丸いサイコロ

たくひあい

文字の大きさ
上 下
15 / 19

丸いサイコロ14

しおりを挟む


 <font size="5">0.dialogue</font>

──どうして大人になったら……人を……傷付けるようになるんですか?


──訳が、わからないわ。私が、何かした? 私が悪い? 


──先生じゃありません。ぼくは……


──あ、そう。周りの大人に、なにかされたのね? その傷もそうなの? 


──やめて、ください。他の人は、関係ないです。


──どうして、そんなこと言うの。あなたが助けてって言わないと動けないのよ。どうして痛いって言わないの?


──なら、あの人たちを……


──え?


──助けてください……だったら、あの人たちを、助けてくださいよ! ぼくより、ずっと『痛い』って……

──ななとくん、あなたは

──もう、こんなの、やめてください。話したくなんかないです。これ以上──




















     □

 何をなのかは、今もうまく説明出来ないけれど、ぼくは、ただ、壊さないで欲しかったのだと思う。


 もし状況が変わるなら、変えたい、と、ぼくが考えていたのだったら、面白がられていようと助けを求めたのだろうが、そうではなく、きっと、最初の頃は、確かにぼくは『彼』を助けたいと思ってもいたのだ。
 だから、そもそも自分や彼らを被害者や加害者だという考え方自体、嫌だったのだと思う。だってそれは、表面だけのことで、どこか違う気がしたから。誰のせいにもしない。それは、そういう意味だった。誰かが、笑っていても、怒っていても、その奥にある感情は、なんとなく、わかることがある。彼から伝わるのは、明確な悪意とは違ったものだった。 だから。ぼくが傷付き、そしてその傷が治るたびに、彼の痛みが、増すことに気付いた。そこには、いろんな痛みが溢れていた。それでも、彼はそうしている。


 ──悲しみ、絶望、自己嫌悪。どうしようもない、やり場のない感情。溢れている、見えない『痛み』。
彼がそんなにも、それを消化しきれず、誰かを傷付けたいほどに、つらいのなら、その痛みの正体がぼくなら──きっとぼくは、死んでも良かったと思っていたのかもしれない。自分のことなど、どうでも、良かった。その痛みを、理解できたら何かがわかるんじゃないかと思って、ぼくの中の、たくさんの記憶の中に、重ねて、照らし合わせてみたこともある。それは苦しくて、悲しくて、自分のことのように思えてきて、そしたら今度は、放って置けない気がした。だけど、やっぱり何も出来なかった。余計に、出来なくなった。彼は、ぼくとは違う──だからいつかは、そんな痛みからさえ立ち直ることが、出来るのかもしれない。そう思ったら、なんだか、少し、寂しくて、悔しくて。怖かった。

 今ならわかる気がするが、きっと、結局ぼくはただ、人の気持ちが、ずっと、わからないだけだったのだろう。誰でも好きで、誰でも、好きじゃなくて、でも──なんだか辛そうだから、どうにかしたくて、だけど、自分が何かしたことで、相手が何を思うかなんてわからない。ただひたすら、問われることに『違うよ』とか『大丈夫だよ』とか、言っていた。

──どこかで、あきらめて、甘んじていた。


 そんなある日、彼は、突然居なくなった。海外に行ったようだった。唐突にぼくの世界は、変わる。


 助けられもしないまま、なにも理解出来ないまま、後悔だけをして、ただ引きずって、治りが遅い傷が痛んだ。ガラスも、跳ねる物も、針金も、傷を思い起こさせた。


──たぶんそれが、あの中での、一番の痛みで、最も治らない傷。

ついに誰からも見放された、一人の部屋で、初めて、ぼくは呟いた。声に出して。
「ああ、痛いな……」
 最初からどこかで、わかっていたくせに。何も出来ず、ただ、無駄に痛みを負っただけで──その彼自身は、もう、今では何も感じていなくて、ぼくは、結局どうしたかったのか、わからない。どうすれば良かったのか、わからない。──感情が、処理できない。それに向き合うことが、一番怖い。──残ったのは、強迫観念と、痛みと、幻。
何年か続いたそれのせいで『痛いもの』とか『これで傷付いたことがある』と、いうふうに体がすでに学んでしまっていて、反射的にそれを避けてしまうようになっていた。──ぼくだけが、刻んでいる。


「なんだよ、なんなんだよっ! ぼくは、そんな、簡単に……!」
 みんなが、簡単に《忘れてしまえるようなこと》を、どうして、いつもいつも、まだ、一人だけで、いつまでも覚えているのだろうか。それは終わったよと言われても、実感と記録が、噛み合わない。
──誰からも、社会からも、ずっと、取り残されている。


「……あ、起きた?」
 闇の中から声が聞こえた。いや、目が覚めているはずなのに、どうして真っ暗なんだ? さっき、何があったのだろう。顔に当たる布の感触からもがいていたら、ようやく顔を出せた。
「はぁ……びっくりした!」
「おはよう」
「おはよう、ございます……っていうか、さっきやった。ちょっと、ぼーっとしてた」
「……ぼーっとしたまま帰って来ないから、びっくりしたよ」
 部屋の隅っこに固まっていたぼくの頭にかかっていた毛布が、はらりと床に落ちる。少し、肌寒い気がした。
 かかっていたのはこれだったのかと、ぼんやり床を眺めて、小さく息を吐く。(……っていうか、なんか頻繁に、ぼーっとするな、今日)ちなみにぼくは今、寝ていない。本当に、ぼーっと座っていただけだ。


