国交が始まったくらいでしょうか。外つ国と、私達が住む大島の間に空いた穴から、神の霊気が漏れ出している、という噂ですよ」
 という。
 霊気が漏れ出したことで、こちらでは霊気が薄れたのなら、霊気が漏れ出した先の外つ国でも、何か異変が起こるのだろうか、と結花は考える。
「するといずれ、外つ国でも呪力が使えるようになったりするんでしょうか」
 気になって問えば、水凪は、虚を突かれたような顔をした。
「それは、考えたことがなかったな。……そうなると、我らの外つ国に対する優位性が、また一つ消えてしまいますね」
「優位性……」
「国が二つあれば、争いが起きる。特に、呪力に頼った我が国は、かの国から見れば、劣って見えるようですから」
 外つ国については、義兄の故郷ということを除けば、漠然と、呪力のないつまらない国、という印象を持っていただけだが、急にその存在が生々しく感じられた。
 あるいは、また、戦乱が起こるかもしれないのだ。私達十二姫の──否、この内つ国に暮らすあらゆる人間の運命を大きく変えた、あのような戦乱が、再び。
 顔をこわばらせた結花を横目で見て、水凪は話題を変えた。
「霊脈が枯れると言えば、白砂の霊地こそ、枯れてほしいものです。いつまであんな、非人道的な鎮守の制度を守らねばならぬのか」 
「……」
 人間社会と関わるようになって、結花も流石に今は、白砂の鎮守がどのようなものかは知っている。環境に適応した土着の一族を除けば、強大な呪力を持つ者以外は暮らせない、白い砂に覆われた、生命育まぬ死の土地。鎮守の役目を持たされた者は、そこで一人、荒ぶる土地を鎮め続ける。代わりの者が訪れるその時まで。
 九連博士のラジオが途切れてから、数ヶ月が経っていた。

「ねぇ、あの人達は、どこへ行くの?」
 キョロキョロとあたりを見回していた颯真が、何かを見つけて指さした。
 そこには、大きな荷を背負って、暗く疲れた顔で歩く一団があった。水凪が顔を曇らせる。
「ああ、思いの外遠くまで来てしまいましたね。あれは、流民の列です。住んでいた土地が呪毒に侵されて住めなくなり、新たな土地を探しているんです」
「住めなくなった?」
「元々土地を管理していた貴族が追放され、新たに領主に任ぜられた新興貴族の手には負えず、かといって体面から軍の派遣も要求せずに、荒れるがままになっています。そのつけを、民が支払わされている」
 颯真は、仮面の下の顔を曇らせた。
「あの人達、帰る家がないの?」
「どこでも見る光景ですよ、最近はね」
 冷たくすら聞こえる声音だった。
「呪術師の多くは、旧貴族に仕えていた咎で追放された。技術も知識も、その多くが途絶えてしまった。流民を救うには、優秀な呪術師が必要です。たとえば、結花どののようなね」
 その言葉に、颯真が、ぱっと結花を振り向く。
「ねーちゃん!」
 期待に満ちた声と視線を遮るように、目を逸らした。
「御冗談を。私などが、そんな大それたことができるはずがありません」
「ご謙遜を」
 水凪はいつもどおりの軽い口調だったが、結花はなぜかむきになってしまう。
「謙遜などでは。呪術の知識なら来栖どのの方が、交渉術なら水凪どのの方が、よほど優れておられます。熊の姿でさえ、本当に強い剣士にはあっさりと負けました。そんな中でどうして、自分を優れているなどと思えましょうか」
 人間社会で仕事をすれば、自分の未熟さを思い知るばかりだ。中途半端な机上の知識は役に立たず、ただ生まれ持った呪力の強さ、熊としての頑丈さと膂力だけが、結花を一応は呪術師と呼ばれるものにしてくれた。それを自覚しないでいられるほど、傲慢でいられなかった。
