上 下
486 / 622
Episode4 京子

【番外編】30 特別な呼び方

しおりを挟む
「京子さん、出張のレポート帰るまでに上げておいて下さいね。オジサンたちから催促が来てるんで」
「そっちにも行ってたの? ごめんね」
「昨日の今日で急ぎ過ぎだとは思いますけどね。とりあえずお願いします」
「うん。綾斗あやとは気を付けて行ってきて。飲み過ぎないようにね?」
「分かってます」
 
 警視庁の森脇もりわきから呼び出された綾斗をデスクルームで見送って、京子は閉じっ放しのノートパソコンを開いた。
 今朝電話を取った様子だと、用件が済んだ後に飲みへ連れて行かれるパターンだろう。森脇の酒好きは有名で、昔から『仕事』と称してマサや大舎卿だいしゃきょうを酒の席に誘ってくることが多かった。最近は二人が居ない分、もっぱら綾斗がその役を引き受けている状況だ。

 京子は立ち上がったパソコンを睨みつける。机で黙々とキーボードを叩く作業が苦手で、いつもレポートは後回しにしてしまう。
 昨日平野ひらのの所に日帰りで行ってきただけなのに、用紙三枚分の項目を埋めなければならないのは溜息しか出て来ない。

「これ食べてからにしよっか」

 京子は画面から目を逸らして、出張帰りに買った最中もなかを片手に、用意したマグカップのコーヒーをすすった。
 もう今日はこれをやって帰るだけなのに、全くやる気が起きない。

「京子さん、ほんとレポート苦手ですね」
「手書きだったらいいのに。パソコン使ってやるのが面倒なんだよ」

 斜め向かいの席でずっとキーボードを鳴らしていた美弦みつるが、手を休めて顔を上げる。
 綾斗の出て行ったデスクルームは、彼女と二人きりだった。修司は書類を届けに朱羽の事務所へ行っている。

 「慣れると楽ですよ」と、美弦が京子の横にある修司の席へ移動した。
 ドンと座った椅子を京子の方へ寄せて、美弦は意味深な笑顔で京子を覗き込む。

「どうしたの?」
「京子さんって、二人きりの時は綾斗さんに何て呼ばれてるんですか?」
「へ? 何? 急に……」
「ちょっと聞いてみたくなったんですよ」

 好奇心いっぱいの目は、全然『ちょっと』には見えない。
 唐突な質問にたじろぎつつも、

「京子さん──だけど?」
「えぇ。そんなのいつもと変わらないじゃないですか!」

 聞かれたことを答えただけなのに、美弦はめいっぱいに不満を広げた。
 どうやら別の答えを期待していたようだ。

「敬語はやめてって言ってから仕事以外では普通に話してくれるけど、名前はそのままだよ?」
「何でですか。恋人なのに!」
「向こうが年下──だから? 綾斗って美弦の事は呼び捨てにしてるでしょ? そういう事なんじゃない?」
「けど恋人なんですよ? そこからの変化に期待しちゃうじゃないですか」
「期待……って。まぁ確かに桃也とうやには最初『京子さん』って呼ばれてたけど。まだ小さかったしね」

 呼び方なんて性格的なものもあるだろうし、人それぞれだとは思う。京子が自分からどう呼んで欲しいと相手に伝えた事はないが、そういう考えもアリだろうか。
 『京子』と綾斗に呼ばれるシーンを想像して、京子は込み上げた衝動に「やばいよ」と顔を歪めた。

「ですよね! そのドキドキが欲しいんですよ! 仕事では付けなのに、二人きりの時が呼び捨てだなんてシチュエーション、最高です!」

 「きゃあ」と両手を組み合わせてはしゃぐ美弦に、京子は「うん」と硬く返事した。

「けど、どうすればいいの?」
「名前で呼んで、って言えばいいんですよ!」
「えぇ……」
「あとは、彼女がピンチの時に彼が咄嗟とっさに呼び捨てするシーンもよく見ますよね」
「あぁ……」

 恋愛漫画やドラマが大好きな美弦の意見に、京子は大きく頷く。
 確かに見た覚えのある展開だ。一般人ならなかなか訪れないシチュエーションだけれど、キーダーならいずれそんな場面に出くわす可能性は無い訳じゃない。

「じゃ、そっちでいいよ。自分で言うのは恥ずかしいし」
「そんないつになるか分からないような賭けは、最終手段ですよ!」

 パソコン作業以上に話が面倒になってくるが、「京子さん」と美弦は強気に押してくる。

「京子さんが言わないなら、私が綾斗さんに言っちゃいますよ?」
たくらむような顔して言わないで。いいよ、明日私が言ってみるよ。言えたらだけど……」
「期待してます!」

 それがキラキラと目を輝かせる美弦への精一杯の返事だった。
 
 その時は少なからず実行しようと意気込んでいたのは嘘じゃない。ただそれを『翌日』と宣言してしまったのが敗因だと思う。
 
 翌朝──

「おはよう、京子さん。あの後あんまり眠れなかった?」
「うん。ちょっと考え事しちゃって」

 彼とは毎晩寝る前に少しだけ電話をするのが日課になっている。その時こそ言うべき事だったのかもしれないが、えて先送りした。
 翌日の事を考えてモヤモヤと寝付くことが出来ないまま朝を迎え、顔色の悪さを指摘される始末だ。

「あんまり無理しないように」
「ありがと。それでね綾斗、えっと……」
「どうした?」

 よくよく考えれば、仕事の前にそんな話を切り出すシチュエーションなんてやってくるわけがないのだ。『名前で呼んで欲しい』なんて言う状況ではない。

「ううん、何でもない」

 京子は呆気あっけなく首を振る。ひとまずこの件はここで終了してしまった。




しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

AV研は今日もハレンチ

楠富 つかさ
キャラ文芸
あなたが好きなAVはAudioVisual? それともAdultVideo? AV研はオーディオヴィジュアル研究会の略称で、音楽や動画などメディア媒体の歴史を研究する集まり……というのは建前で、実はとんでもないものを研究していて―― 薄暗い過去をちょっとショッキングなピンクで塗りつぶしていくネジの足りない群像劇、ここに開演!!

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

ハイスペック上司からのドSな溺愛

鳴宮鶉子
恋愛
ハイスペック上司からのドSな溺愛

処理中です...