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枠と境界線3
しおりを挟む「ななと、ななと?」
すぐ、困ったように、呼び掛けてくる。
「……驚かせちゃったな」
手を握って、小さく揺らしてみる。まつりは抵抗しなかった。
「んー。……その、考えたら、まつりが寝ぼけてただけだから、わざとじゃないし……だから、気にしないで」
蹴飛ばしたのかなんなのか、あの布団は自分が要因だと叫んですぐに、気付いたらしい。
「手と足を間違えたの。夏々都も入って欲しかったのに、足の方をめくってしまったから……」
なんで間違えたのだろうかと気になるが、たぶん間違えたのだから間違えたのだ。理由なんてないだろう。
「そうか」
「寝よー」
──そうして。
ぐいぐい、と腕を引かれるまま、抵抗出来ないまま、ぼくは布団の方に近付く。
まつりはいつもより眠そうに──だけど、優しく、ぼくを連れ込んだ。
気が進まないのはあるけれど、いざまつりに言われるとまあ、いいかと思ってしまう。怖いところだった。
布団の中はあたたかくて、そのままうとうとしていると、眠そうなまつりが、ぼんやり呟く。
「最近、バタバタしてたし、夏々都が帰宅した数時間くらいしか、夏々都と関わらなかったな……」
「なんだよ、いきなり」
目を開けて思わず言うと、まつりは、ぼくを撫でようとした。
布団をかぶってかわす。
まつりは残念そうだった。
「──あう。だからさ、寂しかったんだと、思って。そこまで気が回らなくて、ごめんね」
「……ああ、ぼくは、寂しかったのか?」
気付かなかった。
──そう、言われてみれば、確かに思い当たる点もいくらかあるような気がする。
「夏々都は帰宅するよりも早く、まつりに会いたいって、思ったんじゃないかな。夏々都は別に、クラスメイトに興味ないもの──でも、次から安請け合いはだめですよ、信用を失いかねません」
「わかった」
そうか、ぼくは、寂しかったのか。思っていたらまつりはふと、なにか気付いたようにぼくを見つめた。
「──で、ここからは、いちゃらぶもーどなの?」
「──……ん、今日、は、無理。寝ろ。おやすみ……」
──例えどんな間柄だろうと、二人でいると、一人で居たときよりも、寂しいこともあるのだと、最近わかったことをぼんやり思いながら、眠った。
朝に、ぼくがまた後悔するかどうかは、別の話。
□
翌日。授業中に、ぼんやり先生の声を聞きながら、眠くて堪らなかった。
昨日、いろいろあって、眠るのがいつもより遅くなったからだ。体もだるい……やっと終わった1限の時点で、すでに、倒れそうだ。
「夏々都くんどうしたの?」
しばらく机にうつぶせていたら、声をかけられる。眠くて起きられない。
暗闇が、心地いい。
「……ねー、夏々都くん」
あー、うるさいなあ。まつり、平日はいっつもぼくより熟睡してるじゃん。たまの休日くらい、ぼくにも、12時間くらい寝かせてくれよ。
──と思ってから、今は平日で、しかも授業中だからまつりはいないな、と思う。じゃあ誰だ? と思ったが、興味がない。
……だめだ、いい加減あいつに洗脳され過ぎている。このままじゃ、まともな社会人になるには危険な趣味思考が生まれそうだ。
いや、すでに、危ないのか。……ああ、眠い。
「あ、首のとこ、どうしたの? なんか怪我? 絆創膏が三枚くらい貼ってあるけど……」
突然闇から降ってきた、声に、飛び起きる。梅原さんが、びっくりした顔で、いきなり飛び起きた同級生を見ていた。ぼくを気にしているのは彼女くらいで、周りはそれぞれ騒いで、こちらに注目していなかったのが、まだ幸いかもしれない。
「あ……えっと、おはよ」
「うん。おはよ」
「……えっと、なに?」
「首──」
うーん。傷とかそういうのって、本人が触れない限りはスルーしとくのが暗黙的な礼儀じゃないのかな? とか、曖昧なことを思ってみるが、まあいい。寝不足も重なって、いつもより細かいことを考えるほどには、頭は冴えてない。今はどうでも良いか。