 しかし、返ってきたのは、意外な言葉だった。
「貴女は案外、傲慢でいらっしゃる」
 水凪は車を停めて、じっとハンドルを睨みつけていた。
「え……」
「呪術でなら私に、交渉術なら来栖に勝っている、とは思われないのですか。戦いで強者に負けることの、何が不名誉なのですか。すべてにおいて完璧でなければ意味がないと?貴女は他人にも、そう言えるのですか?」
 いつになく鋭い声音に、結花はうまく言葉が出ない。
「そんなことは……」
「あなたは熊人だ。人より何倍も膂力がある。俺は、あなたの作った呪符で救われた人を何人も知っている。あなたが無力でないことは、あなたが一番よく知っているはずだ」
 予想外の怒りをぶつけられた衝撃より、その言葉の内容が、ふと、結花に突き刺さった。自分はいつから、人からの褒め言葉をお世辞と切り捨て、非難だけを真実と受け止めるようになったのだろう。
『あなたはほんとに、とろい子ねぇ。』
 蘇るのは、母の笑い声だ。小さい頃から、何をするにも、人一倍の時間がかかった。人とうまくやっていけなかった。笑われることを、諦めることが身に染み付いた。山で熊として暮らすようになってからは、もう遠いはずの記憶。
『──あなたは完璧な存在よ。欠けたところなど、一つもない。』
 次に浮かんだのは、藤乃の声だ。
 いつの間にか、ジープは、再び動き始めていた。水凪は黙ったまま、運転に集中している。その横顔を見て、結花は、ふと、問いかけてみたくなった。
 佐倉の長老は、自分を、子熊を守る者だと言った。来栖は、自分を、暴く者だと言った。水凪にも、同じようなものがあるのだろうかと、気になったのだ。
「……水凪どのは、御自分を、どういう者だと思われていますか?」
 水凪は、ちらりと結花を見て、また、前方に目を戻した。
「『怒る者』、ですかね」
 先程彼が見せた、静かな激昂を思い出した。

 鍋の中の液体は、グツグツと煮え、濃い紫色に変わっていく。いい加減だ、と見定めて、火から下ろした。後は冷ますだけだ。
 結花は、ほう、と息をついた。呪薬の材料づくりは一段落し、いよいよ手持ち無沙汰だ。ねぐらには、来栖が壁の紋様を調べながら書き物をする、カリカリという音だけが響いて、がらんどうだった。颯真は水凪と出かけてしまった。。
「おまえ、都に行く気はないのか?」
 壁に夢中だと思っていた来栖が突然そんな質問をしてきたので、結花は驚いて、危うく飛び上がりそうになった。
「何ですか、突然」
「戦争の後処理もそろそろ終わる。軍が縮小され、戦で食ってた呪術師達が、どんどん市井に出てくるぞ。ここにもな。最新の学術研究を取り入れ続けなければ、すぐに競争に負けて、食い詰めることになる」
 淡々とした口調だが、その内容は厳しい。
「……ラジオがあります。九連博士の呪術学講座は、最新の情報も教えてくれます」
 言いながら、反論は予測していた。
「白砂の暮らしは過酷だ。九連の爺さんは、体調を崩しているようだ。ラジオだって、最近は休んでいるだろ」
 どんぴしゃりだった。結花はラジオに目をやった。長らく、自分と世界の唯一の接点であったもの。
「五年警備隊に勤めて、公認の呪術師の資格取れたんだろ。都に出て、師について呪術を学ぶなら、今しかないんじゃねぇのか」
 気のなさそうな口調なのに、重圧を感じるのはなぜだろう。
 考えてみる。都で学ぶ自分。雑然とした街。絶え間なく、そちこちで響く人の声。入り混じった機械の匂い。時間に追われ、忙しなく雑事に追い立てられる。──耐えられない、否。耐えるだろう。そして慣れる。何も感じなくなる。そのうちに、自分にとって大切なものを、そうと気づかぬ内に、すべて失っているのだ。
