32 / 622
Episode1 京子
30 はやく帰りたい
しおりを挟む
微睡んだ意識が、ハンマーで殴られたような痛みに叩き起こされる。
「痛ったい……」
突然の覚醒に、京子は視界を塞ぐ氷嚢を除けた。最初に見えたのは、オレンジ色の光に包まれた暗い天井だ。
掛けられた毛布の温もりに安堵し、ズキリと痛む米神を抑えながら起き上がる。
「もう少し、寝てたほうがいいぞ」
人の気配に気付くのと同時に声を掛けられた。
声の主が水割りの入ったグラスを手に、カウンターの椅子からこちらを見下ろしている。怒りと困惑の入り混じる表情に、京子は躊躇いながら尋ねた。
「平野さん……私、どうして」
店の前で倒れた所までは覚えている。見知らぬ女性に声を掛けられ、次に目覚めた時には彼の店のソファで寝かされていた。
他に客の姿はなく、支部へ行った綾斗もいない。無音の店内に、平野と二人きりだ。
「まだ熱が下がりきってねぇから、立つと倒れるぞ」
心が急いて彼に駆け寄ろうとするが、立ち上がった途端目眩を感じた。
慌ててソファの背を掴み、再び腰を落とす。
「姉ちゃん、いつからいたんだ?」
「朝です。九時前からずっとそこにいました」
真面目に答える京子に、平野は頬杖をついていた肘をずるりと滑らせ、「馬鹿か」と罵った。
「一緒に来たガキはどうした。キーダーってのは、そんなこともしなきゃなんねぇのか?」
「彼も一緒です。ただ、用事で支部へ行ってもらっています」
時計を確認すると八時を回った所だった。綾斗と別れてから一時間ほど過ぎている。ここから支部への往復時間を考えると、心配を掛けてしまっているかもしれない。
「美佐子が居なかったら凍死してたぞ。後で礼言っとくんだな」
「美佐子さん……あの女の人が……」
「隣の店の女将だよ。俺の客がぶっ倒れてるって電話してきやがった」
「そう……ですか。ありがとうございます」
京子は恐縮して頭を下げる。
「俺は何もしてねぇよ。今日もここに来る気はなかったしな。姉ちゃんの勝ちってことか」
結果、平野に会うことができた。良かったと胸を撫で下ろすが代償は大きく、頭痛と全身を襲う倦怠感に、座っているのがやっとだった。
「寝てていいからな」
平野はカウンターの奥へ行き、京子の所へ戻ってくる。
側にある丸テーブルに持ってきたトレーを置き、テーブルごとソファへ寄せた。
湯気の立つ中華まんと湯飲みが乗っている。
「アンタがぶら下げてたのをあっためただけだぞ。それと熱いの飲んどきゃ明日には治るだろ」
綾斗が買ってきてくれた中華まんらしい。湯気で少し柔らかくなってしまっているが、数時間振りの温かい食事にほっとする。
肉まんかと思っていたが、中身は予想外にあんこだった。
そして湯飲みから立ち上る湯気の香りに、京子は眉を上げる。
「嫌いじゃねぇんだろ? ガキに止められるくれぇだからな」
鼻を刺激してくるのはアルコール臭だ。少し喜んだ気持ちを言い当てられて、恥ずかしさに下を向く。
平野は「はっは」と笑って再びカウンターへ戻り、水割りのグラスを手に取った。
「アンタ俺に、トールってのになれって説得しに来たんだろう? でも、二晩考えたけどまだこの力を手離す気にはなれねぇんだよ」
能力者はその力を捨てることができる。力を縛られた元能力者は『トール』と呼ばれた。
京子は日本酒の熱に寒気が和らいでいく感覚にホッとしながら、少しずつ湯飲みを口に運んだ。
「平野さんは山梨で力を撃って気持ち良かったですか?」
「あれは、何回やってもやめられねぇな」
満足気に笑う平野。京子は左手首に掛かる袖をまくり、銀環を撫でる。
「キーダーは、銀環で力を制御されています。本来の半分以下まで抑えられてるらしいけど、実際の所は分かりません。これを付けたまま平野さんと同じことをすれば、半径五十メートルくらいの穴は開けられると思います」
