『獣の王』

今野 真芽

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第八章

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 宮殿には地下牢があった。サリナはその地下牢の外から、牢の中で怯え、震えているアニスを見下ろしていた。アニスの足元には子兎がおり、慰めるように寄り添っている。子兎がそうしたいと望んだので、サリナも許したのだ。
「……『村に帰せ』とはどういうことか、教えてちょうだい」
 声だけは冷静にそう聞いたが、内面は、冷静どころではなかった。アニスは震えながらも、その美しい黒曜石の瞳でサリナをまっすぐに見つめた。その腹は一見平坦に見えるが、そこには赤子が宿っているのだと、アニスは言う。
「お願いします。決して森から出ることはしません。森の入り口で子どもを産み、村の人達に預けたら、すぐに戻ってきます」
 その哀願は美しさと相まって哀れをそそるものだったが、サリナは心動かされることはなかった。冷たい目で、サリナを見下ろす。
「それを私に信じろと? あなたが逃げたら、私は獣に堕ちるのに」
 アニスはぐっと言葉を詰まらせたが、やがて言葉を発した。
「私のお腹の子は、死んだ恋人の子です。私を守ろうとして、『闇の森』の獣達に殺されました」
 目線で続きを促すと、アニスは話を続けた。
「妊娠が分かったのは、またあなたが来る前。ここに連れて来られてからです。『獣の王』は愛を持たぬ存在。子どもが生まれたら、きっと殺されてしまうと思いました。だから私は、あなたを誘惑しようと思いました。早い内にあなたと寝て、あなたとの子どもだということにしたら、子どもも生かしてもらえるだろうと。でも……」
「新たな『獣の王』としてやって来た私は女だった。──だから、私に気に入られようとしたの? ああ、それとも私の気を緩ませ、その隙に逃げようと?」
 アニスは目を見開き、大きな声を出した。
「違います! いいえ、確かに、子どもを生むときは森の端まで逃げるつもりでした。でも、あなたと過ごす時間は、本当に楽しかった、少しずつ私を癒やしてくれた、それは本当です! だから決して森から出はしません。そして必ず戻ってくる、信じて!」
 サリナはため息をついた。
「……『獣の王』の妻は、処女(おとめ)がなるものだと猿が言っていた。処女でないことを話したら、あなたは助かったのではないの?」
「言いました。でも、あの猿が──多少のことはいい、一番美しい女を寄越せと。村の皆は、契約違反だと怒りましたが、猿は聞きませんでした。古の契約により、人間は、剣と矢をもって獣に攻撃することが許されていない。──戦いは、一方的な殺戮でした」
 死んでしまった人達のことを思い出したのか、アニスは俯いた。その頬を一粒の雫が伝って、顎から滴り、牢の冷たい床に落ちた。
 サリナは、アニスから目を逸らした。アニスを森の端まで逃がすことの危険性はあまりに高かった。だがそれ以上に、秘密を持たれていたこと──そして、アニスがおそらくこっそり逃げようとしていたことは、サリナをひどく傷つけ、怒らせた。
 いつの間にか、アニスを自分の妻、自分に属する者と考えていた自身に気づく。
「とにかく、私に頭を冷やす時間をくれ。それまではここで──」
「あ──」
 アニスの上げた声に、サリナは振り返る。
 アニスは腹を押さえて身体を丸め、うずくまっていた。
「お腹、いた、産まれる──っ」
「アニス!?」
 サリナは思わず牢の格子を掴み、揺さぶる。鉄の格子がガチャンと音を立てた。
 アニスの足元に寄り添っていた子兎が、サリナに駆け寄って見上げた。
「『獣の王』よ。どうか、私の母を呼ばせてください。母は兎の姿をしておりますが、元々は産婆でした」
 サリナはとっさに牢の鍵を開けて子兎を外に出した。
「急いで!」

 牢では不衛生だろうと、アニスを抱きかかえてアニスの部屋まで運ぶ。本で読んだ知識に従い、とにかく火を起こし、湯を沸かしているうちに、元産婆の兎が宮殿にたどり着いた。その指示に従ってサリナは動く。アニスもまた、産婆の兎に励まされるまま、いきんで、呼吸を繰り返し、とうとう赤子を産み落としたのだった。その赤子は、随分な早産で生まれたにもかかわらず、元気な産声を上げた。男の子だった。

 アニスも赤子も眠ってしまい、疲れ切ったサリナは廊下に出て座り込んでしまう。その傍らに座る影があった。猿だ。
 猿は囁く。
「なんということでしょう。王を裏切る不貞の女。王妃にふさわしくありません」
「……おまえが、彼女の恋人を殺して、彼女を無理やり連れてきたのでしょう」
「処女でないのは存じておりましたが、まさか妊娠しているとは」
 猿は臆面もなく言った。
「──憎いのでしょう? あなたを騙していた彼女が。あなたから逃げようとしていた彼女が。殺してしまえばよろしいのです。あの赤子ともども、爪で身体を切り裂き、牙を突き立てて、その柔らかい身体を喰らえば、どれほど美味いことでしょうなぁ──ねぇ、『獣の王』よ」
 猿はニンマリと笑った。
「あなたが殺すのを禁じられているのは、獣だけで、人間ではないですよ」
 あの賊の血に酔った時のことを思い出す。
 あんな薄汚い男たちの血が、あれほどに芳しかったのだ。アニスの血は、果たしてどれだけ芳醇な香りを漂わせているだろうか──。
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