 御山は秋だ。紅葉は紅く、銀杏は黄色に。かぐわしい木の実の匂い。枯れ葉が腐って土に還っていく匂い。食べて寝て、いつか死ぬ。その単純さが、結花は好きだ。
「私は……熊です。呪術師の仕事がなくなれば、山で熊として暮せばいいだけ。たとえ、この山じゃなくても」
 口ごもったのは、そんなことを言えば、お説教が返ってくるという経験則だった。が、来栖は、
「そっか。……柄にもなく、余計なおせっかい焼いちまったな」
 と言って、照れくさそうに頬を掻いた。続けて、
「野生の熊に戻っても、山で珍しい生き物を見つけたら、いつでも俺に連絡してくれな」
 と言ったのが彼らしく、結花は笑ってしまった。
「それにしても驚きました。水凪どのに続いて、来栖どのまで、そんなことを」
「水凪が?」
「ええ、先日。ジープに乗せてもらった時に、少し」
「……詳しく聞かせてくれ」
 来栖は、珍しく、低い声を出して、結花は戸惑った。
 一部始終を話すと、来栖は、腕を組んで唸った。しばらく逡巡した後、来栖は顔を上げ、結花の目をまっすぐに見据えた。
「なぁ、こんなことは言いたくないんだがな、あいつのこと、信じないほうがいいぞ」
「え?」
「俺がここに来た本当の理由だ。とある情報を耳にした。この神域の御山に、都の研究者の手が入るらしい。外つ国の技術者達も一緒にな。先導しているのは水凪だ」
 結花は目を見開いた。
 馬鹿な、あの頑迷固陋な村長が、そんなことを許すはずがない。
 そう思った結花の脳裏に、『村長殿も最近は、なかなかに先進的になっておられますよ』という水凪の声が思い起こされた。
「あいつはあちこちで、古い呪術具を集めたり、呪術師を勧誘したりしている。この神域にある何かがほしいのか、あるいはこの御山を壊してお前を手元に置きたいのか──。いずれ、水凪には大きな目的があるのだろう。俺はあいつの目的は知らん。興味がない。だがただ静かに暮らしたがっている者の暮らしを壊すのは、間違ったことだと思う。だからお前に警告しに来た」
 来栖は淡々と話すが、結花は動揺で息もつけなかった。
 一番に思うのは、あの虹色の魚のことだ。人に知られれば、きっと狩られ、欲望に満ちた手が、あの美しい鱗を一枚残らず剥ぎ取ってしまう。そう思って、颯真にすらあの魚のことは話していなかったのに。
「とにかく気をつけろ。おまえも、颯真もだ」
「颯真……!?」
 なぜそこで、颯真の名前が出てくるのか。
「まだ報道されていないが、南雲春一郎が大きな戦で勝ったそうだ。彼の敵対者にとって、颯真ほど有効な人質はいないだろう。いよいよ、颯真の存在に価値が出てきたというわけだ。おそらくは、水凪が予期していたとおりにな」
 最後まで聞く前に結花は熊に変じ、颯真の匂いを探す。
 颯真の匂いは、あの氷の洞窟の中にいた。水凪の匂いと一緒に。

 熊は、洞窟の中を駆ける。今だけは、熊の膂力より、カモシカの脚が欲しかった。
 ──藤乃。
 あなたと一緒に糸塚に行っていれば、あなたを守れただろうか。
 結花が熊の太い腕で、藤乃に襲いかかろうとする敵を打ち倒し、藤乃と二人で笑い合う。そんな光景を、藤乃が死んでから、何度も何度も夢見た。
 ──颯真。
 あの御守を藤乃が持っていれば、藤乃は死ななかったのかもしれないと思ったこともある。『呪われた子供』が生まれたことが、藤乃の死の一員となったことも分かっている。
 だが。
 まだ言葉も覚束ない子どもに、なりふり構わず、呪力の制御を教え込んだ。厳しいを通り越して、非道であったという自覚はある。やりきれない怨恨をあの子にぶつけたのではないかと、そんな自覚もある。恨まれても仕方がないと思った。