「その。ペットに、引っ掛かれたんだよ」
ぼくが適当に言うと彼女は、目を輝かせる。……しまった。食いつかれた。
「結構爪が鋭いんだね。痛そうだよー」
「……あー……まあ、痛いっちゃ痛いね」
「結構激しい性格なのかな。あ。うちにも、リスがいるんだけどね、ぐうたらなんだ。夏々都くんのペットさんはなに?」
「……猫、かな。そうそう、激しくてさ。手に負えないときもあるよ」
猫のことなんてよく知りもしないのに、すごく適当に会話に混ぜた後(特に人嫌いではないが、まともな会話ってのが、よくわからないので、普段から会話自体は適当なのだが)保健室で寝ていたい気持ちに駆られながらも、ぼくは立ち上がる。顔洗ってこよう。
去り際に、せっかくなので一言、聞いておいた。
「──そういえばさ、昨日の夜、それと、今朝は、大丈夫だった?」
彼女は、青ざめた。
□
3限目が終わった辺りでやってきたクラスメイトの、在杉(ありすぎ)を、教室に入ってきたところで呼び止めると、彼は、えっなんで? という顔をしていた。
彼との接点は──特にはないが、一度、階段から落ちた際に、保健室に行くのを助けてもらっていた。
「……あの。なにか、用?」
焼けた肌の、穏やかなスポーツ少年、といった感じの彼は、短めの髪の後ろを、軽く掻きながら、気まずそうだ。
「あのさ」
ぼくもどう切り出すか考えてしまう。数秒迷ってから話し出そうとしたら、あー! と、彼からの思い出したような声が上がった。
「そういえばお前、まえに、階段から落ちたじゃん。あれ、なにがあったんだ? 途中まで普通に歩いてたのにさ、突然、階段を転げてったから、あんときびびったわ!」
「……うん。あのときは、どうも。なんか、急にふと壁際を歩かなくてもいけるかなって思っちゃったんだよ」
家などだとまつりがさりげなくそばを歩いてくれたりするせいで、つい、錯覚しがちだが、今でも、もっと小さかった頃よりは大分マシなものの、ときどき壁にぶつかるし、わりと真剣に、気を抜くと10回に1回くらい、歩く道を見失うことがある。
「壁際?」
彼は不思議そうにしていたが、説明してもたぶん伝わらないだろう。あわてて話題を戻す。
「……あー。えーっと、とにかく、ちょっと話したいことがあるんだけど、今日、の放課後とか、空いてない?」
「それ、すぐ終わる?」
「うん。たぶん……」
「たぶん?」
「お、終わる」
「わかった、じゃ、また放課後」
なんとか交渉に成功したようだ。気付かれないくらいに小さく息を吐く。
在杉はじゃ、と言って廊下に出ていった。トイレかどこかに行ったのだろう。
実は今朝、まつりから話があったのだが、まつりの情報網(うちのクラスの女子が、悪魔にあっさり誘導され、メールで話してくれたらしい)によると、『梅原さんが在杉と付き合っていたが、彼女の方がなにか事情ができたから、別れたがっている』という噂がある、らしい。
「これが関係するんじゃない?」 と、まつりは言い、その後は、事件にもぼくにも興味なさそうに、ぬいぐるみやクッションの中に埋もれて幸せそうにもそもそと動き回っていた。楽しいのだろうか。
出かけるとき、お前は結末を見届けないのかと聞いてみると『ちょっと用事ー』というので、来ないのかもしれない。
改めて教室に戻ってきたら、今度は梅原さんに見つかった。
人間関係に、深く関係したくないのに、関係の間に挟まれるこの感じ、やっぱりどうも苦手だ。もし二人の間柄での話なら、正直、帰りたい。
しかし、無視も出来ずに一応返事をする。
「……なに?」
「……ねぇ、夏々都くん。在杉くんと、な、何か話した?」
焦ったような彼女が、聞いてくるが、ぼくは「別に」とだけ答えて席に戻る。えーっと、次の授業はなんだっけ。
確か、本日の必須科目は終わりで、あとは選択だったような……考えていると、今度は少し前に、席が隣だったが今は随分離れた、お調子者の男子生徒が来て「お前、在杉と会うのか? 偶然聞こえたけど、話があるって──」と、不安そうに聞いてくる。