「なんかずっと考えてたけど、考えはまとまった?」

 近くにしゃがんでいたらしいまつりに、首をかしげてのぞきこまれた。二度寝しそうだったので、ちょっとびっくりしたが、とりあえず、毛布をたたむ。

「んー、わりと?」

伸びをしながら、適当に返すと、まつりは、聞いていなかった。

 ふらふらと立ち上がって、棚から出した袋から、スナック菓子の袋を適当に掴み、開けて中身を口に入れている。こうして、少し離れたところから見ると、足が長い。服装のせいで、普段あんまりピンと来ないが。


 そういえば、ぼくは無意識に、なにか、自分のことを言っていたのだろうか……だとしたら、少し恥ずかしい。


「……おまえが聞きたかっのは、あの子、ケイガちゃんのことだな」

「ヒビキちゃんではなくて、ね」

「うん。榎左記慶賀ちゃん……」

「なに?」

ぼくが、スナック菓子を適当に掴んでいるまつりを眺めていたら、不思議そうに聞かれる。


「いや、膝かっくんが出来……じゃなくて……、えーっと」

 慌てて言い訳みたいなのをしていたが、そんなぼくをまたしても気にも止めず、黙って開けたばかりの袋を渡して、まつりはどこかに消えていた。

「……答えにくいことを読んでくれているのか、気まぐれが発動してるのかが、いまいち分かりにくいよ……」


袋からスナック菓子を取り出して、食べてみる。わさび納豆味。うわ……微妙だ。





















(回想録)
<font size="5">30.限定される偽物</font>

 二回目にかかってきた電話では、人を追い出した。理由はいろいろあったけれど、一番の理由は、まだ、この時点では、悟られたくなかったから、なのかもしれない。
『……ケイガっていうと、──ああ、やっぱり、死んでるわよ。思い違いじゃない』

なにかと知っている彼女は、まつりが知りたかったことに、すぐに答えを出した。何を調べていたのかはわからないが、ページをめくるような音が、電話越しからも聞こえる。
「だよね、ビビった。あれ、幽霊じゃないよね?」
『あら。あなた、幽霊にビビったりするような人だったかしら! 初耳よ!』
「はぁ、うるさい……ちょっと、驚いただけ」
『まあ、いいけど……じゃあその子、知っててやってるんじゃないの? あなたが覚えてないって』

 彼女は、いつからか、まつりがどういう立ち居ちで、どういう症状を持つのか、概ね知っている。
……教えたつもりはないのだが。

 自分が頭で考えられるのは、自分が知り得て、覚えて、実感できる範囲でしかない。だから、それが足りないときには、人に頼ることもある。

──今のまつりは《数年前の自分》だったら、とても、出来なかったことをするようになった。


 昔なら、悲しくても、困っていても、特に表に出さなかった。必要ないと、思っていた。『甘えるな』と自分に言い聞かせるだけで、疲れも、空腹も、ほとんど殺して、働くことができていたからだ。


──でも、常にそれでは、だめなのだ。痛みや、疲れを、ちゃんと、《自覚》出来るようにならなければ。それが、どんな意味を持ったとしても。あの頃より随分《欠けてしまったもの》が、皮肉にも、まつりにそれを教えてくれた。
「んー……そうなのかな──ちょっと泣きそう」


『……元気出しなさい。
──それよりも、夏々都くんは、大丈夫?』
 突然、切り込んで来られて、少し怯む。相変わらず、鋭い。だが、なるべく平然と返す。
「さあ? たぶん……なんとかなるよ。いつ、いかなるときでも、現実を直視しない能力に長けてるし」
適当なことを並べていると、電話口の相手は深くため息をついた。呆れている。
『あのね……そういう嘘を真顔で言ってるから──』
 そこそこ長い付き合いである彼女からの話はいつも途中から説教じみて来る。言いたいことは、わかる。何度も聞いた。
 『いつも誤解されちゃうのよ』とか、聞きたくないのになんで聞かせるんだろう……過大評価をもらったところで、そもそもとても釣り合わないし、面倒だ。自分のようなものに不用意に近付く人が出ないのなら、好都合じゃないか。そもそも説教じみてしまうのはだいたい自分のせいなのだが、案外打たれ弱いまつりは、苦笑しながら茶化した。
「……つまんないやつだなあ。自分じゃ、そんなにバレないと思うんだけど……」
『私の場合はね、職業柄、嘘を付くときの人間の見分け方が身に付いてるの』


「あはははは! かなわないよ、本当」
『……それも嘘』
「──愛してるよ」
『はあ!?』
スピーカーで拾う限界くらいの高い音で、彼女が声を上げたので、思わず耳から受話器を外す。
「……うるさいな、なに驚いてんだよ。これこそ明らかに嘘に決まってるだろー。見分けろよー」
『……わ、わかってたわよ……咄嗟に反応出来』


 まつりは聞かない。自分で言っておきながら、そんなに真に受けないで欲しかったのにと思って、少し後悔する。

彼女には、本気で何も思っていなかった。ただ、反応を試しただけ。彼女が自分を見分けられると言うのが、少し、悔しかったから。
──とにかく、知りたかったことは聞けた。それ以外は、いらない。興味もないので一方的に、話を終わらせる。
「──たぶん、予想通りなんだと思うよ。《あの子》のことも、なんとか、してみるから……心配しないで。じゃ」