 なのに、あの赤子は、結花が触れると、苦しい息の中嬉しそうに笑って、小さな手で結花の手を握ったのだった。

 やがて、氷の洞窟に辿り着いたときには、すっかり息が切れていた。水凪は地面に座り込み、感心したような顔で氷の天井を見上げている。
「すごいですね、ここは。来栖が見たら喜ぶだろうなぁ」
 いっそ無邪気な声だった。結花は黙って息を整える。目線で颯真の姿を探した。颯真は、水凪のそばで目を閉じて横たわっていた。
「ああ、颯真は疲れて寝ているだけです。麓からここまで、随分な距離がありましたからね」
「どうして、ここが……」
「発信機、ってご存知ですか?対象の居場所を補足するための、外つ国の技術です。あなたの腕輪に仕込んでいました」
 熊はハッとして腕輪を見下ろす。公認呪術師の証である腕輪。外すのが面倒で、熊姿の時も身に着けたままにしていることが多かった。
「おかげで、この御山の構造もだいぶ把握できましたよ。そしてあなたは、この場所で長く過ごすことが多かった。──ここに、何かあるんでしょう?」
 熊は水凪に飛びかかろうとした。が、次の瞬間、火薬が炸裂するような音がして、目の前が真っ赤になるほどの痛みを覚え、地面に倒れ伏した。痛みのあまり、身体が人間の姿に戻っていく。肩から血が流れていた。
 青ざめ、唇を震わせながら顔を上げれば、水凪がなにか黒いものを結花に向けていた。
「銃です。本当なら、この程度の小さな銃では熊には効きませんが、そこは弾丸に呪術を込めてみました。外つ国の技術と、内つ国の技術の掛け合わせ。なかなか効くでしょう」
 水凪は困ったような顔をした。
「本当なら、あなたを傷つけたくなかったのですよ。この御山に開発の手が入り、行き場を失った傷心のあなたを俺が保護する──という筋書きを描いていたのですがね。来栖の奴、余計なことをしてくれる」
 そう言う水凪の声には情愛が籠もっていた。来栖への友情は、少なくとも本当なのだろう。
「ん……いまの音なに……、っ? ねえちゃん! どうしたの?」
 銃声で目を覚ました颯真が、倒れた結花に駆け寄ろうとする。が、水凪に拘束されて、それは叶わない。
「水凪さん? 水凪さんがやったの、なんで」
「静かにね。今、お姉さんと話をしているから」
「はなして……っ!」
 颯真はとっさに呪力を高め、炎を放った。青い炎は水凪の身体を焼き尽くすはずだった。が、水凪は手の一振りで、それを鎮めてしまった。
 結花は目を見開いた。水凪が呪術を使えるなんて、聞いたこともない。しかも、颯真の呪力の威力は、呪術師にだってそうそう耐えられるものではないというのに。
「あなたと同じですよ、糸塚の末の姫。戦争中は、どの国でも強い呪術師を必要としていた。糸塚が旧き家の女達を集めて交配したのと違って、俺の国では試験管と呪薬を使って子ども達を生み出した、ただそれだけの違いしかない」
 あまりのことに、息を飲む。
 それならば、目の前のこの男は、自分と同じだ。戦争のために作られた子ども達。故に、その後に続く言葉も、想像がついた。
「だが、戦争は終わった。俺達は用済みに、消し去りたい過去になった。幸い俺達のことは国の機密だったから、後は秘密裏に葬り去ればそれでいいだけ、なんとも簡単だったろう。──だが俺は、偶然にも生き残ってしまいました。九連博士のところに引き取られて、あなたの義兄ともしばらく一緒にいましたよ。九連博士が白砂に行ってしまい、その後は転々と。今の人脈を得るまでには、それなりに苦労もしましたよ。黒いことも、いろいろね。あなたの義兄を陥れたり」
