『獣の王』

今野 真芽

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第二章

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 果たして、すぐ翌日、王城からの招集があった。異例の事態だ。王城へ向かう馬車の中、両親は重苦しく沈黙し、ハルマだけが状況を分からずにはしゃいでいた。
 集められた貴族達は、玉座の間に案内された。給仕が飲み物の載った盆を持って回る中、誰もが不安げな顔を見合わせている。『闇の森』、『獣の王』という言葉があちこちで言い交わされている。
「今回は二十年か。まだ長く保ったほうじゃないかね。あいつは我慢強い男だったから」
 そんな老人の声に気を取られて、サリナは自分が給仕の盆から取った飲み物が酒だということに後から気がついた。匂いだけで分かる強い酒精に、飲む気にならず、置く場所もなく手に持ったままにする。
 やがて、
「静粛に!」
 という声とともに、玉座の間に王が現れた。王は沈痛な面持ちで玉座に座ると、皆を見渡した。
「『獣の王』が身罷った」
 その言葉に、ざわめきが広がる。やはりか、という声がする。
「今代の『獣の王』がその座についたのは、二十年前だ。事情を知らぬ者もおろう。改めて説明する──」
 王は息を吸い込んだ。それは長い話だった。
「初代の王は山脈の向こうより旅をしてこの地にたどり着き、この国を建国した。だが、その旅の途中、『闇の森』を越えねばならなかった。『闇の森』には恐ろしい『獣の王』がいて、獣達を統べていた。『闇の森』に留まった者は、己が獣になる。だが、抜け出すには『獣の王』を倒さねばならぬ。初代の王は『獣の王』を見事討ち果たし──代わりに呪いを負った。以後、王の血筋から、代々の『獣の王』を輩出せねばならなくなったのだ」
 事情をすでに知っているものも、知らなかったものも、息を詰めてその恐ろしい話を聞いていた。
「王は己の第一子を森に置き去りにし、『獣の王』とした。それから数年。『闇の森』から使者が来て、『獣の王』が身罷ったことを告げ、次の『獣の王』を選定するよう要請した。それからずっと、『獣の王』が身罷るたび、王家の血を引く者の中から、次の『獣の王』を選んできた。『獣の王』は森の獣を統べ、人間に危害を加えぬようにするが、それが身罷れば獣達は国を襲う。──そして今、再び」
「『闇の森』の使者として、私が参ったわけでございますなぁ」
 悲鳴が上がる。いつの間にか、玉座の横に飾られた、美しい大きな花瓶の上に、服を着た巨大な猿がいた。毛むくじゃらな身体。皺だらけの赤ら顔にニタリと浮かべられた笑顔は、見るからに邪悪だった。
 王の話を遮るというこの上ない無礼を働いたその猿は、王の不機嫌な目を気にした様子もなく、居並ぶ貴族たちを舐め回すような目線で見回す。
「それで、次なる王の決め方は、いつもどおりでよろしいのですかな?」
 猿の言葉に、王は頷く。
「ああ。──用意せよ」
 傍に控えていた侍従が、古い木の箱の蓋を開いた。中から出てきたのは、白い象牙の棒の束だった。一本だけ、端に赤い印が着けられているのが見える。が、侍従が棒の束を筒に入れてしまえば、その印は見えなくなった。
「各家の家長は、くじを取りに来るように。男児の数だけくじを渡す」
 最初は誰も動かなかった。顔を見合わせ、まるで身体が硬直したかのように突っ立っていた。だが、一人、二人、おそるおそる歩き出す。男児の数を告げ、侍従の手からくじを受け取るたび、安堵のため息をつく者、ホッとするあまりその場に崩れ落ちる者と続くが、いまだに赤い印を引いたものはいない。
 そうして、サリナの父の順番がやって来た。サリナの家に、男児は養子のハルマ一人だけだ。侍従は筒から一本の棒を引き抜き、父に渡す。──そこに赤い印が刻まれているのが見えた。父は青ざめ、絶望の眼差しで振り返り、ハルマを見た。
 とたんにざわめきが起る。それは安堵の声だった。
「あの、おぞましい病の子か」
「病が治ったとは言え、どうせ孤児だ、ちょうどよかったじゃないか」
 そんな言葉すら聞こえた。誰もが緊張を解いていた。普段取り繕っている外面を捨て去るほどに。
 そのことに、サリナは腹がたった。今まで誰もが、何よりも誠実さと善意が大切であるように語ってきた。だからサリナは、必死にそれを勉強し、取り繕い、演技してきたのだ。それなのに、そうサリナに語ってきた周囲がそれを投げ捨てている。それが卑怯に思えた。
 怒りに勢いをつけたくて、サリナは手の中の飲み物を一気に飲み干した。強い酒は喉を灼き、腹の中をカッと熱くする。顔が火照った。
 そしてサリナは、一歩を踏み出した。
「失礼」
 人混みをかき分けながら、まだ呆然としている父のもとへ歩み寄り、その手から棒を取り上げた。確かに、端に赤い印がついている。だが──
「印と逆の端に、ごく小さな傷がありますわね。これなら、どれが赤い印の棒なのか、よく見れば分かってしまいます」
 サリナは王とその侍従をまっすぐに見据え、はっきりした声でそう言った。
 侍従は王を見、王は目線を逸らした。
 間違いない。ハルマは、最初から狙われていたのだ。いなくなっても構わない、恐ろしい病持ちの孤児として。
「それに」