ああもう。ぼくは昨日、ほとんど眠れなかったんだ。とりあえず寝かせてくれ。そう思って、無視してうつ伏せた。
彼女はともかく、こいつがなんで不安がるんだろう。まあいいや。ああ、眠い……
それから放課後まで、特に、これといった出来事はなかった。今日のお昼は教室でのお弁当だったのだが、昨日の言葉を受けて、なんとなく……気まずい気がした。
食べたけれど。
中身は、タコさんウインナーが4つ(目が描いてある)。だし玉子焼き、おにぎり、キャベツサラダ、リンゴ、ハートの形の器に入ったグラタンといった感じだった。
これが、恋人みたいな感じのお弁当というものなのか……と思う。ちなみに親みたいなお弁当って、どんな感じなんだろう? ちょっと気になる。
どこか遠くで「ほらやっぱり、あのお弁当は、夏々都くんの技術じゃないよ!」とか、誰かが言ってるのが聞こえた。
……そうだろうけれど、はっきり言われてしまうと微妙な気分だ。
ぼくにはきっと『隠れて恋人(料理上手)がいる、しかも同棲済み』という噂が回ってるんだろうなあ、と思うと、さらに複雑だった。まつりが知ったら、不機嫌になるのだろうか。
下手に否定してもややこしそうだから、ノーコメントでいよう。黙秘権だ。
まあ、それはともかく。
放課後が訪れると、ぼくは在杉と一緒に、ひとまずグラウンドを歩いた。ちょうど今日、サッカー部は遠征で居ないから、ひとけも特には無い。
「……なんだ、話って?」
そう言って聞いてくる在杉に、まずなんと切り出そうか、そもそも情報元を出すべきなのか、などと、ぼくは、ぐるぐる考える。
梅原さんの名前を出す方がいいのか、悪いのか。
そもそも恋愛ってわからない。なぜ好きだからといって付き合うのか、いまいちぼくにはピンとこないし。
たしか、ぼくの母さんは、あんまり好きになれない人と、だけど好きになるために結婚したんだというし、そういう付き合いもきっと存在するんだろう。
そんな人たちを見てきたからこそ、ぼくはうまく、好き=付き合う、と、単純には考えることが出来なかった。
単純に好き嫌いだけが関わってそうなるばかりでは無い問題だという気もする。
(好きだから、ではなく、ただその先に何か、そばにいたい気持ちになるものがあるから──?)
「……なあ」
「おう」
「女子高生を追いかけてなかった?」
考えても仕方ないので、無難に、ストレートに切り出した。
「……女子高生? なんでそんなことを、おれがするんだよ」
在杉は、驚いたような、笑っているような顔をした。
「……そりゃあこの前、見たからさ」
「あっ、そうだ、お前、そういえば、梅原と昨日放課後に、何を話してたんだよ!」
在杉はこのタイミングで聞きたかったことを思い出したのか、思わずといったようにそう聞いた。
「昨日? ああ、彼女が請け負ってる係の手伝いを頼まれたから助けて、別れて帰ったよ」
「嘘だ」
「あー、そうだっけ。お前、詳しいな。ぼくのことなのに、ぼくより覚えてるや──じゃあ、何をしてたんだろう?」
「──そ、それは……知らねえよ」
「……知らないのに、どうして、嘘って知ってるんだよ? っていうか、そもそも何の用事だったかを、知らないから、聞いたんだよな……あれ? えーと、だから……きみは『何の用事だったか』って聞くべきで、『何を話していたか』って聞いたら、ほとんど自滅というか……」
「だっ──だ、だだから!」
「別に、善悪にもきみの青春にも興味ないけど。でも、付いて来てたのは、見えたんだよ。ほら」
ぼくは、慣れない手つきで、まつりがこっそり撮影していたらしい、デジカメから印刷した写真(機械を渡されると、壊れる可能性があるので印刷だ)を見せる。
「あ──!」
それは、紛れもなく、遠くの物陰から梅原さんを付けている、男子生徒の写真だった。
「──きみが話してくれたら捨てる。約束するよ」
ぼくは、言う。
在杉は、まいったなと笑って言った。