      □
 車が動いている。人を見ているよりは、酔わずに済むが、狭い場所に詰めるのは、どうも苦手だ。

(──といっても、車にしては、広い方なのか)


 頭に浮かんだ、ぼやけた人物像、その顔に、呆れた気分になってくる。あの、じじい……じゃ、なかった、おじさまは相変わらずだなあ。と思う。

(ああ、だからってどうしてこんなことをせねばならんのだ。自分でやれよ自分で。せめて、なんかごちそうくらいしてくれよ。やっぱりいい。そんなのいらないし疲れた、帰りたい。行く前からもう、すっごい帰りたい)


 頭のなかが、不満や疲れでいっぱいになる。他のことも同時に考えていたいというのに、このことが憂鬱すぎて、あまり進まない。なんとなく苛立つ。


 まつりには行く前から、だいたい予想がついたことがあった。やるからにはやることがあれど、乗り気ではない。家の前にあったその車が、見た目の品の無さ(おじさまに聞かれると怒られるだろうが、まつりは余計な部分の光沢が気に入らなかった)

──の割には、《知り合い》の所持する某メーカーの高級車であると知っていたし、そこにいる彼が、父親に気に入られるために、そのおじさまに遣われていることも知っていた。海外で何かあったらしい。海外がどの辺のことかまでは知らないが。


 その二つが目の前にあり、そこから連想する事柄もあり、かなりげんなりしているのだった。なんとなく、隣を眺めていると、夏々都がすごく挙動不審だったが、だいたい彼の状況に予想がついたので、触れないことにした。


兄が今、どうしているかなど、知らないはずだ。まつりもあえて話したことはない。

(この点については余計な情報を与えると、始末がかなり面倒な気がするんだよなあ……)


 そもそも、なんで移動なんかするんだと、不思議に思っているのかもしれなかったが、実はまつりにも、よくわからない。少女を見てみると、携帯電話でなにかしていた。そういえば、この車は《本物の》コウカが呼んだのだろうか。だとしたら、面倒なことになりそうで嫌だ。


 コウカは確かに、二人存在していたが、片方だけは違う場所にいる。もう片方は、《適任者》に入れ替わってもらった。
実際、そこまで強い繋がりがあったわけではないので、まあそんなには、問題にならないだろう。


 理由は、いろいろあったが、まず『目撃者』を消されないためだ。それから、目撃者であるということへの信憑性を、出来る限り無くすこと。こっちは出来るか少し微妙なところだ。それらは、身内に逆らっている行為だったが、今さらだ。都合の良いように使われるなら、こちらも利用してやろうと、思った。


 それは暗くてじめじめした、憎悪のような感情ではなく、ただ純粋で、無邪気な、いたずらを思い付いた子どものような、気持ちだ。

(これからどうしようかなあ。……やっぱり出来ることは出来るだけ、こなせたらいいよな)
  
 暇な移動中、ふかふかの座席に、爪を立てたくなりながら、ぼんやりと、たまに兄の相手をさせられている弟の声を聞いていた。

(──そういえば、覚えている限りでも、一度、行七夏々都の存在が、自分から消えかけたことがある)

確か、あれは彼が、学校の、修学旅行に行っていた間だ。

「県外とかに旅行に行くと、周囲の景色が頭で一気に更新されまくるから、吐く。死にそう」といつか、言っていた気もするが、わりとそれは冗談じゃなかったらしく、旅行中は、ほとんど目を回して、微熱状態だったらしい。

 それからも、帰って来るなり高熱で倒れたらしく、それからまたしばらく、遊びに来なかった。


 知らない人、になっていた彼は、旅行してきた、と言って、三週間くらいしてから、やってきた。まつりは、彼に誰かと聞いた。自分となにか関係があるのか、とも聞いた。それはまつりには結構切実なものだったのだが。

「あー、旅行してきたんだけど、旅行の内容が、あんまり思い出せなくてさ。体が正常じゃないと記憶、まともに働かないのかな。──悪い、お土産も渡せないわ」


──と、彼は、笑顔でまったく関係のないことを言ってきた。冗談だと思われたのかと思って、もう一度聞いた。

だけど、やはり、変わらなかった。


「正義の使者だ」

──とか、いきなり真顔で言ってきた。まともな発言とは、思えないが、とりあえず、返した。

「よし、帰れ。それが正義のためだ」


「なんでだよ!?」


 どうでもいいやりとりをしていたら、自分がさっきまで、悲しかったのか、よくわからなくなった。


 ──そんな出来事を、ふと思い出したのが、つい最近のことだ。まるで、他人事のように思ってしまう。そんなこともあったなと。そこにいたのが自分だったような気がしない。


 思い出すこともあれば、一方でなんとなく、なにかが、いくつか足りなくなっている気がしていた。そして《そのひとつ》は、実は『夏々都のこと』としてではなく、『彼の兄に関する出来事』と一緒に、分類されてしまっていることだと後にわかったのだが。そのとき彼と傷を結び付けているものが、よく思い出せないので、まつりには、夏々都が何かを恐れていたことも忘れてしまっていた。ただ、兄を警戒していたことくらいしか、わからない。自分だけでなく《人と人との繋がり》も、また『その人物としての情報』だ。