 サリナは群衆に向き直った。その中から、一人の貴族に目を留める。
「バルマキー卿。あなたは先程、男児の数を二人とおっしゃった。ですが私の記憶によると、あなたの家の男児は、シャム様、ヌル様、バドル様のお三方。──お恥ずかしくはないのですか」
 バルマキー卿も青ざめ、一旦目を逸らして唇を噛んだ。だが、すぐにサリナを見返した。
「あなたの記憶違いでしょう、お嬢さん。──それに、恥ずかしいのはあなたの方だ。一旦決まったくじにケチをつけて。そんなに自分の家だけ助かりたいとは、誠実と利他の精神を家訓とするパドレディン家の名に傷をつけますぞ」
 そのあまりに厚顔無恥な言葉に、サリナは声を失った。だが、そうだ、そうだという声が上がり始め、次第に大きな歓声となった。
 その声に元気づけられたのか、王もまた、再びサリナを見据えていた。
「そういうことだ、お嬢さん。──さあ、いつまで印の棒を持っている? それを義弟(おとうと)に渡しなさい。それとも君が、『獣の王』になるのかね」
 サリナは青ざめ、手が震えた。恐怖ではない。怒りからだ。
 王は、姉であるサリナの手から、ハルマに印の棒を渡させようとしている。それはサリナを辱め、この先永遠にこの結果に不平を言わないよう、罪悪感で縛ろうという、卑劣な言葉だった。
 ──今まで私が人の心を学び、自分を装ってきたのは、なんのためだったのか。結局皆、一皮むけば私と同じ。損得しか知らぬ、冷たい心を持っている──
 サリナはそう思う。
 それなら私も、『誠実と利他の精神』を放り捨ててもいいのではないだろうか。これをハルマに手渡し、それを恥じることなく平然と生きていくこともできるのではないだろうか。
「──サリナ」
 弱々しくサリナを呼ぶ父の声は、亡き祖父の声によく似ていた。祖父はよくサリナを抱き上げては庭を歩き、たくさんの花や木について話をしてくれた。サリナの内面に気づかなかったのか、気づかぬふりをしてくれていたのか。ただくり返し言った。
『サリナ。正しいことをするんだよ。いつでも人に優しく、誠実にあるんだ』
 結局、祖父が与えてくれたのと、同じだけの愛を祖父に与えることはできなかった。与えられたら、返す。それがサリナに理解できる理論で、その理論で行くと、サリナは祖父に負い目があった。その負い目を、今返すときなのかもしれない。
 振り返って父を見る。怯え絶望した顔。群衆に目線を戻し、遠く母を見る。しっかりとハルマと繋がれた手。何も分からず、きょとんとしているハルマ。三人はきっと幸せに暮らせる。サリナがいなくても。
 サリナは言った。
「いいでしょう。私がなります。『獣の王』に」
 こんどのざわめきは怒号のようだった。誰もが目を剥き、侍従が早口に異議を申し立てる。
「前例がありません。女子が『獣の王』になるなど」
「先ほど王は、私がなってもよいとおっしゃいました」
 サリナは平然と抗弁する。そして、猿に向き直り、怖じること無く聞いた。
「使者よ、答えなさい。女が『獣の王』になってはいけないという決まりがあるの?」
 猿はつい先程まで、面白そうに騒動を眺めていたが、ここに至って戸惑っているようだった。だが、やがて口を開く。
「前例はありませんが──決まりは、たしかにありませんな」
「ならば、決まりね」
 サリナは胸を張る。
「今日から私が『獣の王』。おまえの主よ。さあ、さっさと連れて行くがいいわ」
「クキキッ、そうお急ぎなされるな」
 猿は自分のペースを取り戻したようだった。服の中から銀色に輝く細い腕輪を一つ取り出して掌に乗せ、それをサリナに差し出した。
「これを腕にお嵌めください。さすればあなたは我らが王となられる」
 サリナはゆっくりと、肉の色の浮いた猿の掌に指を伸ばした。指先に腕輪が触れる、その冷たい感触。指で摘んで目線の高さに持ち上げれば、その腕輪には精緻な彫刻がなされていることが分かった。それは薔薇の柄で、美しいはずなのに──どこかおぞましい。持っているだけで、本能的な嫌悪感に背筋が粟立つ。
 ゆっくりと腕輪を指に、そして手の甲に通していく。額に冷や汗が浮かぶ。誰もがそれを、固唾を飲んで見つめていた。
 やがて、手首にまで腕輪が通った時、サリナは自分の中の何かが、どうしようもなく決定的に変わってしまったのを感じた。
 最初に変わったのは手だ。その肌に毛皮が浮き出し、爪が黒く変色し、鋭い形に伸びた。全身の筋肉が膨れ上がり、硬く身体を覆っていく。顔面が捻じ曲げられる。──身体が、作り変えられる。
 苦痛はなかった。ただ全身が熱くてたまらず、思わず身をもがけば、どこかで悲鳴が上がった。
 せり出していく鼻は、この広間中──否、王城中の匂いを感じ取り、嗅ぎ分けた。王城で立ち働く何百人もの人間、一人ひとりの匂いの違い、その一人ひとりが何をしているのかすら分かった。
 目を開けて、最初に見えたのは毛むくじゃらの太い前脚だった。身体は随分巨大になったようで、見下ろす群衆がやけに小さく見えた。
 つるつるした床のタイルが映す己の姿を見て、彼女は目を見開く。
「熊か──前回は鷹だったが、熊も悪くない。森の王に相応しい」
 猿はそう言って、優雅に一礼する。
「歓迎いたしますぞ、我らが王よ」
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