 冷たく笑う男の瞳に、不意に焔が灯る。
「今の内つ国の権力者達はあまりに愚かだ。呪術は内つ国が外つ国に対抗するための、たった一つの武器です。それを捨て、呪術師達を追放して、外つ国の技術に追従しようとしている。馬鹿馬鹿しい、いつまでも追いつけずに属国にされるのが目に見えています。ついには、九連博士を──あんなに国を思っていた人を白砂に追放するなんて。
 内つ国に平和を。それが俺が作られた理由です。ならば、全うしてやろうじゃないですか。強い呪術師達を集め、古代の呪術具を集め、そして革命を起こし、権力をかっさらう。──隠れ、怯えて生きる、奪われるばかりの人生にはおさらばです。俺達が本来得るはずだったすべてを取り戻してやる」
 その声に秘められた怒りは、結花に、五年を過ごした、狭く汚らしい牢獄を思い出させた。次いで、故郷を去る自分たちの馬車に浴びせられた罵声と、投げられた石を。
「あなたも同じでしょう、糸塚の姫。俺達は兄妹のようなものだ。手を組みませんか」
 結花は目を瞑る。

 あなたの気持ちが分かる。私の中にも確かに、その怒りがある。
 それは暗く熱く、熾火のように燻り、いつも胸の中にあった。
 だが、あの魚に、そして藤乃に出会った。ハルと話した。颯真と過ごした。失った、あるいは、失おうとしているものであっても、思い出すその光景は今も、光に満ちている。
 だから私は、この怒りに人生を懸けることはできない。

 言葉は出なかった。だが、結花の瞳と引き結んだ唇は、雄弁に彼にそれを伝えたようだった。水凪の瞳に、少しだけ傷ついたような色が浮かんだ。
「残念です、結花どの。あなたとはここでお別れのようだ」
 水凪がもう一度銃を構える。その時だった。水凪の顔に、大きな影がかかる。水凪は顔を上げると目を見開く。そこにはあの、虹色の魚がいた。
「虹色の鱗、まさか、これがこの神域の龍か……!」
 水凪は両手で銃を構え、虹色の魚を狙う。
「やめて……っ!」
 結花は声を上げる。水凪の手から開放された颯真が逃げ出して、結花に駆け寄り、縋り付いた。結花はその身体を抱きしめた。
 銃声が鳴り響く。
 特殊な呪術をかけられていたに違いないその弾丸は、分厚い氷の壁をいとも容易く貫通し、魚を撃ち抜いた。
 結花の今度の悲鳴は、言葉にならなかった。
 魚は苦痛に身体をのたうち、氷の壁に身体をぶつける。その衝撃で洞窟が揺れた。そして、血の紅い線が、水の中に幾筋も流れる。そして魚は去っていく。泳ぐと言うより、水に流されて。
 結花は絶望に震えてその姿を見送ることしかできなかった。
 氷に空いた穴から、勢いよく水が流れ落ちる。地面が水浸しになり、結花の足を濡らしていく。
「流されてしまいましたか……。死体は後で探しましょう。それより」
 水凪が銃口を再び結花に向けた。結花は唇を震わせる。
「颯真は、颯真だけは」
「はい、颯真は殺しません。大事な人質ですから」
 水凪は笑う。結花は目を閉じて、もう一度、颯真を強く抱きしめる。
「颯真。危ないから、姉ちゃんから離れて」
「いやだ!」
 颯真は結花に縋り付いて離れない。結花は颯馬の肩を強く掴んで引き離す。その目をまっすぐに見た。
「ねえちゃん、やだよ。俺、呪術も剣も使えるようになった。あんな奴からねえちゃんを守れるよ」
「──颯真。駄目な姉ちゃんでごめん。あなたを最後まで守れなかった。でもずっと、あなたを大事に思っていた」
 そして結花は、颯真の身体を突き飛ばした。
「ねえちゃん!」