 忘れる面もあれば、そうでない面もある。なんて言ってしまうのは、少し切ないが、記憶は、思ったよりは曖昧で、思ったよりも複雑な構造なのかもしれない。でも結局、わからないことはわからないだけだし、それを言う気もなかった。この『欠陥』自体が、埋まる日が来るような気はしない。
(──っていうか、なんか、糖分減ってきたな……)



 あのお屋敷の、料理人、それからメイドの作る、お菓子は、美味しかった気がすると、ふと思って、嫌な気分になる。

(──しばらく、会ってないな)


 身内に伏せていることがいくらかあり、あまり会うわけにいかないのもあった。伏せているそのひとつが、行七夏々都と暮らしていることだ。

別に説明する義理もなかったし、あれこれと口を出されても面倒なので、していないのだが、あのお屋敷にいた者たち、生存者の中には、実は、今もまつりが戻って来ることを望んでいる者がいくらかいるらしく、そして、それに彼は邪魔らしい。


 現場にほとんど何も残らなかったせいで、関係者にしかわからないことだが、生存者はいるのだ。まつりは、そこに戻って来る気は全くないし、彼らがどう反省やらなにやらしたところで、完全に使われる気は、なかった。機嫌を損ねられすぎても困るので、ときどきは手伝う程度にしているが、それだけた。


 彼らが自分とは相容れないタイプの人間だと、もう随分前に理解してしまったから、もう戻れない。それに行七夏々都は、彼らの処分対象らしかった。その理由は、あまりに簡単で、逆に、嘘みたいなもの。

 『覚えすぎている』

 彼らは、証言などではなく、自分の力で行動を起こされてしまうことを、危惧している。


 最近、その意思が、どこか強まってきた。知り合いの話では、つい最近『この捜査に乗り出した物好きがいる』とかで、身内からの裏切り者として追われているが、見つからないらしい。行七夏々都は、その人物に会う前に、早めに処分されようとしている。
……なんて話が、どうして、冗談じゃないんだろうか? 

(あーあっ、やっぱり、いつまでも勝手な大人たちだよ。勝手に決めて、勝手に作って────それで、勝手に殺すってのか)
 まつりは逆らい続けるつもりだ。勝手な都合で道具にされるのは、たくさんだ。というのは建前だが──ただ、悲しくなるからだ。今さら、どうにもならないことだから。
 大切なものが、幼いときに、ほとんど奪われた。 子どもが拗ねているだけ、くらいに、向こうには思われているのかもしれない。だがあそこには、親らしい親も、大人らしい大人も、誰もいなかったのだと、まつりは思っている。『らしい』が何かという話をするとややこしくなりそうだが、要は、まつりは便利な道具か、愛玩動物でしかなかったのだ。彼らの目には『立場』や『権力』しか映っていなかった。



 そんな扱いの中で、拗ねていられるような、子どもらしい子どもなども、いるはずがなかったのに。今さら勝手に、そういうふりをされても、いい加減にしろと思うだけだ。


 これ以上、壊さないで欲しい。踏み入らないで欲しい。触れないで欲しい。どうか──奪わないで欲しい。










(あ……そうだ)

 ふと、思い付いたことがあったので、車内で、少女の携帯を借りてメールを打った。まつりも携帯電話は持ち歩くが、理由があって、特定の場所以外、特に外では使わない。

《お願いがあるんだけど》と、内容を書いたものを送ると、すぐに数分で、返信が来た。相手からの恨みが込もっている。まあ、とりあえず、日頃の感謝ではないだろう。


『あなたって、無茶言うわよね。いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも』

「……んー」

(──でも、それをこなしてくれるんだから、やっぱり、そうしてしまうんだよなあ……)

 少し考えて、返信する。少女が覗き込んできた。
ここで謝るのは、違うだろう。感謝──なんて、わざわざ書きたくない。


《出来もしない『無謀』と一緒にして言っているわけじゃないから、大丈夫。信じてるよ(^_^)/》


『何がよ! なんなのその挙手……。じゃなくて、そもそも本当に必要なの? 私は万能じゃないわ。最初のは、まだいいけど、その次が……』


《ん? まつりも違うよ。だから、こうして頼っているんだよ。きみだから、出来ると思ってる。ちょっと買収して、きみを助け出せたって、これとは事情が違うからさ、自分だけじゃ足りないんだよ。必要だ、全部》


さっきより、返信に間があった。しばらくして、一行だけの文章が届く。

『なんなの、狡い!!!』
い……
いい返信が浮かばない。

《イカ》

──送信。すぐに返信が来る。


『カニ……やめて、カニ嫌いなの、じんましんが出るの!』


《じゃあ言うなよ……》

かまぼことか、カサゴとかにすれば良いのに。


 隣で見ていた少女が、笑っている。笑いを堪えている。夏々都は兄に気を配っていて、あんまりこっちの様子は見えていないらしかった。





















   
<font size="5">31.損失の利用価値</font>



「──考えてばっかりいてもつまんないし外に出よう」 


 時刻は14時。ぼくは唐突に切り出した。家で無意味にだらだらしていると、なんだか考え込むだけで沈んでしまいそうで、やりきれなかったのだ。まつりは畳んだ毛布に顔を埋めて、枕にしながら、だるそうに睨んでいた。

「……ぐえー、もう、昼過ぎだよー。昨日外に出たしー」

 不満な声をあげているが、構わずに連れて外に出る。しぶしぶだが、ついて来てくれた。いざとなれば、こいつの方が強いはずだから、結局は合わせてくれているのだろうけれど。