「お前って、ときどきSが入ってるよな?」
「まさか。ちょっと寝不足で、機嫌が良くないだけだ」
……そうして彼が語った真相はこうだ。
手帳は自分のもので、中には日付と、一、二行のポエムを書いて付けていた。なんのポエムかというと、『彼女』の可愛らしさだとかを抽象化して描いたものだという。恥ずかしいので、クラスの誰にも言っていない。
それは彼女が部屋に遊びに来たときにも、部屋の机に置いていたが──しかし、書いたと言っても、もし見られてもパッとはわからないようにと、あるペンで書いた。
それが、一見透明なインクだがブラックライトを当てると、塗料が反応して文字が見えるという、最近は100均等でも買える、あのペンだった。
《中身》は、あったのだ。暗闇では見えないだけで、手帳は、白紙ではなく、光を当てれば、見えてしまう。
彼はある日、手帳をどこかの道で無くし、遅くまで探した。焦ったという。中身の秘密がバレていないとしても、日々大切にしていた手帳だ。
しかし結局見つからずにがっかりして、歩いていた帰り道。
途中にある交番で、彼女が、ライトを当てて、手帳を読んでいるのを目撃してしまう。
ずっと探していた疲労や焦りから冷静でなかった彼は、ライトが、学校で配られた、関係のないものと見分けることが出来なかった。 ただでさえ、辺りは薄暗い。彼女の手に持たれた、細かなライトの違いが見えなかったという。
彼はそんなわけで、注意深く見て、考えるよりも先に焦った。
もしかしたら、部屋に来たときには、いつも自分が、ポケットに入れている、ライトの存在も知られていたんじゃないかとか、トイレでこっそり光を当てて見返して、にやついていたのを、知っていたんじゃないか、とか考えると、いてもたってもいられなかった。
──実際、彼女の目にはありふれた黒い手帳、という印象しかなく、彼がそんなことをしているのも、知らなかったのだが。
まつりは、昨日既にライトについて予測していた。だが手帳の現物も、ライトも持って無いし、確かめられないから、無責任には言わなかったらしいと、ようやく思い当たった。
この確証がなかったのだ。
それに、あいつは謎を解くとか解かないとかに、そもそも興味はない。他人の悩み事自体にも、詳しく興味があるわけではないから、わかったらわかっただし、わからなかったらわからなかったで、満足する。
まあだから、本当は、他人なんてどっちでもいいのかもしれない。あれは、ぼくに気まぐれで付き合ってくれて、ついでにパフェを食べたかった程度のものだろう。何か期待したところで、まつりは、本来そういうやつだ。
──って、まつりについて考えている場合でもなく、話を聞き終えたぼくは「そうか」と頷いた。そして、ちょうど、そのときに、梅原さんが走ってこちらにやってくる。
「そうだったんだ。あれは在杉のだったんだね」
彼女は、そう言って、グラウンドの隅っこ、一階の空き教室のベランダ前辺りにいるぼくらに割り込んできた。
「こぶちゃん!」
在杉が、飛び上がるような声をあげる。
「ややこしくしちゃってごめんなさい……」
「いや、おれこそ、その、なかなか言い出せなくて。ライトも無くしちまったし、どっちも持ってるんじゃないかって」
「え。持ってないよ、ライト」
二人が穏やかに話し始めて、場は解決しそうな空気になってきた。さて、もうそろそろ帰るか。
そう思った矢先──
「じゃあ、いつも帰るとき私のことを付けていたの、あなただったんだ?」
そう彼女が聞き、空気が変わる。在杉は、驚いた顔で、否定した。
「え? いやいや。おれは、手帳をなくしただけで。あと、ちょっと家の前で待ってたりはしたけど。でも、帰りはすぐ帰って宿題とかやってるし……あのときだけだよ。普段は、後を付けたりはしていない」
どういうことだ。
男子生徒、としかまつりは言わなかった。あ、あと、「これが関係あるんじゃない?」と言ったんだっけ。でも、彼女を《帰りに》付けていたのは、彼ではない?
