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第一章

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 夜も更け、街灯の灯りと月光だけが道を照らす。路地裏に入ってしまえば、真っ暗なため治安が良い地区でもどこか不穏な空気が漂う街に、独りで歩く少女がいた。ローブを被り、街を練り歩く少女は、夜な夜な両親が眠りに就いた隙に家から抜け出して夜の街を散策していた。
「やっぱり夜は誰もいなくて良いわね」
 草木も寝静まる深夜は、当然誰もが眠っている。真夜中に眠らず家を出て目的も無く歩き回ることは、少女の安らぎの時間となっていた。心が落ち着くということは、すなわち気が緩んでいるとも言い換えることが出来る。彼女がふと今の時刻を気にして、持っていた懐中時計をポケットから取り出した瞬間のことだった。
 シルバーの輝きが反射し、文字盤に配置された針を見ようと目線を下に向けた。
「は!? ちょっと! 泥棒!」
「だははは! こんな時間に独りでいるから悪いんだぜ!」
 小太りの身長がやや低い男が少女の持っていた懐中時計を奪った。瞬く間に男は逃げて行ってしまい、少女は追いかけることを諦め思いっきり右手を振り上げる。そのまま感情に任せて何か呟きかけたところに、二人の若い男性が通りがかった。
「もし、そこのお嬢様。どうしたのですか?」
「あ、あの……。今、わたしの懐中時計が盗まれてしまって」
「もしかして、さっきすれ違ったおっさんじゃないか? ルカ、ほら、あの」
「ああ、あの男か。私が追いかけよう。まだ遠くまで行っていないはずだ」
「おう、わかった。俺はこの子を見守る」
「頼んだ」
 肩にかからぬほどのきめ細かいブロンドの髪をひるがえし、小太りの男が逃げた道を走っていく。
「あの」
「ああ、突然ごめんな。俺はウィリアム。追いかけに行った方はルカっていうんだ。ルカは足が速くてな。昔から勝てないんだ。だから安心してくれ。ちゃんと取り返してくれるさ」
「そうなのですね。……あの、ルカ様、美しい方ですね」
「ああ。そう。美しいんだよ、あいつは」
 少女の問いかけにやや間を含めた後、溜め息混じりにそう答えたウィリアムは、湖の方へ歩いて柵に手を置き、月をぼおっと眺めていた。
「月など眺めてどうしたんですか」
「いや、俺の愛する人に似ているなと思ってな」
「ロマンチストですね?」
「そんなんじゃねぇよ。本当に、あいつは……人を惹きつける特別な力があるんだ」
 柵に寄りかかりながら二人で月を眺めていると、ルカが帰ってきた。
「ルカ、どうだった」
「ああ。問い詰めたところ、あの男で間違いなかった。これで間違いないかな?」
 ルカは握っていた懐中時計を少女に見せる。
「ああ、これです! 本当にありがとうございました」
「そうか、良かった。さあ、だいぶ遅いですし家まで送りましょう」
「そうだな。嬢ちゃん、今夜はもう帰るんだな」
「そうします。そして、わたしの名はアビゲイルよ」
 ルカとウィリアムに促され、大人しく帰ることとしたアビゲイルは渋々家へと向かう。今夜の散策は、それほど遠くまでは歩いておらず、徒歩十分程度だった。
そして、家に辿り着いてからアビゲイルが街の中心から見えるやや高い場所に位置するヘルゼイユ家の娘であることがわかった。ヘルゼイユ家は貴族でありこの街で知らぬ者はいない一家であった。だから、ヘルゼイユ夫妻の一人娘であるアビゲイルの所持品は全て高価な物だと考えた輩が強盗したのだろう。
「お前がヘルゼイユの娘だったとはな」
「ウィリアム、口が悪いぞ。申し訳ありません。アビゲイル嬢。私の教育が不十分なようでして」
「構わないわ。ルカ様、そんな堅くならないで」