 服装。ファーが付いた暖かそうなジャケット(指がほとんど見えない)と、カーディガンと、ちょっと高そうな素材の縦にうっすら線が入ってるようなシャツ。ぼくは、地味な色の、相変わらず地味な服装なので取り立てて言うところがない。


「……うう貴様、いつからアウトドア人間にっ……」


さすがに引っ張られたくはないようで、振り払って歩き出すまつりが、悪人みたいな声で言った。なんだそれ。妖怪人間じみた言い方だ。

「なってないなってない。それよりもぼくのロリコン疑惑を解消しろ」


「……え?」


 真顔。こいつは、本当にぼくをなんだと思っているんだろう。今さら傷付きはしないが、不思議がいっぱいだ。しかもあんなに行きたく無さそうだったわりには、どんどんと先に進行方向の右側に進んでいく。


「あのなあ」


何か言おうとしていたが、やはり、既に聞いていないようだった。家のすぐ横にある坂道を下る。

##IMGU28##

この高さからだと、海が見えて、空気がどこかキラキラしているので、ぼくは、結構この道が好きだ。ちなみに買い物はつらい。まつりはどこか遠くの並木を見ていたかと思えば、突然、近づいて、何気ない動作でぼくを後ろに、少し強く引っ張った。

「え、なに……」

 思わず、そっちに引き寄せられるまま後ずさる。ファーが少しだけ頬に当たって、痒い。ちくちくとした不快感と戦っていると、前方を、白い軽トラックが通りすぎていった。

びっくりした。この坂道は、車道でもある。

「──不注意だったな。ありがとう」

 言ってみたが、やはり既に聞いていなかった。手を離して、さっさと歩いていく。

 何か、グレーの電話を持っていた。見たことのない形のものだ。こんなの持っていたのか。それで少し、誰かに連絡して、上着に雑に突っ込むと、また歩き出す。


「あ、そういえば……楽譜は見えるの?」

 しばらく無言で歩いていたかと思えば、突然、まつりはそう聞いてきた。一瞬、なんのことだろうかと考えたが、ああ、壁のことかと、思い出す。

 それから、さっき引っ張られたときのことも、思い出した。もしかすると、どこまで歩道だったか、ぼくがよくわからなかったのを察して、ずっと前方を歩いてくれていたのだろうか?

(……だとしたら、それについて、あまりぼくに気を使わせないためだったのかな)



 この辺りは、最近、道路の拡張工事があったばかりで、まだぼくは、あまり慣れていないのだ。おかしいな、今日も、気を付けているつもりだったのに……
とりあえず壁側に寄る、というのを忘れていた。

「あー、さっぱりわからないんだけど、おかげでそれで隠していたものは、わかった」

「そっか」


「血痕だらけだった。あの壁。手すりの辺りのも、そうかな」


「さあ?」


まつりは適当に答えて、また先へと歩いていく。既に答えが出ているからのようだった。

 指かなにかで、ひとつずつ、または数個ずつ、間隔ごとに打たれていた点を、記号を、ずっと、ぼくは見ていた。それだけ。それが『メッセージ』。もし、覚えていなくても、そこに残っていればいいわけだ。

「──あれさ、どうかしてるよね」

 苦笑いだった。でも、どこか機嫌が良さそうに。ぼくは、なんとなくの感想を、率直に返す。


「……お前が、言うのか」
まつりは、それには答えない。

「で、内容の意味、わかった?」

「さあな」

ぼくも、答えない。
──少なくとも、人は不死身なんかじゃないということは、確かだ。


「そう」

まつりは聞かなかった。
前へ、ぼくが見失わない程度に先に歩いていく。

「──お前は、とりあえず、時間が欲しかっただけなのか?」

「まさか。たくさんの情報が、欲しかったんだよ」

「情報、ねぇ……」

ぼくは呟く。なんとなく。まつりは答えない。別に、聞く必要もないことだったから、ぼくもその点については、聞かなかった──ひとつを除いて。


「──で、二日酔いは結局大丈夫なの?」

「ん? なんのことですか」

きょとん、としたまま聞いてきた。コイツ、わざとだな。

「……わかったよ」

 歩いている間、まつりは、けらけら笑っていた。何が楽しいのか知らないが、まあ、何が楽しくなくっても、案外、笑ってしまうものだろう。嬉しいときにも涙が出るし、悲しいときでも、笑ってしまうし、楽しくても怒ってしまう。

(そうやって、いつも、笑ってくれれば、いいのにな──)

 どんなに忘れても、変わらず存在し続けるものの中に、せめて少しくらいは──救いになるものが、ありますようにと、思う。


「えっと……どこに行くんだっけ」

──ふと、立ち止まった。長い気がした坂道が終わって、T字路が見えていた。右、左、そして帰り道。 
 唐突に、どこかからピロピロと音がしはじめた。まつりが上着から電話を取り出す。改めて見るが、ゴツくて、グレーの、通話機能に特化してそうなものだ。

「はーい。お元気ですか?……はい。……はい、全く問題なく、大丈夫でしたよ? ふふ、貸し出しありがとうございました。お心遣いに感謝して、次こそはちゃんとしててくださいねっ。失望したくないので」


 ぼんやり観察しているうちに、まつりが誰かと話し始めていた。見てる方が疲れそうな、明らかに無理をしているテンションなので、目上の人、だろうか?
と思っていたのだが、途中から、中途半端に喋りかたが崩れてきている。話して1分くらいで、疲れたのか。