「──ま、いっか」
「良くないよ!」
梅原さんが叫んだ。どうやら、心の声が表に出てしまっていたらしい。
「だったら、誰なのかな……私、怖いし」
「ふうん……」
ふと、まつりの言葉を思い出す。今朝、勝手にぼくの携帯をいじりながら言った台詞だ。
『──彼女、夏々都にこんな明るいメールを打ってる場合なのかな。いや、まあどんな場面でもやけに明るい人ってのは、存在するけれど。ありがとうございました、って過去だよね、まるで』
──考えてみれば、ぼくやまつりは、ただ、彼女から話を聞いたというだけなのだ。
『いつも』の確証はない。
本当は、彼女を疑いたくはないのだけれど『別れたがっている』の噂もあるし、どうも、気になる。
もしかして、と口を開こうとした、そのときだった。
「あの道は──特には他の住宅や店があるわけではないし電柱なんかも見当たらない。学生は大体時間通りに登校するから、その時間に学校の辺りに待ち伏せておくのがいい。――けれど、あの通学路で、潜んでいても目立たない場所は、並木の影か、家の塀くらいしかない。学校から家まで、顔も気付かれずに付いて来られるのは、忍者か知り合いくらい」
突然声がして、ぼくは振り向く。佳ノ宮まつりが、カーディガンの袖をだらんとたらしながら、校庭と市道を分ける、金網フェンス部分に、無表情でもたれていた。
病院に行っていたのか、片手にビニール袋。ちらりと見える中身は、青い字で『内服薬』と書かれた紙袋だった。4袋くらいで、なかなかのボリュームがある。
「……まつり、体調、悪いのか?」
昨日は元気いっぱいだったように見えたのに。心配になって聞くとまつりは、にこっと笑った。
……なんの答えにもなっていない。
「夏々都は心配しなくていいよ」
小さい子に言うように、そう、そっけなく言われてしまう。
むむ……なんだか、悔しい。唇を尖らせると、まつりはけらけらと笑った。
「そう拗ねるなよー。夏々都は、ただ授業を受けて、将来を考えていればいい。その間まつりは、ちゃんとまつりのことを考えてるから、大丈夫だって、本当に」
「……お前、いっつもそうやってさあ、心配させる気無いんなら、ずっと完璧に隠してろよ! ちらつかせといて、勝手なんだよ」
「おや。急に怒っちゃって。まつりは別にこれを見せびらかしてるんじゃないし、最初は遠くから見てるつもりだった。けどなんか、飽きちゃったからさ」
「なんだよ、それっ」
「もう、夏々都は心配性だな。夕飯、好きなものを作ってあげるから、機嫌を直してよ」
「ぼくが、食べ物で釣れると思ってんのか」
「ふうん、何なら釣れる? いいよ。あげられるものなら考えてみるよ」
「そ……それは」
フェンスを挟んでにらみあっていると、突然、梅原さんが、こほん、と咳をした。喉が痛くなったのだろうか。在杉は、なにか恥ずかしい光景でも見たように、視線を泳がせる。なんなんだよ。
戸惑う在杉は、すぐに、こっそりぼくに言った。
「マジで居たんだ」
「……マジでって?」
まさか。
「高校卒業したら結婚予定、同棲中のラブラブな恋人。なんか悔しいけど、すごい美人じゃん」
興奮気味に喋られる。
っていうか、なんか、予想より、とんでもない噂になっていた。
大切には変わりないが、別に恋人ではないのだけれど。
「いや、幼なじみだよ。昔から、よく一緒に居ただけ」
「うわ、いいなあ。あんな美人にお弁当も夕飯も作ってもらうとか、新婚さんかよ……やっぱ、夜も?」
話を聞けよ。
「……もう、お前に教えることは何もない。これからは自分のために自分を磨きなさい」
「厳しい修行を潜り抜けたときのセリフみたいに言うなよ。なー、週1? 週5?」
「……さあ」
うーん。同級生の、こういうノリに、やっぱりなんとなく付いていけないのは、ぼくが疎いからだろうか。
適当な相づちを打っていると、まつりが不機嫌そうに、フェンスの破れた穴の部分から、ぼくを袋で狙ってきた。咄嗟にさっと避けると、チッ、と舌打ちされる。
何か言おうとしたが、それより先に、まつりが口を開いた。
「……じゃ、男子生徒。まつりに見覚えはある?」
男子生徒の名前はどうでもいいらしい。
在杉に向かって、まつりは投げやりに、問うた。ので。在杉は戸惑って、慌てた。
いきなり話かけられたからなのか、美人、と思っているからなのか。もしかしたら、どちらもかもしれない。
「昨日、夏々都と梅原さんと公園に居たんだけど、見ていたよね?」
「……あ、あ、うん。」
視線をさ迷わせながら彼は必死に頷いた。
「ファミレスにも居たけど、見てたよね?」