 颯真に笑いかけようと思ったが、恐怖でとてもそんな余裕はなかった。最後まで不格好な人生だ。引き金にかかった水凪の指に力が籠もるのが見える。死を覚悟して、目を閉じた。
 次の瞬間、悲鳴が上がった。
 結花のものでも、颯真のものでもない。
 水凪の悲鳴だった。銃を持ったその腕が身体から切り離されて、地面に転がっている。
「よぉ、水凪。何年ぶりかな。うちの息子と義妹が、世話になったようだな」
「──ハル!!」
 そこに立っていたのは、南雲春一郎。糸塚の王の養子にして、外つ国から来た無敗の剣士だった。
 彼は一人ではなかった。幾人もの兵士達が水凪を囲み、剣を向けている。
「……南雲、か。もう、あの包囲網を抜けていたとは……」
 水凪は、苦痛に膝を付き、脂汗を流していた。
 先程まであの男に殺されようとしていたのに、その光景に結花は動揺する。彼と過ごしたこの五年間が、頭を巡る。
 水凪と結花の目が合う。結花の唇が、ほんの少し、自分にすら判別がつかないほど小さく、『にげて』と動いた。
 次の瞬間、視界は白く染まる。煙幕の呪術だった。煙幕が晴れた時、水凪は消えていた。
「逃げたか。追え!」
 ハルの号令で、兵士達が散っていく。
 後に残されたのは、ハルと結花、そして颯真だった。
 颯真は、結花の背に隠れ、結花の服の裾を握った。ハルは、そんな颯真を見て、情愛と戸惑いの入り混じった、なんとも複雑な顔をして、颯真の前に跪く。
「──顔を見せてくれないか」
 ハルがそう言うと、颯真はおずおずと仮面を外した。母親に瓜二つのその顔が顕になる。ハルの目に、涙が滲んだ。
「よく、姉さんを守ったな」
 ハルが颯真の頭を撫で、颯真は少し赤くなって俯いた。
 それを見て結花は、颯真が自分の元から旅立っていくことを悟った。思っていたより、ずっと早かったけれど。颯真の目は未来へ向かう希望で輝き、結花の目にそれは、不出来な姉だった己への赦しに見えて、そっと俯いた。

 ハルは立ち上がると、公人の顔になって結花に目をやった。
「仁科結花。糸塚はおまえの復権を決めた」
 意味を悟れず、立ち尽くす結花に、
「お前の、この地での呪術師としての働きが認められたのだ。おまえは王族には戻れないが、貴族に列せられ、糸塚に呼び戻される」
 と残酷な言葉が続けられる。おそらく、この義兄にとって、それは善意なのだ。だが。
「私は、そんなことを望んではいません」
 震える声は、自分のものとも思えなかった。
 分かっている。あの父王がそう決めて、この義兄がそれを伝えに来たということは、それはもう、
「決定事項だ」
 ──そういうことなのだ。

 いつか、いつかは、この日々が終わるとは分かっていた。安寧など、永遠に続くものではないと知っている。
 でも、今ではない。こんな形ではなく、いつかどこかの崖で、足を滑らせて動けなくなり、人知れず死に、ひっそりと土に還る。そんな終わりを、まだ夢見ていたかった。
 結花はハルに背を向け、熊に変じて駆け出した。
 洞窟の中を、目的地もなくひた走る。驚いた顔の兵士と危うくぶつかりかけた。
 人間の匂い。嗅ぎなれたその匂いが、この洞窟の中ですることに、また涙が滲んだ。
 いつの間にか方向を見失っていたのだろう、行き止まりの道に入ってしまって、急には止まることができず、行き止まりの岩壁に、したたかに身体をぶつけた。
 衝撃で倒れ込み、そして、ボロボロと涙を零す。
 分かっている。大人にならなければいけないのだ。
 過去の憎しみを押し殺し、糸塚のため──いや、それはさすがに無理だ──あの義兄と颯真のために力を尽くす。己の子どもじみた望みなど捨て、妹として、姉として、その義務を果たすのだ。それが結花に課せられ、許された、唯一の道だ。