「──おじさまにも、以前申し上げたと思うんですけど、勝手に手を出されては困るんです。一応ですが、《賭け》には勝ちましたからね」

 だんだん、会話にトゲが混ざり始めた。まつりが話しているのは、おじさま、らしいが、何がまつりを怒らせているのだろう。


──とりあえず。
今は人が居ないとはいえ、道端で通話をすると通行人の邪魔になりかねないので、近くにある、バスの停留所に入った。壁に、方面と数十分ごとの時間が書いてある板が貼ってある。

そこは、壁に遮られているからか、外よりはまだ、暖かい。気がした。

(でも、やっぱり、寒い……)

ココアでも買って来ようと、ぼくは、数メートル先の自販機に向かった。

「うーん……自分のだけでいいかな。聞けば良かった」

 呟きながら、ぼくは自販機に小銭を入れた。どうもさっきから、なんとなく頭が痛いような……うまく、景色が見えていないみたいだ。自覚したら酷くなりそうだから、気にしないことにするが。

 飲まなかったら自分で飲むことにして、紅茶も買って帰ろうと、もう一本分お金を入れて、ボタンを押したら、突然、殴られたような激痛が襲う。どこが痛いのかも、パニックでよくわからないが、たぶん頭だろう。

まさか、これはツボ刺激ボタンではあるまい。押した途端に電波を受信したわけでも、変身するわけでもな──

「いたたたたた!?」

 続けて、買おうとしたココアと間違えて、ぜんざいのボタンをうっかり押してしまった。だが痛みに比べれば、そんなのはどうだって良いことだ。動けないまま、数分、固まってしまった。死ぬのかと思ったが、そんなことはなく、しばらくしたら楽になったので、安心し、息をついた。
そのときだった。

「あ……」

急に頭にくっきりと、イメージが浮かんでくるのがわかった。今までは、ぼやけていた絵だ。そうだ、ぼくは──

「──全部……」

 推測と実感が、繋がった。どうして、忘れていたんだろう。ぜんざいと、紅茶の缶が、冷たく感じる。あたたか~いってやつなのに、温度がうまく伝わらない。うまく持てない。

 体が、震える。わけもわからず、怖くなって、息が苦しくて……どうしたらいいか、わからない。






















<font size="5">32.解答例集、異なる同一</font>


 ぼんやりした意識のなかで、また、回想を見た。長い夢だったように思う。温かくて、寂しくて、残酷で、絶望的な夢だった。ぼくの、思い出。もう、思い出したくない悪夢。


「あら、ぬいぐるみが落ちてる……?」


──そんな声が降ってきて目を開けたとき、頭上に映ったのは、綺麗な肌の、髪の長い女の人だった。花柄のワンピースを着ていた。誰だ……

「やだ、人間じゃない!?」

 その人は、すごく驚いたように、つまもうとしたぼくの上着から手を離す。だから、クレーンゲームの景品なのかな、ぼくは。

「……やだとか、言わないでください……へこみます」

「紅茶と、ぜんざいが転がってる!」

 聞いてない。ぼくの覚醒直後の声量が、足りていないのかもしれないが、ちょっと寂しい。

「これは、ダイイングメッセージね……」


「死にかけていませんし、いったい何をしてるんですか? コウカさん」

 意識がはっきりしてきて、改めて見れば、どっかに連れていかれたような気がするコウカさんだった。気のせいだったのかなあ。変な夢を見てしまった。
ん……あれ? 違う?
えーっと。


「……あら、えーっと、あの、少年くん。お久しぶり、元気?」

彼女は特に名乗らなかった。

「……はい。まあ……で、なんですか。なんであなたがいるんでしょうか」

 彼女は、穏やかそうな目で、こちらをじっと観察しながら、二つの缶を差し出して、言った。上着に入れる。コンクリートで、寝てたからか、腰がいたい……頭は、少し痛くなくなっている。


「まつりんに呼ばれたから? あの子、特になんにも言わないから、あなたが、もし迷惑だったら言った方がいいわよ」


「いえ……迷惑とかは、どうでもいいんです。振り回されてる方が、ぼくは好きですし……そんなに誤解とか解いてまで深めたい仲もないですし。暇だったから付いていっただけですよ、ぼくが」


「変わり者ね」

「まあ、そうかもしれません」


──で、そいつのもとに戻らねばと、停留所を見るが、居ない。もしかして、一人で来ていて、これはすべて夢だったのか?