「そうだぞルカ。お前は堅すぎるぞ」
「ウィリアムはもう少しわたしを敬ったらどうかしら?」
「腹の立つ女子だな」
 ルカとウィリアムは、事情があって急遽遠出をしており、今晩この街で泊まる宿を探していたとのことだったため、勝手ではあるが、アビゲイルが空き部屋の存在を思い出してそこへ泊ればいいと提案した。流石に勝手に泊まるのは無礼だろうと一度は断ったが、アビゲイルは明日の朝に両親に説明をするということで、泊まるようにと再び誘った。
 しかし、ルカは礼儀正しく、それに嫁入り前の未成年の女子と深夜に会って邸へ入ることでさえも躊躇っていたのに、泊まるだなんて、と最初はやんわり断っていたが、アビゲイルの勢いに折れ、ルカは言葉に甘えて一晩泊まらせてもらうこととした。
「一部屋しか用意できなくてごめんなさい。でもベッドは二つあるから」
「お気遣いありがとうございます。はい、では。おやすみなさい」
 にこにこと笑顔でルカを見つめ、ドアを閉めるまで手を振っていた。
「お前、相当気に入られているな」
「私が? こんな私をか」
「そうさ。昔から変わらないよ」
「かつての私はもう何も残っていないよ。もう眠ろう。おやすみ、ウィリアム」
「ああ、おやすみ」
 満月が二人の部屋を照らし、眩しいくらいに照っていた。月明りのベールに包まれたルカの金色の髪は艶やかな青白さを帯びていた。
 数時間もすると、太陽が昇ってきて朝を告げる鐘が鳴る。眠るには時間が不足していたが、疲労の回復は感じられた。
 ルカは早く起き、窓の外から見える遠くの山を眺めながら、室内に備えられた洗面用具を使い、顔を洗い髪を梳かし身支度をする。いつもであれば剣の鍛錬をする時間であるが、今日はやめておくことにした。そうすると、やることが無くて困ってしまう。ウィリアムはまだ起きる気配も無い。起こしてしまわないように忍び歩きで部屋を出ると、廊下や階段などの掃除を行うメイド達がいた。
「おはようございます。ルカ様」
「ああ、おはよう。朝からご苦労であるな」
「痛み入ります」
 メイドに挨拶をし、外へ出て馬にでも乗ろうと階段を降りようとしたところ、背後からドタドタと足音がしたので振り向こうと首を後ろへ向ける前に突然腕を掴まれる。
「ルカ様。おはようございます!」
「おはようございます。昨夜はありがとうございました。アビゲイル嬢のご厚意のおかげでよく眠れました」
「いいえ、気にしないで。そして突然だけれど、あなたに話があるの」
「はい」
 ルカは、アビゲイルの意気揚々とした様子に謎を感じながらもアビゲイルの発言を待つ。雲一つない快晴の空のような澄んだ笑顔で彼女は話す。
「あなたとウィリアムを、わたしの護衛として雇いたいの」
 アビゲイルの唐突な提案に、またしても悩まされるルカ。正直になると、ルカもウィリアムも職を探しながら旅をしていた身であるため、雇ってもらえるのであれば雇って欲しいのだが、ヘルゼイユ家の娘の護衛に就けるほどの地位をルカは持っていなかった。もとは貴族の生まれであるが、今は無き称号であった。
「ありがたきお言葉ではありますが、私のような身分の低い者には務まりません。申し訳ないのですが……」
 ルカが断ろうとすると、続きを聞かんぞと言わんばかりの勢いで、首を横にぶんぶんと振ってわかりきった答えを遮ろうとする。アビゲイルの長い三つ編みの束が二つ、揺れるのをまじまじと見て面白くて笑いを堪えるルカは、目線をわざと逸らす。
「身分を気にするのは大人なら当然でしょうけど、わたしを護ったのはあなたたちなのよ? おわかり?」
「ええ、そうでございますが……」
「お父様にはわたしがお願いすればいいのだわ! ルカ様もウィリアムもわたしの恩人ですからね、傍に置いておきたい。信頼出来るもの」