「まぁまぁってところだな」
「けど私たちは撃つ訓練を殆どしないんです。キーダーは趙馬刀という剣の柄を携帯して、力で刃を生成して戦います。二十五年前の隕石の落下を防いで、キーダーはそれなりの地位を得ることができたけど、根本は何も変わらない。力を持たないノーマルにとってキーダーは恐怖なんです。だから撃つことは好まれない。訓練は肉弾戦が基本です」
アルガスの上層部にキーダーはいない。ノーマルとキーダーの力関係は明白だ。
「結局キーダーってのは国に飼われてるんだろ? 覆そうって奴はいねぇのか? 力があればアルガスを掌握して国を制することだってできるんじゃねぇのか」
「……それをやったところで、得るものは少ないですよ」
力を誇示して国を得ようなんて野心家は、今のキーダーに居るだろうか。
銀環をしていても、扱われ方が荒くても、力を備えてこの国に生まれ、キーダーという居場所を提供されることは自分にとって都合がいい。
程度の問題はあるが、利害はきっと一致している。
「平野さんのようにバスクが人里離れた所で力を撃つ事は良くあるんです。私も撃つと気持ちいいし、それはキーダーの本能なのかもしれない。だから、貴方の気持ちは分かります」
「でも、規則だから仕方ねぇっていうんだろ。気にくわねぇ」
水割りを煽り、平野は横にあった黒い瓶を傾けグラスに黄昏色の液体を満たす。京子はすっかり火照った身体から毛布を外し、手でパタパタと顔を扇いだ。
「私だってキーダーとして強い信念をもってるわけじゃないんです。ただ、自分のやれることをやってるだけで」
「別にそれでいいんじゃないのか? 俺はキーダーを特別なヒーローだなんて思っちゃいねぇよ」
ニヤリと笑った平野につられて、京子も笑みを零す。
アルコールが回ってきたせいか、暫く考えないようにしていた桃也の顔が頭に浮かんだ。
もう東京を離れて五日目。仕事に集中するという理由で電話もしていない日々は、仕事を早く終えるための願掛けのようだ。
そろそろ彼に会いたいと思う。
京子は湯飲みを手に立ち上がると、足をフラつかせながらカウンターへ移動し、平野の向かいにどんと座った。
平野は京子の顔色を伺いながら、湯飲みの酒を継ぎ足す。
「大丈夫か? 最初からキーダーだってのも大変なんだな」
「私の事はいいんです。平野さんがどうするかを決めていただけますか? 私だって連行なんてしたくありませんから」
「そうだな」と黙る平野に、京子は酔った勢いのまま思わず本音を漏らす。
「私は、早く東京に帰りたいんです」
きっぱりと言い切ると、平野は京子の手元を見て「フン」と鼻を鳴らした。
「男に会いたいんだろ」
試すように言った彼に真意を突かれて、京子はぐっと息を飲み込んだ。けれど勢いはそれを留めてはおかない。
「そうです」
京子は桃也に貰った指輪に顔を落として、吐き出した返事に後悔する。売り言葉に買い言葉とはいえ、ちょっと酔いすぎだと反省した。
「面白い女だな」
平野は呆気にとられながら、「まぁ飲めるなら飲めよ」と半分面白がって再び京子の湯のみに酒を足す。
「ちょっと、そんなに飲めませんよ」
京子は淵まで継がれた酒を一気に流し込み、グラつく目で平野を睨んだ。
「痛ったい……」
突然の覚醒に、京子は視界を塞ぐ氷嚢を除けた。最初に見えたのは、オレンジ色の光に包まれた暗い天井だ。
掛けられた毛布の温もりに安堵し、ズキリと痛む米神を抑えながら起き上がる。
「もう少し、寝てたほうがいいぞ」
人の気配に気付くのと同時に声を掛けられた。
声の主が水割りの入ったグラスを手に、カウンターの椅子からこちらを見下ろしている。怒りと困惑の入り混じる表情に、京子は躊躇いながら尋ねた。
「平野さん……私、どうして」