「……ああ、ハイ」
それを答えさせると次に、ぼうっと立ったまま黙っていた梅原さんの方を見て、まつりは言った。
「夜、こっちの町に帰ってきみと別れてから、遠目にきみや周辺をしばらく見張ってみたんだけど」
「はい……」
「やけに楽しそうだったね。いや、良いんだ。どんなときも、楽しいと思うのは悪いことじゃない。――ただ、登校時刻はともかく、下校時刻ほどに曖昧な物は、ないと思う」
「なにを、言ってるんですか。まっすぐおうちに帰る人だったら、時間通りのパターンが出来ますよ」
「きみは違うよね? ファミレスとか、放課後によく行ってる」
「な、なんで、そんなことが……」
「財布を持ち歩いてて、それは1000円くらいは入っている。中身にはちらっとレシートが見えて──さらに、ここにいる女子高生の一部の方とは、まつりはたまに、お話しているんだけど、テスト週間で早く帰れる放課後には、ファミレスでデザートを食べに行くんだって?」
「……」
梅原さんが黙った。
テスト週間は、確かに、ちょっと前に終わったばかりだ。
そして、少しして、まつりはまた呟く。
「んー、きみはどうしても、夏々都と帰りたかったんじゃないかなって。まつりと暮らしてるかとか、お弁当のこととか、知りたかったでしょ。夏々都がまつりと居るのをどこかで見てしまってたり、女子の中でも噂がもともとあったりしたのがきっかけかな──」
「な、っなななな! ストーカーさんの話をしてるんです。シリアスな話ですよ」
梅原さんが、なぜかうろたえていた。
まつりは、表情ひとつ変えなかった。
「『私の危機なのに、かけつけて来ないし、頼りにならないなんて嫌。別れよう。それより、夏々都の方が頼りになった』みたいな話に持って行きたかった?」
「……さっきから……さっきから、何を言ってるんです」
梅原さんが、目を泳がせる。
まつりは、意地悪そうにふふ、と笑って、フェンス越しにぼくを引き寄せる。
「何?」
「来て」
何か、秘密の相談をされるのだろうなと、フェンスの破れている部分から、向こう側のまつりへ顔を近付けた瞬間、はっきりと口付けられた。ぼくの口腔内へとまつりの舌が入り込んでくる。唾液が一筋、顎を伝った。
「……!」
そのまましばらく、ペロペロと口の中を舐め回されていた。
無駄に巧みな技術と慣れない刺激に、頭が、ついぼーっとしてしまう。
って……そうじゃない。しっかりしろ。
「何、してんだ……」
引き剥がすと、まつりはちらっと、梅原さんの方を見た。
そして、特に何も言わずに、ぼくを見て、笑った。
「夏々都は、もうちょっと動揺してよ。何で、なんだかんだで受け入れちゃうのかなー。やっぱりマゾの素質があるんじゃない?」
「……その素質、要らねぇ」
「これはただの、幼なじみ的挨拶だよ?」
ぼくが呟く間に、まつりは今度は梅原さんを見て、そう言う。しかし彼女は信じておらず、ガクガクと口を動かして、固まっていた。まつりはきょとんとしたまま、彼女の様子を気にかける。
「あれ、どうしたのー? ずっと知りたがってたから、教えてあげたんだよ。あのね、まつりに何をされても、夏々都は何も思わない。だから、大丈夫。こんなの、無意味なんだよね。ほら今だって、こんなことをされて別に照れたりしてないでしょ? 幼なじみとしては、夏々都が心配だし、もしかしたら本当に、恋人でも出来たら、さすがに照れたりするのかもしれないし……そういうのを、少しは味わって欲しいって、思ってもいるんだ。きみみたいな子とか、どうかなって」
「……あなたは……あなたは、どうして! 私の前で、そんな、わかって、いるくせに」
「んー。何で、そんな怒ってるのかなあ? 夏々都が何も感じないのだから、何もカウントされてないんだよ。だから、まつりは関係ないじゃない」
「そういう問題じゃ……」
「──今、きみが取り乱したときに、まつりが思っていた通りに、ストーカーを作り上げての自演だったって、証明されたようなものだよ。付き合っている人と違う人に話しかけているだけで、気になって仕方なくて、つい後を付けちゃったりする──在杉とかいうのが、そういう気になったら追わずにいられないタイプの人だと、知っていたきみは、その心理を利用して、ストーカーを作り上げた」
「そ……そんなの、後からいくらでも言えます」
「うん、そうだね。ねぇ、在杉、一度放課後に付いてったとき、ストーカー、見た?」
「いえ……俺以外、同じ方向に付けてくる怪しい人とか見てません」