 ルビーのように燃え盛る瞳がルカを捕らえて逃がさんとする野生の獣のようであった。齢十五、六の少女から放たれる目力ではないと思うほど、強い意志が隠すことなく表れていた。逆に、まだ子どもだからこそ欲望を剥き出しに出来るのかもしれないと、若干の羨ましさも感じながらアビゲイルの熱意にあてられる。
「何故そこまで私にこだわるのでしょうか? 護衛が必要であれば私よりも優れた肉体や技術を持つ人材もおられるはずですが」
 ルカが真っ当な意見を淡々と述べるとアビゲイルは不貞腐れながら、ぶつぶつと小言を呟きながらルカを睨む。
「わたしはあなた達にお願いしたい。あなた達との出会いに運命を感じたもの」
 手を握って掴み、きらきらと瞳を輝かせながら上目遣いでルカにねだるように目を合わせられ、そして身長差を活かしてルカとの距離を詰めて上目遣いまで習得して応用出来るアビゲイルは、まだ未成年であるのに既に魅了能力に長けているようだった。
「お父上とよく相談なさってください。私はそれ無しでは話も聞いてもらえないでしょうから」
「そうね、わたしが言い始めたものですからね。必ずお父様を納得させるわ!」
 意気込んで拳を突き上げ、どこかへ走っていったアビゲイルの背を見て、外へと向かうのをやめて部屋へ戻ることにした。気分が変わって、昨夜アビゲイルから「読んでも構わない」と言われていた、備え付けられた本棚にびっしり収納された本から適当に一冊引っ張り出して、なんとなく文を読みたい気分に変わったのだ。
 部屋へ戻ると、ウィリイアムが起床し着替えを済ませて朝の爽やかな風に当たりながら読書をしていた。
「おはよう。珍しいな、ウィリイアムが本を読むなんて」
「おはよう。いや、筋トレしたいがここじゃ出来ないだろ? 流石にそれくらいは考えたさ」
 ウィリアムがぺらぺらとめくるページの音の速度がやや速く、その速度では内容が頭に入っていないのだろうなとルカは彼に聞こえないように小さく笑って本棚にしまってある本の背表紙に目を通し、目に留まるタイトルを探す。
「そうだ、アビゲイル嬢から、私とお前の二人を護衛として雇いたいと言われた」
 紙をめくる音がぴたりと止まり、そちらの方に目線をやると、ウィリイアムは久しく見せたことのない真面目な表情をしてルカの眼を見る。
「いいんじゃないか? 俺はお前についていくだけだ」
 ウィリイアムの真剣な眼差しといつもの声より少し低い音でルカの意思に従うことを示した。
「ありがとう、ウィリアム」
 ルカはある本を手に取り、ウィリアムの座る椅子の隣にもう一つの椅子を動かし、腰かける。
ウィリイアムはルカと共に育ってきた同い年の男だ。ルカは一人っ子であるため、双子のきょうだいのようであると感じていた。従者であるのも間違いではないが、確実にそれ以上の関係でもあり、いつでも傍にいて背中を預け安心して頼れる相手でもあった。だからこそ、ウィリイアムの意見もしっかりと毎回確認するようにしていた。
「仕事に就けるのはありがたい。それに護衛なら私の過去が知られることもないだろう」
「そうだな、それに……お前の過去を知っているのは俺だけでいい」
 ウィリアムがルカの真白な細い手首を掴むと、力強く振りほどかれてしまう。強く握ったわけでもないのに、薄く赤い跡が残っていた。
「ああ、私の過去は無いも当然なのにな。おかしいな」
「ルカ……。あ、その本」
 自分の行動のせいで空気が気まずくなってしまったのを悟り、どうでもいい話題をルカに振って重くなりかけた空気を断ち切ろうと試みた。
「これ、懐かしいと思ってな」
 タイトルには『まほうつかいのたからもの』と書いてあり、文字の読み書きの練習を始めた子どもが対象の可愛らしい挿絵が入っている本であった。立派な装丁の本であり、小さな子が大人に憧れ、大人っぽいことをしたいという気持ちに答えられるように、老舗出版社があえてキャラクターが描かれているものではない表紙をデザインしたと話していた。ちょうどその物語を知っていたため、本を手に取った。