店の前で倒れた所までは覚えている。見知らぬ女性に声を掛けられ、次に目覚めた時には彼の店のソファで寝かされていた。
他に客の姿はなく、支部へ行った綾斗もいない。無音の店内に、平野と二人きりだ。
「まだ熱が下がりきってねぇから、立つと倒れるぞ」
心が急いて彼に駆け寄ろうとするが、立ち上がった途端目眩を感じた。
慌ててソファの背を掴み、再び腰を落とす。
「姉ちゃん、いつからいたんだ?」
「朝です。九時前からずっとそこにいました」
真面目に答える京子に、平野は頬杖をついていた肘をずるりと滑らせ、「馬鹿か」と罵った。
「一緒に来たガキはどうした。キーダーってのは、そんなこともしなきゃなんねぇのか?」
「彼も一緒です。ただ、用事で支部へ行ってもらっています」
時計を確認すると八時を回った所だった。綾斗と別れてから一時間ほど過ぎている。ここから支部への往復時間を考えると、心配を掛けてしまっているかもしれない。
「美佐子が居なかったら凍死してたぞ。後で礼言っとくんだな」
「美佐子さん……あの女の人が……」
「隣の店の女将だよ。俺の客がぶっ倒れてるって電話してきやがった」
「そう……ですか。ありがとうございます」
京子は恐縮して頭を下げる。
「俺は何もしてねぇよ。今日もここに来る気はなかったしな。姉ちゃんの勝ちってことか」
結果、平野に会うことができた。良かったと胸を撫で下ろすが代償は大きく、頭痛と全身を襲う倦怠感に、座っているのがやっとだった。
「寝てていいからな」
平野はカウンターの奥へ行き、京子の所へ戻ってくる。
側にある丸テーブルに持ってきたトレーを置き、テーブルごとソファへ寄せた。
湯気の立つ中華まんと湯飲みが乗っている。
「アンタがぶら下げてたのをあっためただけだぞ。それと熱いの飲んどきゃ明日には治るだろ」
綾斗が買ってきてくれた中華まんらしい。湯気で少し柔らかくなってしまっているが、数時間振りの温かい食事にほっとする。
肉まんかと思っていたが、中身は予想外にあんこだった。
そして湯飲みから立ち上る湯気の香りに、京子は眉を上げる。
「嫌いじゃねぇんだろ? ガキに止められるくれぇだからな」
鼻を刺激してくるのはアルコール臭だ。少し喜んだ気持ちを言い当てられて、恥ずかしさに下を向く。
平野は「はっは」と笑って再びカウンターへ戻り、水割りのグラスを手に取った。
「アンタ俺に、トールってのになれって説得しに来たんだろう? でも、二晩考えたけどまだこの力を手離す気にはなれねぇんだよ」
能力者はその力を捨てることができる。力を縛られた元能力者は『トール』と呼ばれた。
京子は日本酒の熱に寒気が和らいでいく感覚にホッとしながら、少しずつ湯飲みを口に運んだ。
「平野さんは山梨で力を撃って気持ち良かったですか?」
「あれは、何回やってもやめられねぇな」
満足気に笑う平野。京子は左手首に掛かる袖をまくり、銀環を撫でる。
「キーダーは、銀環で力を制御されています。本来の半分以下まで抑えられてるらしいけど、実際の所は分かりません。これを付けたまま平野さんと同じことをすれば、半径五十メートルくらいの穴は開けられると思います」
「まぁまぁってところだな」
「けど私たちは撃つ訓練を殆どしないんです。キーダーは趙馬刀という剣の柄を携帯して、力で刃を生成して戦います。二十五年前の隕石の落下を防いで、キーダーはそれなりの地位を得ることができたけど、根本は何も変わらない。力を持たないノーマルにとってキーダーは恐怖なんです。だから撃つことは好まれない。訓練は肉弾戦が基本です」
アルガスの上層部にキーダーはいない。ノーマルとキーダーの力関係は明白だ。
「結局キーダーってのは国に飼われてるんだろ? 覆そうって奴はいねぇのか? 力があればアルガスを掌握して国を制することだってできるんじゃねぇのか」