 この場所とて失ってしまう。否、もう失ってしまった。
 戻らなければいけないとそう思い、帰る場所を探すために、鼻を蠢かせて匂いを嗅いだ。その鼻に、匂いが届く。
 あの魚の匂いだ。
 熊は目を見開き、そして、立ち上がって走り出す。
 網のように張り巡らされた洞窟の中を、匂いだけを頼りに、魚のいる方角を追う。道が狭くなり、熊の巨体では通れなくなった。視界に映る獣の前脚が、白い少女の手に変わる。裸足のまま、再び駆け出した。足の裏に痛みを感じるが、構ってはいられない。
 今度は、匂いの代わりに呪力を辿る。道というより亀裂のような隙間を、時に這い、時に身をよじりながら進む。行き止まりにたどり着いては別の道を探すうち、あっという間に方角を見失った。ただ、何かに突き動かされるように、あの魚の呪力だけを追う。
 つんのめって、岩肌に手をつく。また行き止まりか、と息を吐いた。その時、岩肌を撫でた手が、明らかに違う感触に触れ、結花は目を見開いた。苔が放つ淡い光だけの、効かない視界の中、もう一度、ゆっくりとその場所を撫でる。
 明らかに人が彫った模様。
 結花が暮らすねぐらの、あの扉と同じ。
 全身の体重をかけて、ぐっと押すと、鈍い、軋んだ音とともに、扉が開いた。
 途端、耳をつんざくほどの轟音。水しぶきが顔にかかる。そこには、巨大な空洞があり、空洞の天井には、外に繋がる洞穴が空いているらしく、かすかに光が差し込む。その天井から、滝が流れ落ち、その瀑布が、地面を水で満たしていた。結花が立っているのは、水の上に、蜘蛛の巣のように張り巡らされた、細く古い橋だった。
 結花は、その空間を見回して、息を飲む。胸にあるのは、もはや、焦燥ではなかった。かつてここにいた、おそらくはただの人の身でありながら、この場所にたどり着き、この橋を作り上げた人間たちへの、感嘆であり、尊崇の念に、心震わせるのだった。
 やがて目が慣れると、滝の大瀑布の中、何かが蠢くのが見えた。
 あの虹色の魚が、そこにいた。魚は流れに逆らうように、鱗は、どんどんその輝きを失いながら、魚から剥がれ落ちていく。剥がれ落ちたその中から、黒い何かが見える。それは次第に、青緑色の光を放ち始めた。魚が大きく口を開いた、その口の中から、鋭い牙が現れる。眼光は金色に輝き、腹からは、歪曲した鉤爪のついた、手足が生えた。
 ずるり、と、鱗が剥がれ落ちていく。そこに現れたのは、青緑色の鱗に長い体躯をした、巨大な蛇のような生き物。だが、蛇では断じてあり得ない。
「龍……」
 結花の唇から漏れた呟きに、龍は、一度だけ、結花を振り返った。
『──なんだ、ヒトか。』
 そんな、軽蔑したような一瞥だけを残して、後は結花に目もくれず、龍は一声、雄叫びを上げ、滝を登り、その姿は見えなくなる。
 結花は放心して、その場にぺたりと座り込んだ。落とした視線に、白く光るものが映る。龍から剥がれた鱗だろうかと思ったが、どうやら違うようだった。砂粒のような、白く丸い粒が、水底で光っている。
 掌で掬い上げると、その粒は、輝きを強めた。
 同時に、身の内から、呪力の熱が沸き起こった。結花が、呪力を引き出したのではない。この粒と、結花の持つ呪力が共鳴しているのだ、と気づく。
 粒は、見る間に膨れ、その半透明の膜の中に、何かがうごめいた。それは、小さな魚の姿となり、膜を突き破ると、結花の掌から逃れて、ポチャン、と水の中に逃げ出して、すぐに見えなくなった。
 水底にあるこれらの白い粒は、あの龍、虹色の魚の卵なのだ。
 結花は、張り巡らされた橋の中に、一部分だけ、装飾の成された欄干のついたものがあることに気がついた。