「これを読むと昔のことを思い出す」
 数ページ読みながら、昔を懐かしみつつどこか愁いを帯びた色の瞳は綺麗なブルーアイを濁らせていた。しかし、その伏せた目には色気も隠れてはいるが存在しており、触れてしまえば手を離したくなくなってしまうだろう。そういった欲が一瞬過ぎてしまうほどの妖しい美も存在している。
「ガキの頃に言っていたやつか。魔法使いに会ったっていう」
「そう。あの夜に見た魔法使い。でも、あれ以来現れなかった」
「魔法使いだからな。仕方ないんじゃないか?」
「それもそうだな」
──魔法使いの宝物が、どんなものなのかは、誰も知らない。ただわかっていることは、魔法使いは宝物を自分だけのものにしたくて宝物に呪いをかけた。誰にも渡さないために。その呪いを解くことは、魔法使い以外は絶対に出来ない。たとえその宝物を魔法使いよりも愛する者が現れたとしてもだ。魔法使いはそうすることで独り占め出来ると思ったのだった。しかし、魔法使いが宝物に心を奪われたせいで他の魔法使いから目を付けられ、魔力を奪われ退治されてしまった。
 この話の教訓として、幼い子どもたちは、独占することは悪いことであるとか、金目の物に目がくらんでそれだけしか見えなくなるのは悪いことだとかを学ぶという。
 童話に魔法使いが出ることは少なくない。それなのに、ルカがこの話をよく覚えているのは、数ある魔法使いが登場する童話の中で特に心に残った教訓や、過去の経験からのものであった。

 本を読みながら昔を懐かしんでいると、メイドが部屋を訪ねて来た。どうやら朝食を用意してくれたらしく、ありがたく食卓へ向かうこととした。豪華な朝食は彩り豊かで、バランスを意識しながらも過食にならないように工夫されていた。その朝食の場では、ルカとウィリアムの旅や境遇をヘルゼイユ卿に質問され、丁寧に嘘偽りなく答える。妻の方はただ頷いて聞いており、彼もまたルカの回答を聞いて頷きながら、また新たな質問をして、と繰り返しており質問攻めにされる。まるで、面接官が受験者を圧迫するようであった。
「それでルカ君はアビゲイルの護衛として働きたいと」
「はい」
「お父様、どう?」
 うーむ、と唸りながらグラスに注がれた水を一口飲んでしばらく頭を垂れて黙り込む。その間、食卓の雰囲気は重たく、食事を続けると無作法な気がして手を止めた。しーん、と音が聞こえてしまいそうな空気に耐えられずウィリアムが咳払いをすると、ヘルゼイユ卿が顔を上げて、今までの威厳のある顔から一変して、穏やかな笑みを浮かべていた。
「正直に言えば、君たちと私たちヘルゼイユとの関係は全くないから、信頼はゼロなのだが、アビゲイルの説得はかなり受けたし、ルカ君の誠実さを信じてみることにした」
「わあ! ありがとう、お父様! よかったぁ!」
「ありがとうございます。私たちがアビゲイル様のいかなる危険も排除いたします」
 こうして、ルカとウィリアムは正式にアビゲイルの護衛として雇われることとなった。ヘルゼイユ家は豪邸であるが、部屋の数にゆとりがあるわけではなかった。メイドや執事は雇用の際に人数に制限を設けていたため、住み込みの使用人の場合は専用の部屋があるが、ルカ達は突然の採用となったため、部屋は無い。そのため、客室として使わなくなった空き部屋を二人で使うこととなった。そして、その部屋は昨夜泊まった部屋と同じであった。そこに今度からは住まうのだ。
 ルカとウィリアムは、以前は同じ屋敷に住んでおりウィリアムはルカの従者として幼い頃から共に過ごしていた。だが、もちろん同室ではなかったため、二十代半ばの大人二人が今更ルームシェアをするとなると、やや照れくささもあった。