「あれ?」

首を傾げていると、彼女は手を広げて柔軟っぽいことをしながら、答えてくれる。

「まつりんは今、少し出ているの」

彼女は、いち、に、さん、しと横捻りをしながらぼくを見ているが、そこには触れずにおくことにした。

「そうですか」


 柔軟が終わったらしく、彼女はゆっくりとぼくに手を差し出す。ぼくは、その手を取らないで、立ち上がった。服のほこりを払い、もう一度聞く。

「あなたは、知ってるんですか、あいつを」


「ええ、知ってる」


「……そうですか」

 彼女の表情を見て、いろいろあったんだなあと、なんとなくしみじみしてしまう。

「──で、あなた、なんのために、あそこに出掛けてたか、結局わかった?」


「……あなたがどうして、まだここに居るのか、よりは、よくわかりましたが」

 少しだけ、意地悪く言ってみたが、彼女は特に気にしなかった。ぼくは一体、何に苛立っているんだろう。寝起きだからかな。


「──私はただその場に居なかっただけよ? ずっと、入れ替わっていたから」

「エイカさんと、ですか。なんだか、分かりにくいな……どうしてそんなこと」


「秘密」

秘密って……聞いても教えてくれないだろうな。


「はあ……あ、そうだ。ちょうど良かった。ぼくの話、聞いてください」



──たくさん、話した。たくさんだから手短に。推測と、思い出を。

 彼女は、全部を、黙ったまま、聞いてくれた。途中で飽きたら、それはそれで良かったのだが、彼女は飽きずに聞いてくれた。


 ぼくが地下に軟禁されていたとき、怪しんだ兄が、おそらく両親のために、騒ぎに乗じてあれを置いてきた話や、《彼女》が、それを見つけて不審物か、または別の目的で、持ち去ろうとした話。まつりが拾った後に、最初は彼女を疑ったが、結局は兄のものだと思ったのかなという話。
それから、少し、省いた。あまり言いたくはなかったから。


 メイドさんの間で、お屋敷のなかで、入ったばかりの自分たちに罪を被せようとした人が《内部に》いる、という勘違いが起こっていたんじゃないか、ということ。
 昔の恩人の病気が発覚して、榎左記さんが、こっそりと、《彼女》に続いて見舞いに行っていたこと。
だけど、それもある日を境にやめざるを得なかったこと。


《彼女》により、榎左記さんの恩人が殺されたこと。そもそも恩人とは、榎左記さんにとってだけの話、であったこと。



 ぼくを本当に軟禁した人のこと。それを、偶然知ってしまった人のこと。コウカさんを殺害し、コウカさんとして、少女と暮らすようになっていたんじゃないかということ。その際に、自分を死んだことにした、ということ。


 本当はだから、コウカさんが二人いて、片方があのままの、死んだ人の、ペンダントを付けていた。

 互いに、人目につかない場所で身を隠し、別々の所で《二人》は捕まった。
──というか、本当は、この辺りで、まつりが何かしたのだろうが、ぼくにはわからない。


 夜中にあの館であったはずの、殺人未遂事件のこと。あの日に見た、放置された、血まみれの壁や床。そのときの犯人だった《彼女》が脱走していたこと。
置かれたままの、地下室の棺桶。


それから、それから──


たくさん、話そうと、思った。誰かに、聞いてほしい気がした。
もっと、あと少し続く。
 あの男のことや──少女の、実験の────……


「……どうしたの?」


言葉が、詰まる。
どうしても、言えなかった。この話は、確かに、まだぼくには出来ない。いつか──向き合えるんだろうか。言えないから、終わらせた。


「……おしまいです」

──本当は、違うけれど。

「そう」


 俯くぼくに、彼女は、何も聞かないでくれた。聞いても聞き出せないと思ったのかもしれない。頭をぽんぽん叩かれそうになったので、さすがに避けた。やめてくれ。頭痛が再発したらどうするんだよ……



──と思っていたら『あれ?』と、背後からまつりの声がした。どこに行っていたんだと、言いたかったが、やっぱり言えなかった。 何か察したのか、近くに歩いて来て、しゃがんだまま、ぼくを見ている。まっすぐに。裾が、引きずられている。転ぶからやめろって、言ってるのに──


「……どうしたんだよ」


 春の、しっとりと重く、でも、柔らかい雨みたいな温かくて、静かな声で、──誰よりも、悲しそうに、目を伏せて。


「ごめんね」


謝られた。
意図が──わからない。

「なにが?」


 聞いてみたが、変わらずに、ぼくを見ていた。
勘違いじゃなく、ぼくを見ている。ぼくに、謝ることが、あっただろうか?


「──やっぱり、こういうやり方、良くなかったよね……最初から、気はすすまなかったんだけど、どうしても《事情》があって、そうするしかなくなって…………でも、ちゃんと、答えを出してくれて、ありがとう。必要だったんだ」

 まつりがあえて言わなかったことを、ぼくは、飲み込んだ。

──詳しくはわからないが、賭けとか手出しとか、そういう話が絡んだから、断れなかったんだろう。まつりを怒らせるような『なにか』が、関わる話──きっと、それはとても大事なことだったのだろうと、思うし、それなら、仕方ないじゃないか。


「──いいよ、別に。身内から言われたら、断れないよな」

いいよ、と言ったものの、まつりには、やはり、自責の念があるようだった。だったらあの態度を始終貫いていられたのはどうしてかと思ったが、たぶん精神と態度が、反対のものにになるんだろう……わからないけど。あいつのことなんて知らないし。必要以上に強がるやつだ、と言う話かもしれない。

「別に、ぼくは──」

「──こんなことなら、もっと……いや、なんでもない。本当に、ごめんなさい」


 もっと《このとき》についての記憶が自分にあったら、こんな風にわざわざ、細かく分けたり、誰かを巻き込んで、覚えているとか、知ってるとかの反応を見ずにやらなくても良かった、ということなのだろう。


 それにしても、理解が出来ない。『ごめんなさい』と、言ったのだ。ぼくに向けられた、謝罪。なぜだ。思わず、その場から、動けない。こういうのは、慣れていないから、信じられない。
(どうして謝るんだよ……)
どうして、ぼくをそんな風に、『ちゃんとした人間』みたいに、扱うんだよ