「……それをやったところで、得るものは少ないですよ」
力を誇示して国を得ようなんて野心家は、今のキーダーに居るだろうか。
銀環をしていても、扱われ方が荒くても、力を備えてこの国に生まれ、キーダーという居場所を提供されることは自分にとって都合がいい。
程度の問題はあるが、利害はきっと一致している。
「平野さんのようにバスクが人里離れた所で力を撃つ事は良くあるんです。私も撃つと気持ちいいし、それはキーダーの本能なのかもしれない。だから、貴方の気持ちは分かります」
「でも、規則だから仕方ねぇっていうんだろ。気にくわねぇ」
水割りを煽り、平野は横にあった黒い瓶を傾けグラスに黄昏色の液体を満たす。京子はすっかり火照った身体から毛布を外し、手でパタパタと顔を扇いだ。
「私だってキーダーとして強い信念をもってるわけじゃないんです。ただ、自分のやれることをやってるだけで」
「別にそれでいいんじゃないのか? 俺はキーダーを特別なヒーローだなんて思っちゃいねぇよ」
ニヤリと笑った平野につられて、京子も笑みを零す。
アルコールが回ってきたせいか、暫く考えないようにしていた桃也の顔が頭に浮かんだ。
もう東京を離れて五日目。仕事に集中するという理由で電話もしていない日々は、仕事を早く終えるための願掛けのようだ。
そろそろ彼に会いたいと思う。
京子は湯飲みを手に立ち上がると、足をフラつかせながらカウンターへ移動し、平野の向かいにどんと座った。
平野は京子の顔色を伺いながら、湯飲みの酒を継ぎ足す。
「大丈夫か? 最初からキーダーだってのも大変なんだな」
「私の事はいいんです。平野さんがどうするかを決めていただけますか? 私だって連行なんてしたくありませんから」
「そうだな」と黙る平野に、京子は酔った勢いのまま思わず本音を漏らす。
「私は、早く東京に帰りたいんです」
きっぱりと言い切ると、平野は京子の手元を見て「フン」と鼻を鳴らした。
「男に会いたいんだろ」
試すように言った彼に真意を突かれて、京子はぐっと息を飲み込んだ。けれど勢いはそれを留めてはおかない。
「そうです」
京子は桃也に貰った指輪に顔を落として、吐き出した返事に後悔する。売り言葉に買い言葉とはいえ、ちょっと酔いすぎだと反省した。
「面白い女だな」
平野は呆気にとられながら、「まぁ飲めるなら飲めよ」と半分面白がって再び京子の湯のみに酒を足す。
「ちょっと、そんなに飲めませんよ」
京子は淵まで継がれた酒を一気に流し込み、グラつく目で平野を睨んだ。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
AV研は今日もハレンチ
楠富 つかさ
キャラ文芸
あなたが好きなAVはAudioVisual? それともAdultVideo?
AV研はオーディオヴィジュアル研究会の略称で、音楽や動画などメディア媒体の歴史を研究する集まり……というのは建前で、実はとんでもないものを研究していて――
薄暗い過去をちょっとショッキングなピンクで塗りつぶしていくネジの足りない群像劇、ここに開演!!
大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。
でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。
けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。
同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。
そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる