灰の雪華 ~大正淡愛物語~

彩乃遥

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1.嫁入り

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「今までお世話になりました」

 私、花沢チヨはこの屋敷で生まれ育ちました。
 そして、16になる年のことです。北の果てに位置する青森県の港町である大湊に住まう海軍中尉の天内冬臣さまに嫁ぐことが決まり、いよいよこの屋敷との別れがやって参りました。

 私の父はこの屋敷の家主である旦那様。母はこの目の前の女性ではなく今は亡き我が母です。母は旦那様に道案内をしたという縁でこの屋敷の女中となりました。ほかにもう1人女中がいましたが、彼女が結婚したということで屋敷から出たいと相談していた中での出会いだったのです。

 旦那様は私の母を女中として、そしてひとりの女性として愛してしまったようで、その結果、私が生まれました。

 奥様は最初、旦那様の浮気を許せなかったそうですが、できてしまったものは仕方ないと私の誕生を受け入れ、母の育児を度々手伝いながら面倒をみてくれたと母から聞いています。

「これであんたを見るのも仕舞いだね」
「はい……」
「とっとと出ておゆき」

 辺りは真っ暗な夜でした。
 上野から青森へ行く列車は深夜に出ますから、こうしたやりとりは夜になってしまいました。
 今夜、旦那様は接待があるだとか奥様が仰っていたので帰りは遅くなることでしょうから、私は旦那様とのお別れをすることなくこの屋敷から出なくてはなりません。

 それはそれで大変失礼な気がしますが、最後の最後になって奥様の心を乱して私が不快になるのも大変苦しいのでこればかりは私が堪えることとしました。

「それでは」

 ずしりと大きく重い荷物を背負い深くお辞儀をすると、すこしだけ視線を感じましたがすぐにその視線は消えました。

「ありがとうございました。……さあ、がんばろう」

 私は旦那様に直接御礼を伝えられなかったことを少し気にかけながら、置手紙に気づいてもらえるようにと願いながら上野へと向かった。

 上野から青森まで1日もせずとも到着するらしく、本当に素晴らしいことだと思いました。私は列車に揺られながらさまざまな思案が頭の中で渦巻きます。

 冬臣さまという方は、一体どういう方なのか。
 大湊とはどういう町なのか。
 北の果ては本当に寒いのだろうか。

 どれもこれも事前に得られた情報は少なく、それだけで不安でした。

「はぁ……」

 もし、屋敷での生活よりももっと過酷な暮らしが待っていたらどうしよう。
 そうなれば私に逃げ場はない。いっそのこと死んでしまうのが良いかもしれない。そんな覚悟も必要なのだろうか。
 海軍と聞いていましたが、どうやら軍艦の船員ではなく陸上勤務の方らしいので、家にいる時間が長いだろうと。そうなると、冷徹で非情な男性でしたら奥様よりももっと恐ろしいことをするかもしれない。

 溜め息も自然とこぼれてしまうでしょう。

 この結婚の話を持ってきたのは奥様でした。
 知人の知人に独身の男性がいて、ちょうどいいだろうと。

 奥様にとって憎いであろう私の存在を殺し以外で消す方法で手っ取り早いのは嫁ぐことでしょうから、きっとそういう流れで決まったのだろうと思います。

 奥様は私をかなり嫌っていたのですが、旦那様も異母きょうだいである兄様も姉様も私のことを末っ子のように扱い、母が亡くなってからは私が寂しくならないようになのかそれまでよりも可愛がってくれていましたが、奥様はそれが気に入らなかったようで、母が亡くなってからは私の味方になってくれるような人たちがいない時間を狙って意地悪をしてきたものです。

 母が病で亡くなったのは私がまだ5歳の時でしたから、その頃はさすがに奥様も意地悪はしてきませんでした。

 ですが、旦那様のご厚意で学校へ通わせてくれたあたり─8歳ころ─から奥様は私をひどく罵倒したり身体を傷つけたりなどしてきました。

実の母はもういないのだから甘えることはできない。じっと辛抱すればいいだけのこと。

それでも旦那様やきょうだいたちは私に優しくしてくれたのでそれだけが救いでした。決して奥様の意地悪が無くなることはありませんでしたが、私の心が壊れなかったのは優しい方たちが近くにいると理解できる環境にいたからでしょう。

 しかし、その数年後になると兄様は学校を卒業して会社に勤めるため実家を出て、姉様は結婚をして実家を出てしまったのです。そうすると、もう私には味方は旦那様しかいません。

 旦那様は私を可愛がってくれて、学校にも通わせてくれているのです。それだけで申し訳がないというのに、奥様からの意地悪がどうだとか文句を垂れるなど私にはできませんでした。それに、旦那様はお忙しい方で、私が奥様からこき使われている時間は屋敷にいませんから、証拠などないのです。

 今、こうして振り返ると女学校を卒業する前に嫁ぐ形ではありますが、結婚相手がどんな方かはさておき、奥様から離れることができたのは双方にとって幸いだったのかもしれません。

「はは、なんだかつかれちゃった」

 夜も遅く、また移動時間が長く感ぜられるせいか心も身体も疲れてしまったのでしょう。
しばらく列車に揺られているとゆっくりと重くなっていく瞼はもう重力には逆らえずにくっついてしまいました。

 がたんがたん、と私を揺らす列車は、少々気分の悪くなる揺れではございましたが、何か遺伝子に刻まれた本能に近い部分で懐かしさを纏う心地好さもありました。

 どんどん遠く離れていく。
 嗚呼、我がふるさと。行って参ります。

 北の果ての大湊へ。

 私は目尻に滲んだ雫を掬い、つんとした鼻先の痛みを感じてから鼻をすすりました。
 久しぶりのことでした。
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