(それにお前は、それでも──)


 本当は、自分だけで出来る確信が持てなくて、でも断れなかったから、出来る限り考えて、やろうとしたんだろう? それでいて、ちゃんと、ほとんどのことを最後までやり遂げたんじゃないのか。


 誰だって、家族も、他の知り合いも、ぼくに、そうしてくれなかったのに。お前だけに、そんな反応をされても、どうしたらいいのか、わからないだろ。どうしろって、いうんだよ。
お前も──ぼくも。
「──どっ、どうしたの、やっぱり、どこか、痛い? 返事してよ……」
 うまく言葉が出てこなくて、黙っていたら、泣きそうな顔が見えた。
なんだか、変な気持ちだ。普段はあんなに冷めてるくせに。なんだよ、そんなに動揺されたら、調子が狂って、こっちまで、泣きそうになってしまうだろ。伸びてきた前髪を掴んで、隠す。
(ああ……なんか、こういうの)
 ぼくは、初めて──それを堪えるのが辛いと、思った。どんな痛みよりも、どんな暴言よりも、どんな過去よりも。今、泣くことが出来ないのが、辛いと、思ってしまった。いつのまにかしゃがんでいたみたいで、このままでは危ないと思い、とりあえず立ち上がり、上着を探って、なにげなく缶を差し出す。まつりは、やっぱりきょとんとしていたから、握らせた。
「──ほら、紅茶。悪いな、冷めたわ……」
「……えっと」
 頼んだっけ、と固まっていて、それがなんだかおかしくて、ぼくは歩き出す。
それから、一言。少しだけ自然に、笑うことが出来た。
「──じゃ、帰るか」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

この欠け落ちた匣庭の中で 終章―Dream of miniature garden―

至堂文斗
ミステリー
ーーこれが、匣の中だったんだ。 二〇一八年の夏。廃墟となった満生台を訪れたのは二人の若者。 彼らもまた、かつてGHOSTの研究によって運命を弄ばれた者たちだった。 信号領域の研究が展開され、そして壊れたニュータウン。終焉を迎えた現実と、終焉を拒絶する仮想。 歪なる領域に足を踏み入れる二人は、果たして何か一つでも、その世界に救いを与えることが出来るだろうか。 幻想、幻影、エンケージ。 魂魄、領域、人類の進化。 802部隊、九命会、レッドアイ・オペレーション……。 さあ、あの光の先へと進んでいこう。たとえもう二度と時計の針が巻き戻らないとしても。 私たちの駆け抜けたあの日々は確かに満ち足りていたと、懐かしめるようになるはずだから。

【R15】アリア・ルージュの妄信

皐月うしこ
ミステリー
その日、白濁の中で少女は死んだ。 異質な匂いに包まれて、全身を粘着質な白い液体に覆われて、乱れた着衣が物語る悲惨な光景を何と表現すればいいのだろう。世界は日常に溢れている。何気ない会話、変わらない秒針、規則正しく進む人波。それでもここに、雲が形を変えるように、ガラスが粉々に砕けるように、一輪の花が小さな種を産んだ。

【完結】共生

ひなこ
ミステリー
高校生の少女・三崎有紗(みさき・ありさ)はアナウンサーである母・優子(ゆうこ)が若い頃に歌手だったことを封印し、また歌うことも嫌うのを不審に思っていた。 ある日有紗の歌声のせいで、優子に異変が起こる。 隠された母の過去が、二十年の時を経て明らかになる?

どんでん返し

井浦
ミステリー
「1話完結」~最後の1行で衝撃が走る短編集~ ようやく子どもに恵まれた主人公は、家族でキャンプに来ていた。そこで偶然遭遇したのは、彼が閑職に追いやったかつての部下だった。なぜかファミリー用のテントに1人で宿泊する部下に違和感を覚えるが… (「薪」より)

ハイブリッド・ブレイン

青木ぬかり
ミステリー
「人とアリ、命の永さは同じだよ。……たぶん」  14歳女子の死、その理由に迫る物語です。

彼女が愛した彼は

朝飛
ミステリー
美しく妖艶な妻の朱海(あけみ)と幸せな結婚生活を送るはずだった真也(しんや)だが、ある時を堺に朱海が精神を病んでしまい、苦痛に満ちた結婚生活へと変わってしまった。 朱海が病んでしまった理由は何なのか。真相に迫ろうとする度に謎が深まり、、、。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ロンダリングプリンセス―事故物件住みます令嬢―

鬼霧宗作
ミステリー
 窓辺野コトリは、窓辺野不動産の社長令嬢である。誰もが羨む悠々自適な生活を送っていた彼女には、ちょっとだけ――ほんのちょっとだけ、人がドン引きしてしまうような趣味があった。  事故物件に異常なほどの執着――いや、愛着をみせること。むしろ、性的興奮さえ抱いているのかもしれない。  不動産会社の令嬢という立場を利用して、事故物件を転々とする彼女は、いつしか【ロンダリングプリンセス】と呼ばれるようになり――。  これは、事故物件を心から愛する、ちょっとだけ趣味の歪んだ御令嬢と、それを取り巻く個性豊かな面々の物語。  ※本作品は他作品【猫屋敷古物商店の事件台帳】の精神的続編となります。本作から読んでいただいても問題ありませんが、前作からお読みいただくとなおお楽しみいただけるかと思います。

処理中です...