「──まつりも、感じた視線はひとつだったと思うよ。ストーカーが、知り合いが一緒に帰るのを察知してその日だけやめた、なんて可能性もあるけど、何時に帰るかも不安定なんだから、いちいち察知するのは大変だろうね。数ヶ月前から観察されてたならともかく。つい最近の話っていうし」
「こぶちゃん、やっぱり──」
在杉が悲しそうに彼女を見る。梅原さんは、目を伏せたまま、固まる。
その間に「ま、あとは若いお二人でー」と適当な台詞を残し、まつりはさっさとフェンスを離れて、帰路につき始めた。
「待てよ!」
ぼくも、慌ててまつりを追いかける。
あれから二人が、どうなったのかは知らない。
別れたのか、復縁したのか。
ただ、ぼくは、やはり付き合うって意味が、よく、わからなかった。
結局、互いに気を使って、互いに余計に疲れているだけじゃないか、とぼくは、二人を見ていると、思った。
ただ、幻滅せずに好きな部分だけを見ていたいのなら、ぼくは、片思いでいい気がする。
好きな人と付き合った、ということがきっかけで、好きな人を嫌いになるなんて、なんだか、寂しいじゃないか。
どうして人は、わざわざ繋がりたいのだろう。
過去にたくさんの傷を隠して、現在にたくさん傷を作って、目の前の傷を、埋め合おうとするのだろう。
身近に四六時中居ないと、そこまで不安なんだろうか?
ぼくには、わからなかった。
やっと追い付いたまつりと帰宅する際、校庭の途中で人影に会った。名前を忘れたが、昔席が隣で、教科書を貸してやったクラスのお調子者のやつだった。
悲しそうに、こちらを見ていた。もしかして、梅原さんが好きだったのだろうか。何か言おうかと思ったが、かける言葉がなかった。
はっきりと、恋愛をした、と言える経験が、ぼくには無いから。
「いやあ、夏々都はモテるね」
家に帰るなり、まつりはクスクスと笑った。他人の気持ちを弄ぶ、悪魔の笑顔だ。
「……本当に、梅原さんが、ぼくを──」
「ちょっとからかい過ぎたのかな?」
「ちょっとどころじゃねぇだろ……」
手を洗うぼくの横で、まつりはリビングのソファーを占拠中。
相変わらず、気儘だった。
「あんなやり方。トラウマになったら、どうするんだよ」
手を拭いてリビングに向かいながら言うと、引き寄せられて、膝の上に乗せられる。ペット扱いだった。
「夏々都は優しいね。でもあの子はたくましいよ。だって泣くどころか、こっちを睨み付けていたもの。カウントされてないって言ってるのに。だから、大丈夫」
「なんだそりゃ……」
流れでそのまま、するっとシャツの下に手を入れられそうになって、慌てて、はたき落とす。
地肌はやはり、急に触れられると気持ち悪い。
「……やめろ、変態。いきなりなんだよ」
「肌触りーすべすべを、なでなでしたかったのに」
「……おまえなあ」
膝の上から退こうとするが、しっかりと腰に回る手に阻止されていた。
「夏々都、聞いて」
「え?」
いきなり、真剣なトーンで名前を呼ばれる。
そして、まつりは語った。
「隠してても仕方ないから、きちんと言うね。もともと、まつりは体内にあらゆる成分が、足りていないのです。それこそ血液、糖分、あと、ホルモン的なものも──だから、これからは、少し固定していかなきゃ、死んじゃうかも」
「なんだよ、それ……死ぬって、どういう」
「これから、まつりは、病院に通うことが増えると思う。実は、体調が、どんどん安定しなくなってきた。
んー、と。そうだね。
成分が不安定だから、常に栄養不足とか、自律神経とかがね、なんかこう、影響されちゃってるみたいです。気分が落ち着かないのもそうだけど、身体の痛み、激しい吐き気、めまい、呼吸困難、心臓発作、血圧の急な低下上昇、は、これまでもあったの。休んだら、なんとかなってたり、ならなくて病院まで行ったり……大人になるにつれその回数が、増えてきたよ。あらゆることが安定しない身体って、突然死を招きかねないんだ。血液のにおいに反応しちゃうのも、きっと、鉄分かなにかが足りてないからだね。あらゆる数値を安定させるために、今よりも、あらゆる能力が陥る身体になって、いくかもね」
「そんなこと──」
「……もし、さ。まつりが、どうなっても。夏々都は、そばにいてくれる?」
「当たり前だろ……」
「ふふっ──ねぇ、ななと。まつりが生まれ変わるなら、男の子と女の子、どっちが好き?」
「……わからない」
「まつりが、まつりであるなら、どっちでも好き?」
「……知らねぇよ。そんなの、決められない」