 フラフラと、そちらに歩み寄り、橋に沿って歩むと、そこにもまた、岩壁に扉が取り付けられていた。
 ぐ、と力を籠めて、扉を開ける。
 風が顔に吹き付け、視界が開けた。
 眼前に蒼穹の空、眼下には一面の白い荒れ地が広がり、僅かに、背の低い叢だけが、命の徴を示している。北の砂漠だ。どうやら、山脈の北側まで、結花は駆けてきたらしい。一筋だけ流れる細い河は、遠く、白砂の地に繋がっている。
 不意に雲が晴れ、紅い夕陽が、河にその光を射し込んだ。
 紅く染まる水の中、その紅に染まらず、白く輝く光がある。それはまるで、無数の星のように煌めいて、水の中を流れていく。
 龍の卵たちが、この御山から河を伝って、流されていくのだ。遠く、白砂の地まで。
「白砂……」
 その地の名に、改めて気がつく。
 生命持たぬ、白い砂の地。それはもしや、あの卵達の流れ着いた、吹き溜まりなのではないか。そこで生き延び、孵化に成功した龍の子だけが、河を遡り、この御山にたどり着き、龍に変じる。おそらく、長い、長い時間をかけて。
 遠い夕焼けの空に、彼方へと飛び去っていく、あの龍の姿が見えた気がした。

 かつて、ハルに聞いた。外つ国では、この島国は、かの国から葦船に乗って流された神が、漂着してできた場所なのだと言われていると。
 それが本当なのかは分からない。ただ一つ確かなことは、あの龍は、どこかから来て、どこか遠くを目指している。その、大きな流れの中に、自分は偶然にも立ち会えたのだ。
 そして思う。
 九連博士の後継者として白砂に行きたいと、そう願ったら叶えられるだろうか。
 呪力の強さは問題ない。それに、白砂の鎮守が身内にいることは、父王にも義兄にも有利に働くだろう。
 だが、颯真の成長は見られなくなる。ずっと可愛がってくれた佐倉のじいさまを、悲しませることにもなるだろう。
 ずっと流されるまま、人との衝突を避けて生きてきた、そんな私に、自分の意思を押し通すことができるだろうか。
 この御山には、すでに人の手が入った。長い長い時間の後、魚たちが戻ってきた時、ここは、魚たちにとって、いい場所ではなくなっているかも知れない。
 先程の小魚は、結花の呪力に反応して、卵から孵った。
 それならば、白砂の地で、魚たちが龍へと変じるために、結花ができることがあるかもしれない。
 怒りには人生を懸けられない。大義のためにも生きられない。愛は、背負うには重すぎる。
 だが、目の当たりにした、この美しさのためになら、生きられると思った。あの虹色の魚に惹かれたのも、藤乃に心奪われたのも、きっと同じこと。
 熊であれ、人であれ、関係ない。結花は、美に仕える者だった。そう生まれついたのだ。それが良いか、悪いかはともかく、それは変えられないことなのだ。

 白砂に行けば、今よりずっと、一人ぼっちになるだろう。それを心から望んでしまうのは、人間社会への裏切りだろうか。
 ──否。
 世界は繋がっているのだ。この御山で熊として暮らそうと決意してさえ、結局、人間社会との繋がりは切れなかった。たとえこの先どう生きようと、どんな形であれ、結局、どこかで人と関わり、支え合ったり、憎み合ったりするのだろう。
 結花の作る呪符が、今も誰かを助けているように。九連博士のラジオが、ずっと、結花を支えてくれたように。
「ああ、そうだ」
 結花は笑った。
 来栖は、あるいは白砂まで来てくれるかも知れない。大きな荷物に機材を詰めて、まだ見ぬ不思議を探して。
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