 部屋を片付け、二人が過ごしやすい環境を整えるために買い出しに行き、アビゲイルに頼まれた本を購入し屋敷へ帰ると、すっかり夕方になっている。ルカ達は護衛であるから、食事や掃除の仕事はないが、配膳は手伝っていた。というのも、元貴族である事実が根底にあり、今は貴族に仕える身だと強く実感しているからであった。
「ルカの仕事ではないでしょう」
 アビゲイルは不思議そうにルカを見つめながら呟く。
「はい。ですが主と同じように座って配膳を待つのも躊躇いが生まれてしまって」
「はやく慣れると良いわね。あなたには堂々としていてほしい」
「承知しました」
 配膳が終わり、夕食を済ませると、アビゲイルが散策に出たいと言い出したので、初仕事だとウィリアムがはりきっていた。アビゲイルのリクエストで、街から少し遠くの景色の良い湖に行くこととなった。アビゲイルが外出用の軽装に着替えて外へ出るとウィリアムが馬を連れて待っていた。
「ほら、行くぞ」
「アビゲイル嬢は一応私と乗りましょう」
「そうするわ。ふふふ、たのしいわ! 今まで、こんなこと私出来なかったから」
 無邪気に笑うその顔は、実際の年齢よりもだいぶ幼く見えた。
 馬を走らせていくと、だんだん景色に緑が多くなっていく。ルカもウィリアムも知らない土地なため、アビゲイルが道案内をしながら目的地を目指す。この道は灯りなどないため、月光だけが頼りである。
今宵も大変月が強く光っている。夜の快晴は星屑が散りばめられていて、空にもう一つの世界が展開されたような、幻想的な濃紺の世界が広がっていた。
目的地に着き、湖を見ると、水面に月がもう一つ浮かんでいた。
「不思議でしょう」
「そうだな」
「綺麗ですね。あの夜に見た月のよう……」
 ルカが珍しく突きに魅入られたかのようにうっとりして月を見ていた。月を見上げる横顔は月明りを受け、透き通るような白さがより増している。濡れた青の瞳は輝き、色はいつもより濃くなっていた。
「お前が昔のこと思い出すんなんて珍しい」
「ウィリイアム、少しは黙ったらどうだ」
「でもわたしはそんなところを気に入っているわ」
 三人は出会って時間はそこまで経っていなかったが、不思議なことに昔馴染みであったのかと思ってしまうほど、すぐに打ち解けていた。年齢差はあるものの、ルカとウィリアムはアビゲイルを歳下と思わずに接している。彼らは、妹のように愛情を持って接しているのかもしれない。
 アビゲイルのとめどない話が数十分続き、あくびをして腕を伸ばしているウィリアムを見て、彼がそろそろ飽きてきたのだろうと感じた。アビゲイルが、帰ろうとして声をかける。ウィリアムはもうほとんど相槌も打ってくれていない。その態度のウィリアムを肘でつついて改めさせようとルカは対応するが、全く効果はない。
「そろそろ帰りましょうか。ありがとうね」
 なんだか少し寂しそうにも見えたアビゲイルをルカは気にした。しかし、その心配は必要なかったようで、帰り道では話し疲れたのかアビゲイルはうとうとしていて、とても静かであった。そして、ルカの腹に腕をまわして眠りかけていた。
「さっきとは大違いだな」
「久しぶりに歳の近い私たちと話してはしゃいでしまったのだろう」
「可愛らしいな、無邪気で」
「そうだな……」
 ルカの下唇が震えるのを抑えるように噛んでいたのを、ウィリアムは見えていたが知らぬふりをしてルカの前で馬を歩かせ、屋敷に帰るまでの間、二人は何も話すことはなかった。静かな夜の散策であった。

「ただいま戻った」
「おかえりなさいませ。アビゲイル様をお部屋にお連れしますね」
「よろしく頼む」
 若手のメイドが玄関で眠ったアビゲイルを姫抱きしていたルカから受け取り、背負った。背は低いが筋力はかなりあるようで、余裕そうに背負う様を見て、感心してしまった。