「あー、でも、女の子だと、今の日本で誰かと結婚出来ても、相手をおよめさんに出来ないね……イチャイチャするにも、立場を逆転するようになるのはやだなあ。夏々都はされる方が好きでしょ、まつりに」
「……ばか。なんでぼくが出てくるんだ……」
「あ、照れたー。本気にした?」
「……知らない。真面目な話じゃないなら、部屋に戻って寝る」
「発作とか、起きたらさ。人工呼吸してね」
「……変態的な意味が含まれてるならしない。本当に必要な状況ならな」
「今度──入院しようと、思ってるんだ。検診結果次第だけど」
「すれば、良いだろ……!」
「あ、今度は怒った。よしよし。うふふふ、夏々都は寂しいときに怒る癖があるよね。寂しいときは、寂しいって言っていいんだよ」
「……寂しいよ」
「え──」
「寂しいよ、まつり。でも、だから──お前に、もっと生きて欲しい。今苦しむなら、少しでも苦しまないようになってほしい。ぼくは今後お前がどうなっても、別に、何も今と変わらないから、だから」
それを、聞きながら、まつりは、ぼくをぎゅっと抱きしめた。最初はやや、怯えたように震えていた手は、次第に、力強くぼくを包んだ。
「ななと、ななと、ななと、ななと……忘れたく、ないなあ」
「会いに行くよ、学校がなかったらな」
んー、と唇を寄せてきたので、手のひらで阻止して、代わりに頭を撫でて、ぼくは自分の部屋に向かう。
言っていた通り、まつりは、まつりのことを考えているんだ。
なんだか、ぼくも、ぼくの将来を、考えないと、と、急に焦ってしまう。
「よし、集中、集中──」
どこか、先が見えないことが漠然と、不安になって、その感情を掻き消すように、慌てて机に、難しい試験問題を目一杯広げるのだった。
END.
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ミステリー
騎士団長の息子・クラウディオの婚約者は推理がお得意だ。令嬢探偵・ヴィオレッタは可憐な外見からは想像できないほど行動的である。
画家志望の青年から『消えた肖像画を探してほしい』と相談されたクラウディオはヴィオレッタの力を借りて失せ物探しを始めるのだが。
人が死なないミステリー。
神暴き
黒幕横丁
ミステリー
――この祭りは、全員死ぬまで終われない。
神託を受けた”狩り手”が一日毎に一人の生贄を神に捧げる奇祭『神暴き』。そんな狂気の祭りへと招かれた弐沙(つぐさ)と怜。閉じ込められた廃村の中で、彼らはこの奇祭の真の姿を目撃することとなる……。
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通詞侍
不来方久遠
ミステリー
明治28(1895)年の文明開化が提唱されていた頃だった。
食うために詞は単身、語学留学を目的にイギリスに渡った。
英語を学ぶには現地で生活するのが早道を考え、家財道具を全て売り払っての捨て身の覚悟での渡英であった。
【完結】心打つ雨音、恋してもなお
crazy’s7@体調不良不定期更新中
ミステリー
主人公【高坂 戀】は秋のある夜、叔母が経営する珈琲店の軒下で【姫宮 陽菜】という女性に出逢う。その日はあいにくの雨。薄着で寒そうにしている様子が気になった戀は、彼女に声をかけ一緒にここ(珈琲店)で休んでいかないかと提案した。
数日後、珈琲店で二人は再会する。話をするうちに次第に打ち解け、陽菜があの日ここにいた理由を知った戀は……。
*読み 高坂戀:たかさかれん 姫宮陽菜:ひめみやはるな
*ある失踪事件を通し、主人公がヒロインと結ばれる物語
*この物語はフィクションです。
クロオニ
有箱
ミステリー
廃れた都市において、有名な事件がある。
それは、クロオニと呼ばれる存在により引き起こされる子ども誘拐事件だった。
クロオニは子どもを攫う際、必ず二人分の足跡を残していく。
その理由は一体何なのか。同じ宿に泊まる二人の男は語り合う。
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愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
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連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
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