『獣の王』

今野 真芽

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第五章

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 意外なことだが、サリナは森での生活を気に入った。
 何よりも匂い──熊となってから感じる、豊富な匂いがそこにはあった。土の匂い。土の下で蠢く虫の匂い。木々や草葉の少し青臭い匂い。木の実や果実の甘酸っぱい匂い。魚の生臭さ。水の清涼な香り。その豊富な匂いがひしめき合い、絡み合って一つの生態系を作っているのがサリナには感じ取れた。
 そして、そこには静寂があった──といっても、なんの音もしないというわけではない。梢のざわめき。鳥や虫の鳴き声。水の流れる音。だが、それらは人の話し声のようには、サリナを煩わせなかった。
 自由だった。サリナはもはや獣であり、『普通の人間らしく見えるよう』己を取り繕う必要がなかった。サリナが森を歩けば、獣達は平伏してそれを見送った。彼らと語ることはなかった。
 サリナは時に木に登って木の実や果実を食べ、時に土の下に舌を伸ばして蟻を舐め取り、その甘酸っぱい味を楽しんだ。そうすることに抵抗はなかった。
 サリナが唯一、人間だった頃の自分を思い出すのは、妻のアニスと話をするときだけだった。その時だけ、サリナはアニスの不幸な境遇を思い、『誠実と利他の精神』という生家の家訓を思い出し、できるだけアニスに優しく接するよう努めるのだった。
 アニスは熊のようには食事ができない。モリブ村の者が毎日、食べ物を捧げものとして籠に入れて森の入口に置き、それを狼が咥えて宮殿まで運ぶのだった。
 アニスは殆ど宮殿から出ず、掃除やサリナの世話をして毎日を過ごしていた。そう根を詰めずともよい、とサリナが言ったこともあり、掃除については普段使う玄関やサリナの部屋以外は行き届いていないが、サリナは気にしない。
 サリナが森から泥や土に塗れて帰ってくると、アニスは水に濡らした布でその泥を落とし、乾いた布でサリナの毛皮を拭き取って乾かした。華奢な手に優しく毛皮を撫でられるのは心地よく、サリナは目を細めた。

 そんなある日のことだった。いつものように森を歩いていたサリナは、血の匂いを嗅ぎ取った。そちらへ向かえば、苦痛の呻きが聞こえてくる。
 そこには一匹の鹿がいた。崖から落ちたらしく、脚の骨が折れている。鹿は、恐れるような眼差しでサリナを見上げた。
 驚いたことには──その血の匂いは大変に芳しく、怯えた眼差しはサリナを興奮させた。倒れて動けずにいるこれは獲物であると、そう本能が告げたのだった。
 いつのまにか樹上にいた猿が、サリナの横に降り立つ。
「おお、『獣の王』よ。放っておけばよろしい。『闇の森』の獣は決して死ぬことはないのです。食事すら必要ない。この鹿も、一月もすれば自然に治り、勝手にどこかに行きます。──その前に少々、虫に集られウジが湧き、不快な思いはするでしょうが。それとも王よ、この芳しき血の匂いを、もっとお望みかな? ならばちょちょいと、その爪で抉ってやればよろしい。何、血の匂いを楽しむだけです。喰わなければいいだけのお話」
 愉しげな声だった。その声に誘われるように、サリナは鹿に歩み寄った。鹿が小さな悲鳴を上げる。
 だが、サリナは鹿に爪を立てることも、牙を立てることもなかった。代わりに、その強靭な腕で鹿を持ち上げ、背に背負って歩き出した。猿が目を丸くしてそれを見ている。
 鹿を連れて宮殿に戻ったサリナを見て、アニスは目を瞬かせたが、表情は変えなかった。
「怪我をしている。手当してやってほしい」
 とそう告げても、はい、と答えただけで、動揺した様子はない。サリナは鹿を、できるだけ自分の部屋から離れた、使われていない部屋の一つに降ろした。後をアニスに任せると、自分は身を清めに近くの池に向かった。血の匂いは、まだサリナの身体を昂ぶらせていた。
 今すぐ鹿のもとに戻り、その傷口に牙を突き立て、血を啜りたいという衝動があったが、それをこらえて池の水に浸った。冷たい水が心地良い。潜って泳げば、時折水草がサリナの身体を撫でた。
 宮殿に戻ると、アニスが乾いた布を持って待ち構えており、ずぶ濡れの身体を拭いてくれた。
 腕に嵌められた腕輪の薔薇が、その色をまた少しだけ濃くしていたが、サリナは気づかなかった。

 新たな『獣の王』が、怪我を負った鹿を助け、王妃に手当させたというその噂は、瞬く間に『闇の森』の獣達の間に広がった。
 獣達は顔を見合わせた。
 今までの王は、獣を助けることなどなかった。逆に牙や爪を突き立て、血の匂いを楽しみ、そのかぐわしい肉を喰うことができない苛立ちを、獣たちへの暴力という形で発散させていたぶった。なのに此度の王は、血の匂いに負けることがなかったという。
「今度の『獣の王』は、なにかが違うのかもしれない」
「もしかしたら──」
 もしかしたら、今度こそ、我らを解放してくれる王なのかもしれない。そう口に出せる者は、まだいなかった。
 期待して、その期待が砕け散った時の痛みを、誰もが生々しく覚えていた。
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