「あのメイド、すげぇな」
「しっかり鍛えているのだろう。それほど過酷な仕事なのだろうな」
 夫妻はすっかり眠っているらしいため、挨拶はせずそのまま二人は二階の自室へ向かう。夜の屋敷は照明が少なくなっており仄暗い。足元の灯りを頼りに歩いると、大きなガラス窓がいくつか見えてきて、そこからは外からの自然光が入っている。
 部屋に入ると、すっかり疲れたルカは素早くベッドに身を沈めていた。
「そんなに疲れたのか?」
「ああ……なぜか疲れてしまった。いつもはこんなすぐに疲れないのにな」
 ウィリアムは黙って椅子に座っていた。ギシ、とベッドが軋んでルカはウィリアムの方を見る。いつもは何かと話しかけてくる男であるのに、急に黙り込んでしんみりとしている様子にやや心配に思ったのだ。ルカはすぐに、ウィリアムが何か考えていることがわかってはいたが、散策の帰りから様子がおかしいと感じてはいた。悩みがあったり考えていることがあったりすると、すぐに静かになってしまうのは昔からだった。そういう時は、あえて声をかけず放っておいていたので、ルカは先に眠ろうとした。着替えるために立ち上がると、ウィリアムも立ち上がった。
「ウィリアム? どうした」
「……ルキア」
 ウィリアムが「ルキア」とルカのことを呼ぶ。ウィリアムがどこか悲しげな顔をしていることなどつゆ知らずルカは眉間に皺を寄せて、怒りを顕わにし、ずかずかとウィリアムの目の前に立つ。
「その名で呼ぶな! 私は『ルカ』だ!」
 滅多に気性を激しくすることのないルカが怒鳴り、ウィリアムの頬を殴ろうとする。怒りに任せてそのまま頬を叩く勢いではあったものの、それを実行することはしなかった。
「殴りたいなら殴れ。思いっきりな」
 これまで、ルカは誰にも見えないところで必死に努力していた。男女問わず誰かに負けてはいけない。負けず嫌いだった性格も相まって、『ルキア』を捨てた日からは特にその意識が心の中を支配していて、男性に匹敵するかそれ以上でありたいと思っていたのだ。それは、従者であるウィリアムも例外ではなかった。ウィリアムはルカの従者であるため負けては示しがつかないと己を追い込み、必死に努力を積み重ね続けていた。ウィリアムはそれを理解しており、何も口出しせず見守っていた。勉学も、体力も筋力もそれ以外のことも含めた全てにおいて負けてはならないと幼少期の頃から励んでいた。それでも、十代半ばに差し掛かる頃には身体的な能力はどれだけトレーニングを積んでも限界があった。
「私が殴ろうとしてもお前に勝てない……」
「……そうだな」
「どう頑張っても、お前に勝てないのだ」
「ああ」
 ルカは瞳を濡らす。潤んだ瞳によく映る目の前の男も、どこか愁いを帯びた表情でルカを見つめている。ルカがこれまでに泣いたことは一度も無い。その分、堪えていたたくさんの涙が一気に溢れそうになり人差し指で目尻に溜まった露を拭おうとすると、ウィリアムがルカの腰を抱いて自身の身体に引き寄せる。直に触れると、どうしても薄い身体と細い腰が目立った。普段着ている体型を隠せるようなシルエットの衣服の上からでも、本来ならば守られるべき立場であることが十分に伝わってきた。
「離せ」
「お前と愛し合いたいんだ」
「私は男だ……! からかうな──」
 ルカを抱き寄せた腕を剥がそうとしたルカが触れる腕は、筋肉で厚く硬く、逞しいいかにも男のものであった。どれだけ鍛えても、ルカにはここまで発達することは不可能であることは、ルカ自身がいちばんわかっていた。
「いや、お前は間違いなく女だ。今までも、これからも」
「ウィリアム……」
 ルカのシャープな顎をウィリアムが親指と人差し指で摘まんで顔と顔が向き合うように振り向かせる。これから先に起こるだろうことへの不安と期待が入り混じって頭の中では何も考えられない。感情が渦巻き、潤んだ鮮やかなブルーの双石が鋭い深い緑の瞳に射貫かれてしまい、とうとう逃げ場を失う。拒みたいのに、身体は目の前の男から降り注がれる愛を享受しようとして、強引に引き付けられた腰の腕を無理矢理にでも振りほどくことも、顎に当てられた手を払うことも出来なかった。
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 ルカが瞬きをすると、そのままウィリアムの唇がかすかに触れる。それが、次第に押し付けるようになって、唇の存在を感じれば、様々な角度で隅々までルカの薄紅色の唇を奪う。ちゅ、ちゅ、と重ねるごとに小さなリップ音が軽やかに響いている。硬直してしまうルカの後頭部を優しく、されど倒れてしまわぬように強く支えるために大きな手が力強く掴んで離さない。指の隙間から流れる金色の滝は流れていた。上昇していく体温と、ほのかに漂うルカの甘い香りがウィリアムの理性の糸を一本いっぽん断ち切っていく。
ルカが心配そうに弱々しく開く目で視線を上にやると、ウィリアムの眼は獲物を目の前にした肉食獣のようであった。眼光鋭くルカを捕らえると深いグリーンの瞳がじっとルカを離さない。それに耐えられずに目線を逸らそうとすると、べろっ、と薄い唇を舐めるように厚い舌が這い、やがて唇を甘く噛まれる。まるでゆっくりと獲物を喰らうように。
「こ、こらっ……!」
 制止するように声を発すると獣は大人しく指示に従うように止まった。やっとのことで離してもらえるかとルカが息継ぎをしながらウィリアムの胸を叩くが、微動だにしない。それどころか、より一層強く抱きしめられてしまい、ルカの心拍数は跳ね上がっていき、頬の火照りも増した。どんなに力を入れても抗えない。これまで抑えてきた『男』の欲を解き放ってしまったウィリアムは、しばらくルカを逃がすことはないだろう。
(ああ、これが『男』か)
 ルカはゆっくり目を閉じる。そうすると、ウィリアムの手が後頭部から手に移動し、ぎゅっと繋がれる。そして、指先を絡めさせながら重心をずらされてベッドまで雪崩れ込むように倒れてしまう。
 それから唇をまた重ねられて、唇の隙間から舌が侵入して歯列をなぞる。これ以上は許すわけにはいかないと、ルカは耐えてみせるが、シャツに手を伸ばされた途端、あ、と声を出してしまい侵入を許してしまう。ウィリアムの厚い舌が、逃げ惑うルカを捕らえようとわざとらしく、ちょん、と舌先でつついてくると度に、びくっと反応してしまい、目をぎゅっと強く瞑って声を出してしまわぬように力がこもる。
「逃げるな」
 今まで聞いたことのないような腹の奥底まで響いた低い声が脳を麻痺させる。舌を逃がそうとしていたのに、あっけなくウィリアムによって捕まってしまったのだ。
 口調とは正反対で、愛おしいという感情が滲み出てくる深い口づけ。ちゅ、ちゅ、くちゅ、と絡み合う唾液が粘度を増していくのが官能的な水音で丸わかりであった。興奮して蕩けた舌は、愛撫されることで快楽をわずかではあるが拾っていく。これまで、このようなキスなどしたことの無いルカにとって、未知の感覚であった。
「ん、ぅ……う、うぃりあ……ぅ」
 完全に仕上がってきた咥内がほかほかと熱を持っていく。舌先を舐められた後に舌全体を引っ張り出され、ぢゅう、と吸われると、身体が勝手にびくびくと小さく震えてしまう。自然と涙が流れ、その雫を舐めとるウィリアムの下半身が、窮屈そうに硬くなってルカの下腹部に当たっていた。
「ウィリアム……?」
「すまん……。安心しろ。まだしない。お前が俺を好きだと言ってくれるまでは絶対にしない」
 ウィリアムはそう言うとベッドから離れた。ルカの荒い呼吸だけが静寂の夜の部屋を満たしている。やはり、どこか悲しげな表情のウィリアムを心配に思ってしまったルカはふらつく腰を立ててウィリアムにもたれるように隣に立つ。
「何を悲しく思っているのだ」
「ルキ……ルカ。俺はお前の傍にいられればそれで十分だったはずなんだ」
「うん」
「なのに、俺はお前を女として愛したいと思っている」
「……そうか」
「お前はこの生き方に悔いは無いのか? あの日のことがあったってもっと他の……」
 ウィリアムが続きを話そうとするとルカはそれを阻止するように遮る。
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 ルカの肩をそっと抱き寄せようとすると、その前にクローゼットの方へ行って着替える。灰色と水色が混ざったようなパジャマをまとって布団に潜りこむ。ルカはただ一言、「おやすみ」とだけ残し、それ以降何も話すことはなかった。ウィリアムの手は空虚を握りしめて己の太ももを一発殴り、散っていった。
「あの魔法使いさえいなければ、ルカは……」
 どれだけ過去を恨んでも、時は戻らない。ルカの心に生まれる、女として男へ抱く愛の温もりは、『ヤツ』に気づかれてしまえばきっと攫われてしまうだろう。どこか遠くの、誰も立ち入ることの出来ない鳥籠に閉ざされる。永遠に、ウィリアムの元へは戻れない。だから、ルカはかつての『ルキア』という名を捨てた。この名は女として生まれた時に授かった名であるから。ルカとして生きれば、『ヤツ』は見逃してくれるはずだ。そう願った。そして、ウィリアムを愛さなければ、二人で生きられるだろう。
 ヤツ─魔法使い─は、ルキアがこの世に生まれてすぐに恋をしてしまったのだ。人が生まれてから死ぬ歳月よりもさらに生きてきた魔法使いが、生まれて初めて心を奪われた可愛らしい女の子。ルキアの魂が、魔法使いを魅了していたのだった。今すぐに奪ってしまいたい。やろうと思えばいくらでも出来た。それでも実行しなかったのは、ルキアが大きくなるまでは見守っていたかった。愛し、愛されたかった。一刻も早く妻として迎えたかったのが本音ではある。だが、まだその時ではない。愛し合うには長い時間も必要だろう。魔法使いにとって、少女が大人になるまでの時間などほんの少しの時間でしかなかった。彼女と恋仲になれると信じて待ち続けた。
 周りの同性の子よりも背が高く丈夫に育ち、可愛らしさだけでなく、同性も惚れてしまうだろう美しさと凛々しさも備えた少女は、従者のウィリアムに恋していた。だが魔法使いは焦ることは無かった。幼い頃によくありがちな感情だろうと考えていたからだ。
さらに年月が経つ。それでも恋心は全く収まらなかった。だから、奪った。魔法使いはこれ以上待てなかったのだ。愛しい『私の宝物』が他の男に奪われてしまうなら、その前に奪ってしまえば良い。
魔法使いは、いつものように満月の夜にルキアの部屋を訪れる。
「綺麗だよ。私のルキア」
魔法使いが彼女に捧げた初めての贈り物。独りになってしまってもこの私が傍にいよう。永遠に。君がどんな姿になっても傍にいよう。誓いを込めた魔法を贈った。
 誰を愛することも許さない。愛せるのはこの魔法をかけた本人だけ。ただ一人だけ。少女は、今後女として男を愛してはならない。愛してしまえば、生命の灯が消えてしまうから。つまり、女であることを諦めるか、ウィリアムを諦めるかのどちらかになるだろう。人間の愛というのは儚いものだろうと信じていた。男女の恋などすぐに崩壊するだろう、と。
「早く目覚めて私のもとへおいで。いつでも君を愛そう」
 彼が与えた贈り物。それは

──永遠の呪いであった。
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